AM5:00
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『 僕を、呼んだ―――? 』
ここはどこだ。知らない場所だ。雨が降っている。びしょ濡れの俺と、相対する子ども――少年だ。
少年がいる。こんな奴、俺は知らないのに。動けない。脚が動かない。
少年が、俺を見る。見る。視る。診る。看る。みる。
ぞ、っと怖気が走った。丸い、吊り上がった眼は俺をとらえて離さない。ぎょろりと白目のない眼球が動く。
瞳孔が開き、小ぶりな口に似合わない牙がにゅっと現れたかと思うと、視界が真っ赤に染まって、―――――
「―――――……っ‼ はあっ……はあっ……‼」
ピピピピピ……。目覚まし時計が控えめな音を立てた。上体すら億劫で起こさず、手探りでアラームを止める。ふと腹部に重たいものを感じて、そちらへ目をやる。と。
『 やっと おきたの か ? 』
「誰だよ……お前……」
無機質なこどもの声で、誰かが言った。ぎょろり、ぎょろり、目が動く。瞳以外は、暗闇で何も見えない。俺をとらえて離さない癖に、俺なんかちっとも見ていないようなその目はまるで硝子だ。
誰なんだ、お前は。顔を見せてくれ。
『 もう はなさ ないで 』
「誰なんだ……」
なあ、おまえも泣いているのか、なんて笑える科白が喉までせり上がってくるのを必死で抑えた。
*
『 おきろ 』
「ぐえっ……三途の川が……見えた……ッ」
眩しい朝の光が俺の眼を灼く。ゆっくり重い身体をを起こすと、俺の腹の上にちょこんと乗る、鼠の耳を生やした少年がいる。薄い薄い栗色のふわふわの髪があちこちに跳ねている。だらりと俺のパジャマを着崩したその姿は飽きるほど見たが、腹部の重みにはまだ慣れない。
『 駄目人間が 』
それだけが鮮明な意味を持って聞こえた。俺がそいつを見上げると、鼠――センと呼んでいる――はいつもの気怠げな顔を向けた。半開きの唇から、単語が零れ落ちる。
『 ちこく 』
「あ、おう、そうだったな。ってかお前退けよ! 重い」
恨みがましく睨んでやると、センは音もなく宙に浮きあがった。俺はいそいそと起き上がると、着替えをはじめ――られなかった。服を脱ぎかけたとき、センの腹と俺の顔が激突した。う、とかあ、とか声にならない声を上げている。なんだか痛そうだ。しばらくして、『 すまない 』と、ちっとも反省の意が籠っていない声で詫び、センはドアを開けて出て行った。
俺は床に散乱した制服を見つめ、大きなため息を吐いた。横で小さく携帯が光った。慌てて手に取って時間を確認すると、AM6:30を示していた。
「遅刻だ……」
『 おくって いって やろう 』
いつの間にか戻ってきていたらしい、センが俺を見下ろす。巨大な――とはいっても、センの背丈ほどだが――猫のぬいぐるみを、抱きかかえている。
『 のれ 』
「おう?」
言われるままに、猫のぬいぐるみの上に乗る。センが手をかざすと、それは淡い光を放ちながら浮かび上がった。ブルブルと震えだす。
『 いけ 』
ブォン、と音がしたかと思うと頭に激痛が走った。俺の頭に窓のガラスが深々と突き刺さっていた。窓ガラスは無残に壊れている。え、窓ガラス!?
