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14-4 急停車

 地上に降りたら何をしたいかと語り合う皆の横で、全く何も想像しないでいるのは困難だった。シュセキは地下に住む者の話を聞きたいと言った。ジュウゴは地上を歩いてみたいと言った。君はどうしたい? と問われて僕は……。


「おはよう」


 教室に向かう廊下を歩いているとジュウゴに会った。僕は思考を止めて挨拶する。ジュウゴは窓のそばでじっと外を見つめていて気付いていない。また木でも探しているのだろうか。


「おはよう」


 僕がもう一度声をかけるとびくっと肩を揺らした。驚いた目でこちらを見る。


「……なんだよ。何かあった?」


「い、いや。別に…」


 絶対に何かあった。


「ジュウゴ、」


 僕は顔を覗きこみながら、


「嘘、ついているだろう」


 ジュウゴが否定できない尋ね方をした。


 ジュウゴはごくりと喉をならして首を横に振った。僕は彼の目を見つめながら続ける。


「また喧嘩したのか?」


「してない、してない」


 ジュウゴは僕から目を逸らして頷いた。したな、これ。


「ジュウゴ!」


 後ろから声が聞こえたかと思ったら、大股でやって来たシュセキがジュウゴの肘を掴んで廊下の隅まで引き摺っていった。何やら言い合っている。しかしいつもの言い争いというよりはシュセキから一方的にジュウゴを叱責しているようだ。

 


僕が首を傾げながら近付くとシュセキは僕を見てジュウゴから手を離し、眼鏡をずり上げながら顔を背けた。僕はひたすら眼鏡に手をかけるシュセキと、視線が泳ぎっぱなしのジュウゴを交互に見て、


「君たちさ…」


 言いかけたところに女子たちが来た。


「おはよう。何をしているの?」


 いつものように第一声を発したのは満面の笑みのナナだ。僕たちはそれぞれに挨拶を返す。


「別に彼らは何もしていないよ」


 ナナの揚げ足を取っているのか僕たちを鼻で笑っているのか、どちらなのか判然としない調子で続いたのはハチだ。その後ろからサンもやって来る。


「何を話していたの、という意味よ」


 ナナがハチに言うと、


「何も話していない」


 シュセキが答えて、


「話していただろう」


 ジュウゴが訂正した。いつもの風景だ。


 だが昨夜のジュウゴの話を聞いていた僕は、ジュウゴとサンの様子がどうしても気になった。案の定、ジュウゴはどこかぎこちなくサンに個別に挨拶をしていた。


「調子はどう? 今日は、あの…、ちゃんと眠れたのかな、とか…」


「お陰さまで」


 しどろもどろなジュウゴに対して、サンは簡潔に答えていた。いつもよりは笑顔が多いか? 彼女にしては珍しい。そのサンを見てジュウゴが破顔した。その後ろで唇を固く結んでいるシュセキが目につく。


「おはようございます」


 アイがサンの横に現れて言った。僕は慌てて時計を探す。また遅刻を諭しに来たのかと思ったからだ。シュセキも同じことを思ったのか端末の時計を起動した。


「私たち、また遅刻しそうだった?」


 ハチも同じことを思ったのかアイにそう尋ねた。アイは笑って首を横に振った。


「なんだかとても楽しそうだったので」


 少しだけ違和感を覚えた。今はそこまで議論も白熱していなかったし、単に挨拶をしていただけだ。


 違和感は僕だけのものではなかったようで、ハチとナナと目が合った。ハチが首を傾げる。僕は答えようがなくてシュセキを横目に見た。憮然、というよりも憤りを抑えようとしているかのように俯いていた。下唇を噛んでいる。


「あなたもよく眠れましたか? ジュウゴ」


 アイはなぜかジュウゴを名指しして尋ねた。ジュウゴは何も感じていないのか、全く構えることなく返事をした。


「それがあんまり…」


「考え事が邪魔をしたのですか?」


 アイは何にも気付いていないかのように首を傾げる。


「アイが相談に乗ります。どのような考え事ですか?」


「えっと…」


 ジュウゴはちらりとシュセキを見た。僕ではなく。


「体の変調などは見当たりませんが」


 何も反応を示さないシュセキを横目に、「じゃあ…」などと言ってジュウゴはアイを車両の隅に誘導した。僕はその背中を見つめる。 


 ナナが不安そうな視線を寄こした。サンは鋭い視線でアイとジュウゴを見つめ、シュセキは俯いている。


 ばれた? ハチの声が聞こえてくるようだった。わからない。僕は首を横に振って見せる。サンの鋭い視線が僕たちを見た。視線だけで何かを感染させられそうだ。僕は彼女に接触したいと言ったジュウゴの神経が信じられない。


