15-32 仲間
イシガメとクサガメが頭が痛いとか吐き気がするとかで寝床から出てこなくて、ヤマカガシはあれから一度も姿を見ない。リクガメは『かいぎ』というものらしくて会えないし、寝起きからジュウゴは行き場をなくした。
行かねばならない場所はある。やるべきことも。全く気乗りしないがそういう問題ではないだろう、と自分を叱咤し、ジュウゴはトカゲを探した。
きっと子どもたちのところだろうと思う。今はいなくてもヤモリと遊んでいれば遅からず現れるはずだ。
しかしその予想は大きく外れた。いつもの場所に子どもたちはいなかった。
それどころではない。地下全体が静かだった。昨日の騒ぎが嘘だったかのように誰もいないし物音一つしない。ジュウゴは頭を掻きながら異様な雰囲気の原因を知るために、それまでは行ったことのない通路を進んだ。その選択は正解だったようで、スジオナメラに会えた。
「何かあったのか? とても静かだし誰もいないんだ」
ジュウゴが訪ねるとスジオナメラはシマヘビのような顔をして言った。
「宴の後は大体こうなん。父ちゃんは起きてったけど他の奴らは明日まで起きんよ」
「君は何をしているんだ?」
「母ちゃんがつわり酷いんよ。俺、長男やししっかりせんなんしょ」
ジュウゴは首を傾げながら「手伝った方がいいか?」と尋ねたが、
「俺の母ちゃんなんまら怖いからやめとかれ」と言われた。
スジオナメラにトカゲの部屋を教えてもらった。
扉を叩いて声を掛けるが返事はない。皆寝ていると言っていたし、とジュウゴが立ち去りかけた時、扉が中から開かれてヤモリとワンが顔を出した。
「君、こんなところにいたのか」
驚くジュウゴを無視してワンはヤモリを目で追う。当たり前のようにヤモリは肩車をせがみ、ジュウゴも慣れた動きでヤモリを肩に乗せた。
「トカゲはいる?」
肩の上のヤモリに尋ねると、ヤモリは唇の前で指を立てた。静かにしたほうがいいらしい。
「みんな寝ているとスジオが言っていたけど、トカゲもなのか?」
ヤモリが頷く。ジュウゴは頷き返し、今日も質問は無理かな、と諦めかけた時、トカゲも顔を出した。確かに眠そうな顔だ。
「…何しに来た」
「……寝ていいよ」
「あ?」
「いや、だから…」
ジュウゴは頭を掻く。こんな寝ぼけ眼ではまともな質疑応答は期待出来ないだろう。
「寝ればいいんじゃないのか?」
「シマと交代…」
昨日もそんなことを言っていた。
「僕が代わりにいってくるよ」
気遣いのつもりで提案したのに、トカゲからはいつもの刺々しさを向けられた。
「馬鹿か、お前は」
「あのさ、いつも思うんだけど『ばか』ってどういう意味?」
ジュウゴの質問は無視され、トカゲはヤモリを見上げる。
「行くか? そこの方がいいか?」
「『そこ』って僕の肩のこと? 僕は場所か何かなのか?」
「ヒメのところ…、ああ、駄目か」
「また無視? 僕、決闘に勝ったよね?」
「ワン、ヤモリとそいつを頼む」
そう言うと眠そうなトカゲは部屋の中に戻ろうとした。ふらついている。揺れているからか? 倒れそうだ。倒れるって。
「大丈夫?」
ジュウゴはトカゲの左腕を掴んでいた。
「さわるな…」
いつもの言葉をいつもよりも緩慢な動きで繰り出したトカゲだったが、次の瞬間、その体をジュウゴに支えられることになった。気のせいかと思っていた微妙な揺れは突然、爆音を伴った振動になって地下全体を揺らした。天井から砂埃が降ってくる。ジュウゴは慌ててヤモリを肩から下ろし、トカゲとワンもろとも胸の中に抱きかかえるようにしてその場に屈み込んだ。完全に目を覚ましたトカゲがジュウゴの腕を振り払おうともがく。もがくトカゲをジュウゴが腕力で押さえ込む。
「はなせ…」
「地震の時は屈んで頭を守る! アイが言ってた! 何度も訓練も実践もした! 常識だろう!?」
ジュウゴの必死の見幕にトカゲは言葉を失う。声もなく泣きじゃくるヤモリの頬をワンが舌で撫でている。そのワンが鼻をひくつかせて通路の先を見つめた。ジュウゴもその先に目を凝らす。聞き覚えのある水の音。
