1-4話
保健室は無人ではあったが鍵はかかっておらず、とりあえず先生が来るまで彩乃をベッドに寝かせることにした。
少し具合もよくなったのか彩乃の顔に赤みが戻っているようにも見えた。
「で……大丈夫なのか?」
「はい、ありがとうございます。おかげで助かりました」
「なんか、血も出てたみたいだし、救急車でも呼んだ方がよくないか?」
「ふふふ、大丈夫ですよ~。君って顔に似合わず心配性なんですね」
「ほっとけ」
将吾が渋い顔をすると彩乃は布団で口元を隠しながら楽しそうに笑っている。
「それに、血を出してフラフラしてるやつがいたら誰だって心配するだろ」
「それもそうですね。……あ、自己紹介がまだでした。私、蛇払彩乃と申します」
「九頭竜将吾だ――」
よろしく。と将吾は口に出そうとするが、その言葉はいきなり起きあがってきた彩乃に遮られる。
彩乃は鼻先が触れそうなほど将吾に顔を近づけると、真剣な目でジッと将吾の顔を見つめていた。
息がかかりそうなほどに彩乃の目や唇が近くにある。
突然のことに将吾は咄嗟に後ずさりした。
「ど、どうした……?」
彩乃はハッとしたように遅ればせながら身体をのけぞらせた。
「……あ! ううん。何でもないです……ただ、まさかあの九頭竜くんに助けてもらうなんて思わなかったから」
「……その言い方だと、俺の噂は聞いたことがあるって感じだな」
将吾が言うと、彩乃は将吾の顔を指差した。
「もちろん。この学校で九頭竜くんを知らないなんて、モグリなのですよ?」
「どこのモグリだよ……。ってか、本人だし」
「まあ、噂は聞いただけで私も顔は知らなかったんですけどね。まさか、今朝挨拶した人がそうだったなんて思いませんでした」
「俺も、今朝あんたの噂を聞いたよ。有名人なんだな」
「恐縮です」
彩乃はニコニコと笑いながら再びベッドに横になった。
「……ひとつ、聞いていいですか?」
「あ?」
「九頭竜くん、気に入らない人に殺害予告をするって、ほん」
「根も葉もない噂です」
全部言い切る前に将吾が答えた。
「俺もいいか? 蛇払と話すと」
「根も葉もない噂です」
彩乃は質問の内容を言う前に答えた。つまり、聞いたことのある噂には何の根拠もないということだろう。
将吾は安堵したように息をついた。
「ま、それなら噂と実物の印象がかけ離れてても不思議じゃないな」
「それはこっちのセリフですよ。ヤクザ百人殺しなんて人は、ヤクザの一人娘を助けたりしませんものね」
一瞬、沈黙が流れた。
将吾は苦笑いするように顔を引きつらせて、彩乃の方を見つめた。
「……蛇払さん?」
「どうしたんですか? 急に他人行儀になって、呼び捨てでいいですよ」
「ヤクザの娘っていうのは……噂、なんですよね?」
「ううん? お父さんは仁勇会っていう沢山の組のトップにいる人なんだって。……あ! でも話しかけられたら殺し屋が来るとか、人を怪我させたとかは噂ですからね?」
彩乃は必死になって弁明するが、将吾はそれどころじゃない。顔が真っ青になって白鬼のようになっていた。
その顔を見て、彩乃は眉尻を下げて視線を落とした。
「やっぱり、怖いよね? ……ごめんなさい」
声が沈んでいき、彩乃はギュッと布団の端を掴んだ。
将吾はハッとした。
彩乃も将吾と同じなのだ。
将吾の場合は見た目だが、彩乃の場合はその家柄が人に悪い印象を与える要因になっているのだ。
それは、自分の内面を見ず外面だけで他人に悪だとされてしまう理不尽さと悲しさを彩乃もまた背負っているということだ。
「……悪い。俺だって人のこと言えないのに、無神経なこと言っちまった」
「いいんです。慣れてますから」
そう言って彩乃は笑ってくれるが、それはかえって将吾の心を深く抉った。
「九頭竜くん」
「ん?」
「九頭竜くんは、今のままで満足ですか? 他人から好き勝手なことばっかり言われて、自分がどんな人かも分かってもらえない今の状況に納得できますか?」
そう訊ねる彩乃の眼は真っ直ぐに将吾の眼を見つめていた。
「……良いなんて思ったことねえよ。でも、動いてもジッとしてても何も変わらない。……今日、改めてそれを思い知った」
「変わったことなら、あるじゃないですか」
「?」
「私は九頭竜くんのこと、怖いなんて思ってませんよ?」
「あ……」
将吾はポカンと口を開けた。
彩乃はクスクスと笑いだした。
「ね? 動いたことは無駄になってないんです。前と状況は変わったなら、二人でなら、ううん、もっと大勢ならこの流れを変えられると思いませんか?」
