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15-22 決意

「おいおいおい。誰だよ、ヤッさんに二輪貸したの」


 頭の上で男のため息が聞こえた。サンは顔を上げる。進行方向の反対、視線の先で、次々に横転していく四輪駆動車と自動二輪。その間を縫うように一台の自動二輪がこちらに近づいて来る。


「すぐ撒けますよ。『出来そこない』くらい」


 運転席から弁明が聞こえる。


「誰でも一つは特技ってあるんだよねえ」


 ヤチネズミが追い上げて来る。


「何の話ですか?」


 自分を抱える男と示し合わせたように、サンも男を見上げた。男と目が合う。ぞくりとした。


「それ捨てて」


 捨てる?


「え、でも、せっかくの…」


「俺まだ、死にたくないからさ」


 男は鼻で笑うと顎をしゃくった。それが合図だった。体が浮いた。とてもゆっくり地面が近づいてくる間、サンは男の言葉を理解した。捨てるって、そのままの意味。捨てられた体の半分が砂に接触した瞬間、時間の速度が正常化する。打ち付ける、擦れる、跳ねる、何回転も転がってようやく止まった。

 全身の痛みでしばらく動けない。腰と背中を強打した。呼吸がままならない。塞がれたように聞こえの悪い耳で遠ざかっていく原動機の音を聞いた。反対方向から近づいて来る音。サンの周りを半周して止まる。血みどろの顔が膝をついて屈みこむ。


「大丈夫か」


 弾けたように呼吸が再開してサンは顔を上げた。先まで逃げていた相手に気遣われた。ネズミが出たら逃げろ、そう教わって来た。そう教わって来たと思いだしてそのように行動した。


「おい、話せるか? 頭、いっちまったか?」


 銃口を向けた本気で殺そうとした相手の顔を見て、


「どうして?」


「は?」


「だって、あなたもネズミ…」


「大丈夫じゃねえかよ」


 ヤチネズミは気の抜けた顔になると横を向いて息を吐いた。そのまま腰を下ろして、今度は長くて盛大なため息をついた。脚を投げ出し後ろ手をつき、空を仰いでまた息を吐く。息を吐きながら「痛え!」と叫んで砂の上に倒れた。

 隣に横たわる男から、座ったまま最大限の距離を保ちながら、サンの目は男を凝視した。


「どうして?」


 ヤチネズミが片方の瞼を持ち上げた。


「あなた、ネズミでしょう? あいつらだって」


「俺らにも事情があんだよ」


 苦痛を口にしながらヤチネズミが答えた。


「でも、ネズミが出たら逃げろって…」


「お前、地下だったっけ、そういや」


 本気で今、思い出したと言わんばかりにヤチネズミが言った。サンはますます困惑する。


「それはあなたが何度も私に…」


「今は夜汽車なんだろ? ならそれでいい」


 サンは身を乗り出し、寝転がる男を覗きこんで再度尋ねた。「いいってそんな曖昧なこと…」


「なら『似非(えせ)夜汽車』だ。満足か?」


「えせって…」


「うっせえな! コウと約束してんだよ」


 言いながらヤチネズミが起き上がった。起き上がりながらも顔を歪め、「いてててて…」と繰り返す。サンはもう、ヤチネズミから距離を保つことを忘れていた。起き上がり、目の前に来たその顔をまじまじと見つめる。


「あなた、本当に私たちを助けてくれるつもりなの?」


「ああ?」と呆れて大声をあげ、すぐに苦痛に顔を歪めてからヤチネズミは言った。


「だから言ってんだろ。そうだって」


 言っていた確かに、とサンも思い出す。思い出して納得して、強張っていた肩の力を久しぶりに抜いた。


「……大丈夫?」


 力が抜けて、冷静になって、初めて素直な感想が口をついた。しかし、


「大丈夫な訳ねえだろが! 全身痛えよ、クソが!」


「ごめんなさい」


 素直に謝っていた。しかし大声が体に響いたのか、さらにヤチネズミは痛そうに体をよじりながら弱々しい声を漏らしていて、サンの謝罪など届いていない。


「くそ痛え。ふざけんなよ、なんなんだよ、絶対俺の仕事じゃなくね? こんなん。くっそ…」


 ヤチネズミはぶつぶつ悪態をつきながら立ち上がり、歯を食いしばって背を伸ばした。伸ばしきったところで荒い呼吸を何度かして、目だけでサンを見下ろす。


「行くぞ」


「どこに?」


「帰んだよ。コウが待ってる」


 サンは口を開けたまま瞬きをした。「…あそこには、ワシがいるじゃない」


「はあ?」


 サンの言葉に顔を突き出したヤチネズミは、そこでようやく思い出したのか大口を開けて息を飲み、それがまた傷口に障ったのか顔を歪めた。こんなに表情が変わる男だったのか、とサンは場違いな感想を持つ。