センは口をにたりとゆがめ、小さく手を振った。
「お、おれきょうしょこーふしょうで‼‼ いや、こうそきょうふしょうで! あれ、言えねえって何でもいいから下ろせ! 下ろせよ馬鹿鼠‼‼‼」
『 ちこく わるい 』
「ちょ、おま、帰ったら覚えてろぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおお‼‼‼‼」
俺の断末魔の叫びに、センが口に手を当ててくつりと笑った。
俺を乗せたぬいぐるみは学校近くでやっと俺を下ろしてくれた。猛烈な吐き気をどうしてくれよう。
予鈴と同時に教室に滑り込んだ俺は、すぐに斜め前の席を確認した。今日も空いている。北方千里の席である。北方は学校を休みがちで、一週間に三日は休んでいるほどだ。それでも留年するだとか、素行が悪いだといった嫌な噂を聞かないのは、彼女が学年で首位争いをするほどの秀才だからだろうか。
今日でもう一カ月近く姿を見せていない。寂しいが、きっとまたふらりと澄まし顔で現れるだろう。
「家に居ないんだー……お母さんも発狂しそうなくらいだし」
ぽつりと聞かれたその声に危うく振り向きそうになった。それはたしか、北方と仲の良い女子の声であったからか、途端に眠気が吹っ飛んだ。
北方が、いない? 行方不明ということか。
俺の癒しが消えてしまった。すっかり意気消沈してしまった俺は、机上に置いた筆箱と教科書を仕舞った。北方がいない学校なんか居る価値はない。そう断言できるほど、つまり俺は、何というか、その、まあ言ってみれば、好きだったのだ。端的に言うと。
だから俺は異常なほど北方を見ていた。ふわりと跳ねる癖のある短い髪。いつも眠そうな目蓋と、長い睫毛。柔らかそうな頬、すらりと伸びた脚。あまり動かない小さい口。メタルフレームの眼鏡は伊達なのだと、仄かに笑って教えてくれた。非の打ち所がない、すべてA評価の通知表を見せてもらったこともあった。部活は入っていないらしく、学校帰りに近所の公園を通り、神社にお参りをするのが日課だと言っていた。小柄な北方は俺の理想そのものだった。
つまんねえな、と吐き捨て、欠伸を噛み殺して、鞄を背負って教室を出た。
「北方、……誘拐とか、殺されたりして」
ぼそりと吐いた言葉は妙に現実味を帯びていて、俺はぶるりと身体を震わせた。北方、北方、きたかた――、どこへ行ってしまったのだろう。彼女のことだから、何もなかったように現れるかもしれないが。
マフラーを巻き直し、がら空きの校門を悠々と出る。こんなことをしているのを見られたら、俺を送ってくれたセンと猫のぬいぐるみはきっと冷たい目で駄目人間が、とでも言うのだろう。
あいつらも随分活動的になったよなと苦笑いして、俺はセンと出会った日のことを思い出していた。
どんよりと曇った青色から、雫が零れ落ちて俺の頬を濡らした。
*
そういえばあの日も雨が降っていたなと思う。
学校帰り、北方がよく参るという神社にふらりと立ち寄った。北方は相変わらず学校に来ていなくて、もしかしたら会えるかもしれない、なんていう都合のいいことを考えていた。つまり俺は浮かれていたのだ。濡れた石を踏んで、参道の真ん中を歩いていた俺は、本殿ではなくその端にある小さな祠に気付き、足を止めた。
正確には、祠のちょうど前に佇む、まさに濡れ鼠を見付けたのだ。白い髪に白い服、白い鼠の耳を持つ子ども。その背中には、この子どもの背と同じくらいの、猫のぬいぐるみが俺を見て、にたりと笑った気がした。
何なんだ、夢でも見ているのか?
