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15-30 未来の正体

 雲が月を覆い、星たちは身を顰めているが漆黒とはほど遠い。クサガメの持つ松明のせいだ。ジュウゴに対峙するのはトカゲ。腕組みをして片足に体重をかけ、無言で俯いているその顔からは、不機嫌が頂点に達して表情が消失している。なのに自分に向けられた刺々しい雰囲気は、それだけで気負い負けしそうだとジュウゴは思った。


「武器一切の使用は認めないよ。靴も脱いで。骨折るのも禁止。わかったね? トカゲちゃん」


 リクガメはトカゲにだけ注意事項を告げている。念を押さなければやりかねないからだろう。


「ついでに義手も外しとけよ」


 イシガメがジュウゴの横で言った。「武器代わりに使われちゃたまったもんじゃねえわ。誰が作ってやってると思ってんだ」


 トカゲが微かに片側の頬を痙攣させ、それからおもむろに右肘を掴んだ。ジュウゴは慌てて制止する。


「外す必要ないよ」


 一同が一斉にジュウゴを見た。


「何考えてんだ? お前」


 男で唯一、トカゲ陣営にいるクサガメが言った。


「悪いこと言わんから、外してもらわれ」


 ジュウゴの応援席から薬箱を持ったヤマカガシが囁く。ジュウゴは外野たちに向かって大真面目に答えた。


「あれはトカゲの腕だ。外せばトカゲは腕が一本になってしまうじゃないか」


「お前、勝つ気ないのかよお」


 イシガメが情けない声をあげた。


「勝つ気……」ジュウゴは呟く。息を吐き顔を上げた。「あるよ、勝つ気。絶対勝つ」


「言うねぇ、夜汽車」


 スッポンが鼻で笑った。


「随分な自信だな」


 言ってトカゲが突っ込んできた。リクガメが待ての声をあげるが、素直に聞けば怪我をすることはジュウゴにも理解できた。


「開始の合図くらいさせろよ」リクガメが少なからず苛ついてぼやく。


「ほら、審判。ちゃんと見てやりな」その隣でスッポンが茶化す。


「おら、行け、ジュウゴ! 絶対勝てよ!」とイシガメが檄を飛ばし、



「トカゲ! そんな変態、ぎゃふんって言わしたって!」シマヘビも負けじと声を上げた。だがそれらも既にジュウゴの耳には雑音でしかなかった。


 風を切るトカゲの腕がジュウゴの顔目がけて向かって来る。ジュウゴは右足を踏み込んで手の平でそれをいなした。トカゲは拳をそのままに肘を返して裏拳を繰り出す。ジュウゴは踏み込みながら姿勢を低くし、さらに間合いを詰める。拳に反対の手を添えて起き上がり様に肘打ちを繰り出した。トカゲも応戦する。トカゲが左腕を鉤型にして振り抜いた。ジュウゴは右の腕の腹でそれを止める。


 勝手に笑みがこぼれた。今のところトカゲからの打撃は一つも受けていない。トカゲはジュウゴの顔を見て目を見張り、またすぐに表情を消した。ジュウゴから距離をとり、構えを解いて直立し、顎をしゃくる。攻めて来いということだろう、とジュウゴは理解する。足を肩幅に開いて腰を落とし、左足を踏み込んだ。


 矢先にトカゲの靴裏が迫った。逃れる間もなく鼻頭を直撃する。よろめきながら鼻を手で覆ったジュウゴの背中に、トカゲの肘が降ってきた。気道が詰まる。呼吸を整える前に左腕を掴まれると捩じりあげられ、反対に上体を起こせなくなって地面に両膝をついた。肋骨の隙間を蹴り上げられる。強烈。吐き気。飲み下し立て直そうとした目の前に膝が迫っていた。



