14-15 コウとワン
「おはよう、ワン。ワンは早起きだね」
コウがあくびをしながら居間に入ってきた。私は特に早起きと言うほどでもない。ただコウが遅いのだ。だがそれを指摘すればまたコウは不貞腐れるから私は黙って立ち上がり、彼の足元まで行って靴先を小突いた。
「どうしたの? ワン。甘えっ子さんだね」
私は次にコウの脇腹を突いた。コウはくすぐったそうに、けらけらと笑い声をあげる。
「寒いね、ワン、寒いよね。雪が降ってるもんね。コウ、あったかいものが飲みたいな」
コウは私の背中をさすりながら言うと、台所の中へ入って行った。「ワンも飲むよね?」と声が聞こえる。私はコウの後を追って台所に向かおうとした。
「ワン?」
コウが顔を覗かせた。私は扉から目を離せない。風の中でかき消されそうな微かな気配ではあったが、確かに外に何かがいる。
「お兄ちゃんが来たの?」
コウは嬉しそうに言うと鍋を放り投げて私の傍らを通り抜け、おもむろに扉を開けようとした。私は慌ててコウを止める。
「ワン?」
私はコウの目を見た。不思議そうに私を見ていたコウも私の言わんとしたことに気づいたようだ。徐々に青ざめ、俯き、そして意を決したように顔を上げると戸棚から小銃を取り出してきた。
「いくつ?」
擦れた声が私の耳元で囁く。私は答えあぐねる。覚えの無い臭いだ。しかも複数。コウはごくりと喉を鳴らした。
姿勢を低くして扉を睨み上げる。気配が近づいてきた。コウが私の横で銃を構える。
即座に撃つ。確実に仕留める。それ以外は私の仕事だ。緊張する私をコウの手の平がなだめた。
「怖くなったらすぐ地下に行くんだよ。お兄ちゃんもそう言ってたよ」
大丈夫だ。恐怖など無い。
「コウは怖くないよ。全然大丈夫なんだよ。だからお父さんの、守ろうね」
わかっている。私はコウの頬を鼻先と舌で撫でた。コウがふと、微笑みをこちらに向け、そしてすぐに私たちは揃って同時に扉を見据えた。来た。
「助けてください! お願いです、開けて…」
「だめジュウゴ!」
「中に入れてくださいッ!」
やかましく扉を叩く音と同時に聞こえたのは、おそらくコウよりも年長の少年の叫び声だった。同時にそれを咎める少女の悲鳴も聞こえる。
「なんか、……変じゃない?」
コウが私に尋ねた、顔を上げて引き金から指を離して。駄目だ、コウ!
「ねえ待ってよ、ワン」
あろうことかコウは小銃を床に置き、扉に耳を押し当てた。あまりの危険な行為に私はやめるよう大声で訴える。
「静かにして」
コウがぴしゃりと言う。私は気が気でない。しかし声を呑みこんで彼の指示に従い、小銃の紐を持ち上げてコウの横に控えた。扉の向こうで音がする。来訪者たちは大声で叫びあっている。奇襲ではないのか? 何を考えている。
「『開けて』って言ってる!」
コウが驚いた表情でそう言った。私はまだ警戒を解いていない。
「あの時とは違うよ。『助けて』って言ってるもん」
コウは取っ手に手をかけた。私は慌ててコウを制止する。罠かもしれないだろう?
