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15-34 告白

 炎が爆ぜた。


「…ワン?」


「起きたか」


「……トカゲ?」


 トカゲは返事をしなかった。暗いな、とジュウゴは思う。瞬きをし、不明瞭な視界と思考の靄をはらう。天井が見えた。炎に揺らめく影はあるのにトカゲの姿は見えない。右手を見た。壁だ。黒目を正面に戻してから左手を見る。角度が足りない。


「動くな。義眼が定着してない」


 トカゲの言葉の意味をジュウゴは考えた。毛布から手を伸ばし、顔面上部を探る。包帯。


「触るな。黙ってても痛み出す」


「…僕の目は?」


「持ってかれた」


「目だけ?」


「他はあるだろう」


「イシガメは?」


「間もなく気がついた。相変わらずやかましい」


 ジュウゴのいる地下の上、月の下で叫んでいる。頭に巻いた包帯の、その下の傷口のことなど微塵も考えずに、地面を叩きながら泣き叫んでいる。クサガメも鼻水と涎を涙に混ぜて垂れ流し、兄の後ろで子どもみたいに号泣している。カメたちは皆、同じ顔で肩を震わせ、声も抑えず、失った者の大きさに打ちひしがれている。

 シマヘビはジュウゴを行かせた自分を責め、しかしジュウゴがいなければイシガメもトカゲも死んでいたと聞かされてその怒りを持て余し、途方に暮れてむせび泣く。まっ赤な目をしたヤマカガシだけが、無意味に涙を堪えて怒ったように唇を噛み締める。


「リクガメは?」


 ジュウゴは右目の瞼も瞑って返答を待った。トカゲはしばらく沈黙し、そして小さく息を吸った。


「うちは十七で奴らは二だ」


 ジュウゴはトカゲの顔を探す。


「アオダイショウと、リクガメ」


 ジュウゴは首の動きを止めて口を閉じた。

 リュウキュウヤマガメは深めの側臥位で固定されたまま動けない。妻に顔を拭われながら「今日の飲み会どうすんだよ」と歯ぎしりの中で呟いた。


 シュウダも悼んだ。最も頼りにしていた器用な男の頭脳と戦力と、そして男自身の死が口惜しくてかなわなかった。


 だが最も重症なのはスッポンだったかもしれない。泣き続ける赤子を抱いたまま授乳もせず、乾ききった目は中空を見つめたまま、涙さえ流さずに時間が止まっていた。



「奴らには十七など吐いて捨てる数なのかもしれない。だがこちらの二は痛恨だ」


「数だけなのか?」


 ジュウゴの呟きにトカゲは一度唇を閉じた。


「……こちらにとっての二は奴らにとっての十七よりも…」


「そういう問題じゃないだろう!」


 怒鳴り声を上げると首筋が痛んだ。ジュウゴは小刻みに息を吐く。トカゲは黙って俯き、右の二の腕に左手を置いた。腕の切り口を擦る。


「取り返しに行こう」ジュウゴは言った。


「無駄だ」トカゲに切り捨てられる。


「わからないじゃないか!」天井に向かって唾を飛ばす。


「考えればわかるだろう」


―常識的に考えて―


 ジュウゴは歯を食いしばった。首の付け根が軋んだ。右腕を持ち上げ、額の上にそれを置く。


「……木が、いたんだ」


 トカゲが顔を上げた。


「地面に立っていた。瓦礫と砂丘の間。車窓から見たんだ。だからそう伝えた。でも誰も信じてくれなかった。『常識的に考えろ』って。『あり得ない』って」


 ジュウゴは短いため息を吐いた。


「でもサンは信じてくれた。サンだけ。僕が見たんだからきっとあったんだって。嬉しくて、すごく、う…」


―彼から離れて―


 自分を助けるためにネズミに持って行かれた。


「ジュウシ…」


 どうすればいい? どうすれば良かった? 


