契約のバスタブ
「原牧真子様、ですね。」
私がのんびりと下校している所だった。
黒いスーツを着た二十代後半ぐらいの男がにこにこしながら話し掛けて来た。
ずいぶんと胡散臭い笑顔だったが。
知らない人には付いていかない。これ常識。
「はあ。」
それだけ言ったらあとスルー。私は足早にそこを立ち去ろうとした。
「昨日の夜、リンク致しましたよね。」
私の足が止まった。昨日の夜?
昨日はご飯食べてお風呂入ってマンガ読んで寝たぐらいだけど…。
勉強については触れないで欲しい。
「昨日レインコートのジョズを倒したではございませんか。」
レインコート…
あの男の子のこと?今思い出しても少し怖い。と言うか何でこいつはそんなこと知ってんだ?あれは私の妄想でしょ?
男は勝手に話を進める。
「いやあ、お見事でした。銃口を向けられた瞬間に空振った勢いで剣を投げつけるなんて。誰でも思い付くものではございません。私も見ていて興奮してしまいましたよ。原牧様はセンスがおありなのですね。」
「ちょっ、一遍に喋らないで下さい!」
何でこいつはそんなこと知ってんだ?
と言うか見ていた?どうやって?
こいつに色々と聞きたいことがあるが、質問が多すぎて何から言えばいいか分からない。
「え…あの…そ…」
「何でしょう。」
男の表情はさっきからずっと変わらない。
気持ち悪い
「何で…あれは妄想なのに、」
「妄想ではございません。現実です。」
は?
だってあの時私お風呂にいたんだよ?
そりゃあ、やけにリアルだと思ったけど。
「ならその傷はどうしたのですか?」
男は私の左手を指した。
ぎくりとした。だって昨日のお風呂上がりに身に覚えのない擦り傷があったから。
おそるおそる左手を見る。やっぱり昨日のままだった。
「その傷は原牧様が岩影に隠れた時についたものでございます。」
あまりにも現実離れした話に、逆に少し冷静になってきた。確かに男の言うことはつじつまが合ってる、気がする。
「じゃあもうあの世界のことは妄想しないようにします。」
「それは不可能です。」
「は?」
「あのゲームはクリアするまで終わることはできません。」
なんだ。じゃあクリアすればいい話じゃん。
「どうすればクリア出来るの?」
男は少し悩んだ、ふりをした。
「7人全員に勝って下さい。それだけが条件です。」
相変わらず胡散臭い笑顔だった。
「一回でも負けたら死にますよ。」
「…はい?」
「ですから、負けると死にます。」
「…はい?」
「死にます。」
男は笑顔で淡々と言った。
「私…が?」
「はい。」
あなた以外誰がいるのか、とでも言いたげな言い方だった。
「ゲームじゃないの?」
「ゲームですよ。」
男は付け足した。
「ただし命を懸けた、ね。」
私はゾッとしてその場から逃げ出した。
なんだあの人!関わっちゃ駄目だ!
それじゃあ私は負けたら死ぬの?
何で?何で?
私は走った。家に向かって全力で走った。
男は追いかけて来なかった。
ここを曲がれば、すぐに私の家だ。
そう思った矢先、その曲がり角からさっきの男がすっと出てきた。
ぞわり
怖い、怖い、怖い怖い怖い!
振り返って逃げようとした時、男はペラリと一枚の紙切れを私に見せた。
「驚かせてすみません。まずは契約して下さい。そうすれば、命が助かるかもしれません。」
もう私は目に涙が浮かんでいた。
「契約?」
「はい。契約していただければ、あなたをゲームから解放出来るかもしれません。
今のあなたは不法侵入扱いですので、ゲーム解除が出来ない状態なのです。」
なるほど。言われてみれば確かにそうだ。でも契約したらゲームに参加するということになってしまう。
「きちんと契約していただかないと、勝っても負けても、命を失う危険性があります。どうしますか?」
「え…契約しないと死ぬんですか?」
「そういう可能性もあるということです。」
男の表情がいちいち変わらないことに少しイライラしてきた。
それだったら契約して7人全員に勝っ
てやる。
「分かった。契約する。」
どっちみち死ぬかもしれないなら、絶対このゲームをクリアして生きぬいてやる。
男は初めて心の底からの笑顔を出した。
そんな気がした。
「分かりました。では詳しい話は後程説明致します。残りの時間を楽しんで。
では、また。」
機械音が一瞬聞こえたかと思うと、男はノイズのように揺れて消えてしまった。
昨日見た、レインコートの男の子が消えるみたいに。