 ヤチネズミは唯一動かせると思われる左手で目元を覆った。「忘れてた」


「どうするの」


 とりあえずの危機を退いてもらいはしたが、サンはこの傷だらけの男の無計画性に呆れた。

 しかしすぐに危機感を失っていたのは自分自身だと気がつく。相手はネズミだ。男だ。周囲には誰もいない。


―とりあえず脱げって―


 今度は大声を出してもシュセキもジュウゴも誰もいない。サンは二の腕を擦った。座った姿勢のままでじりじりとヤチネズミから距離をとる。


「とりあえず、」


 息を飲む。自動二輪を見つめる。この男を押し退けてその隙をついて……


「合流だ。帰るぞ」


「え?」


「は?」


「あ……」


 望ましい方向にではあるのだが、予想が外れてサンは戸惑った。


「帰るって言ってんだろ。ワシは…、まあ何とかなんだろ。とりあえずあいつらだけで置いとくのは心配だ」


 言ってヤチネズミはサンに振り返り、眉間と鼻筋に皺を刻んで目を細めた。


「何やってんだ? お前」


「別に、何も」


「……何、お前。まさか俺が犯すとでも思ったか?」


 ヤチネズミは上体をのけ反らせてサンを見下すと、横を向いて息を吐いた。そして、


「ふざけんな! 俺にだって選ぶ権利あるわ、くそ餓鬼。せめてあと五年は熟成させろ、このまな板女ッ!」


 ヤチネズミが何に憤ったのか、何を言われているのか、サンには所どころしかわからなかったが、恐らく馬鹿にされたことは確かだろう。

 ヤチネズミは痛みか苛立ちに舌打ちし、ぶつぶつ言いながら自動二輪に跨った。目も合わせずにサンを顎で後部座席に促す。他に選択肢も無く、サンは渋々自動二輪の方に踏み出した。自動二輪の横に来たところでヤチネズミが外套をまさぐり、何かを押し付けてきた。暗い空の下で目を凝らす。布?


「顔、覆っとけ」


 そっぽを向いてヤチネズミは端切れをサンの手の上に置いた。サンは受け取り、反対の手を顔に伸ばす。頬と言わず額と言わず、顔半分に鋭い痛みが走って目を瞑る。離した指先にはどろりとした血液が絡まっていた。


「もろ風、受けるよりいんじゃね?」


 優しさ、なのだろう。

 ヤチネズミは舌打ちすると血みどろの顔を向けてサンを睨みつけた。「早くしろよ。朝になっちまう」


「あなたの顔の方が酷いと思うけど…」


「ああ?」


「……なんでもない」


 何故彼は常にこれほど不機嫌なのだろう。サンはもう面倒臭くなった。それからふと、ジュウシの顔が脳裏によぎった。そう言えばジュウシも、褒めたり感謝したりすると悪態をつく癖があったな、と。ヤチネズミももしかしたらただの極度の照れ屋で、単に強がっているだけなのかもしれない。


「すぐ巻くわ。ちょっと待っていて」


 言ってサンは手渡された端切れを広げた。両手に広げて顔を上げて、そこでサンは固まった。ヤチネズミに知らせようとしたが、喉の奥からは変な音しかでなかった。


「なんだよ」


 と、面倒臭そうにヤチネズミ。本当に気付いていない。


「さあ? なんだろうね」


 間近に佇む顔が口を開き、ヤチネズミはようやく気付いて振り返る。しかし動いたのはわずかな距離だった。ヤチネズミの喉元には伸びた爪が食い込んでいる。女は反対の手をヤチネズミの肩に置き、口角を持ち上げた。


「あんたも動くんじゃないよ」


 気がつくとサンも固められていた。サンは背後から首に腕を回されている。反射的に逃れようと顎を上げれば、余計に喉が絞められた。


「悪いね。おっぱじめようってときに」


「よく見ろ。なんも始まってねえだろ」


 ヤチネズミは覗きこんでくる女の顔も、サンの方も見ないで、女の軽口に返した。女は随分楽しそうにからからと笑った。


「いちゃついてたくせに、よく言うよ」


「してねえっつってんだろ、耳悪いな。第一、幼女趣味はねえんだよ」


「あら、変わり者。もしかして男色家?」


「巨乳の熟女派だ」言ってヤチネズミは女の胸元をちらりと見た。それから鼻で笑って、「お前も論外だけどな」


 女がヤチネズミの喉元から手を離したと思いきや、反対の肘と拳でヤチネズミの顔を打った。ヤチネズミが自動二輪から払い落される。サンは息を呑んだだけだった。ジュウゴのように駆け寄ることも、ナナのように傷の痛みを共感することもない。ただ暴力が怖ろしく、それが自分に向かずに済むようにと息を顰めて存在を消すことしかできない。

