15-39 げんきで
「ワンが私のところに飛んできたの」
ジュウゴの右手に添え木を巻きつけながらサンはぽつぽつと話し始めた。サンの隣には五本目の脚を左右に振り回すワン。砂が飛び散り地面がわずかにすり減り始めている。ワンは口からよだれを滴らせ、舌をだらりと口の端から垂らしながらサンを嬉しそうに見上げている。サンを挟んで反対側に座るジュウゴも、ワンに負けず劣らず穴が空きそうなほどサンを凝視している。
「…だって暗闇の中から突然、黒い体で飛びかかってくるんだもの。チャコもアナも驚いて慌ててしまって。でもワンが私の頬を舐め回しているだけなのを見てチャコたちもワンに敵意がないと気付いてくれたて」
そこまで話してサンは手と口を止め、ジュウゴの顔を見た。
「大丈夫?」
ジュウゴはまだサンを見続けている。眼球が下瞼からこぼれ落ちやしないかとサンは心配になる。
「ジュウゴ?」
呼びかけながら覗き込む。目が合っているはずなのにやっぱり動きが無い。
「ジュウゴ!」
目の前で怒鳴られてジュウゴはようやく我に返った。いまだかつてないほど至近距離のサンの顔に驚いて悲鳴をあげ、その拍子に右手を地面につき、痺れる痛さにさらに短く声をあげて悶絶する。
サンは傍らのワンに振り返り、まるで何か言葉を交わしたかのように頷いてから笑い出した。
「なんで笑うの?」
ジュウゴは本気でサンの笑顔の理由がわからない。
「なんでって…」
サンは笑いをこらえながらジュウゴの顔を見た。「安心して」
「『あんしん』ってどういう意味?」
真剣に尋ねてくるジュウゴが、あまりによく知っている教室のジュウゴのままで、サンは笑顔のまま目を細めた。
「あなたに会えて嬉しくてほっとしたということよ」
ジュウゴは少し考えてから、「安堵したということ?」
「そんな感じ」
言ってサンはまた笑った。
ジュウゴはナナみたいによく笑うサンを見つめていた。まだ目の前の光景が信じられずにいた。絶対生きているとトカゲには言われた。本当にそうだった。でも想像していたのと全然違った。ナナがあんなになっていたからサンに会えたとしても覚悟しなければと覚悟していたのに、覚悟していた分、ころころ笑うサンに戸惑わずにはいられない。
「私も聞いていい?」
笑みを控えて真面目な顔になったサンに、ジュウゴは緊張する。
「…どうしたの? その顔」
聞きにくそうに視線を逸らしてサンは言った。顔? 変な顔していたかな、とジュウゴは慌て、左手が側頭部に伸びた時に質問の意図を理解した。
「あ、これ? この目? これはその、持っていかれて…」
不安そうな目に言葉を詰まらせ、ジュウゴは頭をかく。
「これと同じ理由だよ」
右腕を持ち上げて見せた。途端に痛みが走って顔を歪める。サンが悲しそうな顔をする。ジュウゴは焦る。
「いや! でもそ、ほら…、今はもうそんなに痛くないしそれに義眼も付けてもらったんだ。クサガメが拾った暗視鏡をイシガメが改良してくれてヤマカガシが『しじつ』してくれて。太陽は眩しいけど動くものは右目よりもよく見えてものすごく使えたよ」
そう、めちゃくちゃ使えた。この義眼のお陰で先の襲撃も対処できたのだ。めちゃくちゃ使えるよ、ヤマカガシ。
「だから大事で大丈夫なんだ。僕の新しいみんなの目だ」
「みんなって?」
「仲間」
微塵の迷いもなく言い切ったジュウゴをサンはじっと見つめ、目尻を下げて頬を持ち上げた。
「あなたも新しい仲間が出来たのね」
「君も?」
言ってジュウゴは振り返る。先まで自分と狩り合いをしていた女たちが、距離を置いてこちらをじっと監視している。
「ネコって言うの」
サンが言った。「私の両親の古い知り合いがその長で、私はわからなかったけれども姐さんは私を覚えていてくれて、あなたたちとはぐれた後で拾われたの」
一息で答えてくれたサンの簡潔な説明をジュウゴは全く理解出来ず、鼻の奥で唸った後で、「…仲間なんだね?」とだけ告げた。サンは力強く頷いた。
「ヤチネズミは?」
思い出したようにジュウゴは尋ねた。サンは顎を引いて固まる。サンの異変には気付かずにジュウゴは自分の気になっていたことを矢継ぎ早に質問する。
「君があの集団に持っていかれて、ヤチネズミはその場で君を追いかけたんだ。僕たちもすぐに後を追ったけれども吹雪に遭ってしまって動けなくなってそれで…」
「ネズミは二種類いるんだと思う」
サンが言った。
「二種類?」とジュウゴ。サンは頷く。