「でも…」
どうせ私達を襲うに決まっている。
「そうかな?」
私が信用できないか。
「そんなことないよ。ワンの言うことはいっつも当たってるもん。でも……」
コウは扉を見つめた。そして私の制止も聞かずにそれを開けた。部屋の中に吹きこむ冷気と共に、来訪者たちが傾れ込んでくる。
「うわあッ!」
「おま…! この馬鹿ッ!」
「あったかい」
「なに? ここ……」
「すみません、水、水ください!」
来訪者たちは口々に意味不明に喚きながら起き上り、血まみれの少年が膝をついたまま私達に向かって哀願してきた。
「急いでいるんです、消毒しなくちゃ! 早く! ひどくて苦しんで、い…て……」
哀願してきた少年は目を見開いて固まった。驚愕の視線が体中に浴びせられる。
「武器を捨てて」
コウが少年の額に銃口を押し当てて言った。背後の少年たちが悲鳴を上げて退く。
「早く捨てて、両手を上げて。でなきゃ出ていって」
コウの冷静な対応に私は少し胸を撫で下ろした。
「撃つよ」
コウが引き金に指をかける。唯一保護眼鏡をかけていた男が不機嫌そうに鼻で息を吐いて、肩にかけていた小銃を床に放った。
「隠してない?」
「な、何を?」
銃口を突き付けられた少年の目玉がコウを見上げる。
「武器、他に隠してない?」
「そんだけだ」
保護眼鏡の男が唾でも吐き捨てるように言いながら腰のあたりに手をやった。しかし私と目が合い、動きを止める。
少年に銃口を向けたままコウはじりじりと床の上の銃に歩み寄り、拾い上げると私に投げてよこした。それから扉を閉め、ようやく私の横に戻ってきた。
「あ、あの…」
「水がほしいの?」
少年は一瞬動きを止め、それから小刻みに首を上下した。
「どうして? お兄ちゃんたち寒そうだよ? お湯じゃないの?」
少年たちは互いに困惑の視線を交わし合った。保護眼鏡の男が私に顔を向けたまま、前に出てくる。コウが銃口を男に向ける。男は鼻筋に皺を作った後で、左右の手の平を顔の横に上げた。
「お前以外にいないのか」
コウは小銃を構えなおす。
「状況のわかる奴と話がしたい」
「アイに尋ねればいいんじゃないの? これほど電気が点いているなら…」
「電波が飛んでなかった。だから来たんじゃねえか」
「ここにいるのはコウとワンだけだよ」
来訪者たちの全ての視線が私に注がれる。私は全身で威嚇し続ける。
「お兄ちゃんたち何? コウとワンに何の用?」
「よ、夜汽車だ。僕たちは夜汽車の生徒なんだ!」
「夜汽車ぁ!?」
コウが油断した。私は慌ててコウを呼ぶ。その拍子に銃を床に落としてしまった。急いで足で銃を押さえつける。しかし少年たちは私から武器を奪おうとする素振りは見せない。
「夜汽車がどうしてこんなところにいるの?」
コウは私の注意に慌てて小銃を構え直し、顎を引いて来訪者たちに尋ねた。
「話すと長くなるんだけれども、始業前に皆で廊下で話をしていたんだ。そしたらアイがやって来て妙な事を言ったなと思ったらその後にネズミたちがやってきて…」
「お前らに危害を加えるつもりはない。すぐに本線に行かなきゃいけないが負傷者がいる。手当をしたいから場所と道具を貸りたい。礼はする」
膝をついた少年の話を保護眼鏡の男が遮った。しかし、
「お兄ちゃんたちが何かって聞いたんだよ。ちゃんと答えて!
コウが声を荒らげて小銃を構え直した。保護眼鏡の男は嫌そうに顔を横に向けると息を吐いた。
「ネズミだ」
「ちょっと待って!」
後ろにいた少年が仲間を押し退けてやって来て、保護眼鏡の男に迫った。足元にごく幼い少女を連れている。
「僕たちはまだネズミに『なる』と確約したわけじゃない! 偶々様々な事象が重なって君たちと行動を共にしているだけだ。勝手にネズミだなんて紹介しないでほしい!」
「は?」
保護眼鏡の男が体も顔も横を向いて少年と対峙した。保護眼鏡を持ち上げる。
「何言ってんだ? お前。ここまで散々手間かけさせといて恩義もくそもないのかよ。今更ぐだぐだ言ってんじゃねえよ。ハツが認めたんだし黙ってついて来りゃいいんじゃね?」