 女は尻をついたヤチネズミに迫り、その頭髪を掴んで顔を上げさせた。


「ネズミを相手にする奴がいると思った? 仮にネズミじゃなかったとしても、」言いながらヤチネズミの顔を正面から一瞥し、顎を上げて見下すように笑って言った。「あんたじゃ却下」


「体は案外いいかもよ?」


 サンの背後で別の女が言って周囲の女たちが笑った。ヤチネズミの正面にいた女は、ヤチネズミの頭を払い捨てるようにして手を離すと、その頬を足で蹴った。その顔を女はさらに踏みつける。


「あたしはいいわ。あんたほしい?」


「いらない」


 サンの背後の女が笑って答える。


「誰かこいついる?」


 ヤチネズミを足蹴にする女が声を張る。そこかしこで女たちの笑い声が湧きたつ。楽しそうな、仲良さげな、意地の悪い嘲笑。サンにも彼女たちが地下に住む者だということがわかった。彼ら彼女らは皆、仲間以外の者に対して同じ種類の侮蔑を向ける。男も女も関係ない。

 サンは息を顰めながら周囲を見回した。女だけの一団だった。そして誰も小銃を持っていない。ワシのような細長い刃物さえ持っていない。体一つで彼女たちはそこに立っていた。対してヤチネズミは小銃を肩にかけている。腰帯には短い刃物も仕込んであったはずだ。多勢に無勢とは言え、ヤチネズミがその気になれば、目の前の女くらいならば退けることも可能ではないだろうか。その間に他の女たちが彼を集団で襲撃しようとも、小銃で威嚇するなり自動二輪で走り逃げるなりできるのではないだろうか。何故、無抵抗でいるのか。

 サンは何とか背後の女から逃れようと試みた。互いに素手だ。不意をついて体当たりなどをすれば当たるのではないかと考えた。その隙に自動二輪に乗ってこの場を離れて…。

 そこまで思って諦めた。無理だと悟った。自分を自動二輪から突きとばしたネズミたちが去った方角から、幾つもの影がこちらに向かって来ていた。もっと早く行動を起こしていればどうにか出来たかもしれない。いや、それでも手遅れだった。多すぎる。例えヤチネズミでも無理だ。影たちが手にさげ、引き摺っているのは、先のネズミたち。


「子どもばっかだねえ、あんたの仲間」


 迫りくる女たちの最後尾から声がした。ネズミたちから奪ったのだろう。小銃を手にしている。ゆっくりと歩くその女に道を譲る様にして、他の女たちは立ち止まる。最後尾にいた女はたっぷりと時間を使ってヤチネズミの元まで歩み寄り、腰を屈めて顔を覗きこんだ。


「ネズミってもっと大所帯じゃなかった?」


「こっちにもいろいろ事情があるんだよ」


「どんな事情なんだか」


 ヤチネズミを一瞥した女は腰を伸ばし、「てめえは遊んで子ども死なせてりゃ保護者失格だろ」言って銃口をヤチネズミの頬に押しつけた。


「思い込みの激しい女どもだな」


 ヤチネズミは抵抗しない。


「あっちであの子らに詫びといで」


 ヤチネズミが短く息を吐き、そして目を閉じた。


「待って!」


 サンが叫んだ。咄嗟の行動だった。全員の視線が集中する。汗がどっと噴き出し、声を上げたことを後悔した。その後のことなどもちろん考えていない。


「あんたどこの子?」


 傍らの女が言った。


「ネズミを庇うなんて聞いたこと無いよ」


 別の女が言う。


「あんたが殺したいの?