「うみ!!」
揺れの中でジュウゴは立ち上がった。よろめきながら壁に手をつく。
「違う、カエルだ」
同じく壁に手をつきながら立ち上がったトカゲが言った。
「何だって?」
「ヤモリ!」
言うとトカゲはヤモリの手を引いた。しかし小さなヤモリの体は揺れの中で上手く立ち上がれない。ジュウゴはヤモリを両手で持ち上げ、自分の腕と頭でその頭を守るようにして抱えた。
「どこに行くの?」
トカゲが驚いた顔でジュウゴを見つめる。
「トカゲ!」
ジュウゴに怒鳴られようやく我に返ったトカゲは「こっち」と言って駆けだした。
ジュウゴとワンもそれに続いた。
しばらく行くと広間は騒然としていた。男も女もせわしなく走り回っている。先までの静寂が夢のようだ。トカゲに導かれてその中をかいくぐり、進んでいくとイシガメの怒鳴り声が聞こえてきた。皆、いる。リクガメが頭から流血している。
「イシガメ!」
ジュウゴはヤモリを抱えたままイシガメに駆け寄った。トカゲとワンが続く。イシガメは振り返り、不思議な組み合わせに一瞬眉根を顰めたが、すぐにジュウゴたちの全身に目をやるとほっと息を吐いた。
「お前らは無事だな」
「これは何? リクガメの損傷は? 海がまた走ってきて…」
「準備しろ、トカゲ。ヤモリとジュウゴはシマに任せろ」
ジュウゴの混乱に付き合わずに早口でまくし立てたイシガメは、走り出そうとして立ち止まり、トカゲに振り返った。
「お前、さらしは?」
トカゲが胸元を押さえる。「時間がなかった」
「ばっか…」怒鳴りかけたイシガメが目を逸らし、
「いい、そのまま行くぞ」と吐き捨てる。
「単独行動すんなよ。絶対ばれんな」
「わかってる」
トカゲは胸元を押さえたまま俯きがちにイシガメに続く。しかし、
「リクガメは?」
リクガメの傍で立ち止まった。
「俺は大丈夫だから。トカゲちゃん、イシの指示に従って」
トカゲが一瞬、不安の色を見せた。
見ると足元にはうつ伏せで眠っている男がいる。その男の背中を見てジュウゴは驚愕する。
「彼は? その背中…」
「ヤマ君、こっち!」
「トカゲッ!」
イシガメに怒鳴られたトカゲが走りかけ、数歩行ったところでジュウゴに振り返った。真っ直ぐに駆け寄って来るとジュウゴの腕の中のヤモリの頭に左手を置く。
「大丈夫だ。すぐ戻る」
ジュウゴは目を見張る。初めて見たトカゲの微笑みだった。驚くジュウゴはトカゲと目が合う。何を言うべきか迷ったジュウゴに何も言わずに、トカゲはイシガメ達と共に走り去った。ヤモリが手を伸ばす。ジュウゴは落とさないように体勢を整える。
「ヤマ君ッ!」
足元のリクガメが見たことのない形相で怒鳴った。ジュウゴは驚いて一歩退く。その傍らをヤマカガシが駆け込んできた。
「頭は打ってない。呼吸もある。でも血が止まらない!」
ヤマカガシはリクガメを一切見ないで男の背中を上下左右から覗き込んだり指先で触れたりしている。
「ヤマ君!!」
「わかっとります!」
短い喧嘩のような怒鳴り合いの後でヤマカガシが振り返った。ジュウゴはびくりとする。
「担架! こっちが先や!」
自分ではなく向こうの集団の男たちに怒鳴ったようだ。しかし呼ばれた男たちは来ようともしない。
「おいシロ! こっちのが重症やって!!」
リクガメが血走った目で歯ぎしりした。
「どけ。俺がやる」
大股でやって来たシュウダが、ヤマカガシの肩を掴んで場所を空けさせる。
「シュウダ……」
リクガメが震えた声で呼んだ。シュウダは床に伏している男を見下ろしながらリクガメに向かって小さく呟く。
「すまんの」
リクガメが小刻みに素早く首を横に振る。
「自分、上、頼めるけ?」
「でも!」
「絶対死なせん」
リクガメが男を見下ろす。
「カメの指揮取れるんは自分しかおらんやろ」
「でも……」
「…い…」
「リュウ!」
床に伏していた男が小声を発してリクガメが過剰に反応した。
「リュウ、おま…っ!」
「…い……、…け」
「自分の背中見て言え馬鹿!」