手から傘がつるりと滑り落ちた。ぱしゃん、と静かな境内にこだます音に、子どもがゆっくりと振り返った。音もなく。傘を拾うこともできなかった。
鬱蒼とした境内に、子どもの白はとても映えていた。
『 おまえ みえるの 』
「何言ってんだ……お前、迷子か」
子どもの言い方はひどくつたなく、僅かに寂しさが滲んでいた気がした。俺はすり足で歩を進める。
奇怪な髪の色や雰囲気はこの際どうでもいい。今にも泣きだしそうな無表情の顔が俺を見上げた。硝子玉のような瞳が俺を捉えた。
「どうしたんだ。親は」
『 そんざい しない 』
親が存在しない。孤児、ということでいいのだろうか。少年は考え込んだ俺をじっと見ていた。
本当に聞きたいことを呑み込み、当たり障りのない言葉に置き換えて、尋ねる。
「行くところは?」
『 ない。 おまえには あるのか 』
「……ああ、一応な」
いいな、と小さい唇が呟いた気がした。俺の思い違いかもしれないが。俺は少しの躊躇の末、左手を差し出した。少年は俺と、俺の掌とを交互に眺めた。
『 どういう いみだ 』
「……お前さえよければだが、来ないか」
『 どこに いけと 』
「俺の家だよ」
『 それは だめだ 』
「駄目じゃない。迷惑になるとか考えてんのか?」
『 めいわく ちがう ほんとうに 』
うるせえ来い、と出かかった言葉を呑み込んだ。代わりに細っこい手首を掴み、もう片方の手で傘を引っ掴んだ。小さい抵抗の声が聞こえたが、無視だ。境内から小走りで逃げ出すように、帰り道を急いだ。
すれ違う人々が、学ランの俺とアルビノのような少年を訝しげな眼で見ては視線を逸らした。
「お前、名前なんつーんだ」
『 ない 』
「ない? んなことねぇだろ」
『 きまった な は ない すき に よべ 』
「成る程分からん。とにかく好きな名前を付ければいいんだな」
言葉はなかったが、代わりに手を少しつよく握られた。それを肯定だと仮定して、話を進める。
『 いいわすれ ていた めし は いらない 』
「何言ってんだ、そんなほっそい身体で。食わなきゃ死ぬぞ」
『 もの たべられない 』
どうやらこの子ども、相当頑固だ。そこまで言うならしょうがない。腹を空かせた素振りを少しでも見せれば、口の中に突っ込んでやる。
そんなことを考えながら少し歩くと、家が見えた。
濡れた少年を玄関に立たせ、俺は取ってきたバスタオルを頭から被せた。
「拭いとけ」
『 ああ 』
ぎこちない手つきで身体を拭く子どもを、俺はなんだか小さい弟が出来たような気持ちで眺めていた。
「宜しくな、セン」
『 セン 』
「お前だよ」
好きな名前で呼んでいいって言ったのは嘘だったのかと言ってみると、俺がセンと名付けたその子どもは俺を見上げた。
『 わかった のか 』
「なんのことだ?」
何でもないと、少しだけ嬉しそうな声が後ろから聞こえた。セン、気に入った、と。
『 りぐ 』
なぜかその言葉に、胸が揺さぶられたような気がした。
*
『 どこへ いく 』
「ん⁈ ……おお、センか」
上に、ぬいぐるみを背負った子ども、センが浮いていた。
『 おくって やった のに 』
「北方がいねーんだよ。居る気しねぇ」
『 きたかたせんり 』
「え?」
センの口から聞きなれた名前が飛び出した。驚いて見上げると、無表情の中にも、意地悪さを滲ませた瞳が俺を捉えた。センはくつりと笑うと、俺の顎をくいっと持ち上げた。
子どもらしくない仕草に、心臓が跳ね上がった。
『 ふふ ふふふ おまえ そうか 』
「何?」
『 すき と いうのだろ 』
つまりは、“きたかたせんり”に恋をしていると、センは笑いながら言った。
「ぅ……まあ、そうだけど」
『 それならば かかわるな これは われわれの 』
“かかわるな”、“われわれの”。何だ。センは、何を言おうとしている?
センは、唇を小さく動かした。心地の良いアルトが不吉な響きと共に紡がれる。
『 こんやは かえらない 』
長い前髪の間から覗く瞳は、ひどく揺らいでいた。
ここまで読んでいただいた読者のアナタさま、ありがとうございました。