14-9 疑念
サンは蹲っていた。動悸が止まらない。全身が震える。二の腕を擦るその手指も小刻みに震えている。
ナナを追いかけてきた地下の中で、夜汽車の車窓からだって見たことも無い場所の中で、あり得ない感覚に襲われて足を止めてしゃがみこんでいた。
なんで? サンは二の腕を擦る。私、ここに来たことある。
背中から悪寒が駆け廻った。冷や汗が止まらない。全身の震えが止まらない。寒いのだ、とてつもなく。
でも行かなきゃ。ハチに約束したのだ、ハチだったものに。ナナを探しだして連れ戻すと約束したのだから早く行かないと。早く、はやく、
「……行かなきゃ、」
―行きなさい―
サンは背後を振り返った。誰もいない。でも行かなきゃ。けどどこへ? わからない、けど。
壁に手をつき、やっとのことで立ち上がる。くらくらする頭を押さえてなんとか足を踏み出し、角を曲がったところで肘を掴まれた。振り返るより先に肘を引かれて振り向かされる。
「おとうさん?」
よく見知ったはずの顔が眼鏡越しに眉根を顰めた。
シュセキの背中を追って角を曲がる。と、すぐにその背中があって僕はもう少しで体当たりするところだった。踏みとどまろうとしてそのまま反対に尻もちをつく。左腕に激痛。
「……突然走り出したり立ち止まったり、」
痛みを噛みしめながら僕は立ち上がった。
「少しは説明しろよ。シュセキ…!」
言い終える前に声が詰まった。
「サン!?」
シュセキに肘を握られたサンは僕の方を見た。
「サン」
シュセキもサンに呼びかける。サンは目を泳がせる。僕はだんだん腹が立って来た。なんだよ、その緊張感の無さ。自分は無関係だとでも言いだしそうな態度!
「何か言うべきことがあるんじゃないのか? 少しはシュセキやジュウゴの思いも汲み取れよ。君が何も言わずに出て行ってしまった後、どんなに大変だったかわかっているのか? 僕たちがどれほど苦労してどんな思いでここまで来たと思っているんだ!」
呆けっぱなしのサンに向かって僕はさらに畳みかけた。
「何を考えているんだよ、君は! そもそも全てが身勝手だ。ナナを探すためだったとしても誰かに相談するとか…!」
「地下だ、ジュウシ」
シュセキに諭されて僕は咄嗟に口を噤む。肩を竦めて辺りを見回し、何も聞こえないことを確認してから、
「ナナのためだったとしてもあの行動はありえない」
サンの眼前に顔を突き出して睨みつけてやった。しかし、
「ナナ……、ナナ。そう、ナナ!」
サンがうわ言のように繰り返して顔を上げた。
「シュセキ? それにジュウシも。なんでこんなところにいるの?」
なんで? なんでって!
