14-3 接触欲求
―行きなさい―
唐突に目覚めた。明かりの消えた部屋は真っ暗で、瞼を開いているのか閉じているのかわからなくなる。腕を伸ばして頭の上をまさぐる。途端に見慣れた白い空間が目の前に広がってようやくサンは息を吐いた。
またあの夢だ。あの男と女が出てくる夢。
いつからこの夢を見ているのだろうか。随分昔からだ。彼女が引き出せる最も古い記憶ではすでに見続けている。男と女の顔は曖昧で、周囲はいつも真っ暗で、なのに何故か自分に微笑みかけられていることだけはわかる。
アイに相談したことがある。アイは一通り自分の話を聞いてからにっこり笑って、忘れましょう、と言った。怖い夢は誰かに話して忘れるのが一番です、あなたが苦しむ姿をアイは見ていられません、と。
忘れられるなら忘れている、忘れられないくらい何度も何度も見ているから相談しているの、あたしはどこかおかしいの? 粘ってみたがアイは困ったように笑って悲しい顔をするだけだった。
そして抱きしめられた。アイは寛容です、あなたの全てを受け入れます、何も気に病むことはありません。
圧縮されて形づくられた空気に包まれた。頭にもその空気の重みを感じた。撫でられたのだろう。でも違う、とサンは思った。私は知っている、これじゃない。
誰か生徒に相談しようとした。だが出来なかった。サンが夢の話をすると必ずアイが現れた。何を話しているのですか、と。いつもの笑顔をたたえて。
自分たちの一挙手一投足が、呼吸が動悸が視線の動きが、全てが見られていていつでも管理されていると気が付いたのはそれからだ。
おかしいと思った。そんなの絶対におかしい。
だがその違和感をサンは誰とも共有出来なかった。他の生徒は自分よりも前からその事実を知っていて、そしてそれを当然のこととして受け入れていた。あのもわもわした空気の塊をアイと呼び、あの映像と音を微笑みと呼び、あの塊に触れられることを抱擁と呼んでいた。
そして生徒同士の肌が触れることを極端に嫌った。誰もが病原菌を保有していてそれは接触感染する、感染すれば大変なことになる。大変なことってどんなこと? と尋ねれば、大変なことです、とアイが答えた。
だから尋ねるのをやめた。疑問が浮かんでも考えるだけにした。出来る限り自分が考えていることを悟られないように振る舞った。
そんな時だった。シュセキに呼びだされた。自由時間だ、と。
サンは興奮した。アイに見られていないなら、アイに聞かれていないなら、大声で尋ねることが出来る。意見を聞くことが出来る。夢の意味がわかるかもしれない。
しかし誰に尋ねるかは吟味せねばならない。受け入れられない者もいるだろう。ロクなどは特に臆病だ。自分を気味悪がるかもしれないしその後の関係が壊れるかもしれない。迷っているうちに声をかけられた。シュセキだった。
―ここなら聞ける―
覚えていてくれたことに驚いた。シュセキに相談を持ちかけたのはかなり前の話だ。アイに中断されたし、シュセキは自分が何を相談したかったかなど把握できなかっただろうし、そもそも自分が相談を持ちかけたことなど忘れていると思い込んでいたから。驚いて、嬉しくて、期待した。しかし。
―夢は夢だ。意味はない―
そんな言葉が聞きたかったわけじゃない。期待した分、失望も大きかった。
出所不明の通信が届いたのはその後だ。地上から、というのにも驚いたが、最も目を見張ったのはその内容だった。
『オリロ』
降りなければと感じた。誰かに頭の中で囁かれたみたいに頷いた。義務感を伴った願望だった。
通信を不安視して行動に移したがらない生徒もいた。おそらく自分は少数派だ。しかし予想に反して降りたいという生徒が多数派だったことには驚いた。もしかしたら本当に夜汽車を降りられるかもしれない。いや、絶対降りなければ。何故と問われれば上手く答えられないが自分は降りなければならない。