「そんな乱暴な…!」
「そんなこと後でいいだろう!」
膝をついていた少年が怒鳴って立ち上がった。少年の気迫に仲間たちは押し黙る。少年は袖で顔中を擦ると再び振り返り、私とコウに頭を下げた。
「お願いします。消毒したいんです。痛がり方がハチみたいで見てられないんです。アイもいないし僕たちだけじゃ何も出来なくて……。助けてください! お願いします! お願いします!」
何度も嘆願を繰り返す少年の横に、片腕に包帯を巻いた少年がやって来て並んだ。頭を下げていた少年と視線を交わすと、一緒になって頭を下げ始める。
「お願いします」
「お願いします!」
顔まで血まみれで、目元だけが涙で洗われた少女がさらにその横に並んで頭を下げた。
コウが銃口を下ろす。制止する私をすまなそうに見てから、コウは少年たちと少女を見上げた。
「……布団貸してあげる」
「本当?」
少女が顔を上げた。コウはまじまじと少女を見つめてから、嬉しそうに早口で話しだす。
「いくつでも貸してあげる! お父さんとお母さんとお兄ちゃんのお泊りの分とコウのお部屋のと、いっぱいあるから!」
「布団よりも水の方が嬉しいんだけれども」
一番喚いていた少年が鼻を啜りながら言った。
「まず消毒だと思うから」
「熱湯の方がいい」
保護眼鏡の男が床に向かって息を吐いた。
「それと清潔な布と火鉢。あとは手持ちの道具で何とかする」
「何とか出来るの?」
汚らしい少年が振り返って保護眼鏡の男に尋ねた。男は首を傾げて項を掻きながら、「助かるかどうかはそいつ次第だけどな」とぼやいた。
「助けてよ!」
少女が金切り声で叫んだ。それからはっと顔色を変えると俯き、保護眼鏡の男の下手に出る。
「助けて…ください。お願いだから」
「大丈夫だよ!」
包帯の少年が言う。
「大丈夫だって、絶対。大丈夫なんだ!」
それは自分への声かけだっただろう。
「お前こそ大丈夫なのか?」
保護眼鏡の男が顔を顰めて、包帯の少年を横目で睨みつける。
「こいつの後でお前も診せろ。いいな」
統率のとれていない身勝手な自己主が飛び交う。重傷の少年を救助したいという意向は伝わって来たが、いったい誰と交渉すべきなのか。
「水でいいの? 何がいいの?」
コウが来訪者たちに質問した。一つ一つの顔を見回すように、最適解を探すように。全員が口を開きかけたが、誰よりも早く「熱湯…お湯だ、お湯!」と保護眼鏡の男が答えた。
「あ、あのさ……」
足元に少女を巻きつけた少年が肩を竦めて遠慮がちに声を発する。
「シュセキもだけど、それも気にならない?」
言って少年は私を指差した。途端に来訪者たちは一斉に私を見下ろす。
「ねえ君、一ついいかな? それは一体……」
嫌な視線だ。
「ワンだよ。コウと一緒に住んでるんだよ」
少年はそう言うと元から構えていた小銃と、ヤチネズミに差し出させた小銃の両方を肩にかけた。すでに構えていないとはいえ、体の半分以上の身頃を有する銃を背負ったその姿は一種奇妙な威圧感を纏っている。
「これは預からせてもらうね。ワンもそれでいいでしょ?」
「ワンって何?」
ジュウゴが尋ねる。僕も同意して頷く。
「ワンはワンだよ」
少年は当然のように答えるが答えになっていなくて、僕たちは顔を見合わせた。
「ワン」
少年が言うと、全身真っ黒なそれはのそのそと四本の脚で歩き始めた。ジュウゴが身を引く。ヤチネズミさえも一歩後ずさりしている。
「お布団、用意して来るね」
言って少年が奥に続く扉に手をかけた。自動扉ではないらしい。扉の奥は薄暗くて、覗きこむも中の様子は窺い知れない。
「手ぇ貸す。時間が惜しいしな」
ヤチネズミが少年の後に続こうとした。しかし真っ黒い四本足が振り返り、歯を剥き出しにして低い音を発したからヤチネズミは立ち止まる。
「ワンはお兄ちゃんのこと嫌いみたい」
少年が言った。そして振り返り、
「コウはお兄ちゃんがいい!」
「僕?」
ジュウイチが自分を指差す。ジュウイチはスズメにそう呼ばれているから、僕もジュウイチのことかと思った。しかし、
