騎士が沼に落ちた薬師を助けて恋に落とされた経緯の話
辺境の警備というのは騎士団の持ち回りで数年ごとの任期で割り振られている。任期はさほど長くなく、2年から3年程で終わる。
所属する騎士団が辺境警備の任に命ぜられ駐屯所のあるこの田舎の村へとやって来て一週間。
村は一番近くの町と馬で一日という距離にある。
魔物が出ることも滅多になく、山を挟んで国境があるために警備の騎士団を置いており、隣国との関係が悪い訳でもないため現在は至って平和だ。
これ程平穏とあっては長く留まれば腐ってしまうだろうから辺境警備が持ち回り制なのも頷ける。多少の不便も数年の事と思えば耐えられる。
村にはめぼしい娯楽もなく、非番の者はそれぞれ酒場に入り浸ったり、鍛練に励んだり、村の娘に声をかけたり暇を潰すなか、そのどれをする気も起こらなかったラインハルトは愛馬を村の近くで走らせていた。
しばらく走らせ、水辺りで馬に水を飲ませていると、やや離れた距離に村娘らしき人影を見つけた。
茶色い栗毛の娘はかごを一つ下げた軽装で、およそそんな装備で入るのは危険とわかりそうな鬱蒼とした森になんら躊躇せずにずんずん入っていく。
土地勘があるのか知らないが、放っておいて万一問題が起きた時の事を思うと捨てておくこともできないと判断しラインハルトは後を追った。
やや距離が離れていたために、森に入ると姿を見失った。探しながら戻りの方角を見失わぬよう進む。と、木立の向こうからばちゃんという音と「ぶわっ」だか「ふぎゃっ」だか奇妙な声が上がった。
慌てて木立の向こうへ出ると、そこには蓮の生えた沼があった。
沼のほとり近くでばちゃばちゃと溺れて沈みかけている栗毛が目に飛び込んだ瞬間、
「馬鹿なのか!」
無意識に叫んでいた。
5歳児だってもう少しマシな危機判断能力を持っている気がする。
パニックになっているのかもがいているせいでどんどん沈んでいく。既に肩辺りまで沈んでいた。
岸からそんなに離れていなかったため、腕を伸ばせば届く。
腕を掴んで引き上げる。
「落ち着け!」
体を水平にすれば沼には沈まず脱け出せる。だからもがくな馬鹿娘。
「し、死ぬかと思っだ~………」
なんとかかんとか引き上げることに成功し、上がった息を整えていると、栗毛娘が泣きべそで言った。
泥まみれでひどい格好をして、自業自得な馬鹿娘といえども流石に可哀想になった。
荷物から手布を出して顔を拭ってやる。
「深さもわからない沼に入るのは危険だからやめなさい。たまたま通りがかったから助けてやれたが、下手をすれば死んでいたぞ。それから沼にはまった時はもがいてはいけない。泣くな、森の外に川があるから、泥を落としたら送ってやるから」
優しく言ったつもりが結局説教じみた言い方になってしまった。
「…ありがとうございます」
顔はべそべそだったが、取り敢えず泣き止んだので良しとする。
森を出て川の浅瀬に入って泥を落としながら、栗毛娘はメアリーと名乗った。
引き上げる際にメアリーを抱き止めて泥が着いたので、ラインハルトも一緒に入って洗う。
メアリーは村で唯一の薬師らしく、需要はあるものの傷薬と湿布しか作れないため、町から仕入れられる薬に競り合うべく質の高い材料探しをしていてあの沼を見つけたらしい。
メアリー曰くあれは精霊の沼でそこに生える蓮を使えば精霊の加護で随分効き目の良い品が作れるとか。状況が状況だったので精霊の気配を感じる余裕もなかったが。
「材料のために命を落としては元も子もないだろう」
「仰るとおりで…」
髪にも泥がついているぞ、と屈ませて洗ってやる。
「いいですよ!自分でできます!」
なぜか慌てて辞退されたが女性の髪に軽々しく触れるのも無礼だったかと気づいて謝る。
「そうか、すまない」
「いや、いえ、こちらこそ、本当助けて頂いてありがとうございます」
ぺこりと頭を下げられてうっかりと撫でてしまってから手を退ける。どうにも5歳児を相手にするようにしてしまっているなと思う。