「皆さん、今日の始業時刻は少し遅らせましょう」


 アイが僕たちの傍らにも現れて突然そんなことを言った。その場にいた全員が動揺した。


「え、でも」


「あの、私たちッ…!」


 皆口々に言い訳を探して、でも適当な言葉が出てこなくて、意味を持たない音を発して困惑した。シュセキだけは押し黙っている。


「教室で待機していてください。アイもすぐに向かいます」


 言ってアイが消えた。消えても聞かれているし見られているけれども、僕たちはもう完全に困惑して隠すこともなく声を出していた。


「絶対ばれた!」


 ハチが大声で言う。


「ハチ! そんな大声で…」


 ナナが慌てて咎めるが、


「だってアイはもう気付いているよ。きっとジュウゴがなんか言ったんだよ」


 駆け寄ってきたジュウゴをハチが物凄い剣幕で睨みつけた。


「何言ったの? 僕? なんで?」


 ジュウゴは立ち止まる。


「もうどうするの! 絶対指導だよ。私、やだ。こんなことなら始めから…、ああもう!」


「え? ちょっと、なんの…」


「なんでアイに話しちゃったのって言ってるの!」


 ジュウゴは怪訝な顔をした。


「ジュウゴ、」


 僕はハチとジュウゴの間に入って言った。


「アイに今、何を話してきた?」


「そんなの決まってるよ! 絶対にジュウゴがばらしたんだ!」


「ハチ落ち着いて。お願い」


 興奮するハチはナナに任せて、僕はジュウゴに続けた。


「もういい。もう隠さなくていいから全部話して」


「え? 何を?」


 ジュウゴが眉毛をひん曲げてぽかんとする。


「今朝からアイの言動には僕も違和感があった。でも先の一言で女子たちも確信した」


「だから何を?」


「あの時間はもうばれている。だから突然あんなことを言いながら現れたんだよ」


「あんなことって?」


「だから…」


 僕は苛々した。自分がかなり動揺しているのだと気付いて、深呼吸した。それから事実を自分に言い聞かせる。ジュウゴの理解力が普通より劣ることは彼のせいではない。努力で補えない欠点は彼の責任ではない。


「僕たちはさっき、挨拶をしていただけだ。特に話題もなかったし誰も興奮していなかった。それなのにアイは『楽しそうだ』と言って僕たちの輪に入って来た。

 おかしいだろう? アイがそういう時は僕たちの諍いを制止する時か、議論が白熱し過ぎて答えにたどり着けない時に助言で結論に導いてくれる時だ。それに始業時間を遅くするなんて今まで一度だってなかった。

 つまりアイはどこかで僕たちの計画に気づいたんだ。始業時刻を遅らせるのは僕たちを一堂に集めて指導をするからだ。シュセキの読みなら指導ではなくて再教育かもしれないけれども。いずれにしろ咎められることに違いはない」


 今までひた隠してきた秘密がばれて叱られると言っているのだ、ハチのように慌てふためいても仕方がない。だが予想に反してジュウゴは慌てなかった。眉根を寄せて首を傾げている。まだ理解できないのか。


「だからつまり…!」


「ちょっと待って。なんで?」


 僕は虚をつかれた。


「なんでって…」


「アイは僕とサンの会話を指して『楽しそう』って言ったんだよ」


 僕は眉を顰める。


 「僕は、」ちらりと後ろを確認してから小声になって「サンのことを相談した」


 わかるだろう? と目だけで言ってくる。僕は頷く。


「僕はおかしいのか、あの感覚は何なのか教えてほしいってアイに相談したんだ。そしたらアイが、『おかしくありません。誰もが持つ衝動です』って」


 え?


「それから、『今日はその衝動について皆さんにお話します』って。それで『授業は中止しなければなりませんね』って」


 どういうことだ?


「じ、じゃあ、アイはあの時間のことは…」


「何も言っていなかった。気付いていないと思うよ」


「アイは気づいている」


 反対側からシュセキが言った。僕は一歩身を引く。


「僕の責任だ」


 シュセキが言ってジュウゴを見た。


「一緒に怒られよう」


「え? ……あ!」


 ジュウゴが声を上げて僕を見てからシュセキに向き直った。


「でも時間内だった。アイには…」


「着信に気付かなかった。削除しきれていなかった」


「何の話だよ」


 僕はジュウゴとシュセキを交互に見た。時間内? 削除? 僕が寝た後に何かあったのか?

