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誰も降りない終着駅で、私を捨てた人たちへの最高の復讐が始まりました

作者: ゆうた

「この駅は、もう誰も降りないんです」


私は何度、この言葉を口にしただろう。


道に迷った観光客に。取材に来た地方紙の記者に。そして、自分自身に。


廃駅となった終着駅。錆びた線路。もう二度と来ない列車。


(まあ、捨てられたのは私の方だけど)


駅舎を改装した小さなカフェ『終着茶房』のカウンターを磨きながら、私——藤崎凛は窓の外を見つめた。六月の雨が、古びたホームを叩いている。


三年前の今頃も、こんな雨だった。


婚約者と親友がホテルから出てくるのを見たあの日。二人が私の企画書を「自分たちの成果」として発表したあの日。すべてを失って、祖母の遺したこの廃駅に逃げてきたあの日。


「凛ちゃん、今日のコーヒーも美味いなあ」


源一郎さん——元駅長の田所さんが、カウンター席でカップを傾けた。七十八歳の背筋はぴんと伸び、白髪を短く刈り込んだ横顔は、現役時代と変わらない威厳がある。


「ありがとうございます。今日は少し深煎りにしてみました」


「うむ。雨の日にはこのくらいが合う」


源一郎さんは毎日、同じ時間にやってくる。かつて四十年間この駅を守った人。祖母の古い友人。そして、私を孫のように見守ってくれる人。


「……源一郎さん」


「ん?」


「この駅、生き返ったと思いますか」


我ながら、らしくない質問だった。


源一郎さんは少し考えてから、穏やかに笑った。目が三日月になる。


「生き返ったさ。列車は来んでも、人は来る。凛ちゃんがここにおるからな」


(そう、だといいんですけど)


私は曖昧に微笑んで、カップを下げた。



午後八時。源一郎さんを見送り、閉店の準備をしていると、雨脚が一層強くなった。


窓の外が白く煙る。雷鳴。


そして——。


ホームに、人影が立っていた。


(……え?)


終電どころか、この駅には何年も列車など来ていない。最寄りのバス停からも三キロはある。こんな土砂降りの夜に、なぜ。


びしょ濡れのスーツ姿。傘もなく、ただ立ち尽くしている。


雷光が、一瞬だけその顔を照らした。


虚ろな目。何かを諦めきった表情。


——三年前の、私と同じ目だ。


気づいたときには、傘を持って外に出ていた。


「あの」


男が振り向く。切れ長の目に濃い眉、整った顔立ち。三十代前半だろうか。高級そうなスーツは雨を吸って重そうに肩に張り付いている。


「ここ、もう電車は来ませんよ」


我ながら間抜けな第一声だった。


男は私を見た。いや、見ているようで見ていない。視線の焦点が合っていない。


「……知ってる」


かすれた声だった。


「知っていて、来たんだ。どこにも、行く場所がないから」


雨音だけが、しばらく二人の間を埋めた。


私は傘を差し出した。


「泊まる場所がないなら、うちの空き部屋、使います?」


男の目が、初めて私を捉えた。


「……なぜ」


「なぜって」


(なぜだろう。見ず知らずの不審者を泊めようとしてる私も、相当どうかしてる)


「このまま放っておいたら、風邪ひくでしょう。うちはカフェなので、泊まるなら宿泊費いただきますけど」


「……同情か」


「同情じゃないです。商売です」


私は淡々と答えた。


「温かいコーヒーと、乾いたタオルと、雨風をしのげる部屋。全部、お代はいただきます」


男は、ほんの少しだけ目を見開いた。


そして——。


「……変な女だな」


「よく言われます」


私は傘を押し付けるようにして、踵を返した。


「来るなら来てください。来ないなら、傘だけ返してくれれば結構です」


ホームに背を向けて歩き出す。


数秒の沈黙。


——足音が、ついてきた。


「……名前」


「は?」


「名前くらい、聞いてもいいだろう。金を払う相手の」


私は振り向かずに答えた。


「藤崎凛。この廃駅の、勝手に居座ってる管理人みたいなものです」


「……桐生、蒼真」


桐生。


その名前に、微かな引っかかりを覚えた。どこかで聞いたことがある。でも、今は思い出せない。


「桐生さん。とりあえず、着替えてください。お湯も沸かしますから」


駅舎の扉を開けると、コーヒーの残り香が漂ってきた。


振り返ると、桐生と名乗った男が、呆然と店内を見回していた。


古い木のカウンター。アンティークのランプ。壁に残る、かつての時刻表。


「……本当に、駅なんだな」


「ええ。誰も降りない、終着駅です」


私はエプロンを外しながら、何気なく付け加えた。


「でも、あなたは降りてきた」


男の肩が、微かに震えた。


雨はまだ、止みそうになかった。



翌朝。


私は五時に起きて、いつものように一杯目のコーヒーを淹れた。


誰もいないホームのベンチに座り、朝靄の中で湯気を吸い込む。この時間だけが、私の「祈り」のようなものだった。


(昨日、なんで泊めたんだろう)


