再出発
「本気で考えてるのって、怒られちゃった」
外は雨。道行く人は濡れないように鞄を抱え、早く家路につこうと足早に歩いていた。
「お母さんに?」
「ううん。先生に」
向かいに座る、高校の時からの友達であるユミは、コーヒーカップを両手に持ちながら、少し驚いた表情をした。
「先生?」
「そう」
「先生って、大学の?」
「ううん、違う。高校の」
「高校?」
ユミは静かにカップをおろし、私の目をじっと見た。
「なんで、高校の先生? マキ、今、大学生でしょ? 高校、関係ないじゃん。もう、卒業したし」
「うん、そうなんだけどね」
そうなんだけど、と、私は言葉を詰まらせた。
三回生になる前の春休み、私は久しぶりに母校を訪れた。懐かしい風景に思いを馳せながら、様々なことを思い出していた。
ふと、高校生のときにお世話になった先生に挨拶に行こうと思い、職員室を訪れた。
「そのときにね、怒られちゃったの」
いや、怒られたというよりは、諭されたと言うほうが、正しいかもしれない。近況報告をする中で、三年生のとき担任だった先生の表情は、次第にかたくなっていった。
「最近どうですかって、聞かれたの。それで、今まであったこと、話してたの。最初は、先生も、にこにこして聞いててくれたんだけど、だんだん目つき変わってきてさ」
目つきが変わってきて、言われた。
「大学生活二年間、あなた、何してたのって」
「先生が?」
「そう」
衝撃、というか、驚き、というか。一瞬で心の中が空っぽになった。
「全部話したうえで、あなたは何をしてたのって。普通に、言われたの。それこそ、高校のときの進路面談みたいにさ。あなたは、二年間何してたのって、言われたの。それって、要するに、あなたは何もしていないじゃないってことでしょう? 私、なんか、……なんていうかさ」
「ショックだった」
「……かな」
ショックなんて言葉じゃ、言い表せないくらいに苦しかった。衝撃とか、そういう言葉でも足りない。もっと、がつーんとくるというか、ぐさっと刺さるというか。いや、そんなに大きな武器ではない。すごく小さな武器で、それに特別な威力があるわけではないのだけれど、だからこそ、深く、恐ろしいほどにずっと、残ってしまう苦しみ。先生のその一言が、一気に私の全てを破壊した。
「たしかに、何もしてないんだと思う。事実、何もしてなかったから」
「例えば?」
「バイト、サークル、部活。何もしてなかった。課外活動っていう課外活動を、何一つしてなくて。資格もとってなければ、とろうともしてない。やってたことと言えば、大学に行って単位取ってた。振り返ってみると、私、何にもしてなかったの」
何か、特別、人と違うこと、そういうことを、一切していなかった。ただ、二年間、大学に通っていただけだった。出された課題をやり、テストを受けて単位をもらう。それを繰り返し、気が付けば三回生になっていた。
「先生は私に、それで就職大丈夫なのって、言いたかったんだと思う。何もないのに、雇う人なんていないよって。何か持ってないと、戦えないよって。世の中そんなに甘くないってさ、そういうことだと思う」
自分で言っていて、余計に心が重くなっていった。言葉にするという行為ほど、恐ろしいものはない。言わなければわからないのに、言ってしまえばわかってしまう。自分で理解してしまうことが、何よりも恐ろしい。誰にも言われたくないことを、一番言ってほしくない自分から言われて、もう、どうしようもなかった。
「当たり前だよね。それに、今更気付いちゃったんだよ。もう、来年三回生なのに。何もしてないってさ、何も持ってないってさ。まわりは、なんだかんだ言っていろいろやってたのに、私は何もしてなかったの。将来のことも考えず、ただ大学に通ってさ。なんのために行ってたのかも、わかんなくなってさ」
聞きたくない言葉を、吐き出してしまう自分の口が恨めしいと、何度も何度も思った。もう話したくないのに、何も言いたくないのに、なぜか次々と言葉は溢れた。そして、一番聞きたくなかった言葉を放った。
「私、どうして大学なんか来たんだろう」
すべての言葉は吐き出され、私の心は空っぽになった。一番言ってはいけないことを、言ってしまった。元も子もないこと、今更、どうしようもないこと。何の解決にもならない言葉を、口に出してしまった。時間の流れは唐突に遅くなり、周囲のものすべてから、自分が孤立している感覚を味わった。泣き出したかった。叫びたかった。自分の顔を、覆い隠したかった。何もかもが苦しくて、息をしているのも、悲しかった。
「そっか。大変だったね」
ユミは、私が思っていたよりも軽い調子で言った。
何も言えずかたまったまま、私は自分を恥ずかしいと思った。軽率だった。疎かだった。馬鹿だった。マキが悪いよとか言って怒られるか、かわいそうだったねとか言って同情されるか、いずれにせよ、なにかしら感情を持って接してくれるのだと、勘違いしていた。ユミは、私のことを心から考えてくれるのだと、勝手に思っていた。でも、そんなのは私の思い込みだった。ユミからすれば、私は数ある友人の一人でしかない。家族でもなければ、恋人でもない。だから、先生に言われて傷ついた私なんて、別に感情移入する対象ではない。そうなんだとしか思わない。むしろ、そうなんだとしか思えない。それ以上にできることはないし、変に励ましていいのか悪いのかわからない。ユミにとってこの話は、どうにもできない、聞いても意味のない話だったのだ。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。無駄な時間を過ごさせたことを、後悔した。