 シュセキは眼鏡の奥から僕をじっと見て、それから黙って端末を起動させた。通信履歴を開く。あの旧式の信号が目に入った。今まで見たことのない文字が並んでいた。


「『ムカエニイク』?」


 ジュウゴがごくりと唾を飲み込んだ。シュセキが歯ぎしりした。僕はジュウゴとシュセキを交互に見た。


「したのか? 返信」


 否定しない。


「何て送った?」


「『ココニイル』って」


 ジュウゴが青い顔で言った。『ココニイル』から『ムカエニイク』。


「……何でこんなことしたんだよ」


 ジュウゴが怯えた顔で僕を見る。僕は抑えきれなかった。ジュウゴの襟を掴んで巻き込み、その勢いで壁に押しつけた。


「様子を見ようって言っただろう? 相談するって約束したじゃないか。なんで何も言わないでこんなことするんだよ!」


「ジュウシ?」


 ナナの声が聞こえたけれども僕は止まらなかった。止まれなかった。


「時間がなかった。あの時を逃したら今度はいつ通信が来たかわからなかった。好機を使いたかった」


 ジュウゴは言い訳を重ねる。僕の憤りは募り重なる。

 

「僕も加担した。同罪だ」


 シュセキが僕の肩を掴んだ。僕は片手でジュウゴの襟を掴んだままシュセキの手を振り払う。


「あんなの! あんな物が端末に残っていればアイが気づいて当然だろう? っていうかなんで君が止めないんだよ。なんでそういうところでばっかり結託するんだよ」


 どうして何も言ってくれなかったんだ。


「ジュウシやめて!」


「ジュウシ!」 


「なんでッ!」


 僕だけ。


「朝から喧嘩?」


 場違いに涼しい声がして僕たちは同時に振り返った。ジュウイチだった。


「アイは?」 


 そう言えば。言われて僕はジュウゴの襟から手を離した。こんな修羅場にアイが現れないなんて。 


「アイにばれた。ジュウゴが下手な事言うから」


 ハチが言った。僕は訂正しようとして、でも結局はその通りだと思い直して何も言わなかった。


 ジュウイチはぎろりとジュウゴを睨んで「だからか」と呟いた後、呆れた顔をしてそっぽを向いた。


「また同じ面々が遅刻かと思えば、アイは始業時間を遅らせるって言ったきり出てこなくなるし、ニイは授業が進まないって怒るしゴウも怒鳴るしうるさいし、教室の雰囲気は最悪だよ。でも原因がジュウゴなら」


「どういう意味だよ…」


 言いかけたが、ジュウゴは僕を見て押し黙る。


「じゃあ授業じゃなくて一斉指導ってことか」


 ジュウイチは首に手をおいて頭を回し、


「まあこんなもんか。頑張った方だよね」


「どういうこと?」


 ナナがジュウイチに尋ねる。ジュウイチは鼻で息を吐いて、小さく笑った。


「大体、アイに気づかれずにここまで続いた方が凄いことだって。遅かれ早かれどうせどこかでばれただろう?」


「……確かにそうかもしれない」


 ハチが口を閉じて俯いた。


「僕はそれなりに楽しめたから満足だよ。君は?」


 ジュウイチはサンに振る。サンは戸惑いがちに、「ええ」と言ったきりだった。


 僕はシュセキを睨みつけた。端末を凝視する。ジュウゴも上目遣いにシュセキを見た。シュセキは意を決した風にジュウイチと女子たちの前に出た。


「指導じゃ済まないかもしれない」


 ナナが首を傾げる。ハチは「もういいよ」と言う。


「指導じゃなければ何だっけ。再教育?」


 ジュウイチがシュセキに聞き返した。僕は顔を背ける。次に激昂するのはジュウイチだ。


 僕は車窓の外に目をやった。ジュウイチの言葉に、皆が本気で地上に降りようと考えていたわけではなかったことがわかって興醒めした。本当に本気だったのはシュセキとサンとジュウゴと、そして多分僕だったんだろう。


「……木だ」


「え?」 


 ジュウゴが振り返った。僕は車窓の外に目を向けたまま指差した。ジュウゴが窓に手をついて額を押しつける。ハチとジュウイチもそれに続く。ナナが「何?」と戸惑っている。


「木? ではないような…」


 三本の脚を地上に置いて、何本もの枝で機材を担いでいる。あの機材は何と言ったか。確か、


「小銃?」


 それよりも大きく見える。小銃とは破壊行動を取る時に用いる道具だ。その熱量を以て建造物等を破壊し、壁面を穿って侵入または破壊した物質そのものを採取する、とアイが言っていた。


「地下の」


 シュセキが呟く。いや違う。地下なら夜汽車は相手にしない。地下の技術では夜汽車には敵わない。ではあれは?


