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7-7 地下

 駅だった。夜汽車の中から車窓越しに何度も見たことのあるものとは全然違って、こちらの方が煤けていて汚い。男に引き摺られるままにナナは改札をくぐる。階段だ。地下に続いている。地下……。


 やはりこの男たちは地下に住む者なのだ。改めて思い知らされた事実にナナは身震いした。思わず漏れそうになった悲鳴を寸でのところで飲み込むが、滲み出る涙は止められない。薄暗い廊下を引きずられる様にして歩かされ、開けられた鉄の扉の中にナナは放り込まれた。


 扉が音を立てて閉められる。振り返った時には振動を伴った余韻が響いているだけだった。扉に駆け寄る。無言の鉄に取っ手はない。


 振り返り部屋を見回した。薄闇に徐々に目が慣れてくるといくつもの影が見えてきて、ナナはその日、何度目かの寒気を全身で感じながら後ずさりした。


 しかしすぐに背中で行き止まる。妙に柔らかい壁だった。壁?


 咄嗟に離れる。壁じゃない! 誰かの体だった、接触した! 手の平を無意識に服の裾に擦りつける。


「だいじょうぶ?」


 足元から話しかけられて思わず悲鳴を上げた。少女だった。シイよりも小柄な少女は屈みこみ、ナナの足に顔を近付ける。


「ち」


 言ってナナの膝に触れた。ぶにゅっと指の先端の圧を感じて、拒絶と共に後ずさる。


「スズメ、こっち来い」


 低い男の声が聞こえた。少女は声の方に駆けて行く。ナナはその姿を目で追う。


「お前、あんまり走り回るな」


 男は頭髪がまだらに変色していて皮膚に皺が走っていて、何と言うか、古びていた。ネズミの体の大きさと声の低さにも驚いたが、この男は彼らよりもさらにくたびれた感じだった。


「でもセッカ、あのおねえちゃんけがしてるよ」


 少女の言葉に顔をあげた男と目が合う。固まる。


「大丈夫か、あんた」


 ナナは返事もせずに男と少女を凝視していた。

 男が素手で少女の頬に頭部に接触している。少女も別段拒否するでもなく、椅子に腰かける男の大腿部によじ登っている。初めて目の当たりにする光景だった。いや、初めてではない、とナナは思い出す。ネズミたちもそうだった。そしてサンも、ジュウゴも、私だってハチに。ナナは自分の手の平を見つめる。


「おい、」


 再び男に呼ばれた。


「言葉はわかるか?」


 言うと男は少女を大腿部から下ろし、椅子の背もたれに手をついた。途端に周囲の女たちが一斉に群がる。


「あぶないですってば」


「無理しないで」


 女たちは口々に言って男を椅子に抑えつけようとしている。素手で接触を繰り返している。


「どこ?」


 背後から声をかけられた。驚いて振り返るとアイのように背の高い、長くてきれいな髪を揺らして女がナナを覗きこんでいた。


「どこから来たの、って聞いているんだけど」


 女は少し苛ついた声になって再度尋ねてきた。ナナはようやく質問の意図を理解する。


「駅、……から」


「そんなの分かっているわよ! どこの駅って聞いたの」


 女の口調がさらに刺々しくなったからサンは首を竦める。


「どこの駅って……」


 わからない。


「なんなの、あんた」


 女の不機嫌さが増した。


「ちょっと、センニュウ」


 さらに別の女が近寄って来た。


「あんた言い方、恐いのよ」


「だって!」


 苛立ちを露わにした長い髪の女を無視して、後から来た背の低い女が優しい顔で覗きこんでくる。


「ごめんなさいね、この子乱暴で」


 優しげな微笑みに、ナナの緊張は若干ほどけた。


「私たちはスズメ。この子はセンニュウで私はヨシキリ、頭かしらはそこにいるセッカさん。この子、あなたがどこの出身か気になるみたい。名前は? 出身駅、教えてくれる?」


 ほっとしたはいいが言葉の意味は相変わらずわからなくて、ナナはやはり答えられない。


「この子、バカなんじゃないの?」


 センニュウと指差されていた女がそっぽを向き、自らをヨシキリと呼んだ女は困った顔でもう一度尋ねてきた。


「ここに来る前はどこにいたの?」


 その質問なら答えられると思い、


「地上よ」


 ヨシキリに向かって答えた。


「地上?」


 センニュウが失笑気味に繰り返す。まだ言葉足らずのようだ。ナナはさらに加える。


「ネズミが夜汽車に穴を開けたの。それで夜汽車は停車して私たちは降ろされたわ。それからネズミとは別の男たちがネズミと同じ機械に乗って現れて、おそらく地下に住む者、その男たちに運ばれて来たの」


