前編
大体夕方まで眠っている。
目が覚めるちょうどその頃に仕事から帰宅する妻を抱きしめる。
飯を食い、テレビを見て、好きなことをして、好きな時間に眠る。
たまに人生について考える。
俺はこのままずっと堕落した毎日を送るのか、いや、こんな日々が続かないことはわかってる。けれど、これが刹那的なものだとわかっていても、将来に展望をあてなければいけない事実がわかっていても、そう、わかっていても身動きが取れないくらいダメな人間になっている。
終わりを求める自分と持続を求める自分がいる。そのどちらも、根っこは無気力だ。こんな生活ダメだとわかっていても、終わらせる勇気がないから、いつか妻が自分のことを蔑むその日を待っている。しかし受動的だ。自ら離れようとはしない。本気で嫌われようともしない。結局、言い訳なんだ。怠惰なんだ。妻が明日の仕事に向かって睡眠を取るその時間に、俺は聖書なんて読んでいるんだ。
「私が来たのは地に平和をもたらす為だと思うな。私がもたらすのは平和ではない。剣だ」(マタイ伝10音)
暗闇の部屋の中、窓から差し込む月明かりと階下の居酒屋の喧噪に混じって脳味噌ダイレクトに入ってきたその一節に、俺は朧げだが輝きをもった閃きが浮かんだ。
そうだ、俺が欲しいのは平和じゃない、安寧じゃない、剣なんだ。忌むべき物、忌むべき空間、環境、派閥、風潮、関係、常識、流行、それらに立ち向かうための剣なんだ。現代における剣とは何か、まさか実際に剣を携えたところで立ち向かえるものなんてチンピラくらいなもんだ。
そうじゃない。現代における剣とは、金のことだ。マネーのことだ。簡単なことだ。俺は稼げばいい。働けばいい。
俺はわかった。働こう。もうヒモの真似事はやめだ。働いて、貯金して、立ち向かう剣を作り上げるんだ。
そして俺は求人情報誌を開いた。五分とたたずに閉じ、妻の眠る毛布に入り込み、もぞもぞと抱きついて目を閉じた。
そんな簡単に働く意欲がわけば、今頃こんなことにはなってないんだよ......。
意識の薄れる中で、確かにそれだけはハッキリしていた。
夢を見た。羽衣をまとった天使のような天女のような女が、ズタ布を纏う俺に向かって何か言っていた。
ヘブライ語のような彼女の言葉は俺には理解出来ないはずだったが、不思議なことに徐々に聞き取れるようになっていった。
耳から聞こえる音が少しずつ滅していき、脳みそに響き渡る理解可能な言語が代わりに増幅されていく感覚だった。
彼女は右手に持ったナイフのような刃物を俺に捧げながら、下のように言ってきた。
「このナイフは世界逆転の鍵となり。それはあなたの願いを叶えるでしょう。しかし、あなたの願い叶えるそれ以上に、あなたを翻弄することもするでしょう。それでも手にしますか?」
夢の中の俺が何を思ったのかは知らないが、きっと俺は彼女に応じた。そこで、夢は終わっていた。
目が覚めると、枕元に銀色に輝くナイフのようなものがあった。
俺は、割とSFやファンタジーを信じるタイプだ。幽霊は見えないけれどいると思うし、害のない怪奇現象なら怖いとは思わない。
よって、俺はなんら辟易なくそのナイフを手に取って眺めた。
と同時に妻が目覚め、俺はなんとなくナイフを枕の下に隠した。
おはよう、と言う妻に対して、俺は久しぶりに少し話をした。
「なあ、お前の生きる意味ってなんだ?俺みたいなダメな男とこんな狭くてつまらん部屋でずっと一緒にいてさ、楽しいのか?」
「意味とかよくわかんないけど、私はあなたが求めればいつだってそばにいたい、元気がない時は元気付けたい、綺麗でいろって言われたら、綺麗でいたい、あなたに褒められるのが何より幸せだよ、何か、嫌なことでもあった?」
妻は曇りのない目で俺を見た。
それから、日々はゆっくり過ぎていった。曇りの日は黙って手をつなぎ濡れた庭を歩き、晴れた日には少し笑って目を合わせりした。
俺は少し働くようになって、料理も作るようになった。前よりも会話が増えて、前よりも笑顔が増えた。こんな日々が続くと思った。
しかし、ある日その平穏な日々に亀裂が走った。
近頃近所で噂の少年少女による犯罪グループに妻が攫われたことを、友人からの連絡で知った。
俺は死ぬもの狂いでそいつらを探した。街をうろつくガキたちに片っ端から声をかけた。ようやく本拠地を見つけた。
けど、俺がついた時には何もかも手遅れだった。妻はガキどもに輪姦された挙げ句、少年少女達の破壊衝動の捌け口となって真っ赤になっていた。
いつの間にか、俺の右手にはあの銀色に輝くナイフが握られていた。
俺は子供達を皆殺しにした。方法は覚えていない。
妻は泣きながら抱きついてきた。俺は大切に抱き返した。俺はもう輝きをなくしたあの武器を床に捨て、妻を抱き返した。
願いが叶うんだろ?もし叶うなら、妻が幸せであるように頼むよ。でも、それを叶えるためには時間を巻き戻すしかないよな。なあ。
世界が巻き戻される。
ナイフについた血が生み出した茶色い錆をこの時間軸に置き去りにして。
誰も預かり知らぬところで世界はいっぱいいっぱいになっていくことを知らずに。