桐生蒼真。


昨夜、彼は出した着替えを受け取ると、簡潔に「ありがとう」とだけ言って二階の空き部屋に消えた。食事は断られた。コーヒーも。


「同情なら要らない」


最初に彼が言った言葉が、まだ耳に残っている。


(同情、ねえ)


私は苦笑した。


三年前の私も、そうだった。誰かの親切が全部、哀れみに見えた。「可哀想に」という視線が、刃物のように突き刺さった。


だから逃げた。誰も私を知らない場所へ。


——コーヒーが冷めかけた頃、背後で足音がした。


「……早いな」


振り返ると、桐生さんが立っていた。昨日貸したシャツとスウェット姿。高級スーツとは似ても似つかない格好だが、不思議と似合っている。


「おはようございます。よく眠れました?」


「……あまり」


正直な人だ。


「コーヒー、淹れましょうか」


「いや、いい——」


「宿泊費に含まれてます」


私は有無を言わさず立ち上がった。


「朝食は別料金ですけど、コーヒー一杯くらいはサービスです。ぼったくりだと思われたくないので」


彼は少し面食らったように私を見たが、やがて小さく息を吐いた。


「……変な女だ」


「昨日も言われました」



カウンターで向かい合い、私が淹れたコーヒーを彼に出した。


桐生さんは無言でカップを受け取り、一口含む。


「……美味いな」


「ありがとうございます」


「本当に、美味い」


二度言った。その声に、少しだけ感情が混じっていた。


(ああ、この人、たぶんずっと我慢してきたんだ)


何をかは分からない。でも、コーヒー一杯で「美味い」と二度言う人は、それだけ何かに飢えている。


「どうぞ、ゆっくり」


私は自分のカップを手に、窓際の椅子に座った。距離を取る。必要以上に踏み込まない。


桐生さんはしばらく黙ってコーヒーを飲んでいたが、やがて口を開いた。


「聞かないのか」


「何をです?」


「俺のこと。なぜこんな場所に来たのか。何者なのか」


私は窓の外を見たまま答えた。


「聞いてほしいですか?」


「……」


「聞いてほしいなら聞きます。聞いてほしくないなら聞きません。お客様のプライバシーには踏み込まない主義なので」


「客、か」


「はい。お金をいただく以上、あなたはお客様です」


彼は何か言いかけて、やめた。


代わりに、ぽつりと呟いた。


「……俺には、もう何もない」


「そうですか」


「会社も、家も、信頼してくれる人間も。全部、なくなった」


私は振り向かなかった。


「大変でしたね」


「……それだけか」


「それだけです」


(だって、私もそうだったから)


言葉にはしない。彼の傷に、自分の傷を重ねるのは違う。


「慰めも説教もしません。でも、コーヒーは何杯でも淹れます。追加料金なしで」


沈黙が落ちた。


長い沈黙の後、彼が小さく笑った。


「……本当に、変な女だ」


「三回目です」


私もつられて、少しだけ口元を緩めた。



午前十時。開店と同時に、常連客がやってきた。


「りんさーん! おはよー!」


勢いよく扉を開けたのは、小野寺楓。地元の高校三年生。ショートカットに大きな目、制服姿の快活な少女は、私のカフェの「看板娘」を自称している。


「おはよう、楓ちゃん。今日は早いね」


「だって日曜だもん。テスト終わったし、りんさんのケーキ食べたくて——」


楓ちゃんの言葉が途切れた。


カウンターの隅で、コーヒーカップを握りしめている男を見つけたからだ。


「……え、誰?」


「お客様よ」


「お客様って……泊まってるの? この人」


楓ちゃんの声が、露骨に警戒を帯びた。私を守ろうとしてくれているのだ。この子は本当に、真っ直ぐで優しい。


「大丈夫。ちゃんとお金はもらってるから」


「そういう問題じゃなくて! りんさん、女の人一人で暮らしてるのに、知らない男の人泊めるとか危なくない!?」


「……」


桐生さんが、居心地悪そうに身を縮めた。


(あ、この人、こういう反応されるの苦手なんだ)