「楽勝だな」


 クサガメが言った。


「圧勝やね」


 シマヘビも言う。


「早すぎたかな」


 リクガメが、あちゃあ、と声を上げながらこめかみを指先で掻き、


「早く止めちゃりなよ。あれ、やばいくない?」


 スッポンが憐れみのため息を吐いた。


「まだ始まったばっかだろ!」


 イシガメだけが血気盛んにジュウゴを応援する。クサガメとヤマカガシが反対陣営から互いに視線を交わし、揃ってため息を吐いた。


「降参すればいいのに」


 シマヘビが言う。


「落ちるまでやるだろ」


 クサガメが答えた。


「落とすだけならいいんやけど……」言いかけてヤマカガシははっと顔を上げた。慌てて立ち上がり、リクガメに駆け寄る。


「リクさん、ジュウゴに降参の仕方教えたが?」


「え?」


 リクガメはきょとんとした。

 ヤマカガシは青ざめる。まだ大声で声援を送っているイシガメを追いやり、自分が前に出る。


「んだよ、ヤマ」


「降参! 降参! トカゲ、聞け、だら!」


「バカ! 勝手に言うなや」イシガメがヤマカガシを止めにかかる。


「あいつ知らんのやって!」


 ヤマカガシが叫んだ。イシガメは怪訝そうに「何を?」


「俺ら誰も『参った』の仕方、ジュウゴに教えとらんのやって!」


「「あ…」」


 イシガメとリクガメが同時に自分たちの失態に思い至った。


「何? 何の話?」と、トカゲ陣営もにわかにざわつく。


 リクガメが慌ててジュウゴたちに振り返った。憐れな夜汽車が叩きつけられる洗濯物のように上や下を向いている。ヤマカガシが走り出していた。



 視界が狭まった気がする。頭が重い。口の中は妙に酸っぱく何とも言えない味が満ちていて気持ちが悪い。イシガメたちの声が聞こえるがなんだかどうも曖昧だ。


「最初の威勢はどうした」


 トカゲが言った。数拍遅れて痛みが駆け廻る。どこをどのように痛めつけられているのかもジュウゴには既によくわからない。喉が苦しい。いや、肩が痛いのか。トカゲの脚に押さえつけられているのだとやっと気付く。


「よっぽど死にたいんだな」


 肩への負担が増す。トカゲの脚を掴んだ。喉が締まる。壊される。


「終わりや終わり。勝負はついたやろ?!」


 トカゲじゃない声がする。くぐもっていて聞き取りにくい。


「部外者は口を挟むな」


「だから降参やって!」


「こいつは何も言っていない」


 何を言っているのだろう。


「知らないんだって!」


「何を」


「だから…」


「ヤモリッ!」


 イシガメの叫び声が聞こえた。トカゲの力が一瞬、無に近くなる。ジュウゴは最後の気力を振り絞って固められていた左手を振り上げ、そのまま肘を下ろした。トカゲが小さくうめく。転がりながら起き上りトカゲに覆いかぶさる。膝頭でトカゲの肩口を押さえつけ、右手の拳を持ち上げた。イシガメたちが息を呑む。


―女は大事にせんなん―


 狭い視界の中に泣き出しそうなサンみたいな目が見えて、ジュウゴは持ち上げた拳を解き、立ち上がってトカゲから離れた。


「……ジュウゴ?」


 イシガメが歩み寄る。ジュウゴは緩慢に振り返った。


「女子だった」


 言ってその場に腰から崩れ落ちた。



 リクガメの独断とえこひいきによって、ジュウゴの勝ちということになった。シマヘビとクサガメは抗議した。ヤモリが来たと嘘をついてトカゲの注意を逸らしたイシガメは、明らかな反則行為だと。応援ではなく加勢だったと。しかしトカゲ自身が負けを認めた。どんな理由であれ、形勢逆転を許した自分を許せなかったのだろう。しかし、負けた条件が、勝った者の質問に全て答えることだとリクガメに言われて、前言撤回したくなったようだった。だが「正々堂々と負けたよな」「負けたよな、お前」「女は二言があるのか?」「まさかそんなことお前はしないよなぁ?」