―行きなさい―
あの声が聞こえる。声の主はわからないが、おそらく女だ。アイではない。もっと別の、もっと立体的で実体的な、でもとても恐ろしい存在からの声がサンを急かした。
「サン? 寝てる?」
間の抜けた声と同時に扉を叩かれた。この声はジュウゴ。時計を見て自分が寝過ごしたことに気がついた。
「起きてる? ねえ、サンってばぁ」
扉を叩くか呼びかけるかどちらかにしてほしい。これではただの騒音だ。しかし呼びに来てくれた厚意には感謝しなければならないだろう。サンは返事をして居室を出た。
* *
「珍しいね。君が寝過ごすなんて」
「ごめんなさい。疲れていたみたい」
「謝ることじゃないよ。ジュウシなんていつも寝坊だ」
ジュウゴは嫌味のない笑顔で言った。彼は裏表がないのだろう、自分と違って。その分、茶化されたり時には見下されたりしているというのに全く根に持つことはない。話し始めると回りくどいし理解力にかけるし疲れるが、悪気がないのは確かだ。本気で悪気がないとすればそれだけで特技だとサンは思う。
「通信は来たの?」
歩きながらサンは尋ねた。
「いや、まだ」
ジュウゴは答える。
「もう二度と来ないかもしれないね」
訪れてほしくもない仮定を口にするのは否定してほしい証拠だ。何事に対しても後ろ向きのサンがよくやる、臆病な逃げ方だった。
「大丈夫! きっと来るよ」
ジュウゴは期待通りに否定してくれた。
「なぜ確証もないのに『大丈夫』と言えるの?」
意地悪な質問をしてみた。『確証もないのに』とは以前、ジュウゴが皆に怒鳴っていた言葉だ。
しかしジュウゴは自分が放った言葉も忘れたのか、鼻の奥で唸って思案した後、くしゃっと笑顔を向けて、
「いつもジュウシが『大丈夫』って言うから刷り込まれたのかも」
その笑顔にサンもつられた。
「あなたたちって仲がいいよね」
「彼は僕で遊んでいるだけだよ」
サンとは反対にジュウゴは顔をしかめる。
「僕が勉強が出来ないと思って説明は長いし、いつもあからさまに嫌な顔するし、他の皆に対する態度と全然違うんだ。遠慮がまるでない。いっつも僕らにだけ辛辣だ」
『僕ら』とはジュウゴとシュセキのことを指しているのだろうと、サンにもすぐにわかった。それを仲がいいというのでしょう? とサンは思う。気を許している証拠だろう、と。
「ねえ、あの日のことなんだけど、」
ジュウゴの愚痴をサンは遮る。ジュウゴは全く気にする様子もなく「『あの日』って?」と首を傾げた。
「本当に木なんて立っていたの?」
世間話のつもりだったのだが予想に反してジュウゴは立ち止まった。サンも数歩行って立ち止まる。
「君もどうせ僕の見間違いだって言うんだろう」
挑むように、不貞腐れたように、顎を引いて上目遣いにジュウゴは睨み上げてくる。
「僕は確かに見たのに、誰も見てないくせに、なんで決めつけるんだよッ!」
語尾が反響して余韻が漂った。怒っているというよりは駄々をこねているようだった。不満に見せかけた言葉の中に隠しきれない願望が滲みでている。信じてほしい、そう聞こえた。
―夢は夢だ。意味はない―
自分もジュウゴくらいに表情豊かに訴えられたら、もう少し汲み取ってもらえただろうか。彼が言ったことは間違いではない。真っ当な返答だったとサンも思う。けれどもあの時サンがほしかったのは、理路整然として常識に基づいた、限りなく正解に近い事実などではなかった。
「決めつけないわ」
ジュウゴが顔をあげる。
「あなたが見たんだもの。何かあったのよ、きっと」
木だったか否かは別としても。
「見たんでしょう? ならばきっとあったのよ」