 ナナは出来る限り完結に答えたつもりだった。例えるならばジュウゴにもわかる様に。


 だがナナの回答は質問者だけでなく、その空間にいた他の者たちのさらなる疑問をかきたてたようだった。


「うそ……」


「え? まさか、」


 センニュウに肩を掴まれた。ぐるりと振り向かされる。


「あんた、もしかして夜汽車?」


 その剣幕にナナは戸惑い気味に頷いた。途端に部屋の空気がざわつく。


「あいつらッ!!」


「馬鹿にするのもほどがある!」


「畜生ッ!」


 噴出する怒号、激情、中には嗚咽も混ざっていた。女たちの豹変ぶりにナナは首を竦めて女たちを見回す。


「あの……」


 女たちはナナを見ない。動揺と激情で混沌としている。


「あ、あの!!」


 ナナは声をあげた。


「わたし帰らなきゃ。ハチが気がかりだし他の皆も待っていると思うし。ここから出して」


「勝手に帰れば? 出来るならね」


 どこかから聞こえた揶揄のような声色の主を探したが、ナナにはわからなかった。


「夜汽車扱いか」


 セッカが呟く。


「あの…」


 ナナはヨシキリに質問しようと試みた。しかし、


「何よ、夜汽車」


 先と全く態度が違った。


「あなたたちは? 夜汽車じゃないの?」


「一緒にしないでよ!」


 物凄い剣幕で怒鳴られて、ナナは目も口も丸く開けたままヨシキリを見つめる。


 セッカの膝に座っていた少女が駆けてきた。憤るヨシキリの傍らに立ち、その裾を引く。ヨシキリは怒りを飲み込み、少女を見ないで頷いた。


 ナナは周囲を見回す。泣き出した女もいた。怒鳴り続ける女もいた。激情を隠しもしない女たちに恐怖を覚えて身を固める。夜汽車に戻りたい。ハチ、みんな。孤独の中でまた涙が溢れてきた。夜汽車を降りてからずっと流れ続けている。アイ、ごめんなさい。何度も何度も謝罪し続けている。届かない場所から届かない声で。アイに隠しごとなどしたから、目の前の好奇心に従ったりしたから、わたしがあんなことを言ったばかりに、わたしのせいで夜汽車は、ハチは。 


 手の腹で目元を拭った。目尻に痛みが走って手を離す。指先で触れると血液が付いていた。どこかで転んだだろうか。もう覚えていない、でも痛い。変なの、ナナは泣きながら笑う。そんなところ、誰とも接触していないのに。

 そこではたと思い出した。誰とも接触していない目尻が痛くて、ハチに接触した手の平はなにも発症していないことを。ナナは顔を上げた。女たちは興奮と動揺の嵐の中で互いに肩や頭を接触し合っている。サンみたいに、ジュウゴみたいに、ハチにしていたように。ナナは自分の手の平を見つめた。


「だいじょうぶ?」


 ヨシキリの陰から少女に言われた。何が? ナナは涙目のまま瞬きをする。


「あし」


 少女はナナの膝を指差した。ナナはもう一度膝を見つめ、それから少女に微笑んで礼を告げた。


「大丈夫。もう修復しているわ。あなたのおかげよ」


 少女は不思議そうにナナを見つめた。


 ナナは手の甲と手首でで両目をごしごしと拭った。鼻水を啜りあげて顔を上げる。もしも今浮かんだこの考えが正しければ、今すぐハチの元に行かねばならない。急がなければ、すごく痛がっていたから早く修復してやらなければ。


 狭い空間を見回した。扉は開かない。女たちの言動からして彼女たちはきっとずっと長い間、この部屋から出られずにいるのだろう。彼女たちは頼れない。ならば自分でやるしかない。


 密閉容器の中では植物が枯れてしまうように、私たちだって完全に閉ざされた空間に長時間いることはできない。植物も私たちも水と電気と空気が必要だ。見たところ電気はある。かなり弱々しい明かりだが電気は通っている。水もある。部屋の隅の小汚い容器に張ってある。ならば空気もあるはずだ。ナナは目指す物を探した。薄闇の中で目を凝らし、丁寧に床を壁を天井を探っていく。空気、空気……、口中で呟きながら天井を仰ぐ。水と電気と、


「あった」


 通気口。


 いくつかの顔がこちらを向いた。ナナは辺りを見回す。椅子、はセッカが使っている。脚立、踏み台、それらは見つからなかったが、セッカの足元に棒が転がっていた。ナナは駆け出し棒を掴み取ると、目的物の真下に立った。


「ちょっと!」


 女たちが何か言っている。いちいち確認する時間が惜しい、今はこっち。ナナは棒を両手で握りしめて通気口を力の限り突いた。がこっと音がする。埃が降ってきて思わず咳込む。もう一度。なかなか上手く行かない。あと少し。


「貸して」


 センニュウが背後からナナに覆いかぶさる様にして、棒の柄を握った。右手と肩に手を置かれる。ナナは一瞬びくりと音んを見上げたが、それから息を合わせて通気口を突き破った。


「開いた」


 女たちの息を呑む音が聞こえた。セッカが両脇を女たちに支えられながら近付いてくる。


「あんた、すごいな」


 女たちに支えられながらセッカはさらに前に出てきた。


「なあ、夜汽車のお嬢さん、一つ頼みがあるんだが聞いてもらえないか」


 『おじょうさん』とは何だろう?  ナナの疑問に気付かずにセッカは天井を指差し、 


「あそこに上ってその先を見て来てくれないか?」


 突然依頼してきた。


「のぼる? わたしが?」


「そのために開けたんじゃないのか?」


「そうだけど……」


 ナナは少し困惑した。そのつもりではあったがここより暗い天井の穴を見つめると恐怖が先行する。


「俺たちも今すぐにでもここを出たいとは思ってるんだが、なんせ大所帯だ。全員で動けばばれるだろう? それは避けよう。だから誰かがあの先を見て来るんだ。無事に外に出られるってことを確認したら戻って来て教えてくれ。いいな?」