「ネコたちはネズミは駆除すべきだと言うし実際にそうしている。姐さんたちの話が本当なら、ネズミのしていることは許されないことよ。黙っていてはこちらがやられてしまうし対抗しなければいけないとも思う」
「『くじょ』って狩るってこと?」
ジュウゴにとっては同じ意味だった。実際には少し違う。だが仲間を待たせているサンは説明を省いて先を急ぐ。
「私を、持ち去ろうとした集団はそういうネズミ、私たちを物としか思っていない非情な奴ら。でも、彼は違った」
サンはどこかを見つめながら「違ったと思う」
「ハツは優しかった」ジュウゴも言う。「ハツもヤチネズミも僕たちのことをとても大切にしてくれた。非情なはずないよ。むしろ情の塊だったじゃないか。もしもハツたちが夜汽車に穴を開けなければ、もしもあのまま夜汽車に乗り続けていたら、僕たちはチュウヒに飲まれていたはずなんだ。教室の皆がそうなってしまったみたいに」
ジュウゴの言葉にサンは振り返った。
あれほど口で説明しても聞く耳をもってくれなかった事実を完全に理解している。ジュウゴもここに来るまでに様々なことを見てきたのだろう。今の彼になら伝わるだろうか。サンは唇を結び、顔を突き出す。
「ジュウゴあのね、私、地下だった」
ジュウゴは振り返る。サンは俯き視線を泳がせる。
「ジュウシの言った通り、私、夜汽車を飲んでいた。あなたたちを脅かす側で、だからヤチネズミも…」
「僕もそうだよ」
予想外の反応にサンは戸惑う。
「あなたも?」
「みんなそうだよ。だって飲んでいたじゃないか、缶詰。あれだって別の夜汽車の誰かだった」
そういうことか、とサンは納得する。
「知らなかったけど飲んできた、ずっと。知った後も飲んできた、お腹空く度に。そのためにたくさん」
ワンが口を閉じる。ずっと耳に付いていた荒い呼吸の音が途切れる。
「コウも飲んだ」
「え!?」
サンは驚き言葉を失う。だからワンしかいなかったの? ワンに振り返り、それからゆっくりと首を戻す。いつの間にかジュウゴはこちらを向いていてびくりとした。しかしジュウゴが見つめていたのは自分ではなくワンだった。ワンもジュウゴを睨み上げていた。彼らは一体、どんな日々を過ごしてきたのだろう。聞きたいことは溢れて来るが疑問よりも、見知った顔を飲み物として扱うことができたという男に対する恐怖に背筋が寒くなった。
「だから、」
ジュウゴが再び話し始めた。サンはびくりとする。サンの思いに気付いたか否か、判然としない顔でジュウゴはサンを見つめた。
「だから関係ないよ。地下とか夜汽車とか」
サンは顔を上げる。
「みんな同じだ。だって何も違わなかった。ジュウシはすごく気にしていたけれども、もしも今ここにいたら多分、きっともうそうは言わなかったと思う」
誰に対しての同意なのか、ジュウゴは頷いて見せる。
「だからさ、」顔をあげ、まっすぐにサンを見つめて「君は夜汽車だよ」
―彼女は夜汽車だ―
「君がどこから来たのか、そもそもが誰だったのかは関係ないって、君が僕たちと同じ夜汽車に乗って一緒に同じ時間を過ごしたことこそが君が夜汽車だっていう証拠だってシュセキが言っていた」
シュセキ。
「だから君は夜汽車だよ。僕たち同じ夜汽車だ」
あの頃とは違う、日に焼けた黒い肌の中で白い歯を見せて、ジュウゴが笑った。あの夜の、最後尾の車両に一緒に向かった時と同じ笑顔だった。
「…うん」
頷いたまま俯いた。こんな笑顔を恐ろしいと思ってしまった自分が恥ずかしくなる。何か事情があったのだろう、だってジュウゴだ。このジュウゴが理由もなく共食いなどするはずがない。だがもう一つ、疑念が残る。
「……シュセキは?」
「大丈夫だよ、多分」
ジュウゴが言った。再び予想外の答えにサンは顔を上げる。
「どういうこと?」
ジュウゴは言いにくそうに視線を逸らす。
「ジュウゴ?」
「君を追いかけるためにコウとワンと四輪駆動車に乗り込んだんだ。急いでいた。『おにいちゃん』も追いかけてくるし、君たちの姿はどんどん遠ざかるし。もちろん彼にも声をかけた。サンが持っていかれたって、急いでくれって。でも、彼は、シュセキは、……わかってくれなかった」
サンは当時を思い出す。脚を失い、熱にうなされ、記憶と言動がおかしくなっていたシュセキ。
「一緒に行こうとしたよ。でも」
ジュウゴは額を手の平で覆い、頭皮に爪を立てる。
「君が先だった」