自分で言いながら変な問答だな、と思った。慰めようと思ってジュウゴが欲しているだろう言葉を探したが、到底肯定できることはないし、かと言って彼に正論が通用しないのは授業でも証明されているし。行き着いたのは中途半端なごまかしだった。でも自分だったら否定されないのは嬉しいことだと思う。
ジュウゴはしばらくぽかんと口を半開きにしたままサンを見つめていたが、徐々に口角が持ち上がり、やがて力強く頷いた。
「うん。そうだよね。そうだよきっと、ありがとう!」
言ってジュウゴは歯を見せた。
いいな、とサンは思う。ジュウゴの笑顔はいいな、と。自分も微笑んでいたことに気づかずにジュウゴを見つめた。
ジュウゴは笑いながら頷いていたが徐々に笑顔が消え、動きが遅くなり、真顔と驚いた顔の中間みたいな表情でサンを見つめた。サンも真顔に戻って「何?」と尋ねる。途端にジュウゴは真っ赤にした顔を背けて、頭を掻き始めた。
「ま、まあ? 彼が世話焼きに…焼きで助けられることも、さ」
急にしどろもどろになりながら大股でジュウゴが歩きだした。サンも後を追う。実際、ジュウシがいなければジュウゴの学習進度は今以上に遅滞するだろうとはサンも強く思う。
「ジュウシが辛辣なのはあなたたちにだけよ。どちらかというと、いつもへらへらしている印象だわ」
「へらへら。うん、確かに」
ジュウゴは軽く笑った。しかしすぐにまた顔をしかめて「でも、アイのこととなるとむきになるよね」
これにはサンも大きく頷く。いつもはシュセキとジュウゴ以外には誰に対しても笑顔を絶やさない温和なジュウシが、アイについての自分の見解にぎらぎらした怒りを向けて来た時は驚きを隠せなかった。
「彼のあれって何なのかしら」
自分にはアイにあそこまで思い入れする思考がわからない。サンにとってアイは、奇怪で得体の知れない対象だ。
「単に大切なんじゃないのかな」
ジュウゴがさらりと答えた。「大切?」サンは聞き返す。
ジュウゴは頷いてから、
「アイが悲しむのが嫌なんだよ、きっと」と言った。
―行きなさい―
不意にあの声を思い出した。あの恐ろしい、考えるだけで背筋が寒くなる声。しかし最初からそうだっただろうか。いつから自分はあの声を恐れるようになったのだろう。アイに相談してから? もっと後? それより前は確かもっと……。
「サン??」
どうしたの? というジュウゴの声に我に返った。ジュウゴは少し前で立ち止まって慌てている。いつの間にか歩みを止めていた自分を待ってふり返ってくれたようだ。ジュウゴが駆け寄って来て「大丈夫?」などと聞いてくる。何が? と尋ねる前に自分が泣いていることに気付いた。
「え? あの…、ごめん、僕なんかしたかな? どうしよう、あの…」
「気にしないで。なんでもないから」
慌てるジュウゴをなだめて涙を拭いた。ジュウゴはまだ困った顔で頭を掻いている。
「ごめんなさい、本当に何でもないの」
「謝ることじゃないけど…」
相当困らせてしまったらしい。悪いな、とサンは思う。
「あのさ、」
困った顔のままジュウゴが言った。
「お節介かもしれないけれども、ナナたちと何かあった?」
的外れな気遣いをされてサンは失笑した。ジュウゴはさらに困惑している。
「ない。大丈夫」
そもそも仲違いをするほど仲が良いわけでもない。ナナとハチの結束の間に自分の居場所など無い。
「大丈夫じゃない時は大丈夫って言わない方がいいよ」
確証がないのに大丈夫と言っていたのはどこの誰? と思いながらもサンはその気遣いに頷いた。そして少しだけ気を許した。アイが眠っている時間だったからかもしれない。夢の話をした。おそらく話を聞いてもらう相手としての候補からは一番遠い存在だったジュウゴに。
彼に答えられるはずがない、シュセキでさえそうだったのだからと思いながらもただ、聞いてほしかっただけかもしれない。