「下がってください」


 アイの声が聞こえて振り返りかけた瞬間、視界の端が小さく光った。と同時に頭を床に押しつけられる。次の瞬間、轟音。爆風。高音の熱風が僕の頬と首を叩きつけた。


 夜汽車が震えた。その衝撃で窓硝子が割れ、接続が外れ、外気が車内に吹きこんだ。


 瞼を開く。暗い。顔を上げる。停車している? 真っ暗だ。電気が消えていた。いや、割れた窓と割けた壁から微かな明かりが差し込んでいた。地上は電気がなくてもわずかに明るいらしい。


 目が慣れてくる。廊下が湾曲して床が隆起と陥没を繰り返しているのが見えた。唸る声が聞こえる。蹲っているみたいだ、僕も含めて。アイに覆いかぶさられて床に伏せていたのだろう。僕は膝を打ちつけた。誰かは頭を押さえている。別の影は背中から転げていた。


 端末の明かりが辺りをうすぼんやりと照らした。シュセキが端末を叩いている。


「大丈夫?」


 誰かに尋ねている声。ジュウゴか?


「何だよ、これ。地震?」


 いたたたたた、と腰を擦るのはジュウイチだ。


 地震だったとしてもこれほど夜汽車が大破することはないだろう。しかし急停車だ。地震だったのだろうか。でもあの光は?


「ハチ?」


 ナナの声、と思ったのも束の間、その呼びかけは悲鳴に変わった。


「アイ、」


 僕は上半身を持ち上げた。背中も痛い。「アイ、電気つけて」


「アイ…、アイ! ハチがッ!」


「アイ、電気…」


「アイ! ハチを直してえッ!」


「ナナッ!」


 僕はようやく立ち上がった。シュセキの近くにはいない。目を凝らす。黒い塊、あそこか。


 歩み寄ろうと右足を前に出した時、何かを踏んだ。弾力があるそれは、果実みたいな音を立てて潰れた。不快な温かさが足の甲にまとわりつく。


 誰かのひっくり返った声が聞こえた。ジュウゴか? ジュウイチ? 僕は足元の気がかりを放置して前に進もうとした。めくれ上がった廊下が進路を邪魔する。何かに脛をぶつけた。壁についた手の平が痛い。


「アイ! 返事してえッ!」


 ナナの絶叫の中、僕も叫ぶように呼びかけながら暗がりに近づいた。


「ハチがどうしたの? アイはなんで来てくれないんだ」


 誰かの背中に僕はたて続けに質問する。この長身は、


「知らないよお!! 何なんだよ一体、これ…、ああ!」


 癇癪を起したジュウイチが怒鳴った。彼は正常のようだ。


 足元がほのかに明るくなった。点々と小さな灯りがまばらに散らばった。


「非常電源を起動した。数十秒でアイも復旧する」


 シュセキが端末を抱えてやって来た。


「なんで君の端末は使えるんだ!」という僕の疑問に彼は「僕仕様だ」と答えた。


 しかしシュセキの行動に呆れている暇もなかった。視界に入ってきた光景に言葉を失う。動悸がする。喉の奥が渇く。


 ナナが泣き喚く。皆が固まっている。ナナは首を横に振って、その奥にはハチが、ハチの顔がついた黒くてぐちゃぐちゃしたものがぴくぴくと痙攣していた。


「な……」


「あ…」 


「アイぃ!」


 僕はナナの叫び声に我に帰った。アイを探す。いない。


「どうして何もしてくれないのぉ? アイぃい……!」


 ナナが泣きながら叫んだ。シュセキが端末を叩く音が響く。


「おそらく故障だ。今の衝撃でアイは正常な状態ではない」 


「そんな…」


「どいて!」


 サンが僕を押しのけてハチに駆け寄った。遅れてジュウゴも続く。


「何、するの?」


 ナナの震える声が聞こえた。ジュウイチが「やめろ!」と裏返った声で叫んだ。「離して!」とサン。サンの手の平と服がハチの血で汚れている。暴れるサンの肘をジュウイチが掴んでハチから引き離している。