「置いて来たの?」
私のために。
「ごめんなさい」
「大丈夫だよ!」
明け方の空に叱りつけるような怒鳴り声が響いた。右腕を痛いほど掴まれる。女たちが一斉に振り向き、サンも顔を上げる。髪を振り乱したジュウゴが肩で息を整えながらサンを見つめていた。
「大丈夫だよ、絶対! シュセキは絶対大丈夫だ。だって君が大丈夫だった。だったらシュセキだってきっとそうだよ、多分。そうだろう?」
根拠も裏付けも自信さえ欠如した押し付けを捲し立ててジュウゴは唾を飛ばした。サンは応えられない。到底採用できる論拠ではない。
「だったら賭けよう! 瓶詰三日分! 僕が勝ったら君は三日間絶食で僕が負けたら謝るよ」
随分自分に甘い賭けだ。そもそも、
「賭けるって、何に?」
「わかんないけど!」
「何それ…」
「だってナナは生きていた」
サンは息を止めてジュウゴを見つめた。その拍子に辛うじて止まっていた涙が一粒、こぼれ落ちる。
「うそ…」
「本当」
「ナナが?」
「うん!」
ジュウゴは力強く頷いた。「いつもの顔で笑っていた。チュウヒたちもいる。お願いもしてきたし彼女も、うん! 大丈夫」
サンは口元を押さえた。見開かれた黒目の輪郭がゆらりと揺れた。ジュウゴは三度頷く。
「だからシュセキもいるよ、きっとあそこに。あそこにはジュウシがいるし。彼がジュウシと離れて単独行動するわけないじゃないか!」
ジュウシは『いる』とは言わない。
「ジュウイチにはまだ会っていないけれども、きっと大丈夫だよ。大丈夫だって。だって要領いいしずる賢いし嫌な奴だし僕、嫌いだし、なんかそんな気がする」
ひどい説明だった。戯言だ。寝言未満の願望ですらなかった。それでもジュウゴの必死な形相と痛いほどの握力が、サンにわずかな希望を持たせたのも事実だった。
「だから探そう! 絶対にみんな大丈夫だから」
希望に満ちた縋るような視線が刺さり、サンは口を噤む。ジュウゴが覗きこんでくる。
「私も、」
サンは肩を上下させて鼻を啜り、
「あなたに会えて良かった。嬉しかった」
ジュウゴが頷く。
「夜汽車だって、仲間だって、言ってくれてありがとう」
「それはシュセキの言葉だ」
サンは唇を噛む。俯き、ジュウゴの視線から逃れる。
「でも私は、今はネコなの」
奇妙な表情でジュウゴが固まる。
「姐さんも、チャコも、ツキノもアナもみんな、みんな大切」
「う、うん…」
「目が覚めて誰も居なかったらと思うと、いつも眠るのが怖くなる」
ジュウゴの顔が曇る。
「私、彼女たちのそばにいたい」
唾を飲み込む音。
「一緒に行けない」
ジュウゴの手が腕から離れた。サンは顔を見られない。どんな思いでどれほどの犠牲を払って自分を探してくたかと思うと罪悪感に押しつぶされそうになる。
「ごめんなさい」
「なんで?」
「そんなになって探してくれたのに、まだ探すってあなたは言うのに…」
「いいよ、いいんだよ、十分だ」
「私はあなたになんにも…」
「なに言ってるんだよ。生きていてくれたじゃないか」
驚いて顔を上げると、さらに驚いて息を忘れた。絶対怒っていると思った。さもなければ嘆いていると。だが想像の遥か上を越えてジュウゴは笑っていた。
「ジュウ…」
「ウミ」
呼ばれてふり返るとジャコウネコだった。いまだにジュウゴとワンを警戒しながらサンを見下ろす。
「そろそろ行くけど。あんたは?」
「行くに決まってる」
身を乗り出して即答する。今、ヤマネコの傍を離れるわけにはいかない。
「じゃあもう時間。急ぎな」
「もう少しだけ。お願い」
ジャコウネコはジュウゴを睨みつけ、「あと二分」とだけ告げて外してくれた。
「『海』って言った?」
ジュウゴが尋ねる。サンは頷く。
「私の名前。ウミネコって言うの」
「君もあれを見たの?」
ジュウゴが興奮して腰を上げる。圧倒されてサンは見上げる。
「…あれって?」
「海だよ! あの巨大な貯水槽。全部塩水で損傷個所にひどく沁みるんだ。凄い勢いで走ってきたり何の音かわからないけどずっとうるさかったり、地平線みたいになっていて空とくっついていて光っていてすごいんだ本当に!」
サンはジュウゴを黙って見つめた。その興奮ぶりからよほど感動したのだろうと思う。
「誰からもらったの?」
「え?」
「ん?」と首を傾げたジュウゴにサンの口が勝手に答える。
「姐さんの話だと、お父さんと、お…」
「『おとうさん』ってあの夢の中の?」
覚えてくれていたの?