ジュウゴは困った顔から力んでいるような顔になって、頭を掻き毟りながら唸っていたが、やがてぱっと顔をあげてサンに言った。
「君はその夢の中の男女のことが大切なんじゃないのかな?」
「大切?」
先と同じ言葉だったが思ってもみない回答だった。ジュウゴの発言はいつも予想の上を行く。
「多分だけど」と前置きしてジュウゴは続ける。
「その男女と君がどういう関係なのかはわからないし、もしかしたら君の頭の中で作り上げた想像かもしれないし、けど、何度も夢に出てくるんだとしたら、忘れないように夢に君に見せているんだよ、夢がね。それって大切だからじゃないのかなって」
一部文法的に破綻しているように感じたが意味は伝わった。シュセキの乾いた回答よりもアイの無難な優しさよりも、妙に納得のいく答えだった。大切だったんだ、そう口に出すとまた涙が溢れてきた。またジュウゴが慌てふためく。
「あの、どうしようジュウシ…、あ、いやその、……サン?」
「ありがとう」
そう言うのが精一杯だった。頭に何か触れた気がして顔をあげるとジュウゴがおろおろして頭を掻いていた。
再び通信が拾えるか否かと通信推進派も反対派も固唾を飲んで見守っていたのだが、待てど暮らせど件の通信は来なかった。
やがてゴウが飽き、ロクがうたた寝し始め、ニイが居室に戻ると言うと、三々五々散っていった。僕よりも寝坊だったサンはジュウゴが起こしに行って間もなくやって来たが、よほど眠たかったのだろうか。赤い目をしていたし、すぐに居室に戻った。あれほど通信を待っていたくせに。
前回があまりに刺激的過ぎて期待半分、不安半分、総じて興奮していたものだから、皆、興醒めしたのだろう。気がつけば残っていたのはいつもの顔ぶれだけだった。
「今、何時?」
僕は尋ねた。シュセキが端末の時計をこちらに向ける。
「あと一時間で起床時刻じゃないか」
僕は胡坐をかいたまま背伸びをして、ついでにあくびも出た。
「そろそろ僕も帰るよ」
言って立ち上がりかけた僕にジュウゴが待ったをかけた。
「あのさ、ちょっといい?」
嫌な予感がした。絶対『ちょっと』なわけがない。露骨に嫌な顔をしていたと思う。
「駄目だ。寝る」
「相談…いや質問、いや、やっぱり相談があるんだけど……」
「シュセキがいるだろう? 質問に答えるのは彼が得意だ」
僕は面倒事を押し付けて早々に退散しようとしたのに、
「その質問を解説するのは君の役割だ」
臆面もなくシュセキが言った。
「いつからそういうことになったんだよ」
慌てて憤ってみせたが、
「慣例的になっているだろう」
「そうだよ、なってる」
シュセキとジュウゴは口々に言う。どうしてこういう時だけ気が合うんだ、君らは。
「……どこの単元?」
結局立ち膝を元に戻して僕はもう一度胡坐をかく。
「勉強じゃない」
ジュウゴはそう言うと正座になった。太腿に両手をおいて行儀よく縮こまっている。
「また植物?」
「ちょっと違う、かな?」
「じゃあ何?」
「……あのさ、」
ジュウゴは上目遣いに僕たちを交互に見遣り、
「誰にも言わないでほしいんだけれど…」
面倒臭い枕詞を使い始めた。
「言わないでほしいなら言わない方がいいと思うよ」
言って僕が立ちあがりかけたが、ジュウゴに袖を掴まれる。
「伸びる!」
「頼むよ、ジュウシぃ」と情けない声ですがりついてきた。
「だったら早く話せよ!」
言って僕はジュウゴを振り払った。すると今度はシュセキが立ち上がる。
「どこ行くんだよ」ジュウゴが言う。
「くだらなそうだから僕は戻る」とシュセキ。
「ちょっと待てよ。僕に残れと言ったのは君だろう?」
今度は僕がシュセキに言った。言ってからジュウゴに、