 思ってもいない提案をされてぎょっとした。


「あんたの話は後で聞くから」


 横から歩み寄って来た女が言って、サンの横で立ち止まった。「でもなんで? ネズミ潰しを邪魔すんじゃないよ」


「そいつは夜汽車だ」


 ヤチネズミが言って女たちが同時に振り返った。それからまた、同時にサンを見る。サンはヤチネズミを見た。彼は何を考えているのか。サンを夜汽車として差し出して、自分はこの場から逃れる算段なのだろうか。


「地下だったかもしれない夜汽車だ」


 女たちがどよめく。傍らの女がサンを覗きこんだ。


「あんた夜汽車なの?」


 サンは答えに窮した。どう答えるべきか。夜汽車と言えば飲まれる。地下だと言ってもどこに属するかで、彼らは恐らく区別する。だがサンは自分がどこの何者だったのかがわからない。おぼろげな記憶はある。だがそれは細々とした破片に過ぎず、全体像は定かではない。


「そうだよな? えせ夜汽車。いや地下か? どうせ最期だ。教えろよ」


「時間稼ぎ? 女々しいねえ」


 ヤチネズミに小銃をつきつけた女が言った。「小賢しい男は嫌いだよ」


「俺はあんたみたいな女、好きだけどな」


 ヤチネズミがにやりとして、女も片頬を持ち上げた。


「十年早いわ」


「十年後に出直させろよ」


「根性だけは褒めてやるよ」


「そうよ! 夜汽車よ!」


 サンは叫んだ。女たちが振り返る。ヤチネズミがにやりと笑った。


「あんた本気で?」


 サンの腕を固めていた女が覗きこんできた。サンは一瞬怯み、それから歯を食いしばって顔を突き出した。


「ええ、そうよ。私は夜汽車にいたわ。彼は、ネズミのその男は仲間を引き連れて私の夜汽車を破壊してきたの」


「夜汽車を?」


「何のために?」


 女たちが疑問と動揺を口にする。ヤチネズミに銃口を突き付ける女もこちらを向いている。今のうちに逃げて、サンは願った。サンはヤチネズミを見つめながら続ける。


「彼らは頭数がほしいと言って私たちを戦力に加えようとしていた。嘘だと思うならワシに確認するといいわ。彼らが襲った夜汽車は半数しか乗っていなかったはずよ。だから、だからそれで……」


 続かない。次は何を言えばいい。何と言えば女たちは退く? ヤチネズミは解放される? 何と言えば、どうすれば私たちはジュウゴたちの元に戻ることが……

 ヤチネズミに銃口を突き付けていた女が別の女に小銃を渡して、こちらに近づいてきた。サンの腕を掴んでいた女が退く。女は周囲の女たちよりも細くて、頬がやつれていて、なのに目だけはぎらぎらしていて、その見開いた目を近付けて来てサンの顔を両手で覆った。



* * * *



 動くものが何も無い砂の上で、ヤチネズミはしばらくその静寂を味わっていた。後頭部の鈍痛に顔をしかめながらようよう起き上る。患部をさすり、出血が無いことを確認した。ネコ共め、でかい置き土産をおいていきやがって。だが殺されなかっただけありがたい。あの夜汽車のおかげだろう。夜汽車だったのか地下だったのか。最早、確認のしようもないが。

 壊された自動二輪、持ち去られた小銃、短刀、通信機器、そして。ネコたちに囲まれた時は死も覚悟したヤチネズミだったが、窮地を逃れると失った物の大きさに臍を咬まずにはいられなかった。


―ついてないのはどうしょうもないじゃないすか。偶々ネコの出るところにばっか出くわすとか、偶々仲間を一番多く死なせちゃってるとか―


 顔を上げる。いくつもの遺体が無造作に、そこかしこに捨てられている。

 ジャコウネズミを失って、ハツカネズミともはぐれてジネズミたちの居所もわからない。賭けたものほとんど失って得たものは? 無様過ぎて笑える。だがまだジュウゴたちが残っている。コウとワンをネズミに出来た。あいつらは使える。まだやれる。まだだ。まだ動ける。

 ヤチネズミは息を吐いた。体中のあちこちで痛みが駆けめぐって思わず声が出る。破壊された自動二輪に這いずり寄り、使えそうなものを探す。適当な長さの鉄の管を見つけた。それを右腕に押し当て、えせ夜汽車に渡すはずだった布切れを取り出した。左手と口と膝を使って右腕を固定する。途中、失敗して激痛に苦しむ。何とか鉄の管を固定し終えた問いには、涎と鼻水が滴っていた。

 右手の指を動かす。肩を持ち上げる。鋭い痛み。指先だけは使えるようだ。


「くっそ…」


 開口一番出た言葉はいつもの口癖だった。それが思いの外大きく聞こえて、誰もいないことが改めて身にしみた。

 コウにどう申し開きしようか、それが心苦しい。約束したのにな、と舌打ちする。

 ワシの大将を『お兄ちゃん』と慕っていたのは気にかかる。自分は地下ではないと主張していたが、ワシと関わりがあることは否めまい。だがコウがいなければ自分はあの場で死んでいた。気がかり以上にコウには恩がある。何よりヤチネズミ自身がコウを気に入っていた。