意外だった。あの冷淡な態度から、他人の視線など気にしないタイプだと思っていた。


「楓ちゃん。この人、昨日の雨の中、ホームでずぶ濡れになってたの」


「え……」


「行くところがないって言うから、泊めたの。それだけ」


楓ちゃんは桐生さんをじっと見た。


桐生さんは視線を逸らした。


「……ふーん」


楓ちゃんの警戒が、少しだけ緩んだ。


「まあ、りんさんが大丈夫って言うなら。でも、変なことしたら私、源一郎じいちゃんと村の人たち呼ぶからね!」


「しないよ」


桐生さんが、ぼそりと答えた。


「何もする気力もない」


「……なにそれ」


楓ちゃんが呆れたように眉を寄せた。


「暗っ。もうちょっと元気出しなよ、おじさん」


「おじさん……」


桐生さんが、小さくダメージを受けたように呟いた。三十二歳に「おじさん」は効くらしい。


私は思わず、ぷっと吹き出した。


「——笑うな」


「すみません。でも、楓ちゃんに免じて許してあげてください」


「許すもなにも……」


桐生さんは困ったように眉を寄せて、結局、残りのコーヒーを一気に飲み干した。



その日から、奇妙な同居生活が始まった。


桐生さんは日中、ほとんど部屋に籠もっていた。食事は最低限しか取らず、私が持っていっても「置いておいてくれ」としか言わない。


三日目の朝、私は業を煮やして言った。


「桐生さん。一つ、お願いがあるんですけど」


「……なんだ」


「暇なら、手伝ってもらえませんか」


「手伝い?」


「裏の畑の草むしり。あと、薪割り。私一人だと追いつかなくて」


彼は怪訝そうに私を見た。


「それは……宿泊費とは別か」


「はい。働いてくれたら、その分の食費はタダにします」


「……」


「引きこもってても、いいことないですよ」


(私が言えた義理じゃないけど)


「体動かしてれば、少なくとも余計なこと考える暇はなくなりますから」


桐生さんは長い間、黙っていた。


「……分かった」


その日の午後、彼は黙々と草をむしっていた。


不慣れな手つきだったが、文句は言わなかった。黙々と、ただ黙々と。


夕方、私が差し入れた麦茶を、彼は一気に飲み干した。


「……疲れた」


「お疲れ様です。夕飯、カレーでいいですか」


「……なんでもいい」


その夜、桐生さんは初めて食卓についた。


大盛りのカレーを、無言で平らげた。


「……美味かった」


それだけ言って、また部屋に戻っていった。


私は空になった皿を見つめて、小さく笑った。


(まあ、一歩ずつ、だよね)


窓の外では、星が静かに瞬いていた。



桐生さんがうちに来て、一週間が経った。


彼は毎日、黙々と雑務をこなすようになった。草むしり、薪割り、簡単な修繕。口数は少ないが、頼んだことは確実にやる。


「桐生さん、元々こういう仕事してたんですか?」


「いや。やったことない」


「器用ですね」


「……見様見真似だ」


(嘘。明らかに地頭がいい)


彼の動きを見ていれば分かる。一度やり方を見せれば、二度目からは自分で工夫する。効率を考え、無駄を省く。


仕事ができる人間の動き方だ。


その日の午後、源一郎さんがやってきた。


「おう、今日も来たぞ、凛ちゃん」


「いらっしゃいませ、源一郎さん。いつものでいいですか」


「ああ、頼む」


源一郎さんはカウンターに座り、隅で窓の外を見ている桐生さんをちらりと見た。


「あの兄ちゃん、まだおるんか」


「ええ。今は住み込みで手伝ってもらってます」


「ほう」


源一郎さんは興味深そうに目を細めた。


「都会の人間じゃろう。こんな田舎で、何があったんかの」


「さあ。聞いてません」


「聞かんのか」


「聞いてほしそうじゃなかったので」


源一郎さんは、ふっと笑った。


「凛ちゃんらしいのう」


私がコーヒーを出すと、源一郎さんはゆっくりとカップを傾けた。


「なあ、凛ちゃん」


「はい」


「人は誰でも、降りる駅を間違えることがある」


唐突な言葉に、私は手を止めた。


「でもな、間違えた駅で降りたからって、終わりじゃない。そこから、新しい線路が始まることもある」


源一郎さんは桐生さんの方を見た。


「あの兄ちゃんも、そうかもしれんよ」


私は答えず、カップを磨き続けた。



夕方、閉店作業をしていると、桐生さんが珍しく声をかけてきた。


「藤崎さん」


「はい」


「一つ、聞いてもいいか」


「どうぞ」


「この店、前は何をしていたんだ」


「私ですか?」


「ああ。見る限り、接客も経営も慣れている。最初からカフェをやっていたわけじゃないだろう」


(鋭いな)