「こっちのお兄ちゃん!」
笑顔で言うと少年はサンの手を掴んだ。サンは前のめりに二、三歩進む。
「あっちのお兄ちゃんは老けてるし、そっちのお兄ちゃんは頼りないからコウはお兄ちゃんがいい!」
「おい餓鬼! 今、老けてるっつたか?ぁあ!?」
ヤチネズミがどかどかと靴音を鳴らして少年に迫ったが、再び黒い四本足に威嚇されて立ち止まる。
「行ってくるわ」
サンが少年に手を引かれて薄闇の中に消えていった。黒い四本足が僕たちを威嚇しながらその後を追う。
「ったく、何なんだよあの餓鬼と獣は!」
ヤチネズミが苛立ちを込めて吐き捨てた。また新出単語だ。おそらく先の少年とあの四本足のことを指していて、そして彼は彼らの何かが気にくわなかったのだろう。むっとした顔のまま、当たり前のような顔をして部屋の中の戸棚やら引き出しやらを開けはじめる。
彼の非常識な行動にぎょっとしつつも地上ではそれが常識なのかもしれないと思い始め、それよりも重大な懸念材料の方が気がかりで、僕はシュセキを見下ろした。
「大丈夫か?」
とても眠そうだ。眠そうだけれども苦しそうだ。ハチはあんなに静かに眠っていたのに。
「ねえ、『オニイチャン』って何なの?」
ジュウイチがスズメの少女に尋ねている。『なまえ』という名の固有名詞ではないかとサンは言っていたが、先の少年はジュウイチだけでなく、ヤチネズミやサンのことも『オニイチャン』と呼んでいた。ならば汎用性のある呼びかけのようなものなのだろうか。
サンが入っていった扉の隙間を覗きこんでいたジュウゴが、扉を開けて中に駆けこんだ。しばらくして布団を抱えたジュウゴと、少年にまとわりつかれて歩きそうにしているサンと四本足が戻って来た。
「おい、餓鬼。これ借りるぞ」
我が物顔で部屋を物色していたヤチネズミが、何の悪びれもせずに少年に言う。
「がきじゃないよ。コウだよ」
「コウって何?」
ジュウゴの質問に、「コウはコウだよ」と少年が答えた。ジュウゴが僕に振り返る。だから僕だってわからないって。
ジュウゴは少年をじっと見つめていたが、ぱっと顔を上げたかと思うと少年に顔を寄せて、
「ハツやチュウヒみたいなものだね!」
ジュウゴはジュウゴなりに納得したらしい。わかったなら教えてほしいと僕は思う。
「お前ら手伝え」
お馴染みの言葉でヤチネズミが僕たちを見た。
コウの厚意で僕たちは扉の奥の一室を貸し出された。通路は薄暗くて埃っぽいのに、そこだけは妙に清潔な空間だった。
指示されるままに床に布団を敷いてその上にシュセキを置くと、シュセキはがたがたと震えていた。ここに入ってからはむしろ温かいと僕は感じていたけれども。肌掛けをかけてやろうとしたらヤチネズミにむしり取られ、咎める間もなくざきざきに切り裂かれた。僕の疑問は完全に流されて、ヤチネズミは裂いた布を丸めるとそれをおもむろにシュセキの口に押しこむ。
「やめて!」
サンが叫んだ。
「何をするの? 彼を助けてくれると言ったじゃない!」
ヤチネズミは面倒臭そうにサンを横目で見てから顔を背けると、スズメを抱えたジュウイチに向かって指示を出した。
「その餓鬼とあの女、出しとけ」
ジュウイチは始め首から上を突き出しただけだったが、「そいつら連れて部屋から出てろって言ったんだよ!」と怒鳴られると、慌てて少女を抱えたままサンの腕を掴んで部屋を出て行った。サンにまとわりついていたコウと、コウにひたすら付いて回るワンも去り、僕とジュウゴだけが残される。
「ジュウゴ」
ヤチネズミに呼ばれてジュウゴが前に出る。ヤチネズミに言われるままにジュウゴがシュセキの腕を頭の上に回すと、ヤチネズミは引き裂いた肌掛けの一片でシュセキの手首を縛り始めた。
「何をしているんだ!」
慌てて僕は駆け寄った。ジュウゴも驚いて手を離す。しかし、
「こいつ助けたいなら口出すな」
静かに恫喝されて僕たちは口を噤み、顔を見合わせた。
「腕持ってろよ。何があっても絶対に離すな」