「君を探しに来た。ジュウゴとジュウイチがナナを探している。合流して地上に戻り、教室を開けて他の皆と合流する」
シュセキの簡潔な早口の前に、僕は開きかけた口を無様に震わせた後で仕方なく閉じた。
「だめよ、こんなところに来ちゃ。あいつらが来るのに!」
その言い方に僕は微かな違和感を覚えた。まるでネズミみたいな話し方をする。夜汽車を降りて以来、サンはずっと様子がおかしい。
「早く行かないと」
「どこに」
「ナナよ! 早くナナを見つけて…」
「ナナの居場所がわかっているのか」
「わからない! でも行かなきゃ」
シュセキとの会話も微妙にかみ合っていない。やけに慌てているし発汗量も半端ない。これほどまでに取り乱したサンを僕は初めて見た。
「シュセキ、ちょっと」
僕はシュセキの肩を叩き、サンから距離を取って小声になる。
「彼女、損壊しているんじゃないのか?」
僕が耳打ちすると、シュセキがぐるりと首を回して僕を凝視した。僕は挙動不審なサンを横目で見ながら続ける。
「ハチに何度も接触していただろう? やはりそれで感染していたとしか…」
「危険でない接触もあると結論づけたところだろう」
「結論ではなく憶測だろう? それに危険な接触があるとも仮定したじゃないか。君のその頬みたいに」
僕はヤチネズミに殴られたシュセキの頬を見つめた。シュセキは四本の指で頬を擦る。
「彼女だけでも先に運びだそう」
僕は最良だと思われる提案をした。
「でなきゃ彼女はどこかで待ってもらっていて、その間にナナを見つけ出すとか」
「どこかとは?」
言われて僕は口籠る。適当な場所は無いかと周囲を見回していると、シュセキが元来た道を歩き出した。僕はその背中を目で追う。
「ここがいいだろう」
言ってシュセキは右手を壁を見つめた。壁、ではない。扉だ。床に光が射している。
「明かりが多量に漏れている。電気が通っているという証拠だ」
言われて僕ははっとする。
「ということはこの中に?」
皆を言わずともシュセキは汲み取り頷いた。
「……アイ!」
僕はシュセキを押し退けて扉の取っ手を掴む。しかし、
「だめ! 開けないで!」
サンに止められた。
「電気があるということは…!」
「そうだよ、アイがいるはずだ」
僕は高揚して扉を開けた。途端に眩い明かりが僕たちを包みこみ、目を開いて僕は立ち尽くした。
開ききった扉の中は授業中の教室のように明るく、けれどもそこには生徒ではなくて青々と葉を茂らせた幾つもの木々が立ち並んでいた。
「これほどの電気を用いるには相当の技術と熱量が必要だ。アイの制御もあるだろう」
夜汽車と同じように。
足元に目を向ける。土はなく、硬質な床が無表情に照らされていた。水耕栽培? 地下で? 地下に住む者の技量で?
「どういうことだ? 地下に住む者は野蛮で無知で、だから暴力を行使して塔を襲い技術を奪うんじゃなかったのか?」
「そう僕も記憶している。そのように『教わった』と」
僕の憤慨にも似た動揺にシュセキが答えていく。
「だが僕たちの知識はアイから与えられた情報をもとに構築されている。仮にアイに与えられた情報に誤りがあったとしたら。またはアイが虚偽の情報を僕たちに与えていたとしたら」
―そりゃ嘘だ―
「行きましょう。ここにはいないわ」
サンが怯えたように下を向いた。
「いやいるはずだよ」
僕はサンを否定する。
「こんなに電気があるのがその証拠だ」
「こんなに電気があるところにいたら奴らにすぐ見つかってしまうでしょう?」
サンも負けじと否定する。『奴ら』って地下に住む者のことか? まるでネズミみたいな言葉遣いだ。
「だがアイがいれば教室を解錠できる」
シュセキが言う。
「地下に住む者に見つかる前にアイに依頼しここを離れれば問題無い」
「そもそもどうしてアイは教室に鍵をかけていたの?」
サンの悲鳴じみた声に僕もシュセキも振り返った。
「何故ネズミたちといっしょくたにして私たちを指導したの? あれは指導と言える優しさではなかった。あれこそ攻撃ではないの?」