「『ぶじ』ってなに…?」


「あんた、すらりとしてるしあの穴も余裕で通れると思うんだ。うちの女共は尻がでかくてな。つっかえそうだろ?」


「「ひっどーい!」」


 ナナはセッカの言葉を理解出来なかったが、どうやら女たちを茶化したたようだ。女たちはセッカに向かって口を尖らせ不満そうに声をあげている。セッカはそんな女たちを見て破顔した。それからナナに向き直り、両肩に手をかけて一段と顔を近づけて言った。


「あんたにしか頼めないんだ。やってくれないか」


「彼女の方が私よりも細身だわ」


 ナナはセッカの膝に腰かけていた少女を指差した。事実を告げただけだった。それなのにセッカの顔がさっと陰る。ナナは思わず息を呑む。セッカはすぐに頬を持ち上げたが、ナナにもう一度、今度はゆっくりと言葉を繰り返した。


「あんたに頼みたいんだ」


 ナナは唇を閉じその目を見つめ、ぎこちなく頷いた。頷かざるを得なかった。途端にセッカが本当に笑顔になった。


「ヨシキリ、お前の服、貸してやれ」


 ヨシキリは不満そうな声を出す。


「夜汽車がいなかったらノスリがすぐに気付くだろ」


 セッカの言葉にヨシキリは渋々従い、ナナの前に来て服を脱ぐ。


「あんたも脱いで」


 ナナは驚いて目を見開いた。


 アイ以外の前で着替えなどしたことない。しかしどうやらやらねばならないようだ。女たちから急かされて交換した服は、布地がねばねばしていて臭かった。



 * *



 女たちに押し上げられて登らされた天井の上は想像以上に狭かった。ほとんど暗闇、時々下から洩れ入る明かり。狭くて四角い通路を、ナナは頭を低くして肘と膝をついて這っていた。セッカが言っていたように、あの場にいた女たちでは尻がつかえたかもしれない。


 地上に出る道を見つけて彼らに教えたとして、果たして彼らはこの道を通れるだろうか。そもそも女たちに支えられていないと立てないセッカがここまで上って来られるだろうか。そもそも何故、地下の男たちは自分やあの女たちを仕舞いこもうとしているのだろうか。


 考えてみれば疑問点が多々ある。だが一つひとつを解決してから進んだのでは時間がかかり過ぎる。そう、急がないと、ハチの元に。ナナは頭を振って前に進んだ。


 とにかくここを出るのだ。何を置いてもハチを修復しなければ。だからそれ以外は置いておこう。取捨選択が大切だとアイも言っていた。「あなたにとって不要なものは捨てましょう」と。


 *


「『ふよう』?」


「必要ではないもの、優先順位が低いもの、という意味です」


「捨ててもいいの? どの問題も大切だわ」


「もちろん全て大切です。大切にしてもいいです。けれども最も大切なものを大切にするためには他のものは諦めることも大切です」


 ナナは半分理解して半分納得いかない気分だった。アイはそんなナナの考えを見透かしたようで、ずい、と顔を近付けると、笑顔を解いて真顔になってナナに説いた。


「いらないものは捨てましょう」


 ナナはアイに見つめられて、アイを見つめながら返事もせずに頷いた。


 *


 ああそうか、ナナは思い出した。先のセッカの目はアイに似ていたのだ、と。アイはいつも笑っているけれども時々、ただわたしたちを視るだけの目をするのだ。


 前方の床からひと際明るい光が見えて、ナナは肘と膝の歩幅を広げて這い進んだ。こちらの通気口は金網だった。覗きこむまでもなく部屋全体を見下ろせる。出口だ。ナナは金網に手をかけ、嬉々として持ち上げようとして動きを止めた。


「……木だ、」


 木が、葉が茂っていた。


 ナナは自分で自分が発した言葉に動揺した。だが金網の下の明るい空間には紛れも無く緑が広がっている。


「増やしている?」


 あるはずがない、地下が植物を持っているなんて。土も何もない空間で植物だけを増やしているなんて! 


 地下に住む者は塔を襲う。夜汽車のナナすら襲われた。それは彼らが野蛮で不潔で未開だからだ、そう教わってきたしそう信じていた。


 だが考えてみればネズミやスズメの会話の端々に首を傾げるナナに対して、ナナたち夜汽車の言葉に疑問の手をあげる者は彼らの中にいなかったかもしれない。情報量の差。立場の逆転。彼らは本当に未開なの? 知識量で言えばわたしたちの方が少ないのではないの?