「元はと言えば君がすぐに言わないからじゃないか!」
ジュウゴは顎を引いて口を噤んだが、すぐにまた顔を突き出してきた。
「違うよ! 元はと言えば君が話を聞いてくれないから…」
「聞くから早く言え」
シュセキがジュウゴを見下ろして言った。その態度にジュウゴはむっとする。
「そんな言い方ないだろう!」
「どんな言い方ならいいのだ」
「もう少し柔らかく言ってくれたって…」
「わかった、わかったよ!」
僕は大声で彼らの言い合いを遮った。ため息が出る。
「わかったよジュウゴ。話は聞くから勿体ぶらずに言ってくれ。もうすぐアイも起きて来るんだし」
ジュウゴは唇を閉じて尖らせる。
「シュセキもとにかく座ってくれ。君の言い方もきつすぎるよ。言っている内容は大賛成だけれども言い方は少し気をつけろよ」
シュセキがそっぽを向いて眼鏡を指で押し上げた。
誰にも聞かれたくないからこの時間を選んだのだろうが、起床時刻が訪れてしまっては何の意味もなくなるのだ。ジュウゴは改めて正座になると土を見つめながら言った。
「僕、……おかしいかもしれないんだ」
僕とシュセキは顔を見合わせた。
「うん」
「知っている」
「否定しろよ!」
ジュウゴはまたいきり立ったが、今度はすぐに肩を落としてもう一度土を見つめて続けた。
「そうじゃなくて。異常だってわかっているんだけれども、無性に、その、触りたく…」
「はあ?」
僕は上半身を傾けて耳をジュウゴに近付けた。しかしジュウゴは嫌がるそぶりもしないでさらに肩を落とし、
「だから…、だから! 触りたいんだよ、サンに!」
一息に言いきった。
僕は口を開けたまままじまじとジュウゴを見つめていた。何を言っているんだ? 彼は。
「感染したいのか?」
「したくない」
「意味がわからない」
「僕もわからない」
「だって接触すれば感染するだろう?」
「うん」
「じゃあなんで?」
「だからそれがわからないんだって!」
結局大声で喚いてジュウゴはむくれた。
僕はジュウゴが何を言いたいのかさっぱり汲み取れなかった。ジュウゴ自身もわかっていない様子だ。
立ちっぱなしのシュセキを見上げる。シュセキも僕と同様、意味がわかっていないだろうと思ったから。だがシュセキは真剣な顔のまま、眼鏡の奥からジュウゴを瞬きもせずに凝視していた。彼の行動もよくわからない。
僕は居住いを正して、使えないシュセキに背を向けジュウゴに向き直った。
「あのさジュウゴ、一つ確認させてくれ。
僕たちは誰もが個々の病原菌を保有していてそれは皮膚と皮膚が接触すれば感染する、自分の病原菌には免疫があるけれども他者のそれにはないから感染すれば病原菌に侵されて大変なことになる、ここまでは習っている?」
もうどのくらい前に習ったことか思い出せないくらい基本的な問題を出した。勉強にさえなっていない。学習単元というよりも常識だ。基本通念だ。
「知っているよ、それくらい」
ジュウゴは不服そうに口を尖らせている。
「わかっているんだろう? だったらそういうことだよ」
「どういうことだよ」
「感染すれば皮膚は変色して痛みを伴い、下手すれば損壊する。だから接触は絶対禁止されているし、万が一事故で触れてしまったら即座に洗い流すようにと注意を受けているんじゃないか」
僕はうんざりしながら常識を説いたが、
「だから分かっているって言っているだろう!」
ジュウゴは何故か異論を唱える。
「だったらなんで…」
「だからそれがわからないと言っているんじゃないか!」
そしてさらに頭をぐしゃぐしゃに掻きながら喚いた。
「わかっているよ、接触はだめだ。触れた方も触れられた方も危険だし僕だって痛いのは嫌だよ。
なのにわかっているのに触れたいと思ったんだよ。それが何故なのかわからないんだって、」
