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111-56 お湯

 そして、マリューにぴったりと張り付いたまま、三階の部屋に着いた。


「はい。ここが私の部屋」

「わ、あ……」


 部屋に入って、わたしは言葉を失った。

 物自体は少ないながら、目に付く調度品のどれをとっても、洗練された一級品ばかりだ、と詳しくないわたしでも直感できるような品が並んでいた。

 絨毯はふかふかで、家具は機能美を感じさせるものばかり。

 壁や天井に据え付けられた照明は、火の明るさとはまた違う、多分魔法的な柔らかい光を放っていて、部屋の中を明るく照らしていて……


「……って、わぁ! 窓にガラスが入ってる!?」


 部屋の奥でマリューが開けたカーテンの方を見て、すごく驚いた。

 こちらの世界に来てから、窓ガラスなんてものはほとんど見たことがなかったから。

 実はこの王都へ向かう道中で一度だけ、そこそこ大きな町で遠目に窓ガラスは見かけていたのだけれど、逆にその一度しか見かけなかったものだから、やっぱり窓ガラスは高級品なんだ、と理解していたのだ。

 なのに、そんな高級品を、マリューの家で普通に見ることができるなんて…… とわたしは結構な衝撃を受けていた。

 そこに追い打ちが掛かる。


「うーん、まぁ、確かに他じゃ窓ガラスは珍しいかもしれないけど、この学院じゃそこら中にあるよ? て言うか、この部屋の前の廊下にも、普通に窓ガラスあったじゃん?」

「え、ほんと!?」


 ずっとマリューの背中を見つめていたものだから、全く気づいていなかった。

 と言うか、そんなに窓ガラスがありふれているなんて、やっぱりこの学院はとんでもないんだ、と思い知らされる気分だった。

 なおのこと、自分自身の場違い感に恐縮してしまう。


「ふふん。いい反応だねぇ! これで私も凄いんだって分かってきたでしょ!」


 マリューが胸を張って得意げに笑った。

 わたしはなんとか苦笑いをしていた。


「さて、と。じゃあ先にざっと、簡単に部屋の説明をするね。まずここがリビングで、左手がキッチン。右の廊下に入って…… 右手前が客間ね。しばらくはサクラの部屋ってことになるから自由に使ってね。で、向かいは倉庫。そいでその隣の奥の左が私の部屋で、右は私の書斎とか研究室みたいなものかな?」


 一息に説明を受けて、わたしは戦慄していた。


「め、めめ、めっちゃくちゃ、立派って言うか……広い、ね……?」


 間取りでいうなら、3LDK+倉庫ウォークインクローゼットとなるだろうか。

 これって、かなりすごいのでは……?


「そうかな? でも、教員用の部屋は大体全部同じ感じだったと思うんだけどなぁ。こんなもんじゃない?」

「え、ええぇ……?」


 当然のような顔をしているけれど、はいそうですか、とはとても思えない。

 もしかしなくても、この学院の先生方は、皆々様大物ばかりなのでは……


 ──あぁ、他の先生方に会うのが、ちょっと怖い……


 また少し小さくなりながら、ひとまず、冬の間お世話になる客間に荷物を降ろす。

 客間はベッドと机と椅子に、衣装棚とコート掛けといった質素な──と言っても、ミフロのわたしの家より遥かに上等な──調度品でまとまっていた。

 ぼろぼろの家に慣れたわたしでは、それだけでもちょっとそわそわするのだけれど、それでも物が少ない分、まだギャップは少なめで助かった。

 そして簡単に客間の説明をしたあと、マリューはもう少しこの寮についての細かい説明を続ける。


「トイレは各階に共同トイレがあるから、そこを使ってね。ちなみに魔法式だから、あとで使い方も説明するね」


 何がどう魔法式なのかは分からないけれど、トイレに魔法とは、さすがは魔法学院と言うべきなのだろうか?

 でも、トイレで他の先生方と鉢合わせになりたくはないな、という感想の方が先に思い浮かんでいた。

 そして、新しい情報がもうひとつ。


「それと、別棟にお風呂があるよ」

「……お風呂!」


 お風呂と聞いて、はっとした。


 ──お風呂! お風呂と言うからには、お湯の張った湯船に浸かれる!?


 こちらに来てから、お湯に浸かったことなんて一度もなかった。

 数回だけ、ちょっと贅沢をする気分で、お湯で身体を拭いたことはあるけれど、せいぜいそれくらい。お湯にどっぷり浸かってゆっくりしたい、とは何度となく思ったけれど、それは叶わぬ望みだったのだ。