ヤチネズミがジュウゴに言って、ジュウゴも黙って頷く。
「おい寝ぐせ」
僕も呼ばれる。
「お前は脚だ。体使って抑えとけ」
「……はい」
ジュウゴではないが敬語になって返事をする。
「行くぞ」
言ってヤチネズミがシュセキの左脚に巻いた布を解いた。
瞬間、僕は目を背けた。それから恐るおそる持ち上げた瞼の隙間から遠巻きにもう一度断面を見る。見つめる。
ハチみたいだった。けれどもハチよりも何と言うか、ぼろぼろしていて、鼻にくる臭いで、ぐじゅぐじゅしていて、てらてらしていて。でも何故か、どうしてそう思ったのかわからないのだけれどもでも何故か、シュセキのその断面を見つめて、
僕は腹が減った。
「耐えろよ、眼鏡」
言うとヤチネズミが大きめの刃物を手にした。シュセキの脚の断面の、少し上に先端を置くと体重を駆けてぐっと押しこむ。途端にシュセキが全身でもがいて転げ回り始めた。
凄い音で叫んでいる。全身を捩って涙と鼻水と涎を撒き散らして、ジュウゴを振り払んと縛られたままの両腕を滅茶苦茶に振る。振り払おうとしていたのはジュウゴだけではなかったようで、シュセキの右肘は僕の即頭部にめり込み、僕は眩暈と共に尻をついた。
「馬鹿野郎! しっかり抑えとけ!」
「ジュウシ、がんばれ!」
ジュウゴの場違いな激励に苛立ちつつ、僕は瞑った目を気力で開いた。そして、
「何なんだよ! これ以上彼をどうするつもりだ!!」
ヤチネズミに対して怒鳴った。しかし、
「自分で出来ねえもんを押し付けといて何言ってんだ。それともお前に出来ることがあるのか」
やけに冷静にヤチネズミが言ったから、僕は面食らって何も言えなくなる。
シュセキの右脚が跳ねた。ジュウゴが片手でシュセキの腕を押さえてもう片方で脚を抑えようとする。手が届かなくて、シュセキの腕も浮いて、最終的にジュウゴは両手でシュセキの腕を押さえて、片足でシュセキの右膝を踏みつけた。それを見てヤチネズミがにやりと口角を上げる。
「抑えとけよ」とヤチネズミは言って再びシュセキの脚を切り始めた。ジュウゴは返事もしないで歯を食いしばっている。シュセキがこもった音で絶叫し続ける。ヤチネズミの眼差しは真剣だ。
そして僕はと言えば、尻もちをついたまま見つめているだけだった。
だって怖い。何が行われているのかわからない。なんでジュウイチたちは出て行って僕は残されたんだ。見たくない。加担したくない。それにこんなことをしてシュセキが修復されるかどうかすら疑わしい。
でもあのまま放置しておいてもシュセキが元に戻りそうにないとは薄々感じていた。けれどもネズミのやることが乱暴なのは今に始まったことではなくて、でも彼らの行動は、けどこの行為は……、
―頼むからしっかりしてくれ―
奥歯を噛みしめる。両手をついて立ち上がり、叫びながら飛びつくように駆け寄るとシュセキの右脚を全身で抑えこんだ。
* *
サンの声が聞こえる。シュセキを呼んでいる。ジュウイチが癇癪気味に怒鳴って…、尋ねているのか、怒っているわけではないようだ。意外にもジュウゴは静かにそれに答えている。
もう少し休んでいたかったけれども僕は目を開けた。温かみのある電気の光が眩しくて、一旦閉じてから再試行する。
「おつかれ」
声の方を見上げるとヤチネズミが座っていた。僕は反射的に飛び起き、そして少しだけ胸に痛みが走って自分の体を見下ろした。
「シュセキは?」
僕の質問にヤチネズミは顎でシュセキを指し、手に持っていた瓶を口に近付けた。
「いや、だから修復は完了したのかと質問したのだけれども…」
「治療だ治療。お前らは物じゃない」
また新出単語を連発して、ヤチネズミは瓶の中の液体を一口飲んだ。
「お前の患部も診た」
だから新出単語の連発は……。言いかけた僕より先にヤチネズミが僕の胸を見た。僕は彼の視線の先を見下ろす。起き上がった時に弱く痛みが走った箇所だった。
「すげえ強運だよ。普通は無い。絶対即死だ。でも程よく筋か骨に挟まったんだろうな」
「何が?」
何に?
「銃弾」
「じゅう…?」
って何だったっけ?