「…く…」
男が震えながら片手を上げようとした。リクガメはその手を両手で握りしめる。
「が……、かめ…」
リクガメが歯を食いしばる。
「俺からも頼む」
シュウダも言った。
リクガメは男の手を握りながらシュウダを見て、それからまた男に向かって背を丸めて手を握りしめた。
「嫁さんと子ども、実家帰しとけよ」
男はへらっと笑う。リクガメも無理矢理な笑顔を男に見せて、その手を離した。
「シュウダ、」
シュウダがリクガメを見る。
「リュウば死なしたら絶対許さねえからな!!」
イシガメのようながなり声で、癇癪を起したジュウイチみたいに感情を露わにしてリクガメが叫んだ。驚いて呆気にとられるジュウゴを見向きもしないで勢いよく立ち上がって駆けだす。その背中を見送ったシュウダは片頬をあげて鼻で笑う。
「久しぶりに聞いたのう。あいつのため口」
それから男を見下ろし、
「安心しられ。こりゃ死なねえ怪我やちゃ」
男がまた、へらっと笑った。
リクガメに続こうとしたヤマカガシをシュウダが呼んだ。ヤマカガシは変な格好のまま振り返る。
「自分はここ手伝え」
ヤマカガシを見ないでシュウダが言った。ヤマカガシは眉間と鼻筋に皺を寄せる。
「自分がやる言うたにか」
「手伝え言うとろう」
「リュウさんもこんなんやし上の方が手ぇ足りとらんやろ」
「自分が行って何になる」
ヤマカガシが肩を怒らせる。
「てめえよりは動けるわ!」
昨日のような憤りの顔で唾を吐いて、シュウダに背を向けて走り去った。
「はんこ…き…」
うつ伏せの男がへっへっと笑う。
「自分、そんだけ喋れりゃ問題なかろう」
シュウダが憮然として言った
理解が追いつかない皆のやり取りを見つめるだけだったジュウゴの肘をシマヘビが引いた。
「あんたはこっち」
シマヘビに掴まれ走らされる。片手ではヤモリを落としそうだ。だが待てと言えるような雰囲気ではない。ジュウゴはヤモリを見た。ヤモリはジュウゴが何か言う前にジュウゴの腕にしがみ付き、ジュウゴが持ちやすい位置に腰を移動させた。ジュウゴは驚きつつ頷く。ヤモリが微かに微笑んだ。
シマヘビに連れていかれた部屋は女で溢れていた。女と熱気と異様な臭気。ジュウゴは思わず鼻を覆う。ヤモリに頭を叩かれて、膝を曲げて床に下ろした。ヤモリは最初から行く場所があったのだろう。ジュウゴに見向きもせずに女たちの中に紛れて行った。
「こっちや言うとろう!」
シマヘビに怒鳴られてジュウゴも走りだす。走り出して速度を落とし、立ち止まる。
「何…、しているんだ?」
「はあ?」
怒ったようにシマヘビが振り返る。だがジュウゴはシマヘビを見ない。シマヘビの背後に広がる光景に目を見開き、呼吸を乱し、髪の毛を掴み抜かんばかりに側頭部を掻き毟る。
「何をしているんだよ!」
ジュウゴの叫び声に部屋中の女が振り返った。シマヘビが眉根を寄せる。びっくりしたヤモリの顔もある。
「答えろよ、何をしているんだよ、何なんだよこれは!」
「搾血やにか」
「『さっ…けつ』?」
ジュウゴがようやくシマヘビを見た。シマヘビは目と眉根に力を込めて、射抜くようにジュウゴを見ていた。
「何それ…」
「血ぃ搾るん」
「誰の」
「敵の」
『てき』って…
「何のために?」
「瓶詰作るためやろう」
当然だろう、何を聞くのかと言わんばかりのシマヘビにジュウゴの混乱は加速する。
「びんづめ…」
「効率よく搾り取るんは吊るしが一番なん」
―搾ってあるもん、夜汽車を―
「あんた、自分が飲んどるものの作り方も知らんが?」
―地下に住む者は未開で粗暴で野蛮なため…仲違いを始め、分裂し、互いを襲撃し合ってわずかな技術を奪い合っています―
吊るされた体から滴る血液。
「上で男たち(みんな)が狩って来るん。それを吊るして搾るんがうちらの仕事」
ぼとりと床に落ちた赤黒い塊。
「昨日の今日でスーちゃんはまだ動けんし、ヒメさんも身重なん。手が足りんの。あんたも早よ手伝って!」
―あの中身、夜汽車なの―
教室の皆もこんな?