言いきってからジュウゴは頭を掻き毟る手を止めた。その癖は直した方がいいと、ぐしゃぐしゃにされた髪の毛を見ながら僕は思う。
「アイがいるだろう?」
僕は言った。
「アイなら皮膚を持たないし接触しても感染を起こさない。現にアイは僕たちに触れるし僕たちだってアイに触れられる。それで十分じゃないか」
ジュウゴは唇を結んで肩を竦めて顎を胸に押し付けて固まってしまった。僕には彼を困惑させた欲望も、その欲望の原因も全く見当がつかない。あまりに頑ななジュウゴを見ていると自分の方が間違っているのかもしれないという錯覚にさえ襲われる。
シュセキに振り返る。シュセキはまだ傍らに立ち尽くしたままだった。
「君はどう思う?」
話を振られてようやく微かに顔を動かした。質問されれば何でもすぐに答える男が、この時ばかりは何も言わなかった。
ジュウゴもシュセキも固まったまま何も言わない。静かだ。静かだと、床から車輪の振動が響いてくる。意識するとむず痒くなってくる。
「例の通信じゃないけどさ、」
立ち上がり、尻についた土を払いながら僕は言う。
「君のそれこそアイに相談した方がいいと思うよ」
おやすみ、と言って僕はその場を離れた。
「ちょっ、ジュウシ…」
呼び止められたことに気付きつつ眠たさが頂点に達していた僕は、聞こえないふりをした。今となってはこの時の自分を恨めしく思う。
* * * *
ジュウゴの粗忽やシュセキの無鉄砲、サンの狡猾さなど原因は様々あっただだろう。何かが主軸だったわけではなくて、いくつかの要因が複合的に絡まり合って最悪な事態に繋がったのかもしれない。そしてその要因の一つが僕の無責任にあったことも、僕自身気付いていた。
だから本当に、ハチには申し訳なく思う。
ジュウゴはジュウシが立ち去った後も自動扉を見つめて立ち尽くしていた。
「なんだよ……、何だよ! こっちは真剣に悩んでいるのに! どうして僕が相談したと思っているんだよ!!」
そんな切り捨て方をされるとは思っていなかった。ジュウシならもっと真面目に考えてくれると…、
「期待したからだ」
そう、期待していた。
「だが期待し過ぎだ。彼がいつでも君の願うとおりに行動すると思うな」
「そんなこと思ってないよ、うるさいな。君に聞いてるわけじゃないからいちいち答えてくれなくていいよ」
ジュウゴはシュセキに向き直って吐き捨てるように言い放った。それから気付いて、
「大体、なんで君は何も言ってくれないんだよ。君が何か言ってくれたらジュウシだってもう少し話を聞いてくれたかもしれないのに。今更、揚げ足とるだけなら黙っていてくれよ!」
鬱憤を撒き散らした。しかし、
「黙っていろと言う割には僕の意見を尋ねるのか。矛盾している。ちなみに僕が君の望むように動くと思ったら大間違いだ。君の期待に応えなければならない理由も根拠も何もない」
口喧嘩でジュウゴがシュセキに勝てるわけがない。
「腹立つ」
ジュウゴはそっぽを向きながら言った。
「僕もだ」
シュセキは正面を見たまま呟く。
ジュウゴは歯ぎしりした。だがそれ以上言葉が出てこなかったから、苛立ちのままに踵を返して歩き出す。
「どこへ行く」
すかさず声をかけるシュセキに、
「おやすみ!」
律儀に挨拶するジュウゴ。
「こんな時間から寝るのか。どうせすぐに起床時刻だ。下手に寝るよりもこのまま授業を迎えた方が遅刻する可能性は少ない」
「いいんだよ別に。おやすみ!」
「良くないから言っている。わからないのか」
ついにジュウゴは振り返った。
「いちいち腹立つな。何なんだよ、君は!」
「僕もだと言っているだろう」
「僕がいつ君の気分を害したんだよ」
「今だ」
「は?」
「いいから戻れ。寝るなと言っている」