 散々イシガメに絡まれた手前、どうしても意地を張ってしまったようだった。


「勝ったみたいやぜ」


 ヤマカガシがジュウゴの額を消毒しながら言った。反応が普段の二倍増しで遅くなっているジュウゴはしばらくしてから顔を上げた。


「どういう、意味?」


「自分、トカゲに勝ったんやって。もっと喜ばれ」


 決闘を止めようとしていたくせに、ヤマカガシは自分事のように嬉しそうに笑った。


「トカゲが何でも言うこと聞く言うとるわ。イシに利用されないように自分も気ぃ付けんなん」


 ヤマカガシのにやけた忠告にジュウゴがぼんやりと眉根を寄せていると、突然シマヘビの悲鳴が響いた。ジュウゴは顔を上げ、ヤマカガシが振り返る。


「カッちゃん! スーちゃんが…!」


 蹲るスッポンの横でシマヘビがヤマカガシを呼んだ。ヤマカガシはジュウゴを放り投げてスッポンの元に行く。イシガメとクサガメがおろおろし、リクガメに何やら説教を受けていたらしきトカゲもスッポンに駆け寄った。顔を覗き込んだ後で背中を見遣り、目を見開いてスッポンを激しく呼ぶ。


「大丈夫だっ、てたたたた…」


 気丈に振る舞い立ち上がろうとしたスッポンだったが、痛みを口にして再び蹲った。


「カッちゃん…」


 呼ばれたヤマカガシははっとし、「シュウダ! シュウダ呼んで!」とイシガメたちに叫ぶ。イシガメとクサガメが慌てて駅の中に降りていこうとしたが、兄弟揃って足をもつれさせていてしょうもない。


「何? 何があったの?」


 ジュウゴも立ち上がり、スッポンに近づいた。見るとスッポンの下半身が濡れている。失禁? とジュウゴは驚く。

 驚いているジュウゴを押し退けてリクガメがスッポンの前に屈み込んだ。上衣を脱いでスッポンの下半身に巻きつけると、ヤマカガシを睨むように見た。


「落ち着けや。ヤマ君が慌ててどうすんの」


 ヤマカガシは言われて驚き、それから下を向いて息を吐き、「すんません」


「イシ、クサ、担架! 急げ!!」


 怒鳴られた兄弟はわたわたと階段を降りていった。


「シマちゃんはシュウダに知らせて。見つからなかったらヒメ姉でもいい。それから旦那さんにも声かけてきて」


「は、はい」


 シマヘビも走って行く。


「俺は…」


「ヤマ君バカなの? ヤマ君はスーに付いてなきゃ駄目だろ。部屋には運ぶけどさ、万が一、持たなかったらその場で取り出すのはヤマ君なんじゃないの?」


「……はい」


 ヤマカガシが青ざめて小さくなりながら返事した。


「スッポンはどうしたんだ? すごく痛そうな顔をしているしそれに…」


「トカゲちゃん、」リクガメがトカゲを呼んだ。スッポンの背中を手で擦り、騒がしい外野に目もくれずに単調に励まし続けていたトカゲが顔を上げる。


「スーは俺が運ぶから。そいつ頼んでもいいかい?」


『そいつ』と顎で指されたジュウゴをちらりと見て、トカゲは黙って頷いた。


「悪いね。トカゲちゃんが冷静で助かるよ」


 困ったような笑顔をトカゲに向けてから、リクガメはスッポンの左手を取る。


「スー、手、ここ」


 言いながらリクガメはスッポンの左手を自分の肩においた。


「重いな。太った?」


「ばか」


「にしても、そそっかしい子だね。誰に似たんだか」


 スッポンを抱き上げたリクガメが笑う。階段はこれで降りるらしい。


「少なくとも母親似なのは確かだわ」


 苦笑して頷くスッポンの右手は自身の腹を押さえ、そしてもう左手はリクガメの背中を握りしめていた。

 リクガメたちの背中を瞬きもしないで凝視し、硬直していたヤマカガシは、リクガメが肩で駅の扉を開けようと奮闘しているのを見て慌てて走って行った。ジュウゴも後を追おうとしたが、トカゲの義手に阻まれる。


「どいてくれ!」


「お前が行ってどうする」


「みんな慌ただしそうなのに何もせずにいろというのか?」


「お前が行ったところで何にもならない」


「そんな…!」


「何が起こっているかわかるのか? 何が出来る? 騒ぎ立てたところで邪魔にしかならない。それくらい考えろ」


「じゃあ何が起こっているんだよ! 何なら出来るんだよ! 知らないことをそのままにしておいたら延々わからないままだろう? 騒がないから教えてくれ。彼女がどうなって何が起こっているのか、皆は何を慌ててどこに行ったのか、僕にも出来ることがあったらさせてくれ!」