 それにあそこから連れだしてやればワシとの関係も切れるだろうとも思う。まだ幼いが素養はあるし、教育し直す価値は十二分にあるはずだ。

 コウたちと合流して子ネズミたちを探そう。セスジネズミたちも心配だし、何よりハツカネズミが気がかりで、落ち着いたかどうかが懸念される。だがまずはコウだ。距離的にもおそらくそれが一番効率的なはずだ。

 ヤチネズミは立ち上がった。周囲を見回す。月の去った空はいつの間にか星たちも隠れていて、気がつけば厚い雲に覆われていた。向こうでは既に降っているのかもしれない。急いでコウの元に戻らねば。しかし、


「どこだ? ここ」



* * * *



 何時から食べていないだろう。水は腐るほどある。水しかない。水ばかり飲んでいる。コウにも飲むよう促すが、日に日に飲む量は減っていた。彼自身の動作と言葉が減っていた。

 当初怒鳴ってばかりいた少年も今では必要最低限の言葉以外は吐かない。皆、動かず、話さず、消えかけた炎を励ますのと外への活路を確保する以外は少年も手足さえ動かさなかった。


「ワン、」


 コウが私を呼んだ。私は彼の腕の中で頭を持ち上げた。


「さむい」


 平気だ。


「コウが」


 私は踏ん張りの効かない前脚で立ち、下半身をコウにさらに近付けた。コウの顔を覗きこむ。冷たい頬に鼻先を押し付けた。少しは温かくなったか? 私が尋ねてもコウは虚ろな視線を泳がせるだけだった。

 私は向かい側で動かない少年を見た。私よりもかなり背が高い。私は体力を失っているが、しかし彼もまた衰弱しているのは確かだ。


「だめだよ」


 コウが言った。私は首を回す。


「やくそく。のんじゃ、だめ」


 長くて浅い呼吸の狭間でコウが私を咎めた。


「ワンの言うこと、きいておけば、よかった」


 何の話だ。


「あのとき、と」


 過ぎたことだろう。

 へへへ、とコウが笑う。やつれた頬が痙攣した。


「おにいちゃん……」


 コウは遠くを見る目で微かに顎を上げた。


「生きてる?」


 当然だろう。


「ワン、おにいちゃんみたい」


 私は少年を見遣る。死んだか。


「そうだよね、うん、そう」


 コウはゆっくりと瞬きをした。私の胴周りに絡めていた腕を持ち上げ、鼻先に手の平を置く。冷たい。

 コウ。

「いきたかった…」


 行こう、共に。

 コウは、ふふふ、と笑ったきりだった。


「おにいちゃん」


 コウ、


「おにいちゃん」


 コウ!

 コウは瞼を閉じた。私はしきりに呼びかけた。コウが私の鼻先を撫でた。指先だけで。


「おかあさん」


 呟いてコウは目を開けた。その中に私は映っていない。

 コウ。

 本当に、心から嬉しそうに微笑み、それから空のように涙を流してひきつけでも起こしたみたいに息を切らせ、声も無く泣いた。


 