 背筋を悪寒が駆け抜けてナナは身震いした。寒気が止まらない。風が冷たいせいもある。


 風? ナナは右手を振りむいた。壁がない。腕を伸ばしてみた。空気が流れている。空間が広がっている! 暗闇が広がるばかりだが確実に上に、地上に向かって伸びている。


 ナナは右手の道に足を入れた。爪先が壁に触れた。手足で壁を掴んで登って行けるかもしれない。上体を床に貼りつけて慎重にゆっくりと体勢を変えていると、がちゃり、と金網の下から音が聞こえた。


 ナナは動きを止める。話し声がする、男の声。


「……のか。おい、アイ!」


「はい」


「アイ?」


 思わず声を出してしまってから慌てて身を固めた。だが遅かった。


「なんだ? 今の」


 足音が集まって来る。声が大きくなってくる。ナナは金網から離れようと出来る限り身を引く。引いて、引いて、足が滑った。


「上か?」


 男たちは通気口の金網を持ち上げて中を確認したが、物音の原因は見当たらなかった。


 物凄い速度で落下する。湧き上がる恐怖の中でナナはもがくが落下速度は変わらない。眼下に光が見えてきた。言葉に出来ない恐怖に全身でもがくが、光はどんどん近付いてくる。落ちる! 思った瞬間、ナナの爪が通気口の繋ぎ目に引っ掛かった。膝を踏ん張る。


「止ま……った?」


 動悸と呼吸の音が鼓膜を満たして喘ぎながら下を見た。止まった。張りつめた息を吐いた瞬間、あ、と思った時には金網ごと床に落ちた。


 耳をつんざく音が響く。ナナは目を瞑って耳を塞いでその場に蹲った。見つかる。怒鳴られる。恐怖で全身が震えた。


 しかし何もなかった。しばらくの間床にへたり込んでいたナナだったが、ようやく目を開き耳を解放して首を伸ばした。傍らにあった作業台らしきものの陰から首を伸ばして辺りを見回す。同様の台が二列に渡って並んでいる。部屋は異臭が充満していて湿っぽく、照明も暗かった。それもそのはずだ。電気ではない明かり。あれは確か『炎』。


 台に手をかけ立ち上がりかけた時、左足首に激痛が走った。歯を食いしばったが吐息と共に声が漏れ出る。その時だった。扉が音をたてて開いた。


 入ってきたのはジュウゴと同じくらいの背丈の男だった。ジュウシみたいな寝ぐせで眠そうな半開きだった左目は、ナナに気が付くと唇と共に大きく開き、ナナを凝視して固まった。ナナは声が出ない。身動きも取れない。泣くことも喚くことも瞬きも呼吸も出来ずに男を見つめた。


 男は扉に手をかけたまま半身を部屋の外に出して後ろを振り返る。ため息を吐くと再びこちらを向いてナナを一瞥した。


「出てけ」


 それだけ言うと後ろ手に扉を叩きつけ、どしどしと部屋の中に入ってきた。扉は反動で半開きのままだ。


 ナナは拍子抜けした。男の動きを黒目だけで追う。男はナナが手をかける作業台のそばまで来ると、「どけ」と言って脇にあった椅子を足で引き寄せ、そのまま腰を下ろした。ため息を吐いて台に片肘をつき顎をのせる。ナナに背を向けたまま男はさらに言った。


「早く出てけ。気分じゃない」


「いいの?」 


「ああ!?」


 男の目付きが怖ろしくてナナは首を横に振る。

 意外だった。すぐに男が複数集まって来て、また先みたいに腕を掴まれてスズメたちの部屋に連れ戻されると思っていた。でもこの男は出て行けと言っている。地上に行くことを認められている。少なくともナナを持ち運んだ男たちとは違う。もしかしたら彼もスズメたちと同じく、ここから出られずに困っているのではないだろうか。彼もまた、この地下から出たいと思っているのではないだろか。


「あなたも行く?」


 ナナはおずおずと尋ねてみた。セッカはろくに歩けもしないのに、今ナナが来た険しい通路を進んで来ようとしているのだ。そうまでして地上に出たいのだ。ならばこの男だってまた同じだろう。しかし、


「なめてんのか。気分じゃねえって言ってんだろ」


 男は早口で答えた。違うの? ナナは困る。また未習熟単語ばかりだった。先から繰り返しているのは気分が優れないという意味だろうか。


 ナナは首を伸ばして男の顔を盗み見た。前髪で表情がうかがえない。唇の形を見る限り機嫌がよさそうではない。やはり気分が優れないらしい。


 男が舌打ちして立ちあがった。椅子が倒れる。男の腕が伸びて来て見上げるナナの頬を乱暴に掴んだ。左右から圧力がかけられ頬の内側が歯に当たる。目まで中央に寄っていく。


 間抜けな顔にされたナナは腕を伝って男の顔を正面から見た。まじまじと男の肌を見つめてしまった。


「とっとと出てけって言ってんだ、バカ女。こんなとこまで下りて来てんじゃねえよ」


 男は眉間に深く皺を刻んでナナを睨み下ろす。ナナはその目を見つめ返す。その視線が左に移動し目を見張り、息を止めた。


 男の顔の右半分は皮膚が変色して凹凸が激しく、輪郭は歪んでいた。変色していると言うよりは変質している。本来眼球があるはずの場所は暗く落ちくぼんでいる。ひどい、ナナの目に涙が浮かぶ。ひどい、酷過ぎる、ハチみたい!


