14-2 受信
ネズミたちに接触されて体が浮いて冷たく硬い床に置かれて、その床ががたがたと動いていた。振動が左腕に響いて痛い。それなのに周囲は何故か楽しげだ。
かすっただけだ、と言われた。ほねはぶじだ、とか、良かったな、とか。
何が良かったのか。ネズミたちに囲まれて左腕を素手で弄られて、他の手脚を抑えつけられて口には臭い布を押し込まれて。いいことなど何一つない。なのにネズミたちは半笑いだった。おおげさだ、とか、こんなんじゃしなねえって、とか。
ネズミたちの作り出した雰囲気にジュウゴはすっかり静まっている。ハツサンと談笑までしていて腹立たしい。
ネズミたちの隙間からシュセキと目が合った。「問題ないらしい」とさらりと言われて、僕は左腕と同じくらい頭の芯にも熱を覚えた。
「どうしよう、ジュウシ」
「知らないよ」
「シュセキ…」
「自分で考えろ」
僕にもシュセキにもそっぽを向かれてジュウゴは打ちひしがれた。汚した車窓の拭き掃除を並んでしている時だった。
落ち込むくらいなら最初からアイにあんな言い方しなければいいのに、ジュウゴときたら今さら自分の態度を後悔している。そして手が止まっている。僕は拭き上げた窓から離れてため息をついた。
「大丈夫だよ」
落ち込むジュウゴを慰める。
「アイは怒らない。アイは『喜、哀、楽』しか持っていないから君のことを怒ってないし、謝れば許してくれるよ」
だから早く謝ってその辛気臭い顔をやめてくれ。ついでにさっさと掃除を終わらせてくれ。そう僕が言いかけた時、
「時間だ」
言ってシュセキが立ち上がった。僕とジュウゴは同時に振り返る。
「何の?」
ジュウゴが言う。いや、わかれよ、と僕は呆れながら、
「就寝時間だよ」
と教えてやった。
「もうそんな時間だったのか!? 早く終わらせようよ」
「僕の方は終わっているよ。君こそ口より手を動かせよ」
「動かしているよ。でも僕の顔の皮脂はなかなか厄介で…」
言いながら手が止まっているジュウゴを横目で見ていたら、
「皆を起こして来い。最後尾の車両に集合だ」
シュセキはそう言い残して駆けていった。僕たちは顔を見合わせ、雑巾を投げ出してシュセキを追いかけた。
* *
「新月の就寝時刻から起床時刻までの間の数時間、アイが待機状態になることを発見した。この間アイは僕たちの呼びかけに一切反応を示さないし、僕たちの言動は感知されない」
植物たちが立ち並ぶ最後尾の車両に皆を集めて、シュセキは説明を始めた。「自由時間だ」というシュセキの言葉に、最初は誰もが疑問を持ったし戸惑ったが、実際に呼んでもアイが現れなかったから信じるしかなかった。そんな僕たちを見回してシュセキは一言、
「地上について知りたいと思わないか」
思いもよらない提案をした。
「地上?」
言ってナナはハチと顔を見合わせた。
「地上ってどういうこと?」
「地下に住む者にでも興味があるのか?」
皆口々に、僕も呆れながら尋ねる。普通に夜汽車の中で暮らしていれば交わることのない輩だ。
だがシュセキは至って真面目に語りだした。
「彼らにも興味はある。ぜひ直接話を聞きたい。だが彼らが地上に出てくることには何らかの理由があるはずだ。その『何か』が何なのかが知りたい」
「ただ気まぐれで這い出てきているだけかもしれないだろう?」
キュウがあくびをしながら指摘する。
「わたしたちだって居室と教室の往復だけなら気が滅入るわ。だからいろんな車両に行くんじゃない」とロク。
「そうそう。水泳室とか、遊戯室とか、最後尾の車両こことか」ジュウニも言う。
寝起きの苛立ちとアイが反応しない戸惑いで、皆、刺々しかった。集中的にシュセキは叩かれた。しかし「私は」と言葉を挟んだのはサンだ。