 少年が起き上がる。重そうな体を腕で持ち上げて煩そうに顔を顰めてこちらを見ている。


「静かにしてくれ。頭に響くんだ」


 少年が額を手で押さえている。


「うるさいと言っているじゃないか、ワン」


 力なく声を荒げた。


「全く、どこにそんな体力が残っているんだ」


 完全に身を起こし、死にかけた炎に残りわずかな着火剤をくべている。


「君からも注意してくれないか」


 少年は首を回すと壁面に手をついてようよう立ち上がり、入口に向かって倒れ込むように雪をかいた。


「頼むよ、コウ」


 四つん這いに近い体勢で振り返り、少年は眉根を寄せた。


「コウ?」


 目元を顰めたまま緩慢に立ち上がり、壁面に手をついてやって来る。


「どうしたんだ?」


 少年は私に振り返り、顔を顰めた。


「ワンがうるさいんだ。注意してくれ。彼は、僕の頼みは聞いてくれないから」


 少年がコウの肩に手をかけた。コウの体が反対側に傾き、倒れた。


「ごめん。大丈夫?」


 少年がコウの体を起こした。僅かに目を見開く。


「冷たいな。こんなに冷えたら指先も痛いだろう」


 少年はコウの手を握りしめた。コウの体が私から離れる。温もりも、匂いも重みも、全て私から離れて行く。


「彼が重たかったのか?」


 少年が怪訝そうに私を見下ろした。


「寒いな」


 少年はため息を吐く。


「隣に座らせてよ。この体勢は辛いんだ」


 少年がコウの手指を握りしめたまま顔を上げた。


「コウ?」


 少年がコウの顔を覗きこむ。握りしめていた手を解いて肩に乗せた。コウの腕はだらりと地面に落ちた。


「コウ……、コウ!」


 少年はコウの体を揺すり、呼吸を乱してコウの体中を触った。


「どうして」


 コウの頬を両手で包み込み、捻るように擦りながら自問自答を繰り返す。


「損傷も無いのになんで…、ジュウシッ!」


 少年は取り乱して自分の頭を抱える。先までほとんど動かなかったくせに、その体力をどこに隠していたのだろうか。


「駄目だ。嫌だ、コウ! 起きてくれ、コウ!」


 コウにすがりついて懇願する少年の声は穴蔵の中にやかましく響き、私は耳を倒した。


「…何をしているんだ、君は」


 少年の声色が変わり、私は少年に振り返った。少年は驚愕と恐怖に満たされた顔で私を凝視している。初めて対面した時のように。


「やめろよ。コウだぞ? 仲が良かったじゃないか。いつも一緒にいたじゃないかッ!」


 少年がまた喚き始めたので私は背を向けた。


「やめッ! 飲まないで!」


 少年が体当たりしてきた。踏ん張りが効かない脚は弱々しく折れて、私は横腹を地面に打ち付ける。


「駄目だ! コウだ、コウだよ。そうだろう?」


 少年は乾燥した唇から唾を飛ばして、私から遠ざけるようにコウを隠した。

 コウ、私は君が大切だった。

 だが少年、コウは死に、私たちは生きている。



* * * *



 最終列車に保護されたジュウイチたちは、温かい毛布と、色の悪い植物の一部分と、そして缶詰を手渡された。腹が減っているだろう、とりあえず飲め、ゆっくりでいい、まず飲め―


 腹が減ると誰もが冷静さを失うらしい。空腹は短気をもたらし、思考を混乱させ、判断力を奪う。だから飲め、まず食べろと言われた。『食べる』とは、顎と舌を使って固形物を口腔内で微細に砕き、泥状にしたところで飲み込むことだそうだ。植物の一部は絞り出しされていない野菜だった。液状化されていない野菜を見たのは初めてだったし、スズメの食べる姿を見よう見真似で試してみたジュウイチだが、上手く行かずに咽て吐きだした。結局ジュウイチが口に出来たのは、飲み慣れた缶詰だけだった。


 缶詰の中身は夜汽車だそうだ。自分以外の別の夜汽車の生徒だった物だそうだ。缶詰になる夜汽車は廃線に入って地下に行く。塔に行く夜汽車は缶詰になった夜汽車の一部だ。アイは嘘は言っていなかった。でも全てが本当でもなかった。缶詰になることが夜汽車の仕事だなんて、自分たちはそうなることを余儀なくされていた者だなんて聞いていなかった。


 最終列車は空になった夜汽車を採集し、分別し、再利用するために塔に持ち帰ることが仕事らしい。彼らは自分たちの仕事を『ばらし』と呼んでいた。自分たちの仕事は夜汽車の外側の『ばらし』で、地下は『中身』だと。彼らは線路の上に放置されていた夜汽車に群がり、男たちは夜汽車の車両によじ登り、いとも簡単にその天井と壁を剥がし始めた。それを下で待つ者たちに手渡し、受け取った者は最終列車内に運んでいた。女たちは器用に窓枠や浴槽、便座、寝床や机を解体し、やはり破片になった夜汽車を最終列車に運んでいた。銃弾のように吹き荒れる暴風雪の中、ジュウイチが唖然としている間にも夜汽車は柱が剥き出しにされ、土台だけになり、車輪と車軸も分別されて跡形もなく消えて行った。一つの車両が消失すると、続いて隣の車両もばらばらにされていく。『ばらし』ってそういう意味か、とジュウイチは気付いた。そして夜汽車の『中身』を『ばらす』の意味を再考する。車両をばらばらにするのが彼らなら、夜汽車を、自分たちをばらばらにするのが地下に住む者なのだろうことは、容易に想像できた。つまりは役割分担だ。つまり地下と彼らは繋がっている。彼らだけじゃない。アイも塔も地下も、そして夜汽車も、皆、繋がっていた。ただ、自分たちが知らないだけだった。



 最終列車の面々はジュウイチたちを持て余した。本来ならば缶詰として地下が持ち帰っているはずだったから。通常ならば空の夜汽車をばらして塔に帰るだけだったから。生きている夜汽車など見たこともなければ扱いも知らないらしい。