早くしろ、と言ってシュセキは再び土の上に胡坐で座った。眼鏡の奥からじっと見てくる。ジュウゴは負けじとその目を見つめていたが、とうとう逸らして息を吐いた。頭を掻きながらシュセキに言われた通りに土の上に座る。
「君って本ッ当に意味不明だ」
「僕は君の話が理解可能だ」
ジュウゴは足を投げ出して天井を仰ぎながら、「どうせ僕は理解力もジュウゴだよ」と吐き出した。
「拗ねるな。よく聞け。先に君が言っていた衝動の話だ」
ジュウゴは尻の後ろに手をついて脚を投げ出したままの恰好で、首を起こして眉根を寄せた。
「……え?」
シュセキは咳払いして顎を引き、斜め後ろを睨みつけながら怒ったように呟いた。
「詳しく話せと言っている」
「なんで?」
「理解出来るからだ」
「どういう意味?」
尋ねてからジュウゴは考える。気付かないうちに右手は頭を掻いている。掻いて、掻いて、その手を止めて頷いた。
「君もおかしいのか!」
「その結論に行き着く君の思考回路の方が断然おかしい」
「何?」
早口過ぎて聞きとれなかったがシュセキは言い直すことはなかった。鼻から息を吐くとジュウゴには後頭部を向けたまま語りだした。
「君はいつそう思った?」
「いつって何を?」
「どのような状況であの衝動に駆られたかと聞いている」
「ここに来る前。サンを呼びに言っただろう? あの時、話しているうちに彼女が突然泣き始めたんだ」
ジュウゴは植物車両に来るまでの通路での出来事をシュセキに話した。話し進めるうちにシュセキの顔は普段以上に憮然としていく。
「なんで君に話すんだ」
話を聞き終えたシュセキがそう呟いたが、ジュウゴには聞きとれなかった。
「シュセキ?」
今度は何が面白くないのだろうか、シュセキは斜め下に視線を据えたまま全く反応を返してくれない。
「理解出来た? 出来たんだろう? ねえ、僕、おかしいの?」
自分の何が彼を怒らせたのかはわからないが、怒っているのだから怒らせたのだろう。でも自分だけ打ち開けさせられてシュセキは何も教えてくれないのは不公平な気がする。
「僕は話したぞ。次は君の番だ。理解出来たなら教えてくれよ。不公平だろう?」
「大概、何でも不公平だ」
シュセキがぼそっと言った。ジュウゴは聞き返したがそれにも答えてもらえなかった。代わりにシュセキは別口から切り出す。
「他の生徒に対してあの衝動はないか?」
ジュウゴは斜め上に目をやって、「わからない。さっきサンに持ったのが最初だから」言ってからぱっとシュセキに顔を戻した。
「でもナナの髪の毛は気になるかもしれない」
「ナナ?」
シュセキもジュウゴと同様に視線を動かした。そして、
「ないな」
「ないかな?」
「共通点は両方女子だ」
「確かに!」
ジュウゴは目を見開いて頷いた。それから、
「ジュウシは?」
顔をあげて尋ねる。
「ジュウシはまるであの衝動を感じたことがないみたいだった」
「実際そうなのだろう」
シュセキが答える。
「そもそも他の生徒がその衝動を覚えたことがあるかさえ疑わしい」
「疑わしい」
意味もなくジュウゴがシュセキの語尾を繰り返して沈黙した時、シュセキの端末が音を鳴らした。
ジュウゴとシュセキ目を見合わせ、すぐさまシュセキが端末を開く。ジュウゴが横に来て画面を覗きこむ。「近い」と言いながら端末を操作する手指は止まらない。「ごめん」と言いながらジュウゴの接近も止まらない。
『コチラネズミ』
「何て?」
ジュウゴの質問にシュセキは早口に答えた。
「前回と同じだ。また繰り返している」
「先周と通信時間が違うのは?」
「僕に聞くな。相手の都合だろう」
『オリロ』
「皆を呼んで来よう」
立ち膝になったジュウゴに、
「駄目だ。時間がない」
言ってシュセキが時計を顎で指した。時計を見てジュウゴも納得する。