 トカゲはつい先ほどまで死にかけていた男を横目で睨んだ。この体力は尊敬すべき点かもしれないなどと皮肉を持って思う。


「……スッポンが破水した。赤ん坊がすぐに生まれてくる可能性がある。逆子だったりしたときのために設備のある部屋で生ませたいがここからは少し距離があるし運ぼうにもその間に生まれてしまってはという不安でシマたちは狼狽した。イシガメとクサガメは全てが初めてで、何をすべきかわからなくて立ち尽くしていた。でもリクガメが適切な指示を出したお陰で首尾良く全員行動し始めた。ちなみにお前に出来ることは何もない。強いて言えば首を突っ込まないことだ。せめて黙って待機しろ。これで満足か」


 シュセキみたいに単調で、ジュウシみたいな長ったらしい説明にジュウゴは閉口した。ほとんどよくわからなかった。教えろと強要しておきながら教わったのに理解できていないのでは立場がない。


「……でも、だからって何もせずに黙っていられない」


 側頭部をがしがきと掻き毟りながら口答えする。


「何もせずに黙っているというすべきことがあるだろう」


 それだけ言うとトカゲはリクガメたちの後を追った。遅れてジュウゴもその後を追った。



 群がる男たちを押し退けて、トカゲが入っていった扉を目指す。途中、イシガメたちもいて、扉の真ん前にはリクガメと汗をだらだら流した男がいた。振りかえったリクガメの制止も聞かずに扉の取っ手に手をかけたジュウゴは、勢いよく開いて部屋を覗きこんだ。小さな部屋は熱気と女たちであふれ返り、その中央に異常な汗を流して横たわっているスッポン。ヤマカガシもいる。


「彼女は平気なのか?」


 ジュウゴは大声でヤマカガシに尋ねた。一斉に女たちが振り返る。


「出てって!」


「最ッ低!」


「この変態!」


「馬鹿かお前は」


 トカゲの顔が眼前に近寄り、目潰しを喰らった後で力一杯扉を閉められた。後ろによろけたジュウゴをリクガメが支える。沁みるような痛みの中で目を開けると、汗だくの男のが血眼で迫っていた。