 気分が優れないと言ったのはきっとこの損傷のためだろう。優れないに決まっている、損壊しているのだから。苛々も募るだろう、感情を抑えこめる訳がない。だってハチだって泣き叫んでいた。ひどい、ひどい、ひどい! 誰がこんなことを! どうしてこんなひどいことを………。


 男はナナの視線に気がつくと鼻筋にも皺を刻み、指先に力を入れた。頬の内側に歯が食いこむ。


「何見てんだ…!」


「その顔、どうして? どうしてそんな酷い損傷……、ひどい……」


 何かしてやらねばと思った。目の前の痛そうな男の損傷を修復できるならばしてやりたいと、理屈抜きの衝動に駆られた。


 男は顔面上部に皺を刻んだまま口元は弛緩させた。あからさまに侮蔑の色を浮かべてナナを見下ろす。


「どこのバカだ、お前。せめてもっとましなのよこせってじじいどもに言っとけ」


「どんな接触をしたらそうなるの? 発症している? 大丈夫?」


「何言ってんだ…」


「痛かったでしょう?」


 男が口元だけでなく顔面全体を弛緩させた。腕の力も抜けたらしい。ナナは男の手から逃れて片脚だけで立ち上がった。男が後ろに下がる。


「早く修復しないと」


「あ?」


「お願い、動かないで…!」


 足に激痛が走る。ナナは思わず下を向く。自分の足を見つめながらセッカもきっとこんな痛みを抱えているのだろうと思った。奥歯を食いしばって男に歩み寄った。男はナナが近づいてくるのを見ると顎を引き、身構えた。


「サンが言っていたの。接触。ジュウゴがしたらやっぱりそうだった」


 ハチを思った。あれほど忌避していた接触だったが、ジュウゴが抱えてからハチは少しだけ落ち着いたようだった。


 セッカたちの姿を思った。女たちがセッカの傍を離れないのは彼の修復を早めようとしているからではないかと。現に自分だってスズメに触れられた膝は流血が止まっている。


 そして、ナナは自分の手の平を見た。擦り切れて赤くなっている。開くとこちらも痛い。ナナは一度両手を軽く握り、そして恐る恐る指を伸ばして男の前に差し出した。男が目を見開いてナナの手の平を左右交互に見比べる。


 ナナは思った。もし仮に全ての接触が危険でないのならば、そしてもし仮に自分にもサンやジュウゴやセッカの周りの女たちのような力があるのならば、


「だからね、きっと…、きっとより近くにいるほど修復も早いと思うの」


 男の顔にそっと触れた。手の中で男がびくりと震える。ナナも一瞬手を離す。しかし痛がっている様子はない。今度は手の平全体で男の顔を包みこんだ。指先から小さく鼓動を感じる。自分のものか男のものか定かではないが、ナナはそれを痛みとは感じなかった。


「あたたかい……」


 素直な感想が漏れた。アイの言うようにこのまま放置しておけば感染して痛みにもがき苦しむことになるのかもしれないが、実験も検証もしたことのないナナにその結果はわからないが、少なくとも今この瞬間、ナナに感じられることは柔らかな温かさだけだった。


「……よく触れんな」


 ナナの指先を見つめながら男が呟いた。ナナは自分の手から男の目に視線を移す。


「どうして?」


「気持ち悪いだろ、こんな顔」


「どうして? こんなに温かいわ」 


 男が目を見開いてナナを見た。


 男の口がかすかに動く。ナナは聞き返そうとして首を傾げ、その拍子に体勢を崩した。男が咄嗟に手を伸ばしてナナの体を支える。自分の胴を掴む男の手を見て、そして触れてみる。


 やっぱり、とナナは思う。やっぱり傷つけない接触もあるのだ。



 * *



「なんでこんな怪我してんだよ」


 折れてないか? などと言いながら男はナナの足を動かした。ナナが小さく呻くとその手を止めてナナを見上げ、立ち上がると部屋の隅に行って何やらごそごそと散らかし始めた。ナナは椅子に腰かけたまま首を伸ばしてその背中を見つめる。やがて戻ってきた男は再び床に胡坐をかく。


「少し我慢しろよ」


 言うと男はナナの足首に鉄の板をあてて布で縛り始めた。ナナは瞼を閉じて歯を食いしばる。


「しばらくこのままでいろ」


 ナナは膝を上げて自分の足をまじまじと見た。布で巻かれたその下には鉄の板がはみ出ている。


「ほら行くぞ。送ってやる。立てっか?」


「送る?」


 ナナは足を下ろして男を見上げた。男は慣れた手つきで変質した側の半面を包帯で覆っているところだった。その手際の良さにナナは見とれる。


 男は手を動かしながら呆れたように息を吐き、そして微かに笑った。


「お前みたいのしか残ってないの? せめて一周して初めの奴でも寄こせよ」


 ナナは首を傾げた。申し訳ないが一部分も意味を汲み取れない。しかし男はナナの疑問などかまいもせずに勝手にべらべら語り出す。


「変わり映えしないのもつまんないとは言ったけど顔が良くても頭がそれじゃあ駄目だろ。あと何されても話には乗らないって言っとけ。ついでにお前じゃ使いにもならないってな」


 はみかむと優しそうだな、とナナは思った。笑えるということは気分も大分よくなったのだろうか。


「あ! あと」


 男は包帯を巻き終えた顔を向けてきた。厳しい顔を作って見せて、


「用がある時は部屋に来させろ。ここには近寄るな。いいな」


 初めて口を開いた時とはうって変わって饒舌だ。表情もころころ変わるし痛そうな顔もしない。ナナは自分の手の平を見つめた。あれで修復出来たのだろうか。それならば良かった。