「『こうげき』?」
シュセキが目を細めた。僕も知らない単語だ。
「アイは嘘をついている。それは確かでしょう?」
「嘘?」
聞き捨てならない。
サンが僕を正面から見つめる。
「お願い、ジュウシ。話を聞いて。よく考えて。今までのアイの行動を精査すれば気づくはずよ。アイは私たちの味方じゃないの」
「『みかた』とは何だ?」
「アイを信じちゃだめ」
シュセキの再三の質問にも答えないで、サンは僕にまくし立てた。感情的で身勝手で、自分本位な理屈を並び立てて皆を誘導しようとする。最後尾の車両の時もそうだった。そしていつもアイを睨みつけていた。
「それ以上アイを侮辱しないでくれ」
僕は努めて静かにそう告げる。
「言いたいことがあるなら直接言えばいいだろう。そして直接聞くべきだろう」
サンが首を横に振る。
「だいたい君は勝手すぎる。もう少し皆の言葉を聞くべきだ、もう少しアイの言葉を信じるべきだ」
「やめて、ジュウシお願い…」
「君こそ、」
僕はサンを一瞥し、
「それ以上、アイを侮辱しないでくれ」
「ジュウシ…」
「アイ!」
サンの制止を振り切って、僕は木々の向こうに呼びかけた。
「はい」
僕の呼びかけに答えて、いつもの調子でいつもの返事と共に、アイが現れた。
シュセキが唇を閉じる。サンが地下に住む者に遭遇したみたいな顔をして数歩下がる。
僕は聞きたいことが山ほどあって、つい数時間その姿を見ていなかっただけなのにもう随分会っていなかったような気分がして、腹立たしくて、憎たらしくて、怒鳴りつけてやりたくてでも、そうした思い以上にしみじみと胸の奥からほっとした。
「アイ……」
アイは数秒、じっと僕の顔を見つめていた。まるで何を言われているのか理解していないみたいに。
「アイ?」
瞬きと共に微笑みが現れる。
「顔色が優れないようですが何かありましたか? ジュウシ」
その決まりきった挨拶といつもの笑顔に、僕は溜まりにたまっていた色んなものが噴出した。
「アイこそどうしてここにいるの? ここは地下だよ? 何故地下に木が立っているの? 地下に住む者は暴力を行使して技術を奪い合うんだろう? 何故そんな地下がこんな技術を持っているの? 彼らはどこから奪ってきたの?」
「彼らは彼らの権利を行使し、義務を全うします」
「何の話?」
「ジュウシ、だめ。行きましょう」
混乱する僕に背後からサンが言った。僕は彼女を拒絶してアイにさらに一歩近づく。
「授業は夜汽車に戻ったらちゃんと受けるよ。補習も、指導だって。もしも僕たちがアイに黙って集会を開いていたことを非難するなら謝る。皆反省もしている。だからお願い。今は僕の質問に答えて。時間もあまりないんだ。夜汽車に戻るためなんだ」
「夜汽車は戻りません。最終列車を待つのみです」
「戻らない?」
シュセキが瞬きする。
「アイ、何言っているの? 僕の話聞いているよね?」
「はい。アイは聞きます」
アイ……?
「……僕たち、僕たちはネズミの襲撃を受けて夜汽車を降りざるを得なくなったんだ。でもあれは不可抗力だよ。それはアイも知っているよね。それからナナが地下に住む者に持っていかれて今は彼女を探しているんだ。手伝ってもらえる?」
「損傷していますね。痛みはありませんか?」
奥歯が軋んだ。
「痛いよ、ものすごく」
「どちらに行くのですか? サン」
見るとサンは扉のそばまで後ずさりしていた。アイを睨み上げている。代わりに僕がアイの質問に答える。
「ナナだよ。彼女もナナを探しているんだ。アイならわかるだろう? ナナがどこにいるのか教えてよ」
「今日は質問が多いですね、ジュウシ」
僕は泣きそうになる。
「あり得ないこととややなければいけないことが山積しているからね。おかしくなりそうだよ」
「駄目だ、行こう」
シュセキが耳元で言った。
「恐らくネズミたちの襲撃が原因だ。アイは故障している」
それは僕も思った。
「けれども教室の解錠にアイが必要と言ったのは君じゃないか」