「このだら! 何しとんが、自分!」


 唾を飛ばされ、怒鳴られ、罵られるが、男が何に激怒しているのかジュウゴには皆目見当もつかない。扉の向こうからはスッポンの叫び声が聞こえてくる。


「何って…、スッポンが何だかとにかく大変そうなんだ! 気になるじゃな…」


 話している途中でリクガメに口を塞がれる。


「すんません、マタさん。こいつちょっと頭、あれで」


 取ってつけたような爽やかな微笑みをたたえてリクガメが汗だくの男に詫びた。「俺の方から指導しとくんで。今日のところは」


「リク君とこの若いのけ?」と汗だくの男。


「例の夜汽車やろ」とどこからか聞こえてきて、男は納得したように眉事理を下げてジュウゴを見た。


「自分もけったいなの掴まされて苦労するのう」


 男の言葉に曖昧に笑ってリクガメはその場を収める。こんなへつらった顔のリクガメをジュウゴは見たことがない。リクガメに塞がれていた手を払ってジュウゴは首を回す。


「リクガメ! スッポンは何なんだ? 彼女は大丈夫なのか? あんな苦しそうな顔、ハチみたいで、だから…」


 再び正面から口を塞がれる。汗だくの男に苦笑を見せてからリクガメは冷たい目でジュウゴを見下ろした。


「頼むから黙れや」


 ぼそりと呟かれた小声が、それまで向けられたことがない怒りと、それ以上の何かどす黒い感情が込められていたように感じて、ジュウゴはリクガメの手の平の中で口を噤む。


 と、突然、扉の向こうからスッポン以外の叫び声が響き渡った。通路が静まり返る。叫び声というか不器用な泣き声が絶え間なく聞こえ、代わりにスッポンの声は止んでいた。

 しばらくすると扉が中から開けられた。憔悴しきったヤマカガシが顔を覗かせる。喉を鳴らして息を飲む汗だくの男に、


「元気な男の子」


 と一言、告げた。

 途端に大歓声が上がった。イシガメたちが押しかけてきてジュウゴを巻き込み喜びを爆発させる。ジュウゴは訳がわからない。


「ヤマ君、スーは?」


 喜びの中で一つだけ浮き立っていない声が聞こえた。リクガメが部屋を覗きこむようにしてヤマカガシに質問している。


「大丈夫…、大丈夫です。母子共に…」


 言いながらヤマカガシがその場でへたり込んだ。「ヤマカガシ?」とジュウゴは駆け寄る。


「情けないねえ! これだから男は」


 部屋の中から女がヤマカガシをおちょくって、他の女たちも一緒になって笑った。


「しっかりしられ、カッちゃん」


 シマヘビも笑っている。


「大目に見てくれま。初めてやにか…」


 へこたれたヤマカガシの肩をイシガメが叩き、そのまま両腕を回して笑いながら抱きつき、泣き出し、ヤマカガシがその腕を叩いた。ジュウゴはどさくさに紛れて部屋の中を覗き、目を疑った。一様に笑みを湛える女たちの中で、真っ赤な皮膚をして全身汚れた、頭髪がまばらな、あり得ないほど小さな子どもがけたたましい声で泣き叫んでいる。スッポンの腕の中で子供は泣き続け、汗だくの男がその傍らで歓喜している。ジュウゴの視線は小さな赤い子どもに集中した。いたか? いや、確実に先はいなかった。あんな特徴的な子どもに気付かないはずがない。


「一体何が……」


 目から入って来る奇妙な光景と耳から入って来る笑い声の渦の中で、ジュウゴの思考は混乱を極めた。



* * * *



 教室よりも巨大な空間で円座が組まれた。汗だくだった男と隣のシュウダを囲むように、地下中の男女が集まる。大量の皿が並び、その上には加工された野菜やら何やら、おそらく口に入れる物が載せられていた。有色無色の液体が無造作に配られる。粘着性の高い液体は明らかに飲料水ではなかったが、『かんぱい』という大号令の後で全員がこぞって口に運ぶのを見て、ジュウゴも見よう見真似で口に含んだ。そしてすぐに盛大に噴き出した。

 

 顔を真っ赤にして何故か上半身を晒しながら上機嫌でやってきたイシガメがジュウゴの肩に腕を回し、呂律の回らない口で何やら言っていた。とにかく何かが嬉しいことだけは伝わってきて、「うん、よかった」とジュウゴは頷いておいた。普段はジュウゴにつっけんどんなクサガメさえも、その時はイシガメ並みに饒舌にジュウゴに絡んできた。真っ赤な顔で臭い息を吐く男たちにに戸惑うジュウゴを、その場から引き抜き避難させたのはトカゲだった。


「ありがとう。助かった」


 部屋の隅でうずくまり、吐き気をやっとのことで堪えながらジュウゴはトカゲに礼を言う。押さえつけられて無理矢理飲まされた臭い液体が喉を通過してから、ずっと口の中が気持ち悪い。


「リクガメからお前の世話を任された。別にお前のためじゃない」


 ぶっきらぼうに言う。ちらりと顔を上げると、トカゲも例の臭い液体を何食わぬ顔で飲んでいた。


「気持ち悪くないの?」


 トカゲが眉根を寄せてジュウゴを見下ろす。


「その臭い水」


「餓鬼」


 一言呟いてトカゲは杯を空けた。

 叩きつけられるような頭痛と眩暈の中でジュウゴは顔を上げる。子どもたちの姿はない。知っている顔、知らない顔、見たこともない白い頭や、皺だらけの頭髪を失った顔などが目につく。


「ヤモリは今日は一緒じゃないのか?」


「子どもをこんなところに連れてこれるか」


「シマヘビもいないね」


「スーに付いている」


「スッポンは、彼女は大丈夫なのか?」


 ジュウゴは腰を下ろしてトカゲの横顔に尋ねた。トカゲはちらりとジュウゴを見てから杯を口元に近付け、「母子共に無事だとヤマカガシも言っていただろ」言って杯を傾けた。


「『ぼし』って何?」


「母親と子どもだ」


「『ははおや』って?」


「……お前にはいないのか?」


 ジュウゴが首を傾げると、トカゲは少し考える素振りを見せて杯を床に置いた。


「お前を産み育てた女だ」


「『海』?」


 あのとてつもなく大きな貯水槽と関係があるのだろうか?