「何、笑ってんだよ。笑う所あったか?」


 変な奴、と言って男は鼻で笑った。よくわからないけれどももう順調なようだ。ナナも声を出して笑った。笑うナナを見て男は息を吐き、わけわかんねえ、と呆れた。


「もういいわ。俺から直接言いに行く。とりあえずお前、今日のところは帰れよ」


 『帰れ』って夜汽車に? 帰っていいの? ナナは真顔になって男を見つめる。男もナナの変化に気づくと口を閉じてその顔を見下ろした。それから、ああ、と納得したと言わんばかりに頷いてナナの前に屈んで背を向けた。ナナは首を傾げる。


「なに?」


「乗れよ」


「何に?」


「歩けないんだろ?」


 ナナは意味が理解できなくてさらに首を傾げた。戸惑うナナの反応を待たずに男はナナの腕を掴んで自分の肩に置く。短く悲鳴を上げたナナを見向きもせずに背負うと、重みも感じさせずに立ち上がった。ナナは急に視線が高くなったことと初めての経験に慌てる。


「待って、やだ! 何? 降りる」


「なにその反応」


 男はくっくっと肩を揺らして笑った。そして、


「どこ?」


 ナナの方に顔を向けて尋ねてきた。


 スズメたちにも同じことを聞かれた。だが「夜汽車」と答えた時のあの反応は……。地下に住む者たちには自分が夜汽車だと答えない方がいいのかもしれない。


「ち、地上」


「は?」


「地上に行きたい」


 男は怪訝そうにナナを見つめたが、ぱっと目を輝かせると勝手に納得して頷いた。


「もうそんな時間か。じゃ、寄ってっか!」


 言って男は駆け出した。ナナは上体が反れて落ちそうになり、慌てて男の肩にしがみ付く。揺れる背中は薄暗い通路を駆け抜けて壁際にかけられた二本の縄のもとへ行き、そのうちの一本を片手で軽く引くと、「つかまってろよ」と短く言った。

 男の横顔を覗きこもうとした時にはナナの体は浮いていた。物凄い速さで上昇していく。ナナは男の首にしがみ付いて左右を見た。同様の仕掛けが他にも四機設えてある。下を見ると目が眩んだので上を見ることにした。

 一度も止まることなくナナたちは最上部に着き、男が床に足を下ろした。ナナは自分で動いてもいないのに息切れを起こしていたが、それを整える間もなく背中がまた走り出す。狭い階段を駆け上がり、鉄扉を片手で押し開けた。


 地上だった。空気は冷たく吐く息が白く纏わりつく。男と密接している腹以外は瞬時に冷たくなった。


「地上……」


 あっという間だった。出られた、地上。


「立てんの?」


 ナナは男の質問に答えもしないで足を地面につこうとした。男が気を利かせて屈んでくれる。


 右足から地面につく。左足を下ろすとまた痛みが走った。だが。ナナは右足だけで飛ぶようにして歩いた。しかしすぐに男に腕を掴まれる。


「はなして…」


「こっちだって」


 明らかにナナをここに運んできた男たちとは違う手つきで、男はナナを支えた。支える、そう、そういう感じだった。ナナは男の顔を見上げようとして空の異変に気付いた。


「明るい………」


 漆黒であるはずの空がうっすらと藍色に光っていた。星たちがその存在を誇張しないほどの明るさだ。左右に首を回し、三六〇度回転しながら空を見回す。


 不意に肩に何かがかけられた。男の上着だった。男は寒々しい格好になりながら白い息を吐いて笑った。


「そんな格好じゃ風邪ひくだろ」


「でも…」


「来た!」


 言って男が空を見上げた。ナナは男に続きを言いかけて、固まった。


 地平線が白く光った。徐々に辺りは明るくなり眩しいほどで、夜汽車の照明でさえ足元にも及ばない。空は藍色どころではなく白く明度を上げ、星たちは完全に姿をくらました。


 地平線の特に明るい一点からの光線がナナを直撃した。ナナは耐えられずに目を閉じる。手の平を額に当てて指の隙間から薄目で見る。


「あれは…?」


「太陽」


「あれが……」


 息を呑んだ。どんな照明も敵わない圧倒的な存在感を持って現れたそれは、一点の陰りもなく、堂々とナナの前にその全貌をさらけ出した。


「きれい」


 それ以外に言葉が出なかった。言葉で表現するにはあまりに大きくてあまりに明るくてあまりに美しかった。


「ハチにも見せてあげたい! きっと驚くわ」


 男がナナに振り返った。


「あの子、飲むことしか興味がないから。でもこれを見ればもう『お腹空いた』も言わなくなると思う。言っている暇がないも…の……」


 ハチ……。


「どした?」


 優しい声だった。首を横に振る。勝手に流れ出した涙を止めようと試みるが、余計に呼吸が乱れてしゃくりあげた。泣いている暇など無いのに、そう思えば思うほど止まらなかった。


 ナナの体を支えていた男の腕が離れた。ふらついたナナを男が正面から支える。支えられるというか包みこまれるというか。ナナはジュウゴを思い出す。ハチを抱え込んでいた。ハチの顔色を良くしていた。だからか、とナナは息をついた。男に抱え込まれていると涙も止まった。妙に落ち着いた。