「大体泥も落ちたな、そろそろ行こうか」
濡れた服を軽く絞って、荷物に入れていた上着をメアリーに着せてやる。風が冷たいかもしれないと持ってきていて良かった。女性に濡れた服のままでいさせるのは忍びない。
メアリーを馬に乗せて自分も後ろに跨がる。
「次からは沼にはまったらちゃんと自力で脱け出しますね。もがきません」
なぜまた沼にはまる前提なのかこの馬鹿娘。
「まだ沼に行くつもりなのか?」
げっそりと呆れた声が出たが、握り拳を作って鼻息荒くメアリーは振り返る。
「当然です、なんといっても市場競争力は死活問題ですから」
生活がかかってるんです、というメアリーに強く止めさせる事も出来ず、村の外へ行くメアリーを見つける度に後を追い、懲りずに沼に落ちるメアリーを助けるのまでがラインハルトの習慣になるのだった。
「いつもながら助けて頂きありがとうございます」
深々と頭を下げながらメアリーはお茶と焼き菓子を差し出す。
近頃はもがかなくなったが、体を水平にしようと動くとやはり沈み自力で脱け出せないメアリーを助け、持ち歩くようになった布と着替えで川で泥を落として、メアリーの家まで送って二人して順に湯を使い、こうしてもてなしを受けるのがパターン化しつつあった。
ラインハルトの着替えがメアリーの家に置かれるようになり、ラインハルト用の湯上がり布と、カップが用意されるようになった。
「聞きたいんだが、薬師以外の仕事に就こうとは思わないのか?」
町の薬と競り合うならば、メアリーが転職しても村は困らないだろう。別の仕事をして薬師を副業にするという選択肢もある。
「うーん、私、不器用なんですよ」
ぽりぽりと頬を掻きながらメアリーは答える。
「不器用だから大概のこと下手くそで、だから少しでも得意なことを仕事にしたくて。得意と言っても傷薬と湿布しか作れないわけなんですけど」
「両親が早く亡くなったので、早いとこ身を立てないといけなかったのもあるんですけどね」
まあ傷薬と湿布だけでも一応需要はありますから、田舎万歳ですと笑う。
「ラインハルトさんは、どうして騎士になったんですか?」
お茶に口をつけながらメアリーが訊き返す。
「俺は、貴族の三男なんだ」
「んえっごほっ」
急にむせこんだメアリーの背を擦ってやる。
「ら、ラインハルトさん、き貴族なんですか」
「ああ。貴族の三男の選択肢なんて騎士かさっさと婿入りするか、そのどっちもかくらいだというのもあるが、俺は純粋に兄達や家や、国の役に立てるならと思って騎士になった」
「そうなんですね…じゃあここの任が終わったら、いずれ婿入りされるんですか?」
「今のところその予定はないな。兄は騎士としての道を支持して後押ししてくれていて、首都に戻ったら近衛騎士団に配属される辞令が出てる」
コネを使ってほしくはないが、自分の側で役に立てと言われればラインハルトは初めから兄達の役に立つためにこの道を選んだのだ。
「出世コースなんですねぇ」
しみじみとメアリーは呟いた。
「そうでもない。…俺がいなくなったら沼には絶対落ちないようにするんだぞ」
5歳児に言い聞かせるように頭を撫でると、メアリーはへらりと笑った。
「肝に命じます」
信用ならないなとそのままわしゃわしゃメアリーの髪をかき混ぜる。この娘に目が届かなくなるのは、どうにも不安だった。
いっそ首都に連れていければ沼に落ちることもないのだが。
魔物が出た、と報告が入ったのは夕暮れ近くの時間だった。
滅多に魔物が出る地域ではないのだが、群れからはぐれたらしく気が立って暴れる魔物が村の近くで人を襲ったらしい。
幸い襲われたのは旅の者で対処を心得ていたため、うまく逃げて軽傷で済んだ。
すぐに騎士団に討伐令が出て、出撃の準備が整う。凶暴化しているとはいえ、魔物は1体だ。それほど危険な任務ではない。夜半には終わるだろう。
ちらりとメアリーもこの時間に沼に行くこともないだろう、と考える。