「……どういうことだよ」
彩乃は上体を起こすと、再びズッと将吾に顔を近づけた。
「九頭竜くん、私と一緒にボランティア始めませんか」
あまりにも予想外の方角からの提案に、
「……ええ?」
将吾は間の抜けた声を漏らした。
「ちょ、ちょっと待て。まったく意味が分からん。何がどうしてボランティアになるんだよ」
「イメージ回復ですよ。イメージ回復。ほら、政治家の人とかがいい人アピールする時に慈善活動をするじゃないですか。要するにあれですよ」
「すげえ、例えが悪くて興味をそそられない」
「でもでも! いい考えだと思いませんか? どうですか?」
「いや……どうだろうな」
将吾は後込みするように言葉をすぼめていく。
これまでかなり散々な目に遭っている将吾としては失敗のリスクの心配が先に立っているのだ。
将吾が難色を示している間、彩乃は、
「……」
笑顔のまま将吾を見つめ続けていた。
――口の端から、一筋の血を流しながら。
時間が比例するごとに、血の筋がどんどん太くなって、口の両端から流れ出すと腹話術の人形のようになって、シーツにも血が垂れ始めた。
「ああ! 分かった! やるやる! いいなボランティア、ナイスアイデアだよ! うん」
「ホントですか? ああ……よかった。断られたらどうしようかと思ったんですよ」
「……よく言うぜ」
血を引っ込めて笑顔を見せる彩乃に聞こえないように将吾は呟いた。
相手を血まみれにしたから紅血姫と呼ばれているらしいが、おそらく血まみれになったのは彩乃本人だろうと将吾は思った。
「あ、それで提案なんですけど」
「……おまえ、意外とグイグイくるね。で、なんだ?」
「これで二人はお友達、ですよね?」
「うん」
「それなら……あの、名前で呼び合いませんか?」
「……え?」
意外な提案に将吾は目を丸くして、少しだけ顔が赤くなった。将吾の人生は
女子に声をかければ五割が逃げだし、もう三割が立ちすくみ、最後の二割が泣くという有様なので名前を呼ぶなどとんでもない話なのだ。
「だって……蛇払って……怖そうな名字じゃないですか」
「ああ……」
将吾はその言葉でようやく得心がいった。
名字のコンプレックスに関しては将吾も持っていた。
九頭竜なんて字面からすでに怖いのに、それに乗っかるような自分の体格と傷だらけの顔はより恐怖を演出する要素にしかならない。
「じゃあ、これから互いに名字呼び禁止な?」
「え……私も?」
彩乃は頬を赤く染めると、布団を上げて顔を隠そうとする。
「なんで赤くなるんだよ」
「だって……男の人を名前で呼んだことなくて……」
「俺だって一緒だよ!」
「ええ!? だって九頭竜くんって今まで二十人以上の女の人を手玉にとって、マンション持ってるって……」
「噂だよ! 信じる要素がねえだろ!」
将吾は吼えた。
「そっか……そうですよね。噂ですよね」
笑顔を向けてくる彩乃に将吾は強引に話を戻した。
「で、名字呼びは禁止でいいな?」
「う……うん。じゃあ、呼んでみますね?」
「お、おう……」
彩乃は起きあがると、一度咳払いをしながら顔を真っ赤にして、
「しょ、しょ、将……ゴフッ!」
彩乃は血を吐いた。
「わああああああああああ!?」
将吾はみっともない悲鳴を上げる。
「ご、ごめんなさい……緊張しちゃって……」
「緊張だけで吐血してたまるか! ほら、布団取り替えておくから隣のベッドに移れって!」
将吾は血まみれのシーツを引っぺがし、別のシーツに取り替えた。
「ご迷惑おかけしました……」
「ああ、いいからいいから。今日は休め、な? 名前で呼ぶとか色々なことは明日考えればいいって」
将吾は立ち上がって自分のカバンを掴んだ。
「とりあえず、俺は帰るけど……一人で平気か?」
「ええ、もうだいぶ気分も良くなってきましたから、しばらくしたら私も帰ります」
(……血って吐けば具合が良くなったりするものなのか?)
将吾はそんな疑問を頭の片隅に置きつつ、そのまま保健室を出た。
一人になって、緊張から解放されたようにため息をつく。
「あのままだったら、俺も名前で呼ぶことになってたよな……」
気恥ずかしさで顔が赤くしながら保健室の入り口を見て、今朝見た朝の占いを思い出す。
「ボランティア、か。まあ、少しはいい方向に進みそうだな。人助けは吉……占い通りだな」
将吾は満足そうに笑みを浮かべながら校舎を出る。
自然と名前を呼べるように彩乃の名前を小さく連呼しながら将吾は家路に着いた。