 男が力を緩める。ナナは顔をあげて男を見上げた。男はまだ不安そうにナナを見つめていたからナナは、だいじょうぶ、と伝えたくて微笑んで見せた。だが男の表情は変わらない。


 酷い顔だったのだろう。目尻は損傷しているし泣きながら無理矢理作った笑顔だし。それとも男も右半面の損傷が痛むのだろうか。自分などよりもよほど酷い損傷だ。もっと接触が必要なのかもしれない。そう思ってナナは男の顔に手を伸ばした。その手を男に握られる。


 男の意図が分からなくてナナは一瞬きょとんとしたが、重ねた方が接触の効能は増すのだろうかと考えた。そうかもしれない。セッカの周りの女たちだって、セッカまで届かなくても手を伸ばしていた。だからもう一方の手も伸ばして男の手に重ね、それを男の右半面に接触させた。


 それまで真剣な顔をしていた男が耐えかねたように噴き出す。ナナは何故笑われたのかわからない。


「なに?」


「別に」


 男は笑いながら唇でナナの唇を覆った。


 ナナは押し黙った。身動ぎもせずに男を見つめた。太陽に照らされている半身が熱い。頭の芯が痺れている。動悸が激しい。やはり接触は危険な行為なのだろうか。男の唇が離れる。自分の唇を指先でなぞる。痛くはない。ただやかましく鼓動が全身に響いている。


「おい、」


 男が目の中を覗きこんできた。ナナは見つめ返す。と同時に男が再び噴き出した。


「変な顔すんなよ、ばか」


 言って男が破顔した。太陽に照らされた真っ赤な空気の中で白い歯が光っていた。


 きれいだな、とナナは思う。思った瞬間、男の顔が歪んでくしゃみをした。二発、三発、と続く。鼻を啜って男は咳払いし、ナナは声をあげて笑った。


「そんな格好していたら風邪をひくわ」


 言ってナナは男に上着を返そうとした。男は鼻を啜りあげながら横目でナナを見る。


「お前こそ薄着だろ。いいよ、着とけって」


「でも…」


「なら次会う時に返せ。いいな?」


 ナナは男の上着を握りしめた。


「おい、ヨタカ!」


 男が首を伸ばしてナナの背後を覗き見た。ナナも振り返る。ナナたちが出てきた扉から別の男たちが顔を出していた。


「眩しッ!」


「やっぱりここだったろ?」


「探したぞ、バカ」


 ぞろぞろと連れだって男たちはこちらに近づいて来る。ナナは肩にかけられた男の上着を握りしめて身を固めた。男が一歩前に出る。


「今行くとこだったんだよ」


 男が面倒臭そうに男たちに言った。ナナは怖々と男たちを見上げる。最初に扉から出てきた男と目が合い、咄嗟に視線を逸らした。


「まぁたお前、しけ込んでたのか。かあ~! 羨ましッ」


 背の低い男が高い声で言った。目の前の背中から不機嫌さが噴出する。


「うるせえな。やってねえよ、今日は」


「嘘くせ」


「嘘じゃねえし」


「昨日からのお持ち帰りじゃねえの?」


「じゃないって」


「こいつ嘘ついてるだろ? なあ、お姉ちゃん?」


 背が低くて声の高い男が近づいて来てナナの顔を覗きこんだ。ぎょろぎょろと二つの目玉が全身をねめまわす。セッカとは違う、でも何とも嫌な気分にさせられる視線だ。


「やめろよ」


 頼もしい背中が視線からナナを解放した。ナナは背中の主を見つめた。


「見ねえ顔だな」


 背後から別の声がしてナナは振り返った。大柄な男だった。見上げたナナは体勢を崩し、尻から砂に落ちた。左足首のことを忘れていた。包帯の顔が振り返り慌てた様子で覗きこむ。


「大丈夫か、お前」


 ナナが頷くと男は再び背中を差し出した。今度はナナも抵抗なく男に背負われる。


「ヨタカさん、すてき」


「殺すぞ」


「お前、これからとか言うわけ?」


「歩けねえんだよ、こいつ。送ってくる」


「どこに?」


「あ…」


 背中の主が首を回して来てナナを見た。


「お前、部屋どこ?」


 部屋? 突然話を振られてナナは困惑する。部屋って? 何と答えればいい? 何と答えるのが正解だろうか。


「……ここ」


 ナナの言葉に男たちが全員怪訝そうに眉を顰めた。


「ここでいいわ。もう少しここにいたいの」


 男たちだって地上に出入りしているのだ。ならば自分もこの地下に住む者のふりをして、


「いや、いやいやいやいや!」


 背の低い男が声をあげた。


「もう限界でしょ。死ぬよ、あんた。俺すでに死にそうだし」


「だな。そろそろ入らねえと暑くてかなわねえわ」


 眠たそうな目の男が襟を広げて首筋を手の平であおいだ。


 言われてナナも気付いた。つい先ほど太陽が現れる前までは白かった息が今はもうない。反対に背中と頭皮が汗ばんでいる。ナナは太陽を探した。いつの間にか白く色を変え、空は見たこともない水色に染まっていた。