「気がついたら死んでた」


―彼が何をした―


「何もしてない。何もしてないのになんでジュウシが!」


「少し寝ろ」


 トカゲがぽつりと言う。だがその気遣いはジュウゴには届かない。


「シュセキに! シュセキ…」


―自分で考えろ―


 考えた結果がこれだ。優先順位とジュウイチも言っていた。だから目の前のことから取りかかった。でも何もかも上手くいかなかった。


「アイが言うんだ。僕が見たからと言って見たものが本当にあったとは言えないって。僕が見たという事実があるだけで現実とは言えないって」


―脳は希望を採択したがるものです―


「わかっているよ。見えていても信じちゃいけないなら、見えていなくても信じなければならないんだろう? わかっているって。……死んだんだろう?」


 ジュウシみたいに。


「死んでしまったんだろう? 壊されたんだろう? みんな。ジュウイチもナナもサンもシュセキもみんな、みんな死んだんだろうッ!?」


 壁際の炎が揺れた。


「でも、だからって僕がやめたら、諦めたら、探さなかったら、待ってたら誰も来ないってなって、だってそんなの辛すぎるし、僕が探してるって、たって、その事実だけでも伝えられたら、もしかしたら生きてた時にそれだけでも、って思ってでも…」


 言い訳だ。既成事実を作るための逃げの口実を無我夢中で闇雲に積み立てていただけだ。


―お前、口で言う割に何もやってないよな―


「そうだよ。わかってるよ。わかって…。あんな……」


 ジュウゴは目元を覆ったまま鼻で笑った。


「いるわけがない」


 ジュウシはもういない。


「ずっとずっと前のことだ。何度月が満ちた? 何周前だよ。こんなに寒いなんてあり得ないだろう? 太陽は暑いし。何十度差があるんだよ! 暴力的すぎだろう! こんなところ! こんな…」


―僕も降りてみたい!―


 浅はかだった過去の自分に腹が立つ。


「…腹の中だ、誰かの。すでに、きっと、だって、」


 コウ。


「君の言うとおりだよ」


 唾を飲み込み鼻水を啜る。


「飲んだ」


 ジュウゴは声を押し堪えた。呼吸も最小限に、何も漏らさないように。腕の下で左瞼を覆う包帯に、力みすぎて赤い沁みが広がっていく。

 トカゲはジュウゴの独白を聞いていた。左手で右腕の切れ口を握りしめながら、眉間に縦皺を刻みながら、ジュウゴの怒気を隠さない息遣いの中で身動ぎもせずに、じっと黙って聞いていた。

 ジュウゴが言葉を句切る。しばしの沈黙。トカゲは息を吐き、口を開いた。


「リクガメはあの時、自分から鎖を掴みに行った」 


 ジュウゴは右目の瞼を持ち上げる。



「原付も迫ってた。死にぞこないのカエルと対峙すれば囲まれることは明白だった」


 ジュウゴが持ち上げた鎖を引かれ、それをリクガメの引き返した時の。


「奴らの戦法だ。大勢で囲んで確実に仕留める。カメもヘビも一対一を得意とするが、奴らは数に物を言わせて集団で来る」


 いくつかの場面で思い当たる節がある。


「撤退すべきだった。あのまま改札に戻っていればリクガメが死ぬことはなかった」


「…僕が、死ぬべきだった……?」


 ジュウゴの質問にトカゲは答えない。その無言こそが答えだとジュウゴは受け取る。しかし、


「リクガメは、お前を生かすことを選んだ」


 ジュウゴは腕をずらして首を回す。


「リクガメがお前を選んだ」


 リクガメが。


「リクガメの意思だった」


―いいね―


 リクガメ。


 九割以上の記憶は意地悪をされたことなのに、思い出されるのは清々しいほどの白い歯を覗かせた笑顔ばかりだ。


「リクガメと、お前が飲んできたコウという奴に感謝する」


 トカゲが何を言っているのかわからなくて、ジュウゴは完全に首を左に回した。


「どういう意味?」


「ヤモリが喜ぶから」


「何を?」


「お前の肩車が好きだから」


 ジュウゴは眉根を潜める。本気で何を言いたいのか皆目見当さえ付かない。

 ジュウゴの視線から隠れるように、トカゲは蹲るほどに俯いた。そして、


「お前が死ななくて良かった」


 炎が爆ぜる音よりも小さく呟いた。

 ジュウゴは首を戻して天井を見上げた。瞬きを我慢すると頭の芯が熱くて痛い。左目のあったところがトカゲの忠告通りに勝手にぐすぐす疼きだして、ジュウゴは両手で顔を覆った。