「皆には受信の事実を伝えよう。だが次周まで待つしかない」
シュセキが手を止めて言った。
「それじゃ遅いよ!」
ジュウゴが首を横に振る。
「先周はあんなに早い時間だったのに今日はこんなに遅かった。次周はもっと遅いかもしれないじゃないか」
「ならば次周以降も待つしかない。こちらの自由時間と向こうの通信時間が合致する時はまた訪れるだろう」
シュセキは尚も先延ばしを提案したが、
「訪れないかもしれないだろう?」
ジュウゴはそれを拒絶した。
「ならばどうしろというのだ!」
シュセキが顔を上げて声を荒らげる。
『ドコニイル』
ジュウゴはシュセキから端末をむしり取った。咎めるシュセキを無視して集音機能を起動する。
「ここにいる!」
ジュウゴの言葉がそのまま画面に表示される。
「ジュウゴ?」
シュセキが驚きとも怒りとも取れない声でジュウゴを呼んだ。ジュウゴは唾を飲み込んでシュセキに向き直った。
「もうこんな機会はないかもしれない」
「皆で相談すると決めたばかりだ」
「呼んでくる時間はないと言ったのは君だろう」
「だから次周まで待とうと言っている」
「だから、次周まで待っていたら機会は二度と来ないかもしれないじゃないか!」
互いに言わんとしていることはわかっていた。だが互いに譲れなかった。どちらも正しいかもしれないしどちらも間違っているかもしれない。
「事故報告ってあるだろう? それでどうかな?」
ジュウゴが提案した。
「『事後報告』だ」
シュセキが即座に訂正する。
「一番最初に地上に降りたいと皆をそそのかしたのは君だろう?」
「『一番』と『最初』同時に使うな。意味が重複している」
「僕は降りてみたいよ」
ジュウゴは言った。
「僕は地上に降りてみたい。危険なのはわかっているよ、でも降りてみたい。君が言ったからそう思ったんだ。君がいなかったらこんなこと思わなかった。でも思ってしまったんだ、止められないよ。こんな好機があるなら危険だとしても使いたい」
好機は『掴む』もので『使う』とは言わない、シュセキは頭の中に浮かんでくる修正衝動を呑みこんで目を伏せた。
「ジュウシに言えば激昂するだろう」
ジュウゴが顎を引き目を泳がせる。
「相談も無しに独断で決行するのだ。約束を破るのだ。嘘をつくのと同じだ」
「嘘ではないだろう?」
ジュウゴは顔をあげた。
「真実を述べないのだ。嘘と同じだ」
シュセキがジュウゴを睨んだ。
「報告が遅れるだけだ。言葉が足りないだけだ。……嘘とは違う」
自分に言い聞かせるようにジュウゴは苦しい言い訳をする。
「僕たちだけで決められる案件ではない」
「僕たちが決めないと逃してしまう好機だ」
「埒が明かない」
「そんなことない」
ジュウゴが顔を突き出し、
「君だって交信しようとしていたじゃないか」
シュセキは眼鏡の奥からジュウゴを見つめた。
しばらく互いに睨みあっていたがやがて目を背けたのはシュセキだった。
「指導では済まないな」
「送るのは僕だ。君は関係ないよ」
「同罪だ」
言うとシュセキはジュウゴから端末を奪い返し、ジュウゴの言葉を送信した。
ジュウゴは息を呑む。それから高揚した顔でシュセキを見つめ口角を持ち上げた。シュセキはそれが不服だったかのように憮然として顔を背ける。
「君と秘密事かと思うと情けなくなる」
「ジュウシ、怒るかな」
「激怒だろう」
「一緒に怒られよう」
「それは知らない」
「え…」
不意をつかれたジュウゴが間の抜けた声を発すると同時にシュセキは端末を抱えて立ち上がった。
「時間がない。居室まで走るぞ」
ジュウゴも思い出して慌てて立ち上がり、逃げるように最後尾の車両から走り出た。
走るシュセキの脇の中で、端末が受信音を鳴らしていたことにその時は気づかなかった。
『ムカエニイク』