さっぱり理解不能な言葉の羅列は、いちいち質問していては会話が進行しそうにない。けれども全く意味不明な言葉の羅列だから、進行されても理解出来ない。
ヤチネズミは僕の顔を面倒臭そうにちらりと見遣ると、思いっきり息を吐いて目元に手を置いた。そして、
「とにかくお前はもう走るな。大声出すな。興奮するな。何もすんな。わかったな?」
このまま座っていろと言うことだろうか。
僕がどこから質問すべきか疑問点を整理している間にヤチネズミは立ち上がった。扉の取っ手に手をかける。
「どこに?」
「どこでもいいだろ、うるせえな! お守りは俺の仕事じゃないんだって」
「ジュウシ!」
ジュウゴが僕に気づいて駆け寄って来た。
「大丈夫か? 君は何もない?」
「何が?」
「何がって、あんなに盛大に吐いた後じゃないか! シュセキの修復…」
「治療!」
ヤチネズミが怒ったように言う。
「そうそれ!」
ジュウゴはヤチネズミに向かって言ってから再び僕を見下ろし、
「シュセキの『つりょう』をしている間にシュセキが突然眠って、そしたら君もその場で吐しゃ物にまみれて…」
「眼鏡は気絶したんだろ。麻酔も無かったのに耐えた方だ。こいつは少し焦ったけどただの貧血だ。安心しろ」
僕はヤチネズミの言葉がさっぱりよくわからなかったけれどもジュウゴは大きく頷いた。
「意味わかったの?」
僕はジュウゴに尋ねる。
「わかんないけど雰囲気。何となく」
当然のようにジュウゴが答える。
「わかってないのかよ」
ヤチネズミががっくりと項垂れて息を吐いた。
「わかるわけないよ!」
ジュウイチが加わって来た。よほどサンから距離を取りたいのだろうか。サンも察したのかジュウイチをちらりと見た以外はその場を動こうとしない。
ずっとジュウイチが抱えていた少女が見当たらなかったが、僕の疑問は質問になる前にジュウイチの癇癪によって頓挫された。
「この後シュセキの左脚はどうなるの? さっきのあのおぞましい呻き声は何だったの? 僕たちはこれからどうなるの? 教室の皆は? 夜汽車は? ナナは?」
ナナ……。
「君の他のネズミもどこにいるかわからないと言うし、あの変な子どもと四歩足の黒い奴も得体が知れないし、とにかくそもそも何から何まで…!」
「シュセキが起きてしまうよ。やっと静かに眠っているのに楽そうなのがまた起きたら苦しむかもしれないじゃないか」
ジュウゴは小声で叱責した。めずらしく的確なことをする。しかし、
「だって! わからないことだらけじゃないか!! 僕たちただただ連れ回されているだけで小銃はばんばん来るし、どんどん夜汽車から離れててってて……」
咬んだことが悔しいみたいにジュウイチは地団太を踏んだ。
「そもそもネズミって何なんだよ! 突然やって来て何をしたかったんだよぉ!!」
「ジュウイチ、落ち着けって…」
言っても無駄だと分かりつつも言わずにいられない状況だったが、
「落ち着いていられないから言っているんだろうッ!!」
案の定、言っても無駄だった。僕は無言でジュウイチから浴びせられた唾を拭う。
「私もそれは気になる」
サンが加わってきた。ジュウイチが押し黙る。サンはシュセキを見下ろしていたが、こちらに顔を向けてもう一度言った。
「ネズミって何なの? ワシと何が違うの?」
「一緒にすんな」
ヤチネズミが凄んでサンが唇を閉じた。ジュウイチも肩をすくめる。だが彼だけは違う。
「僕もそれはずっと気になっているよ」
ジュウゴは一歩前に出てヤチネズミに正面から対峙した。
「どうして僕たちに『降りろ』って送って来たんですか? どうして迎えに来たんですか? 地下に住む者はどうして執拗に僕たちを入手しようとするんですか?」
どうしてちょくちょく敬語になるのですか? 僕はそちらも教えてほしい。だがジュウゴの質問が皆の気持ちをまとめあげたのは確かだった。僕たちは皆で揃ってヤチネズミを見つめた。
「スズメはお母さんの布団に寝かせたよ」
場違いに明るい声で言いながらコウが扉を開けた。扉の前に立っていたヤチネズミが障壁になって入って来られないらしい。
「じゃま。老けてるお兄ちゃん」
「貫禄って言え。くそ餓鬼」