「『そだてた』って?」


「世話をするとか守るとか、そう言う意味だ。お前にだって誰かしらいるだろう。そういう存在が」


「アイのこと?」


「『あい』って何だ」


「君もアイを知らないのか」


 言ってジュウゴは考えこんだ。どうしてチュウヒたちはアイを使いこなしていたのに、ここの地下に住む者たちは誰もアイを知らないのだろう。

 見下した相手から無知を指摘されたことが鼻についたのだろうか。トカゲは異様に執拗にジュウゴに尋ねてきた。


「『あい』ってなんだ? お前の養育係の名前か?」


 ジュウゴは半身を引きつつ、「アイはアイだよ。映像と音声で知識を提供してくれる。柔らかくて温かくて授業を見てくれたり、時々、指導されたり、風邪をひいたら傍にいてくれたり。イシガメとクサガメみたいに同じ顔であちこちに複数体存在できるから、僕の所にいながら他の生徒のところでは別の話を同時進行していたりして…」


「義脳のことか」


 俄かに熱っぽくなったトカゲだったが一気に冷めた。反対にジュウゴが「え?」と身を乗り出す。


「君はアイを知っているの? リクガメやシュウダも知らなかったのに」


 トカゲが殴りかかってきそうな勢いで振りむく。見開かれた目にジュウゴは慌てて上体を引く。


「…何? 僕、何か言った?」


 トカゲがさっと顔を背けた。


「トカゲ?」


 ジュウゴは覗きこんだが、女は表情を隠して答えない。


「負けたら何でも答えてくれるという約束だったじゃないか」


 あれが自分の勝ちなのか、甚だ疑わしくはあったが、ジュウゴはリクガメの影をちらつかせてトカゲに迫る。しかし、トカゲは何も反応しなかった。

 諦めてジュウゴは壁に背中をつけた。隣に座る女に滅茶苦茶に殴られたり蹴られたりした部位が、壁の冷たさに悲鳴を上げる。ジュウゴは胸を突き出して壁と背中の間に隙間を作った。


「気味の悪い動きをするな」


 ぼそりとトカゲが呟いた。話はしてくれるようだ。ジュウゴはサンの居場所を尋ねようとして、以前の怒られようを思い出し、今度は慎重に尋問せねばと唾を飲み込む。言葉を探して視線を右に左に動かす。


「……増える時はいつもこうなのか?」


 トカゲはジュウゴを横目で睨む。


「ほら、あの恐ろしく小さな子どもだよ。君だって見ただろう?」


「増えるじゃなくて『生まれる』だ」と訂正される。聞きとれなかったジュウゴは側頭部をぽりぽり掻き、黙って正面に顔を向ける。


「なんかいいね。皆、楽しげだ」


「めでたいらしいからな」


「あの子どもはどこから出てきたの?」


 ジュウゴはトカゲに振り返った。まるでアイみたいに、何も無いところから泣き声と共に現れた、しかしこの地下にはアイはいない。不思議でたまらなかった。

 しかしトカゲはジュウゴを汚物を撒き散らした便所でも見るような顔で一瞥だけだった。いちいち目つきの悪さの理由を確認するのも疲れてきて、ジュウゴはその視線をかわす。


「そう言えばあの子どもが現れてから、スッポンの腹がしぼんでいたような気がしたけれども、君も見た?」


 トカゲは体一つ分、ジュウゴから離れる。女の表情と行動の意味がわからないジュウゴは頭を掻く。そしてはたと思い出す。


「スッポンの腹の中には未来が入っているんじゃなかったか? 未来を失ったらスッポンはどうなるんだ? 失っていいものじゃないだろう?」


「お前の頭の中はどういう構造になってるんだ」


「質問に答えてくれるという約束だろう? どうなんだ? 彼女は大丈夫なのか?」


 トカゲは呆れ果てて引き攣った顔で息を吐き、「リクガメの奴…」とぼやいた。それから杯と臭い液体の入った瓶を引き寄せる。片手ではやりにくそうだ。ジュウゴは瓶を手に取り、トカゲに差し出した。