―お前ら…、それ飲むのか―
飲むけど。飲んだけど。飲んでいるけど。
「早くせんまいけ!」
「なんで?」
シマヘビが身を乗り出して困惑しきった顔を突き出した。ジュウゴは頭に爪を立てながら唇を噛む。
「なんで? なんでこんなことするの?」
「飲むためやろ」
「そうだけど…、そうなんだけど、それは、そうだけどでも……」
シマヘビが鼻筋に皺を刻む。ジュウゴを怒鳴りつけようと口を開いた時、
「シマヘビ、」
反対に呼ばれてつんのめった。
「何けえ!」
皆が働いているのに、男たちは生死を賭けて戦っているのに。焦燥がシマヘビの苛立ちを加速させる。
「こんなこと…しなくても」
「はあ!?」
「これは酷いよ」
頭を掻き毟っていたジュウゴが手を下ろして俯いた。
「これは酷い。あんまりだ。確かに飲むよ? 僕も飲む。でも、でも…、これは、だって、だって彼まだ…」
ジュウゴの指が差し示す先をシマヘビも体を捻って見遣る。
「まだ、生きてる…」
絞り出すようにジュウゴは言った。そこからは怒涛だった。
「まだ生きているじゃないか。あんなに苦しんでいるじゃないか。君だって見えるだろう? みんな見えているのに見ない振りしてなんで…。確かに必要だよ。いるよ。飲みたいよ、耐えられない。でも、生きているのにまだ、なのに、こ…、壊してまで…」
「これけ」
言うとシマヘビはまだ吊るされていない男の元に歩み寄った。無言で背後に回るとヤマカガシのように慣れた手つきで男の顎と額に両手を置くと、物凄い勢いでその頭を回した。鈍い音と共に曲がった首の男の体が横に倒れた。
「シマ…ヘビ?」
「痛いのは可哀そうやろ。ちゃんと絞めてやらんなん」
感情の見えない顔でシマヘビは横たわる体を見下ろした。
「こ、わすなよ…」歯が鳴った。「壊すなよお!」
シマヘビが怪訝そうにジュウゴを見た。
「何やっているんだよ! 可哀そうって言うくらいならやるなよ、やめろよ、仲間じゃないか!」
「仲間?」とシマヘビ。
「仲間だろう?」ジュウゴが一歩踏み出す。
「誰も死んでほしくないんだ。だって減ると悲しいじゃないか。だから皆仲間だろう? 今君が…」
「さっききから何言っとんが?」
苛立ちを隠さずにシマヘビが言って、自ら手にかけた男の体を顎で指す。「これ、あんたの仲間け? カエルやにか!」
「知らないよ。彼が何なのかなんて知るはずないだろう?」
「あんた、何言っとんがけ?」
「彼が誰とか敵とかわかんないけれども死ぬのは嫌だ。嫌なんだよ。だから仲間だ。死んでほしくないから…」
「生きたまま搾る方がよっぽど残酷やわ」
「なら搾るなよ! それでいいじゃないか!」
「搾らんなん飲めんやろ!」
「我慢しろよ! それくらい」
ジュウゴの絶叫にシマヘビは呆れて固まる。
「わざわざ壊してまで飲むことないじゃないか! 酷いよ。あんまりだ。死んでいるならもう動けないし少しくらい飲ませてもらってもいいかもしれないけれども、それもいや、でも、…でも、やっぱりこんなの…!」
「飲まんなんこっちが死ぬやろ」
瞬き不足で縁が渇き始めた赤い目でジュウゴは顔を上げる。
「殺さんなん飲めんやろ。そんな都合よく死体が転がってることの方がないやろ」
シマヘビが拳を握りしめる。
「殺さんなんこっちが死ぬやろ! 死ぬかもしれん中でイシもカッちゃんも皆戦って狩ってくるんに、あんた何、腑抜けたこと言っとんが?」
「イシガメ達が死ぬの?」
思いもよらない事実を聞かされてジュウゴはさらに動揺した。シマヘビの苛立ちは頂点に達する。
「かもしれん言うとんが! そんな縁起でもないこともっぺん口にしてみ! 舌の根っこ引っこ抜いてけつの穴にぶっこんでやるわ!!」
「シマちゃん…」
振りかえるとスッポンがいた。萎んだ腹を抱えて気だるそうに歩いて来る。「女の子がそんな汚い言葉使わないの」