 地下に引き渡すべきだという意見があった。自分たちではどうすることも出来ない、アイならきっとそうするだろう、と。地下を呼ぶのか、地下に接触するのか、奴らは常に飢えているから見境なく最終列車さえも襲ってくるだろう、止した方がいい。そんな反対意見もあった。繋がってはいても良好な関係ではないらしい。


 地下と接触することを忌避する最終列車の面々は、ジュウイチたちを捨て置くことを検討した。自分たちは何も見ていない、夜汽車はいつも通り空だった、そういうことにするならば捨てて行くのが一番いい、と。おそらくそれが正解だ。彼らには夜汽車の生徒を養う理由などない。動く部品が紛れ込んでいたと思えばいい。用途が限定されていて再利用しにくいから破棄した、その言い訳が最善だろう。だが彼らはジュウイチたちに毛布と食糧を与えてしまった。あまりにジュウイチがみすぼらしく、哀れだったから。あまりにスズメが幼く、弱々しかったから。同情以外の何物でもない。ただ目の前に瀕死の者がいたから思わず手を差し伸べずにはいられなかった。衝動的行動だった。とてもありきたりな理由の無いその行動を彼らは後悔したが後の祭りだ。


 最終的に仕方なく、ほかに妙案が浮かばず、連れて行くことにした。ばらした夜汽車の動く部品は、労力として動かしておこうという決定だった。缶詰でない夜汽車は夜汽車ではない、彼らは夜汽車ではない、彼らは増えた労力だ、彼らは最終列車の一員だ。



 ジュウイチたちが見つけた夜汽車が完全に解体され、線路脇には回収しきれなかった破片や錆びて使いようのない瓦礫を残して、最終列車は走り出した。とてもゆっくり。徒歩でも追いつけそうな速度で。夜汽車と違って車両間の連結部分は外気にさらされているし、窓さえ開閉できる。この車両ならば降車などせずとも地上を間近に感じられただろうに、とジュウイチは思った。


 最後尾の連結部分、連結すべき車両がなくて、剥き出しになった鉤型が線路の宙空で寂しげに繋がる相手を探している。灰色と水色と藍色がまだらに混ざった空の下、ジュウイチは漫然とその鉤型を見つめていた。縞模様のように過ぎて行く枕木の上を、鉤型だけがジュウイチについて来る。


―待って! お願い、話を聞いて!―


 お願いされたのに待たなかった。


―僕の責任だ―


 脚、大丈夫かな。ジュウシのようになってないかな。


―行け! ジュウイチーッ!!―


 どこに?


 ジュウイチは頭を抱えた。手すりに両肘を置く。どこに行けばいい? 何をすればいい? これから一体、僕はどこに……。


 ネズミから逃げたかった。あんな者になりたくなかった。一緒くたにしないでくれ、君たちとは違う。急速に馴れあっていくジュウゴたちをよそに、ジュウイチは一貫して拒絶し続けた。あのままあそこにいれば選択の余地なくネズミに『される』と思った。離れなければ、夜汽車に戻らなければと強く思った。


 サンを信用できなかった。地下に住む者だと突拍子もなく指摘され、それを彼女は拒否しなかった。ジュウイチも彼女は地下に住む者だと疑い始めた。あの地下と同じ。あんな奴らと同類。怖かった。彼女から距離をとりたかった。傍にいたくなかった。

 でも、全て過ぎ去ってしまった後でジュウイチは思う。でも、皆のことが嫌だったわけじゃない。腹立つし面倒臭いし根暗だし、口やかましいしうざったいし苛々させられることなどしょっちゅうだったけれどもでも、でも、どうでも良かったわけじゃない。損傷した姿を見ているのは恐ろしかったし痛そうだった。痛みが消えればいいと思った。修理が上手くいけばいいと思った。あれ以上誰も損傷されなければいいと願っていた。研究所においてきてしまった皆はどうなっただろう、今さらながらにジュウイチは恐ろしくなる。皆で揃ってネズミになったのだろうか。他のネズミと合流して地下や夜汽車を襲撃するのだろうか。小銃に撃たれてジュウシやハチみたいに損壊していないだろうか。それとも地下に掴まって缶詰に…。


 ジュウイチは目をつぶる。大声を出してしまいそうな喉を力づくで抑えて息さえ止める。  

 そんなつもりじゃなかった。そんなつもりはなかったんだ、本当だ、本当だって、信じてよ。

 捨てる、という単語を習ったのはいつだっただろうか。なんで今、そんなことを思うんだろうと考えてすぐにその答えが見つかる。今がそうだからだ。僕がしたことだ。いや違う。そんなつもりはなかった。そうじゃない。否定しても理解している。頭を振ってもまとわりつく。事実だ。僕は皆を捨てた。