「死ねって言ったくせに」


「うん」


「何度も何度も」


「うん」


「なんでそんな…」


「リクガメに任された」


「律儀にも程がある。病的だ。おかしいよ」


「ごめん」


「何が!」


 鼻声で訳もなく怒鳴り散らす。だがトカゲは全く動じずに続ける。


「お前の探してる女は生きてる」


 ジュウゴは目を見開く。あれほど聞き出そうと執着していた言葉なのに、頭がついてこなかった。代わりに体を動かす。止めようとするトカゲを無視して、痛む背筋と頭と体中のあちこちを黙らせて上半身を起こし、ぐずぐずの顔のままトカゲに向き合う。


「なんて?」


「お前の探してる女は絶対、生きてる」


「…なんで?」


「ネズミは女を殺さない」


「なんのために?」


「女は希少だから搾るよりも生かして活用する。カエルも同じ」


「活用って?」 


「子を生ませる」


 ジュウゴは少し考え、昨日も同じ事を聞いたことを思い出す。


「増やすの?」


 トカゲは顔を背ける。


「苦しいの?」


 そう言っていた。

 トカゲは答えなかった。ただ淡々とシュセキのように、滔々とジュウシのように、濁った目で何かを見つめて続ける。


「狂っているかもしれない。何度も自殺しようとする奴もいる。逃げようとして手足を切断されたり五感のどこかを奪われたりしてまともに考えることが出来なくなる奴も。扱われ方はその時々による。塔に送られた後はわからない、俺は駅だったから。でも、絶対に死なせてもらえない。だから生きてる」


 トカゲの右腕の、左手が握りしめて食い込んだ袖の皺をジュウゴは見つめた。


「きっと嬉しいと思う」


 トカゲが言った。ジュウゴは顔を上げる。


「誰も探してるなんて思わないから。捨てられたと思ってたから」


 トカゲの頭頂部を見つめる。


「見つけてあげて」


「トカゲ、」


 ジュウゴはトカゲを呼んだ。女の狭い肩としわしわの袖を見下ろす。唇を閉じたままトカゲはゆっくりと顔を上げた。触りたくなった。でも触るなと言われるから、


「ありがとう」


 腹の底の、体の奥から沸き上がって来た思いを伝えるに留めた。

 感謝されてもトカゲは困るだろう。そんな言葉一つで癒される傷ではない。ジュウゴが言いたかっただけだ。相手のためのものではない。


「ごめん」


 目を逸らして欲求の暴走を謝罪する。それでも、


「ありがとう」


 気持ちが、衝動が、止まらない。

 何度も感謝の言葉を繰り返すうちに涙が出てきた。何の涙なのかどの感情なのか、ジュウゴの頭では処理も理解も追いつかない。無様に泣きながら包帯もろとも頭を掻きむしり、痛くて両手で抱え込み、鼻水を啜りあげながらしゃくりあげて、嗚咽と涎を垂れ流す。


 不意にトカゲが立ち上がった。左腕をジュウゴの頭に絡める。トカゲの胸に押し付けられてジュウゴは言葉を出せない。つむじが熱を帯び、やがて体中に伝播する。

 こんな接触知らない。イシガメのとも違う。アイの抱擁とは全くの別物だ。アイよりももっと熱くて、厚くて、臭いもあってでも嫌じゃなくて、恥ずかしくて、温かくて。


―夢と希望が詰まってるんだよ―


 夢も希望も少ないくせに。


―俺の胸には現実と絶望だ―


 この胸にもそれしか入っていないのだろう。それなのに、


「なんで…」


 しゃくりあげて止まらない。


「なんでそんなに優しいんだよぉ…」


 ジュウゴはトカゲの体に腕を回した。トカゲの上着を握りしめ、顔を埋め、大声をあげて泣いた。

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