「私は、どの車両でも夜汽車の中にいると思うと気が滅入るわ」
皆が沈黙した。
僕も驚いていた。そんな風に感じたことは今まで一度もなかったから。夜汽車は十分広い居住空間だったし、僕が希望することはそれなりの努力とアイの助力で大抵叶えられていたから。
僕のように反対意見もあっただろう。白けていた者もいたかもしれない。けれどもそういう場面では、強く発せられた言葉に空気は流される。皆の気持ちも賛同しがちになる。
「……僕も降りてみたい」
ジュウゴが呟いた。呟いてから本当に、アイに褒められて教室の生徒全員から拍手喝采を浴びたみたいに本当に、本当に嬉しそうな顔で身を乗り出して言った。
「僕も地上に降りてみたい!」
シュセキとジュウゴはよく似ていると思う。成績は首席と最下位だし、顔を合わせれば些細なことで口論を始めるし、何もかもが水と油で何一つ合わないのだけれども、こういう時ばかり意気投合する。変なところで滅茶苦茶似ている。
「もしも地上に降りてそこに木が立っていたら、みんなだって僕の言ったことを信じてくれるだろう?」
「まだそんなこと言っているの?」
興奮したジュウゴにハチがぼやいた時、シュセキの端末が電子音をあげた。僕たちは全員が慌てた。
「なんでアイが寝てるのに端末が使えるんだよ!」
皆の動揺を代弁したジュウの叫び声を、シュセキは「僕仕様だ」の一言で片付け、そしてその場に胡座をかいて端末を叩き始めた。僕たちは誰からともなく彼の周りに群がった。
「何これ」
シュセキに接触せんばかりに近付いて、サンは端末を凝視して言った。
「わからない。今、解析している」
シュセキが言いながら端末を叩く。
「何?」
前屈みのゴウに尋ねた。「どこかからの通信らしい」と動揺を隠さずに返してきた。
「『どこか』って?」
「外かららしいよ」
シイが答えてくれてようやく事態を把握した。
「外ってどこ?」
いまだにぽかんとしているジュウゴに質問されたが、そんなこと僕も答えられなかった。
端末を叩くシュセキの指が止まる。サンが目だけで説明を促す。シュセキは端末から目を離さずに答えた。
「塔ではない。駅でもない。だが地下でもない。ここから東の方角の地上から発信されている」
「どうして塔じゃないと言えるの?」
ロクが尋ねた。
「方向が真逆だ」
「駅ではないっていうのは?」
ジュウサンが尋ねた。
「駅からの通信にしてはあまりに信号が単純すぎる」
「なんでそこまで確信的なんだよ」とジュウ。
「以前、アイに送られてきた電波とは明らかに異なるからだ」
シュセキ以外の全員がどよめいた。
「盗み見したの?」とナナ。
シュセキはちらりと横を見て、また指を動かし始めた。
「そんなことしていいと思っているのか!?」
僕は思わず声をあげたが、
「地下からではないという説明にはなっていないわ」
サンの指摘で流された。
「地下が通信手段など持っているはずがない」
シュセキが当然のように答える。しかし、
「アイが言っていたことが本当なら、の話でしょう?」
サンは真面目な顔でそう言った。僕は息を呑み、シュセキは顔を上げた。
「え? 何? どういうこと?」
ジュウゴだけがまだ分かっていない。
「サンが、アイは嘘をついているって」
僕の怒気をサンは汲み取ったようで、顔を上げてこちらを見た。
「そうは言っていない」
「そういうことじゃないか」
「可能性の話よ」
「だとしても失礼だろう」
サンは一瞬眉根を顰めたが、すぐにいつもの無表情な俯き顔になって訂正した。
「言い方が悪くてごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの」