「ごめんね、ユミ。聞いてくれてありがとう。もう、大丈夫だから……」
私行くね、と言いかけたとき、ユミは、まっすぐに私の目を見つめながら、口を開いた。
「マキはさ、誰かのために生きてるの」
それは問いかけだったが、私には確認に聞こえた。真剣に、まっすぐに。ユミは、私に確認をした。
ユミは、息を大きく吸って、改めて、私の表情を確認した。
「あのね、きっと、先生はさ、自分がそうしてきたから、マキに言ったんだよ。そうやって、うまくいったから、マキに言ったんだよ。でもさ、マキはさ、先生じゃないじゃん」
一瞬、どきっとした。なぜかわからないけど、心にひっかかった。
「こんな言い方するときついかもしれないけど、先生の言ってることは、きっと、正論なんだろうと思う。何もやってないよりは、何かやったほうがいいんだろうし、資格とか、課外活動っていうのも、大切なんだろうね。結局、就職のときには会社に認められなきゃいけないわけだし、どれだけ自分がこれを頑張ったって言っても、証明できないならどうしようもないんだろうと思う。辛いけど、現実問題、そういうのをクリアしてない人に、仕事はないっていうのが、当たり前なのかもしれない。けどさ」
ユミは顔を上げ、まっすぐに言った。
「マキがしたいことしなきゃ、意味なんてない」
私は、ユミから、目を放せなかった。ユミの口から溢れてくる言葉を無視することはできず、ただただ、見つめることしかできなかった。それくらい、私の心には深くささった。
「みんながやってることやってるとさ、安心できるんだよ。だって、大体の人がそれでうまくいってるんだもん。でもね、それって、どうなのかなーって、ユミは思ってるよ。ずっと。だってさ、十人十色っていうじゃん? 個性を尊重しましょうとかさ。なのに、人と違うことしてたら、だめだよって言われるんでしょ? ユミはね、やってきたこととか、証明とか、そういうのも大事だとは思うけど、何より、その人自身が大事なんじゃないのかなって思うんだよね。じゃなきゃ、面接なんてしないかなって。ユミは面接官じゃないし、採用担当とかしたことないからわかんないけど、やったことが評価されるなら、紙見ればいいじゃん。こんなことしてこんなことになって、わーすごいって。紙見れば、わかるじゃん。でも、わざわざ面接するじゃん。会うじゃん。それって、その人の本当のとこが見たいってことなんじゃないの?」
論理としては、滅茶苦茶かもしれない。きっと、大人が聞けば、馬鹿だなこいつらは、と、笑うんだろう。けれど、なぜか、私の中で重くのしかかっていたものが、ゆっくりとなくなっていった。
「いい? マキ。マキはなんで大学に来たんだろうって言ったけど、大学は、就職のためだけの場所じゃないよ。純粋に、勉強がしたくて入ったって、いいんだよ。もし、違うって言う人がいても、その人とマキは違うんだから、無理に受け入れなくていいの。それから、何もしてないなんてことはない。マキはちゃんと大学に行ってたんでしょ? どうしてそれをいけないことみたいに言うの? 大学にちゃんと行けるって、当たり前みたいだけど大事なことじゃんか。途中で中退する人とか、自主休校ばっかりする人とかもいるんだからさ。でも、マキは行ったんでしょ? それは、褒めてあげていいんじゃないの?」
私の中でなくなりかけていたものが、徐々に戻ってくる感覚がした。
「何もしてないなんて思わないで。何もないとか、そういうことも思わないで。自分はだめだめで、救いようなくて、どうしようもないとか思わないで」
ユミは、私の手を握った。
「マキの人生だよ。マキだけの、人生だよ。だから、マキが選んで。周りになんて言われても、違うと思うなら貫き通して。どれだけ逆境に合っても、乗り越えて」
ユミは、握っていた手を強く握った。そして。
「自分を信じて」
私が失っていたものは、何だったんだろう。時間? お金? そんなふうに考えていた。でも、違う。ユミに言われて気が付いた。私が失っていたものは時間でもお金でもない。自分を信じること。自信だ。全てを後ろ向きにとらえ、過去ばかりに縛られる。言われた言葉を素直に受け取り、動くこともできぬまま、自分に対する信頼だけを失っていく。そんな負の連鎖に陥っていたことに、気付かされた。
「マキは次、大学三回生。いよいよ、就職のことを頭におく時期。そんな時期に、先生に会って話したのは、ある意味ラッキーだったかもしれない。自分のこと見つめなおすチャンスを、先生は与えてくれたんだよ。何がしたいのか、何を求めるのか。そういうことを、考えろってことだったのかもね」
なんとなく過ごしていた毎日。そこに、火をつけられていた。先生は私を想うからこそ、厳しいことを言ったのかもしれない。
「人生これからだよ。過去のことは過去。前を向いて歩こーう。いつ、何が起きるかなんて、誰にもわからない」
ユミはにこっと笑った。「不安だけどね」と、付け足しながら。
「お互い、頑張ろうね。一回だけの人生なんだから、楽しいことしようね」
甘い考え。あまりにも無謀な人生設計。周りから見れば悲惨な人生を送るであろう予備軍。それでも、楽しいことは追及したい。一度きりの人生くらい、自分の好きに生きたい。
「帰ろっか」
「そうだね」
まだ何が起こるかはわからない。なんだかんだ言って不安になって、結局資格とったりするのかもしれない。就職活動が難航して、死にたくなったりするんだろう。でも、前へ進むしかない。自分を信じて、とりあえず、歩いて行くしかない。
「ちょっと、探してみる」
「バイト?」
「とりあえず、いろいろ」
雨はあがった。厚く覆っていた雲も晴れた。現状は何も変わっていないけれど、私の中では、何かが変わった気がした。