「正常なアイが必要なのだ。今ここでアイを修復することは困難だし異常なアイでは夜汽車の復旧も出来ないだろう」
「故障したから捨てるのか? アイだぞ? アイを捨てるのか?」
シュセキは一度唇を閉じ、それから眼鏡の奥から僕を凝視してきた。
「そうは言っていない。アイは必要だという意見には僕も賛同する。だが今は無理だ。ナナを見つけ出し、ジュウゴたちと合流し、夜のうちに地上に出て夜汽車に戻らねばならないのだ。加えてアイを修復させるなどどれほど時間があっても足りない」
「早く行きましょう」
サンが口を挟む。僕は無視する。
「わかっているよ。昼は地上には出られない。何度もアイに教えられたから。アイが教えてくれたことだ。けれどもこのまま夜汽車に戻っても通電していないあの夜汽車の中でアイを復旧させることは不可能だろう? アイがなければ教室も施錠されたままだし…」
「ナナを探しているのですね?」
アイが言った。僕たちは揃ってアイを見上げる。
「ナナの元に行きましょう」
「ナナはここにいるの?」
サンがアイに尋ねた。アイはにっこりと微笑む。
それが合図だったのだろう。
突如、けたたましい音が鳴り響いた。僕たちは咄嗟に耳を塞ぐ。僕の左耳だけは肩に押し付けられていたから隙間が出来て音が遮りきれなかった。うるさい。だが指導ではない。指導の音は頭に響いて痛みを伴うが、あの音ではない。この音は何か遠くにも聞こえるように、まるで誰かを呼ぶようなそういう性質の……。
「おい、何だ」
扉の向こうから野太い怒鳴り声が聞こえた。いくつもの足音も。
「こっち! 早く!」
サンが叫ぶ。
「アイ?」
君が彼らを呼んだのか?
「あ…」
「ジュウシ!」
サンの叫び声と同時かそれより早く、未だかつてない握力でシュセキに引き摺られて僕はその部屋を出た。と思った。先の通路に引きずり出されたのだろうと。だがそこは、木々が立ち並んでいた部屋と同様の明るい空間だった。僕は辺りを見回す。地下の通路の天井の電気が煌々と光っていた。先とはうって変わって明るくて、まるで夜汽車だった。
「こんな熱量…」
「走って!」
サンが駆け出してシュセキが僕を引き摺りながら走りだした。僕は彼の手を振りほどく。
「何も考えるな。とにかくここを抜けよう」
アイがこの音を鳴らしている。アイが鳴らしてから地下に住む者たちが来た。
「考えるな! 前を見ろ」
アイが呼んだ。アイが誘導している。電気の明度まで上げて彼らに加担して。
「ジュウシ…!」
シュセキにぶつかった。顔を上げる。サンも立ち止まっている。前方には画面越しによく見た服装の男たち。僕は背後を振り返った。同じ服装の男がそこにもここにもあちらにも。
「もういい、止めろ」
地下に住む者が言った。音は止まらない。
「アイ!」
「うるせえぞ、ぽんこつ!」
音が止んだ。
「侵入者か? どこの奴だ。スズメは全員下にいるんだろ?」
「まず電気消せ。眩しいんだよ、無駄遣いすんな」
「これで全部か?」
前方から背後から、じりじりと男たちは近づきながら口々に何かを言う。全て疑問形だ。互いに会話しているようには見えない。すると、
「省灯します」
アイの声が聞こえて視界がまた薄暗くなった。
「どこの奴だって聞いてんだろ!」
男が怒鳴った。僕たちに向けてではなく壁や天井、上方に向かって声を上げている。それはまるで僕が夜汽車でアイを呼ぶ時みたいな仕草で。
「西口南六番線非常口より侵入者五体、うち三体確保。他二体および捕獲者一体、八番線直下にて確保済み。以上計六体、全て夜汽車です」
「なんで夜汽車が自分から入って来るんだよ」
「貯蔵庫への誘導を提案します」
「んなこたぁわかってる」
「俺の質問無視すんな!」
「………どういうこと?」
僕の声にサンとシュセキが顔だけで振り返った。
「これじゃあまるで、アイが地下に住む者に従事しているみたいじゃないか」
「おら来い、夜汽車」
僕の疑念は宙に浮いたまま、男たちに取り囲まれる。
「アイ………」
背後を振り返った。開けっぱなしの扉から煌々と明かりが漏れていた。