「そんな名前をくれるなんて『おとうさん』も君のことが大切なんだね。よかったね」
そう言ってジュウゴは笑った。まるで自分のことのように、心底嬉しそうに。
「うん」
サンは俯いた。嬉しくて、ありがたくて、申し訳なくて、悲しくて、嬉しくて。
「ジュウゴ、」
「なに?」
「ありがとう」
「なんで?」
サンは説明しようと顔を上げる。しかし目が合ったジュウゴの顔があまりに間の抜けた顔で、その間抜けな顔のまま、髪の毛をぐしゃぐしゃにかき乱したりしているからサンは何も言えなくて、
「なんで笑うの?」
サンは手で顔を覆って肩を揺らした。
いつの間にか姿を消した月に代わって、空が色づき始めていた。もうすぐ太陽がやって来る。
「何て言うのかな」
ジュウゴは尋ねた。
「『おやすみ』じゃないよね。眠るわけではないし。でも、」
それ以外の挨拶をジュウゴは知らない。
「『元気で』」
サンが呟く。
「どういう意味?」
ジュウゴが顔を上げる。
「泣きたい時に泣いて怒りたい時に怒って目一杯笑うこと」
「君のことか」
サンはきょとんとしてジュウゴの横顔を見つめた。ジュウゴもサンを見て眉根を寄せる。
「気付いてないの? 君、めちゃくちゃそれだよ。しょっちゅう怒るし怒鳴るし泣くし、夜汽車を降りてからなんて輪をかけてすさまじい『げんきで』だ」
「ひどい…」
「ほら」
口を噤む。そのサンを見てジュウゴは白い歯を見せた。サンもつられて笑ってしまう。
「それじゃあ、『げんきで』だね」
「あなたも」
言ってサンは踏み出した。
サンは仲間の下に向かって歩み去っていく。大女が巨体を揺すってサンに駆け寄り、目付きの悪い女はジュウゴを睨みつけていた。仲間たちに受け入れられ、囲まれ、サンの姿は埋没する。
「げんきで」
ジュウゴはもう一度呟いた。サンの姿はジュウゴにはもう見えない。けれどもあちらからは自分の姿は見えるだろう。ジュウゴは左手を頭の上に持ち上げた。ヤモリの真似だ。遠くからでも見えるように、自分の存在を強調するように、肩から上を上体が揺れるほどワンの脚のように振り回して大声を張り上げて教わったばかりの挨拶を連呼した。白い息を吐きながら、何度も何度も同じ言葉をサンに送った。いくつかの顔がこちらを見たが、そのどれかがサンだったか否かは判別がつかなかった。やがて女たちの背中は稜線を越え、動く物は自分たち以外になくなる。
ジュウゴは腕を下ろした。しばしその場で茫然と立ち尽くし、浅い呼吸を呑みこんで踵を返す。途端に突き刺さる眩しさに左半面を手で覆った。朝の光だ。早く日陰を探さねば、頭でそう理解しつつもジュウゴの足は動かなかった。すごかった。眩しさに右目を細める。照らされる皮膚は徐々にちりちりと痛みだすのに、もっと見ていたいと思った。
サンも見ればいいと思う。彼女も足を止めて振り返って、この空を見ていてほしいとジュウゴは思った。衝動のままに振り返ろうとしたジュウゴはしかし、すんでのところでそれを抑え止めた。
「ワン、」
サンの去って行った地平線を見つめていたワンが振り返った。
「行こうか」
ジュウゴは右足を踏み出した。小鼻を引くつかせて目を細めていたワンは、もう一度だけサンの姿を探した後で体を回し、ジュウゴを追いかけ、追い越し、その前を歩き始めた。