「昼?」


 アイが言っていた。夜と夜の間にある時間。窓を開けてはいけない時間。


「おいヨタカ。とにかく中、入れよ」


 眠たそうな男が言って、あくびをしながら扉に向かって歩き出した。背の低い男も大柄な男も後を追うように地下に入っていく。男たちからナナに視線を戻した背中の主は困ったような顔をして考えこみ、何も言わずに扉に向かって歩き出した。


「ま、待って。お願い、ここでいいの。ここに置いて行って!」


「そうはいかないだろ」


 呆れた声で答えて男は扉を潜った。


 男と静かにやって来た道を、今度はぞろぞろと引き返す。ナナは背後を振り返った。もう少しだったのに。


 男たちが慣れた手つきで壁際の縄を握り、するすると地階に降りて行く。さらに男が増えていた。誰よりも背の高いその男はナナの顔を見て憮然とした。


「女遊びは大概にしろ。仕事に支障を来たすな」


「もっと言ってやれよ、サシバ」


「聞いてっか? ヨタカ」


「だから違うって!」


 背中が揺れてナナはしがみ付く。


「サシバ、こいつの足見てやって」


 言うと包帯の男はナナごと背中を男の方に向けた。


「多分折れてんだ」


 背の高い男はナナとナナを背負う男を見下ろしていたが、やがて屈みこんでナナの左足を手に取った。ナナは小さく悲鳴をあげる。「やっぱ折れてる?」と包帯の男。しかし問われた方は別のことが気になったようだった。


「珍しい靴だな」


 ナナは男たちの足元を見た。ネズミが履いていたみたいな編上げの、重たそうな靴だった。対して自分は。声の代わりに喉が鳴る。白い布製の靴はくるぶしが覗く短さだ。


 思わず足を引っこめた。周りの男たちが覗きこんできたから顎を引いて顔を隠す。失敗した。上着だけでなくヨシキリに言われた通り全て交換するべきだった。


「ヨタカ、その女を下ろせ」


 低い声が聞こえた。包帯の男はまだ状況を理解していない。


「何だよ、お前。女には興味ないって…」


「侵入者だ」


 その一言で男たちが身構えた。包帯の男が戸惑っているうちに大柄な男がナナの襟を掴み上げ、男の背中から引きはがすようにしてナナを床に叩きつける。足首も臀部も手も痛くってナナは悲鳴をあげた。間髪いれずに大柄な男に襟を掴まれ顎が上がる。喉に冷たいものが押しつけられた。


「チュウ…」


「お前、黙ってろ」


 包帯の男は背の低い男たちに阻まれ、ナナは尻をついたまま大柄な男に射竦められる。


「どっから来た」


 ナナは答えられない。正直に答えるのは恐らく不正解だ。しかし適当な嘘も思いつかない。


「代われ、チュウヒ」


 背の高い男が言った。大柄な男はナナを睨みつけたまま舌打ちすると、立ち上がって背の高い男に場所を譲った。喉の圧迫感からはとりあえず解放される。しかし息をつく間もなく背の高い男の濁った視線が注がれた。ナナは顔を背けることも叶わない。


「名前は?」


 背の高い男に問われた。『なまえ』。また訊かれた。どうして皆それを聞くの? そんなに大切なものなの?


「答えられないか」


 ナナは口を閉じる。


「持っていないのか」


 男が目を細めて立ち上がった。すかさず大柄な男がナナを抑えこもうと駆け寄るが「必要無い」と制止される。


「何が必要無いんだよ」


「その女は無抵抗だ」


「あ?」


「お前、」背の高い男がナナを見下ろした。


「夜汽車だな」


 空気が変わった。やはり、とナナは思う。やはり地下では夜汽車と言っては駄目なのだ。


「ち、ちょっと待てよ!」


 包帯の男が制止する男たちを押し退けて背の高い男の前までやって来た。


「何言ってんだよ、サシバ。こいつが夜汽車って証拠は何も…!」


「夜汽車は名前を持たない」


 包帯の男が一瞬怯む。しかし、


「答えなかっただけじゃねえかよ。それにこいつは、」


「会話が成立したか?」


 背の高い男が包帯の男の言葉を遮った。包帯の男は言い淀む。背の高い男は黙ってその横顔を見つめた後で踵を返し、「上に言ってくる」と言った。


「仕入れた夜汽車が逃げて来たってこと?」


 背の低い男が高い声で疑問を口にした。隣の男が「まさか」と呆れた声をあげたが、


「案外駅中あっちにもこっちにもいたりして」


 背の低い男が楽しげに言って肩を揺すった。

 あっちにも? ナナは顔をあげる。もしかして、


「その夜汽車はどこにいるの? 損傷はしていない? ちゃんと動いている?」


 男たちは突然のナナの叫びにびくりとして振り返ったが、やがて一様に眉根を顰めてナナを見下した。


「なるほどね」


「確かに何言ってっかわかんねえな」


 言うと大柄な男はナナの腕を掴んで無理矢理立ち上がらせた。


「ほら行くぞ、夜汽車」


「痛いッ」


「チュウヒ、やめ…」


 包帯の男が何か言いかけた時、


「ナナあッ!」


 男たちの背中の向こうから自分を呼ぶ声を聞いた。叫びながら駆けてくる足音。どうしてここに?


「ジュウゴ……」


 ナナは右足を踏み出して叫んだ。


「ジュウゴッ!」

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