ではどういうつもりだったのかと追及したい衝動に駆られたが、
「それより通信の内容は!」
ゴウが話題を変えた。そうだったと僕も思い出す。皆が注目する中でシュセキはいつも以上に憮然とした顔になって、何も言わずに端末の画面を僕たちに向けた。そこには一言、
『ドコニイル』
「場所を尋ねているってこと?」
「他にどんな意味がある」
「何でこんな単純な信号?」
「かなり旧式の通信機材かと推測する」
「誰から?」
「わからない」
「そもそも僕たちに向けての通信か?」
皆の質問に答えていたシュセキは、ジュウサンの投げかけた疑問に顔を上げ、再び端末を叩き始めた。そして、
「僕の端末に向けて送られたものなのか、アイに向けられた通信なのか、それとも全く別の第三者に向けられたものなのかは不明だ。だが僕たちと授受することも想定された通信だと思われる。これは四方に向けて継続的に発信されている。誰か特定の相手に向けた通信ではない」
その時点でわかり得る事実を羅列した。
「何でそんなことを?」
「わからない」
「かくれんぼ?」
「ふざけるな」
「通信相手を探しているんじゃないのか?」
僕はてっきり話の内容に完全について来ていないと思っていたから、ジュウゴが唐突に口を挟んだ時は驚いた。彼の提案や発想はいつも皆の思考の上を的外れに飛んでいくから、例え何か妙案っぽく口にしても大概皆に失笑されて終わる。
だがこの時は違った。シュセキが「あり得る」と呟いた。
「これを発信している者は誰かの居所を探しているのではない。この通信を受け取る相手を探していると仮定した方が辻褄は合う」
「つまりどういうこと?」とハチ。
「外部の者との通信を試みる者が地上にいるということだ」
シュセキが手を止めて顔を上げた。
「地下に住む者以外にも地上を出歩いている者がいる。その者たちの手を借りれば、夜汽車から地上に降り立つことがかなり現実的に実現可能になる」
ジュウニが開いていた口を閉じた。ジュウゴは目を見開いてニイを押し退け、シュセキの横に陣取った。女子たちは動揺と不安を口にして、キュウはゴウと興奮気味に何やら議論を始める。
僕はぽかんと口を開けたまま、ただただ考えていた。ただでさえアイに内緒でこんな時間を見つけてしまったことに申し訳なさを感じているのに。
でも同時に激しく高揚もしていた。当初はシュセキやジュウゴの絵空事を一歩引いて聞いていたが、全く感化されなかったと言えば嘘になる。
皆、動揺しつつも耳だけは注意深くなっていたから、再び鳴り響いた受信通知の音はとても響いて聞こえた。シュセキが手を止めて画面を凝視する。しばらくするとまた、通知音が鳴った。
ジュウゴとサンがシュセキの端末を覗きこむ。他の者も首を伸ばし、屈みこみ、端末画面を覗きこもうとしたが僕の位置からでも全く画面が見えない。
「こっちにも見せろよ!」
痺れを切らしたゴウが大声を張り上げ、ようやく自分たち以外の者が周りにいたことを思い出したような顔をして、ジュウゴがシュセキの端末を取り上げた。端末を床の上に置く。
それまで端末の画面を見られなかった者たちが一斉に覗きこんだ。僕も頭を突っ込む。口が開いて瞬きも忘れた僕の目の中に、端末の画面の文字だけが映り込んできた。
『コチラネズミ』
『ネズミヨリヨギシャヘ』
『オリロ』
『ドコニイル』
『コチラネズミ』
文字の羅列が一定時間をおいて繰り返し、繰り返し受信されていた。
「何これ」
誰かがそれだけ言って絶句した。女子の声だった。
「『ネズミ』?」
知らない。名称か? どこの? 何の?
『ヨギシャヘ』
僕たちに呼びかけている。
『オリロ』
降りろ??