「感染するって!」


「離して! 早くしないと止まっちゃう」


「止まる?」ジュウゴが首を捻る。「夜汽車は停車中だよ」


「ハチを治すの!」


 サンがジュウイチの手を振りほどき、ジュウイチに向き直った。


「何でもかんでもあれに頼っていたら何も出来ない。実際に今、何も出来てないじゃない! 私たちでやるの」


「『あれ』って言った?」


 聞き捨てならなかった。僕はサンに近づく。


「『あれ』って何だよ」


「ごめんなさい、言い方が悪かった」


 サンが吐き捨てるように言った。顔を背けて苛立ちを隠さずにため息を吐く。僕は眉間が熱くなる。拳に力が入る。何なんだよ、一体。


「何なんだよ、君は。なんでそんなにアイのことを毛嫌いするんだよ」


「ジュウシ?」 


「今はどうだっていいだろうッ!」


「僕は彼女に尋ねているんだ!」


「やめてよぉ…」


「なら言わせてもらう」


 サンが僕に向き直って睨みあげてきた。


「あなたの方がどうかしているわ。依存し過ぎよ」


「君は、」爪が手の平に食い込んだ。「君はアイのことを何だと思っているんだ」


「機械」


 その瞬間、僕の思考と体の反射が断裂した。


「ジュウシッ!!」


 ジュウゴの声。とは反対側から肩を掴まれた。


 胸元に衝撃。シュセキの全体重が乗っかってきて僕は壁に押し付けられた。後頭部を壁にぶつける。


「何をしようとした」


 前髪を振り乱したシュセキが前腕で僕の胸元を押さえつけてきた。軽く噎せた。シュセキの目が真っ直ぐに見据えて来る。


「何をしようとした!」

 答えようとして僕は一瞬、戸惑った。汗が目に入る。手が強張る。動機がうるさく響いて自分が信じられなかった。


「……叩きそうだった」


「君らしくない。落ち着け」


 やけに低い声に諭されて僕は息を吐き、小刻みに頷いた。シュセキは僕から手を離すとすぐにサンに振り返った。サンは尻もちをついていた。


「大丈夫?」とジュウゴが駆け寄る。


「接触してなかった? 洗ってきたほうが…」


 ジュウゴがサンを気遣ったが、サンは僕を睨み上げると「必要無い」と言いきった。


「でも、感染が…!」


「多分大丈夫」


「そん…、大丈夫じゃないよ! 万が一のことだって…!」


「ハチぃいぃ」


 ナナの泣き声に僕たちは振り返る。泣き崩れるナナの膝の横のハチの顔が白い。首から下は黒い血で汚れているのに不思議だ。でも尋常じゃないことは確かだ。見るからに顔が、動きが。


「シュセキ、」


 ナナがシュセキを見上げた。


「あなたなら知っている? どうすればいいの? とても苦しそうなの」


 お願い、と言ってナナは泣く。シュセキは唇を閉じたままハチを見つめるだけだった。


 サンが何も言わずにハチのそばに膝をついた。ナナが顔を上げる。「大丈夫」とサンはハチを見下ろしながら言った。震えていた。


 ジュウゴが動いた。ハチを挟んでサンの向かいに膝をつく。


「どうすればいい?」


 ジュウゴがサンに尋ねる。ジュウゴも声が震えていた。引きつけを起こしているかような過呼吸気味の呼吸を一度飲み込み、息を吐いて改めてサンを見つめた。


「僕も手伝う」


「ジュウゴ??」


 僕は駆け寄る。ジュウゴは僕を見ないでサンに向かって引きつった笑顔を向けた。


「大丈夫って言ったじゃないか。なら大丈夫だ。そうだろう?」


 サンはジュウゴを見つめてから、再びハチを見下ろした。立ち膝になり、ハチの上着に手をかけた。


「サン?」


 ジュウゴが上ずった声でサンを覗きこむ。サンは震える指先を止めた。汗が顎を伝って落下する。


「服を脱がせる」


 一同に動揺と混乱が走った。


「こんなところで?」


「なんのために!」


 ジュウイチは訳もなく周囲を見回した。


「か、確認…」


 サンは唾を飲み込むと一気にハチの上着を脱がせた。瞬間、全てが止まった。


 口々に驚愕と恐怖の声を上げ、ハチから後ずさりした。僕は喉元から酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じて、思わず口を覆って目を瞑る。その脇をジュウイチがすり抜けて、蹲ったかと思ったらその場で嘔吐した。