号が発されて意識を切り替えた。
想定通り、手こずることもなく無事に討伐を終えて村へ戻る。
ほんの掠り傷程度だが、売り上げに貢献するかとメアリーの家兼店に向かう。
明かりがついていたので入ると、メアリーではなく、パン屋の息子が店番していた。
「お、いらっしゃい。傷薬と湿布だけだけど在庫はたくさんあるよ。メアリーがありったけ準備してったから」
「メアリーはどこへ行ったんだ?」
尋ねながら不意に嫌な予感がする。
「騎士団が討伐で怪我してくるかもしれないからって追加で材料取りに行ったよ。少しでも儲けないとだからなー」
暢気そうに答えるパン屋の息子の言葉を聞き終えぬうちに店を飛び出す。
すごい勢いで出ていったラインハルトをきょとんとパン屋の息子は見送った。
馬鹿だ馬鹿だと散々思っていたがどうしてそう危険と分かっていて自分から突っ込むんだあの馬鹿娘は。やっぱり信用できない、連れていくしかないじゃないか。あの子の面倒を見るのは自分の役目だ。
焦って木の枝に引っかかりながら猛然と沼へ向かう。
木立から飛び出し、栗毛を探す。夜の森は星明かりしか届かず暗い。咄嗟に見つけられない。
「ぶぁっばっ」
声が聞こえて姿を見つける。
瞬間、ゾッと心臓が冷えた。
一気に血の気が引く。
顎まで沈みこんでいる。
どうして!
「メアリー!!」
沼から覗くメアリーの視線がラインハルトを捉える。メアリーの瞳から涙が零れているのを見て胸が締め付けられた。
革帯を腰から抜いて木にくくる。這って腕を突っ込みメアリーを掴むと引き上げる。腕が出たところで革帯の端を握らせる。
そのまま体を沼の上に水平にしながら引き上げる。
ぜえぜえと息をしながら岸に上がってへたりこむ。
ラインハルトは無言でメアリーをきつく抱き締めた。
温かかった。生きている。
冷えた心臓に血が通う。
目から熱いものが溢れた。
「メアリー、頼む、頼むから一人で沼に来ないでくれ。沼じゃなくても危険に突っ込まないでくれ。死ぬな。死なないでくれ」
情けない懇願が口をついて出ていた。
メアリーの腕がそうっと回される。
「ごめんなさい、ラインハルトさん。…助けてくれてありがとうございます」
「約束してくれ、俺が助けられない時にここには来ないでくれ」
「はい。約束します、ラインハルトさん」
素直に頷いたメアリーにほっと息を吐く。ぴくりとメアリーの肩が揺れた。
腕を弛めて、メアリーの顔を覗きこむ。
朱くなった頬と目尻に残った涙を眺めて、手では汚れるかと唇で滴を掬いとる。
「ラインハルトさんっ」
ますます顔に血を昇らせてメアリーが悲鳴を上げた。
安心し、おかしくなってくすりと笑う。
「………卑怯ですよそれ」
恨めしげな顔で言われたが、どういうことかよく分からなかった。
泥まみれのメアリーを抱えて戻り、パン屋の息子に礼を言って帰す。
二人とも風呂に入り、さっぱりしたところで改めて切り出した。
「メアリー、俺の任期が終わったら一緒に首都に行かないか」
両手を握って真剣に言う。断られる訳にはいかない。
「えっと、それは、あの」
「好きだ、メアリー」
「ちょっ」
「結婚して、俺と首都で暮らしてほしい」
己の気持ちをはっきり自覚した以上は即断即決だった。何せメアリーは目を離すとどんな危険に突っ込むかわからない。
ぱくぱくと口を動かしていたが、ぎゅっと目を瞑ると思いきったようにこくりと頷いた。
ほっと嬉しくなってメアリーに口づけるとばっと目を開けて距離を取られた。
「あのですねラインハルトさん!」
嬉しくなった感情そのままに緩んだ顔で見返すとまた赤い顔で悔しそうにメアリーは言う。
「だからそれ卑怯ですってば!」
メアリー曰くぞっこんフォーリンラブ、と言うことらしいが、その点に関してラインハルトに異論はない。
メアリーが自分を想うより自分の方が彼女を好きだろうと思っていたが、出会った初めから好きだったと聞かされるのはそれからしばらく後のことだ。