「注ぐよ。その方が飲みやすいだろう?」


 トカゲは目を見開き、少し考えてから黙って杯を差し出した。液体を注ぎながらジュウゴは重ねて尋ねる。


「未来がしおれたスッポンはこの後どうなるんだ? 彼女はひどく憔悴しきっていたし自分で立てないほどだったし…」


「お前の見た子どもがスーの『未来』だ」


 トカゲが面倒臭そうに言った。


「スーは『未来』をなくしたわけじゃなくて産んで…、外に出した。だからここの連中は喜んでいるだろう? 『未来』を手にすると皆嬉しい。これでいいか」


 我ながら適当なことを言ったものだ、とトカゲは思わず天井を仰ぐ。しかしジュウゴにはトカゲの話が腑に落ちたらしく、息を吐きながら大きく頷いた。


「未来が子どもで増える時は、皆、あんなに苦しむものなの?」


 さすがのトカゲも、この言い回しは理解できなかったようだ。思いっきり呆れ顔を向けてくる。


「だから、」言ってジュウゴは頭をがしがし掻く。「だから、女の腹の中にある未来は子どもで、それが出て来ると皆嬉しいけれども、出てくる時にスッポンは苦しんでいたから、苦しまないと未来は手に出来ないものなのかなって」


 トカゲは固まる。この失礼で胸糞悪くて度々腹が立つ夜汽車の話は、抽象的過ぎてなのに現実と連動している部分もあって、要はぶっ飛び過ぎていて解りづら過ぎる。散々悩んだ挙句、「ああ、そうだな」と曖昧に濁しておいた。歯に挟まったような理解が及ばなかった部分は酒で腹に流し込んだ。


 ジュウゴは「そうなのか」と呟いて考えこんだ。子どもは未来なのか、と。だから皆、手にした時は涙を流すほど嬉しいのか、と。そこでまた一つ、気になることに突きあたる。


「子どもは皆、未来なのか?」


「そうかもな」とトカゲ。


「スジオやヤモリも誰かから増えたの?」


「それはそうだろう」


「ヤモリたちもスッポンから増えたのか?」ジュウゴは驚いたように尋ねた。トカゲは苛立って杯を床に叩きつける。


「スーは初めての子だ。スジはヒメんとこの子でヤモリは俺の子。もういいだろう? 少し黙ってろ」


 ジュウゴは眉根を寄せてぽかんとする。


「みんな、苦しみながら子どもを増やしたの?」


「苦しむのは女だ。男はいつも何もしない」


「君も苦しんだの?」


 トカゲはそれ以上、戯言に付き合うのはやめようと思った。無言で酒をあおる。ここまで不味い酒も珍しい。


 トカゲに無視されたジュウゴは考えこんだ。考えていてあることに気づき、


「ありがとう」とトカゲに礼を述べた。


「あ?」


 トカゲが振り返る。奇妙で苛立つ夜汽車を頭から爪先まで睨めつける。ジュウゴはトカゲが理解していないのだろうと思って説明を始めた。


「だから、君がヤモリを増やしてくれたんだろう?」


「なんでお前のためみたいな言い方をする」


「だって嬉しいから」


 全然嬉しそうでない真顔でジュウゴは言った。


「君のおかげでヤモリがいるならヤモリと会えたのは君のお陰だ。だからありがとう」


 トカゲは瞬きもせずにジュウゴを見つめた。不機嫌さを含まない顔を初めて向けられてジュウゴは戸惑う。あまりに動かなくて、不安にさえなる。


「大丈夫?」 


「え?」


「止まっているよ」


 言われてトカゲは我に返り、中途半端に持ち上げていた杯ごと左手を膝の上に置く。顔を上げ、正面を見つめている。

 ジュウゴは首を傾げながら、同じく前を見た。イシガメが割れた声で何かを楽しげに叫んでいる。


「楽しそうだね」


 トカゲは何も言わなかった。

 ジュウゴはちらりと隣を盗み見る。今なら聞けるだろうか。理由は不明だが、ずっと自分に向けられていた刺々しさが和らいだような気がしなくもない。


「あのさ…」


「トカゲぇ!」


 シマヘビが怒鳴り込んできた。ジュウゴとトカゲは揃って振り向く。


「あんたいつまで飲んどるが? 交代って言ったにか!」


 トカゲが慌てて立ち上がった。その拍子に足元の瓶が倒れて中身の液体がこぼれる。ジュウゴは隣の男から布巾を借りて、床を拭き始めた。視界が暗くてジュウゴが顔を上げると、トカゲがじっと見下ろしていた。