 皆を捨ててまで僕は何をしたかったのだろう、満たされた腹で静かな頭で考えてみるが、静かすぎて何一つ浮かばない。そもそも何かしたいことがあっただろうか。すべきことがあっただろうか。夜汽車に戻ること? 誰もいない夜汽車に? 戻ってその後は? 夜汽車の中では何をしていた? 授業と試験と会話と喧嘩と…。夜汽車の中でなければ出来ないことだっただろうか。その気になれば地上でも地下でも出来ることばかりではなかったのか。ネズミだろうと何になろうと、意思さえあれば何だって可能だったのではなかろうか。ならば何のために僕はここまで来たんだ? なんで、どうして何のために皆を捨てて。


 背後で扉が開き、ジュウイチはびくりとして振り返った。

 探していたはずのジュウイチを見つけたスズメはしかし、困ったように目を逸らし、扉を閉めようとした。ジュウイチは袖口で顔を拭う。反対の手で扉に手をかけた。


「何? どうしたの」


 スズメは首をすくめて固まる。それからおずおずと上目遣いでジュウイチを見上げた。あの教室の中で手をあげてから、スズメはずっとこの状態だった。


―約束しろ―


 ジュウイチと目が合うと、スズメはすぐさま下を向いた。全力で扉を閉めようとしている。


―スズメを守れ―


 一方的に押し付けられた。約束する義理も了承した覚えもない。なのにここまでこの子を連れてきた。


―頼む―


 ジュウイチは膝と腰を曲げた。スズメと同じ目線になってその顔を覗きこむ。


「大丈夫?」

 言って少女の左頬を覗きこむ。スズメは戸惑いながらおずおずと顔をあげた。明るくなり始めた空に照らされた頬は、かすかに赤く腫れていた。ジュウイチは自分が損傷させた患部をちゃんと観察したくて、スズメの頬に顔を近付けた。途端にスズメが遠ざかる。途端にジュウイチは胸が苦しくなる。


「ごめんね」


 取り返しのつかない過去を言葉一つで済ませようとする。浅はかな身勝手さにジュウイチ自身も気付いている。だが後ろめたさよりも過ちを無かったことにしたいという欲求が勝る。


「ごめん。本当にその、ごめん。あの時は、ぼ、僕も、どうかしていて…」


「だいじょうぶ?」


 数時間ぶりにスズメが口をきいた。ジュウイチは驚く。


「何が?」


「おにいちゃん」


「僕は損傷していないよ。したのは君でそうさせたのは僕じゃ…」


「おにいちゃん、」


 真っ直ぐに向けられる視線にジュウイチは唇を閉じた。


「だいじょうぶ?」


 胸と目頭の奥が発熱した。拭ったばかりなのに再び涙があふれ出す。一度ついた頬の軌跡は線路みたいに雫を走らせる。


「…ん……」


 腕で口元を覆い、袖を涙で湿らせながら、ジュウイチはそれしか返せなかった。謝りたいのに、謝らなければいけないのに、傷が付いているのは彼女の方なのに傷を付けてしまったのは僕の方なのに。

 泣きじゃくるジュウイチの頭頂部に何かが触れた。スズメの小さな手だった。


―傷つけない接触もあるのよ。やり方によっては修復も促せると思うの―


 ナナの予測は当たっていたのかもしれない。


―スズメを守れ。頼む―


「うん…」


 滅茶苦茶に涙を拭って、ジュウイチは顔をあげた。驚くスズメの顔を両手で覆う。傷つけた頬を指先で擦る。鼻水を啜りあげ、嗚咽を飲み込み、小さな体を両手で引き寄せ全身で包み込むように縋りついた。


「だいじょうぶ…、大丈夫だよ」


 根拠はない。確信もない。不安と恐怖と後悔と絶望と、口にした言葉の対極に当たる感情しかない。でも、でも、


―大丈夫だよ―


 こういうことか。こんな感じだったのか。だから彼はいつもああやって理由も言わずにそればかり口にして。

 全然大丈夫ではない。はっきり言えばでたらめだ。嘘だ。虚言だ。見栄以外の何物でもない。でも、でも、そう言わないと越えられない時もあるから、だから。自分に言い聞かせながらジュウイチは、自分のための嘘を目の前の少女のために使うことにした。


「おにいちゃん、頑張るからね」


 スズメの頬の動きが肌から伝わってきた。ごわついた生地をまとった短い腕が首に絡みつく。

 反対の頬が熱い。太陽の明かりだ。朝だ。


「スズメもがんばる」


 可愛らしい声が耳元で響いた。

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