 そんなお風呂があると聞いて、わたしは自分でもびっくりするくらい、一気にテンションが跳ね上がるのを感じていた。

 それはもう、飛び上がるのを我慢するくらいに。


「お、そんなにお風呂行きたい? じゃあ、ちょうどいいね。確か今日はお風呂やってる日だし、行っちゃう?」

「……ん! 行こう……!」


 オーバーに首を縦に振って、逸る気持ちを抑えながら、さっそくわたしたちはお風呂へと向かうことにしたのだった。



「お風呂は、冬場には日替わりで男女が別れてるから間違わないようにちょっと気を付けてね。まぁ、夏場の時間ごとよりは分かりやすいと思うけど」

「なるほど……」

「あと、一回で真鍮貨一枚ね」

「ん……! そこはちゃんと取るよね、そうだよね……」


 ミフロでのわたしの食費一日分だ。

 入り口で管理人のおばさんに真鍮貨を渡して脱衣所に入ると、湿度の高い空気に、わっと全身が包まれてどきりとした。


「お、誰もいないじゃん。運が良い」


 ちょうど、先客はいないタイミングだったらしい。

 まだ他の先生方などと顔を合わせる心構えはできていなかったので、わたしはひとりでほっと胸を撫で下ろす。

 脱衣所は六帖くらいのこじんまりしたものだった。この建物の外観もそれほど大きくはなかったので、大浴場というようなものではなくて、民宿のお風呂といった感じのようだ。

 壁際の籠に持ってきた着替えを入れる。

 そして何となく、暖かみのある魔法的照明に照らされた脱衣所内をぐるりと見渡して──見知らぬ人影が、視界の端に入った。

 思わず肩が跳ねて籠にぶつかる。

 今さっき、マリューが他に人がいないと言っていたので、すっかり油断していた。

 取り乱しながらも努めて落ち着きを取り戻して、挨拶くらいしなければ、と改めて振り返ると、そこにあったのは……


「んぇ、か、鏡……?」


 よく光を反射する、ガラスの板だった。

 そのガラスの向こうに見える人影は、わたしが顔を向ければ同じように見つめ返してくるし、わたしが右手を持ち上げれば左手を持ち上げる。

 この世界に来て、初めて目にした鏡だった。

 けれど、そんなことはどうでもよくなるような光景が、わたしの目には入ってきていた。


「……え? だ、誰!?」


 それは鏡、のはずなのに、わたしの動きを真似する人影は、見知らぬ人だったのだ。


「どしたの? あ、鏡を見るのは初めて?」


 わたしの驚きを勘違いしたマリューがそんなことを言ったけれど、反応する余裕はちょっとなかった。

 恐る恐る、鏡に近寄ってみる。

 ちらりと映るマリューはマリューなので、映す者の見た目が変わる鏡ということはないと思う。

 でも、その鏡に映る自分であるはずの顔は、わたしの知るわたしの顔ではなかった。まじまじと観察すると、何となく面影があるような気がしてこないこともないのだけれど…… ただ、何と言うか、前より顔立ちが整っていて、肌も綺麗だし、少し幼さを感じるような雰囲気もあったりして……


「……かわいい……?」

「え? 今更気付いたの?」

「へぁ!?」


 マリューが、ぬっと顔を近づけてきてびっくりした。

 そして自分が、ナルシスト──とはちょっと違う気もするけれど──みたいな発言をしていたことに気づいて、恥ずかしくなる。


「え、あ、いや、あの…… わたしの覚えてる顔とは、かなり違ったから、その、ちょっとびっくりして……」

「でも、前に『こちらに来たら少し身体が変わってた』って自分で言ってなかった?」

「あ、えっと、ほら、鏡なんてなくて、顔は見たことなかったから……」

「あぁ、そっか」


 一応、桶に張った水で、ぼんやりと確認することはできたかも知れない。

 けれど、お化粧なんて夢のまた夢な生活の中で、化粧っ気のない自分の顔を認識したくなくて、見て見ぬ振りをしていた気もする。


 ──でも、今ならお化粧なんてなくても……


 なんて思い掛けたところで、マリューがじぃーっとわたしの顔を見ていることに気がついた。

 なんだか、ちらっと考えていたことまで見透かされたような気がして、まして、見られている顔が顔なものだから、一気に顔が熱くなるのを感じる。


「と、ととと、とりあえず、お風呂入ろう!」


 ぱっと目を逸らして、服を脱ぎさって、わたしは逃げるように浴室に立ち入った。



 お風呂は、真ん中に湯船があって、かなり馴染みのある作りをしていて、期待以上だった。

 まずは石鹸を借りて、案外マリューは着痩せするタイプなんだな、なんて思いながら、頭から二度三度と念入りに洗っていく。

 久し振りに、髪が整っていくのを感じて嬉しくなる。

 掛け流しではなかったのだけれど、マリューが遠慮なくお湯を頭からかぶって泡を流していたので、わたしもちょっと悪い気はしつつ真似をさせてもらった。

 でも、過ぎた贅沢をしている気がしたので、やっぱり控えめにしようと思う。

 やっと身体を洗い終わって、いよいよ湯船に身体を沈めて……

 盛大に吐息が漏れた。


「あはあぁ…… しあわせ……」

「ふふ、お風呂好きなんだねぇ?」

「ん…… 好き……」


 久方振りの、あるいは前世振りの、お湯に漂う感覚。

 そんなにお風呂好きだったつもりもないんだけれど、ただお湯に浸かるだけでこれほど満たさせるとは思っていなかった。


 ──あぁ、これでお酒もあったらこれ以上のことはない……


 ちょっと顔がにやけるのを感じた。


「いやぁ、喜んでもらえて何より。今日はゆっくり休んで疲れを癒してね。まぁそんなに気張る必要はないけど、明日は学院長との挨拶もあるからね」

「うん………… ん?」


 リラックス運転の頭で、ちょっと気付くのに遅れてしまった。


「え、いま…… が、学院長……?」

「うん? そう、学院長。前から話がしたいとか言ってたからね」

「……ここで一番偉い人……?」

「え? まぁ、そうだけど……」

「…………」


 内心で、ひぇぇ! と叫ぶ。

 まぁ、考えてもみれば、曲がりなりにもわたしも不死の魔法使いなんて特別な存在らしい訳だし、こうして学院にお邪魔しているのだから、代表者と挨拶をするのは筋なのだろうけれど……

 この学院がかなりすごいということを、ここまでに思い知っていたわたしは、その学院の代表者たる学院長との挨拶という個人的一大事の予定を知って、湯船の中で、早くも今から緊張してきたのだった。



あなたが鏡に向かって右手を挙げた時、鏡の中のあなたが挙げている手は、右手と言うべきか左手と言うべきか問題。

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