「何なの一体……」
ロクが言って身震いした。誰の質問にも即座に答えるシュセキも、返事さえしなかった。
「気持ち悪い」
ハチが自分の二の腕を擦っている。
「なんか……、危険じゃないか?」
ニイが言って、全員が口を閉ざした。
「もうやめよう」
ジュウニが言った。
「やめるって?」
ジュウゴが尋ねる。
「アイに相談するべきだ」
どよめいた。シュセキが顔をあげてサンが唇を結ぶ。ジュウゴが「でも、」と言いかけたがジュウニは続けた。
「なにかすごく、よからぬものから接触を受けているんじゃないのか? 多分、地下とか」
「私もそう思う」
ロクが言った。僕も頷いた。ジュウサンも同意した。
「だけど…」
ジュウゴが縋るように言いかけたが、
「確かに危険すぎる」
ニイが先に言い切った。ジュウニが勢いづく。
「『夜汽車を降りろ』なんて普通言わないだろう? それを促すなんてどうかしているよ」
「君だって乗り気だったろう?」
ジュウゴが言った。いや、ジュウニは…
「僕はずっと反対していた」
ジュウニが吐き捨てるように言った。
「怖くなって意見を変えただけじゃないのか?」
キュウが意地悪く言う。
「考えも無しに盛り上がっていた君らと一緒にするなよ」
ジュウニも負けない。
「もう一回言ってみろよ」
ゴウがキュウの横に出て来てジュウニを睨み下ろした。ジュウニはゴウを睨み上げる。
「何度でも言うよ。絶対危険だ、通信は切るべきだ。能天気に騒ぎ立てていた君にはわからないかもしれないけれども」
ゴウが舌打ちをしてジュウニにさらに迫った。これ以上はまずい。
「あのさ!」
僕は大声を出す。ゴウが立ち止まり、皆の視線が僕に向く。
「間を取ってここは様子見ってことでどうかな?」
「様子を見る?」
ナナが首を傾げた。僕は頷く。
「とりあえず通信は受け取ろう。でもこちらからは接触しない。あくまで相手の出方を見るんだ」
「結局何もしないってことじゃないか」
とジュウ。いや違う、と僕は首を横に振る。
「様子を見るんだよ。何もしないわけじゃない。この時間も継続するし通信も受け続けよう。ただ僕たちから相手に何か返信をするのはもう少し待たないか?」
「なんで?」とキュウ。
「やはり危険だからだよ。相手が仮に地下だったら僕たちから夜汽車の情報を引き出して襲撃してくるつもりかもしれない。それは避けるべきだ。でも地下じゃないかもしれない。僕たちに有益な情報を与えてくれる、僕たちの知らない全く新しい第三者かもしれない。その時には通信を交わそう」
「その判断はどうやってするんだよ」
ゴウが言う。
「それは、十分な判断材料が揃ったらその時にはアイに相談して…」
「ジュウシは何かって言うとアイに頼るんだな」
ジュウイチが言った。僕は次に出る言葉が浮かばなくて、息が詰まったままジュウイチを見た。
「ねえ、」
サンが静かに口を開いた。
「たまには私たちだけでやってみない?」
僕はサンを見た。
「まだ奇妙な通信を受け取っただけでしょう。通信することで誰かが危険に晒されたり傷つけられたりすると決まったわけではないわ。危険だからと言って避けていたら何も出来ないじゃない」
「そうだよ」
ジュウが頷いた。
「出来ることはやりましょうってアイも言ってた」
シイが言った。
サンの発言で事態は解決に向けて収束し始めた。僕が望んだのとは反対の方向に。
「多数決だ」
ゴウだった。
「ここで交信してみるかアイに相談するか」
「極端だね」
ジュウサンが呆れたように言う。
「でもそういうことだろ?」
ゴウが目を細めた。
「このまま通信を続ける派」
ゴウが片手をあげて言った。キュウが最初に動く。ジュウイチ、ジュウ、サン、シイ、ジュウゴの順にゴウの下に集まった。最後にシュセキが端末を持って立ち上がり、そちらについた。
「決まりだな」
ゴウが言う。動かなかった者たちは顔を見合わせ、気まずそうに俯いた。
「怖がりすぎだって! 通信するだけなんだから」
キュウが努めて明るく言う。
「危なかったら切ればいいんだよ」
ジュウイチも続く。
「そうよね。たまには自分たちでやってみることも必要よね」
ナナが自分に言い聞かせるように頷きながら言った。ナナが言えばハチは続く。女子は群れる特性があるからロクもナナに渋々同意して、シイがロクを励ました。
ジュウサンはどっちつかずみたいに思案顔のまま黙っていたが、ナナに賛成したらしい。ニイは勉強さえできればいいのか、既に興味が失せた目をしていた。ジュウニはまだ納得しない様子で全身から苛立ちを醸し出していて、僕は、
僕はジュウニをなだめて平穏を保つことを選び、横目でサンを睨みつけた。
そうだ。そもそもは彼女こそが原因だ。原因というか諸悪の根源というか。
あんな時間を見つけ出したシュセキもシュセキだが、あんな風に皆を唆して誘導したのはサンだ。あの時のサンは明らかに奇妙だった。普段はナナやハチの後ろで無口に俯いているくせに、何故かこの時ばかりはとても饒舌だったと思う。
しかしそれこそが彼女の本性だと気付いた時には、全てが手遅れだった。