何事かを言い返しながらもヤチネズミは体を引きつつ扉を開けるのを手伝った。もしかしたらそれほど凶暴な男でもないのかもしれない。
黒い四本足を伴って部屋に入って来たコウは僕たちを見まわしてから、
「暗いね」
じっとりとした目で言った。
「これ以上は明るくならないの?」
ジュウゴが部屋を見回しながら誰にともなく尋ねる。
「多分そこじゃない」
僕は即座に訂正する。
「僕たちの雰囲気のことだよ」
ジュウイチも言う。
サンが小さく噴き出した。驚いている僕を尻目にヤチネズミまで苦笑している。
「そうだな。まずそこからだったな」
言うとヤチネズミは部屋の中央に歩み出て来てどっかりと腰を下ろした。僕たちは誰ともなく集まり円座になる。サンとシュセキは動かなかった。
「俺はカヤと違って説明上手くないからな。わかんなかったら後であいつに聞けよ」
「何始まるの? コウもいい?」
言いながら許可を待たずにコウはサンの横に腰を下ろした。そしてその手を再び掴む。戸惑うサンをコウは満面の笑みで見上げた。
「ませ餓鬼」
ヤチネズミが小鼻をひくつかせて呟いた。
コウの横に黒い四本足が近寄って行って、後ろの二本の脚を折り曲げて制止した。ジュウイチは上ずった声を出して座ったまま距離を取る。
「お前、さっきも聞いたけど保護者どこだよ? どういう風に育てられたらそんなに危機感なくなるんだよ」
ヤチネズミは呆れたようにコウに向かって言った。恐らくいくつかの質問をしたのだろうけれども僕には最後の質問しか意味がわからなかった。だがコウは違ったらしい。
「お父さんはお庭。お母さんはずっとお出かけしてる。でももうすぐ帰ってくるってお兄ちゃんが言ってた」
「『おとうさん』……」
サンが呟く。
「お前、塔の出か?」
ヤチネズミが目を見開いて身を乗り出した。その意外な表情に僕も驚く。
コウは少し困った顔で首を捻って見せた。
「わかんない」
「『とうので』って何?」
ジュウゴが尋ねる。ヤチネズミは首筋を擦りながら体勢を戻して、やはり困った顔をして言った。
「上の奴らは『オヤ』がいるって聞いたことがある。俺らはそんなんないしよく知らないけどな。でも『オヤ』と獣を持てるなんて塔としか考えられない」
「ワンわかる?」
コウは隣のワンを見下ろした。ワンはコウを見つめる。
「『オニイチャン』っていうのは?」
ジュウイチがおずおずと質問した。コウは振り返り、
「時々来てくれるよ。コウとワンはお兄ちゃんがいるから元気なんだよ」
「だからその『お兄ちゃん』はどこの誰だって聞いてんだよ」
ヤチネズミが呆れ声をあげた。「お前も夜汽車か? 話、通じない奴ばっかじゃね?」
「コウは夜汽車じゃないよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。今度来たら会わせてあげるからそれでいいでしょ!」
コウはヤチネズミの言葉の何かが気に障ったようで、頬を膨らませてそっぽを向いた。ヤチネズミも横を向いて息を吐く。しかしまた顔を上げて再びコウを呼んだ。
「お前、俺の銃は? ってかなんでそんなに無防備なんだよ。散々世話になっといてあれだけど俺らに馴染み過ぎじゃね? 今襲われたらどうすんだよ!」
ヤチネズミの言葉にワンが反応し、四本の脚を伸ばして歯を剥いた。ヤチネズミも含めて僕たちは、全員が驚き上体をのけ反る。コウだけが冷静にワンの頭と思われる部分に軽く接触を繰り返し、ワンは圧力をかけられたみたいに床に張り付いた。だがまだ歯を剥いている。
「お兄ちゃんたちくらいならワンがやっつけちゃうよ」
満面の笑みでコウがヤチネズミに振り返った。サンが息を呑み、ヤチネズミは鼻筋を引くつかせる。僕は意味がわからない。ジュウイチと目が合い、首を傾げた。
「でもコウがさせないよ。お兄ちゃんたちは地下とちがうもん」
「そうなの?」
ジュウゴが身を乗り出して尋ねた。コウは大きく頷く。
「だってこのお兄ちゃんをいっしょうけんめい助けてたもん。お兄ちゃんと同じ。だからコウはお兄ちゃんたちはもう怖くないんだよ」
「その『お兄ちゃん』が何なのか気になるんだけどな」
言ってヤチネズミが息を吐いた。