「早く行った方がいいんじゃないか? 急いでいるんだろう?」


 トカゲは何か言いたげだ。ジュウゴは手を止めて、眉根を寄せた。


「どうかした…」


「ジュウゴぉ~!」


 臭い息のイシガメが覆い被さってきた。


「お前、ちゃんと飲んでるかぁ?」


 楽しげなイシガメは、寝ぼけているのかまともな会話が出来ていない。


「飲んだよ。飲んだって。うん、そう、そうだね」と、ジュウゴは適当にあしらう。


「お前、それ、こぼしたの? もったいねぇな! 俺、飲むわ!」


「ちょっ、やめろって。イシガメ!」


「イシぃ~、次お前だべ?」


 同じく顔を赤らめた男に呼ばれて、前後不覚のイシガメはふらふらと去って行った。


「お前だけであいつらに対処できるのか」


 トカゲが尋ねてきた。ジュウゴはそれが彼女なりの気遣いだとは気付かない。


「まだいたの! またシマヘビが怒鳴り込んでくるんじゃないのか?」


「リクガメに頼まれている」


「君って意外に律儀だな」


 ジュウゴの言葉にトカゲは一瞬不機嫌そうに目を細めた。その豹変ぶりにジュウゴはあたふたと立ち上がる。


「わかった! だったら僕がリクガメのところに行くよ。そうすれば僕はイシガメに絡まれることもないし君はリクガメの頼みを反故したことにもならない。さっき地上に行くのを見たんだ。今から行ってみることにしようと思ったとだよ。うん、そうしよう!」


 先ほどまで散々殴られ蹴られて締め上げられていたのだ。もう体は限界だ。本日二度目の決闘なんてごめんだった。

 ジュウゴがそそくさと扉に向かって歩き始めた時、「おい」とトカゲに呼ばれた。うわっ、と思いながらジュウゴは恐る恐る振り返る。


「あまり長居するな。この時期は日の出後すぐに気温が上がる」


 それだけ言うと、トカゲはシマヘビが怒鳴り込んできた方の扉に向かって歩き出した。


「う、うん」


 ジュウゴは側頭部をぽりぽりと掻く。


「ありがとう」


 訝りながら呟いたその声は、トカゲの背中には届いていなかった。



* * * *



 通路を歩く。天井や壁の隙間から差し込む光が地上は昼間であることを告げる。もう寝ているだろうなと、扉をそっと押し開けた。予想通り娘はすやすやと寝息をたて、寝床の下で丸くなっていたワンが首を伸ばした。

 オサガメに襲いかかった時は驚いたが、オサガメ以外の者には基本、礼儀正しい。むしろよく懐き、愛想がいい。言葉を話さないが通じていない訳ではなさげだし、何より子どもたちとすっかり打ち解けていたし、その中でもヤモリと特に仲が良さげでヤモリもワンを気に入っていたので、トカゲはワンを自室に入れることを了承した。悪さをすることもなく、他の子どもたちを預かるよりはずっと手がかからなくて助かる。

 ワンは無言で立ち上がるとトカゲの元までやってきて、後足を畳んで静かに尾を振った。トカゲはその喉をそっと撫でてやる。いろいろやってみたがここが一番気持ちよさそうな顔をする。すり寄ってきたワンを伴って、トカゲは娘の枕元に行き腰を下ろした。


―君のお陰でヤモリに会えた―


 娘の寝顔をそっと撫でる。娘が唇を結んで口づけでもするように動かした。トカゲは目を細め、喜びが溢れ出したかのようにしみじみと微笑んだ。


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