 ナナが恐る恐る這って近づき、ハチではなくサンの顔を覗きこんだ。サンは血液まみれになった両手でハチの上着を握りしめたまま、体中で震えていた。


「ハチ? は……、あ…?」


 ナナがハチの耳元で呼び掛ける。しかし顔を見つめてもその胴体を直視しようとはしない。


「どうすればいい? 次は? 教えてよ、どうすれば…ッ!」


 ジュウゴもハチを見ないで、サンに向かってひたすら尋ね続けた。サンは何も答えない。震える拳から伝う血液で衣服を黒く染めていく。


「サン…」


 ジュウゴの呼びかけにサンは唇を噛み、手にしていたハチの上着をきつく結んだ。ハチの体を無理矢理回して体を締めつける。


 ハチが泣き叫ぶ。シュセキがサンの腕を掴んでハチから引き離す。ナナがハチの耳元で何度も呼びかける。サンはシュセキを振り払ってハチに這い寄ったが、それ以上は僕が許さなかった。


「どいて」


「これ以上ハチに近寄るな」


「まだ何もしていないわ」


「十分しただろう」


「不完全なの! もっとちゃんと押さえないと…」


「いい加減にしてくれ!! 何が直すだ。全く流血も止まっていないじゃないか!」


「だから止めようとしているの。お願いだから邪魔しないでッ!」


「ジュウゴ!?」


 シュセキの声に振り返った。彼の発想と言動はいつも皆の予想の遥か斜め上を飛んで行く。僕は怒りと混乱でジュウゴみたいに頭に手を当てて、頭皮に痛みが走るほど髪の毛を握り締めていた。


「何やっているんだよ! ジュウゴッ!」


「だって……」


 ジュウゴは接触も感染も忘れたのか今のハチの外見も見えていないのか、サンが縛り上げた上着ごとハチを持ち上げて抱え込むようにして密着していた。


「早く置くんだ! 君も感染…」


「だって、アイも『おかしくない』と言っていたし、サンだって…」


 言いかけてサンを見上げ、


「君が『押さえる』って言ったし、こういうことだろう? これでいいと思って」


 どうしてそう思うんだ。僕にはその結論に至った経過がわからない。なのに、


「……うん」


「はあッ!?」


 サンが頷いて僕の反感が再燃した。


「なんでそうなるんだよ! これじゃあジュウゴだって感染してしまうし、こんなんでハチの損傷が直るはずないだろう? アイはこんなことしなかった。僕たちが唇を切ったり、小指をぶつけたりして変色しても、アイがしていたのはまず消毒や冷却だったじゃないか」


「消毒液がないじゃない」


「だったら洗い流せばいい。そうだ水!」


 言って僕は食堂車に行こうと思った。しかし、


「先よりもハチの顔色がいい」


 シュセキが言った。僕は踏み出しかけた足を止める。


「君まで何を言っているんだよ!」


「実際にそうなのだ」


 シュセキに促されて僕は恐る恐るハチを見た。首から下は見ないように、彼女の顔だけを確認しようとした。けれども僕には相変わらず苦しそうに短い呼吸を繰り返しているハチしか見えなかった。


「本当だ。ハチ、少し良くなった?」


 ナナまでそんなことを言い出す。


「何言っているんだよ、みんな…」


「き、教室見てくるッ!」


 突然ジュウイチが叫んで駆け出した。僕を含め他の皆も失念していた。もしかしたら教室にいた他の面々もハチみたいに損壊して、ハチみたいに苦しんでいるかもしれない。 


「僕も…」


 ここにいてサンとまた言い争いになるよりはと、僕も教室を見てこようと言おうとした。


 だが僕たちの足は車両を出る前に止まった。


 皆が同じ方向を見て止まっていた。ハチではない。破れた壁、曲がった窓枠、その穿たれた空間から夜汽車の中に夜汽車以外の何者かがぞろぞろと。


「電気点いてる」


「火加減ばっちりっすね」


 男の声だった。重たそうな保護眼鏡と薄汚れた外套の襟で顔はほとんど覆われている。がちゃん、がちゃんと歩く度に金具の音を響かせる長靴と分厚そうな手袋で、避けた壁や硝子片をものともせずに夜汽車の廊下に踏み込んでくる。



『ムカエニイク』



 まさか。

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