「スーちゃん!」
シマヘビが叫びながら駆け寄り、その体を支えた。「赤ちゃんは?」
「姉ちゃんとこ。慣れてるし大丈夫っしょ」
「スーちゃんが大丈夫やないにか! 出血も多かったんよ? 早よ戻られま!」
「手、足りてないんでしょ?」
シマヘビが口ごもる。
「スッポンさん、寝とられ」奥から別の女の声がした。
「そや。無理やろ」
「スーちゃん…」
「夜汽車、」
青い顔のスッポンに呼ばれてジュウゴはびくりとする。
「…じゃない、えっと、ジュウ…」
「ジュウゴ」
ジュウゴは答える。
「ジュウゴ」
スッポンが小刻みに頷いた。そして、
「ジュウゴ、邪魔。出てきな」
真正面から青い顔の暗い目で見据えられて、ジュウゴは何も返せなかった。喉の奥が閉塞したみたいに息が詰まって胸が苦しい。
シマヘビもこちらを睨み上げてきた。真っ赤な目で、いつもの冷めた侮蔑の感じとは違う、怒りと悔しさを滲ませた潤んだ目で。
「ちょっと! だめ! あっ、こら!」
部屋の奥が騒然としてジュウゴはそちらを見遣った。
「ワン……」
ワンが女たちに叱られている。何かを咥えて離さない。
「ワン!」
ジュウゴは女たちを押し退けてワンに駆け寄る。ワンの口から垂れ下がるぬるぬるとした赤く光るものを掴んだ。
「やめろよ。やめてくれ、君まで…」
「ちょうどいいわ」
女が言った。「あんた、その獣連れて出てって」
ジュウゴは女を見上げただけで何も言えない。戸惑うジュウゴの襟をシマヘビが後ろから掴んだ。首が締まる。
「痛い! ちょっ、シマヘビ!」
ジュウゴの襟とワンの耳の後ろを掴んで引き摺り、シマヘビは扉の外まで力づくで進んだ。ジュウゴたちを放り投げた時には両腕が痺れて重たかった。
「シマヘビ…」
「あんた、やっぱり最低やわ」
下瞼に涙を溜めて呟いたシマヘビは、鼻を啜ると顔を背けて扉を閉めた。
ジュウゴは何かを言いかけて、でも、何も言えなくて何を言いたかったのかも見失ってただただ哀しくて混乱して頭が痛くてわからなくて、
「ジュウシ、」
大丈夫じゃないよ。
「シュセキ…!」
頼りたい、助けてほしいけれども会えない相手に怒りをぶつけたくて自分の頭皮を握りしめた。
傍らのワンが、咥えて離さなかった誰かの体の一部を口中で転がす音が聞こえる。ジュウゴは疲れきった顔でワンを盗み見た。確かこれは『食う』だ。飲むとは違う。そう言えばワンはいつも『食って』いたかもしれない。瓶詰めでは物足りなかったのを我慢していたのかもしれない。
「我慢していたのか?」
ずっと。
ワンはジュウゴを横目でちらりと見遣り、変わらず口を動かし続ける。
「我慢、できないのかな」
言ってから出来なかった自分を思い出し、ジュウゴは唇を噛んだ。
廊下をとぼとぼと歩く。すれ違う女たちは真剣な表情で怒鳴り合い、走っていく。時々見かける男たちは泥と血液に汚れながら何事かを叫んでは、やはり走っていく。ジュウゴとワンだけが浮いている。いや、ジュウゴだけが。
広間に戻った。先ほど見かけた背中がひどいことになっていた男は、綺麗に包帯を巻かれてうつ伏せていた。傍らの女と子どもに苦しそうに微笑んでいる。大きな背中はシュウダだ。また別の男を『治療』している。そのシュウダの傍らを見てジュウゴは愕然とした。
先よりも損傷している男たちが増えていた。皆、順番待ちだ。走りながら怒鳴る男女にシュウダは怒鳴り返しながら目の前の損壊間際の男を治療している。
「イシガメ…」
―死ぬかもしれん中でイシもカッちゃんも皆戦って狩ってくるんに!―
「ヤマカガシ、トカゲ、」
―俺らの仲間になんないかって言ってんだけど―
「リクガメ」
ジュウゴは顔を上げた。広間を後にして、地上へと繋がる通路を駆け抜けた。