私は手を止めず、淡々と答えた。


「商社にいました。バイヤーを」


「バイヤー」


「海外の食材や雑貨を仕入れる仕事です。買い付けの交渉とか、現地との折衝とか」


「……それが、なぜこんな場所に」


「色々あったんです」


私は笑顔で話を切り上げようとした。いつものように。


「色々、か」


桐生さんは引き下がらなかった。


「俺と、同じような『色々』か」


「……」


私は彼を見た。


彼も、私を見ていた。


「誰かに裏切られた顔をしてる」


「……お互い様じゃないですか」


言ってから、しまった、と思った。


彼は少し目を見開いた後、苦笑した。


「……そうだな。お互い様だ」


沈黙が落ちた。


でも、それは嫌な沈黙じゃなかった。


「藤崎さん」


「はい」


「俺は——桐生グループの人間だった。次期社長候補、と呼ばれていた」


桐生グループ。


聞いたことがある。大手複合企業。不動産、金融、IT——手広く事業を展開する一大財閥。


「過去形、ですね」


「ああ。従兄弟に嵌められた。会社の不正を、全部俺のせいにされた」


「……」


「信じていた人間に、裏切られた。証拠を捏造され、誰も俺の話を聞いてくれなくなった」


彼の声は平坦だった。感情を押し殺しているのが分かる。


「逃げてきたんだ。どこでもよかった。ただ、消えたかった」


私は何も言わなかった。


「藤崎さんは——」


「婚約者と親友に、裏切られました」


自分でも驚くほど、すんなり言葉が出た。


「私が作った企画を、二人で横取りされたんです。私は『無能な女』として追い出されて、二人は私の成果で出世した」


「……」


「逃げてきたのは、同じです。ここなら誰も私を知らないから」


桐生さんは静かに私を見ていた。


「……俺たちは、似ているな」


「そうかもしれません」


「でも、君は」


彼は窓の外を見た。夕日が、廃線の線路を照らしている。


「君は、ここで新しいものを作った。俺はまだ、何も作れていない」


「……三年かかりましたけどね」


私は苦笑した。


「最初の一年は、ほとんど何もできませんでした。ただ、生きてるだけ」


「それでいい」


彼が言った。


「生きてるだけで、いいんだ。たぶん」


その言葉が、自分に言い聞かせているように聞こえて、私は少し胸が痛くなった。


「桐生さん」


「ん」


「明日、パウンドケーキ焼くんですけど。味見、してもらえますか」


「……なぜ俺に」


「都会の人の舌で評価してほしいんです。ここの常連さんは優しいから、何でも美味しいって言ってくれるので」


嘘だ。本当は、彼に何か役割を与えたかっただけ。


桐生さんは少し考えてから、頷いた。


「分かった。厳しく評価する」


「お願いします」


夕日が沈んでいく。


この駅に、少しずつ光が差し込んでいくような気がした。



桐生さんが来て、三週間が経った頃。


彼はすっかり『終着茶房』の一員になっていた。朝のコーヒー豆の補充、厨房の掃除、力仕事全般。無愛想は相変わらずだが、常連客とも少しずつ言葉を交わすようになっている。


「蒼真さん、今日のパウンドケーキ、超美味しかった!」


楓ちゃんが、いつの間にか彼を「蒼真さん」と呼ぶようになっていた。


「……そうか」


「『そうか』じゃなくて! もっとリアクションしてよ!」


「美味かった。ありがとう」


「……まあ、いいけど」


楓ちゃんはぶつぶつ言いながらも、満更でもなさそうだった。


私はカウンターの奥で、その様子を見守っていた。


(馴染んできたな)


桐生さんの表情が、少しずつ柔らかくなっている。虚ろだった目に、光が戻りつつある。


——その平穏が破られたのは、その日の午後だった。


「ごめんくださーい」


わざとらしい声とともに、扉が開いた。


高級スーツに派手な腕時計。口元に浮かぶ嘲笑。目が、笑っていない。


桐生さんの顔が、凍りついた。


「よう、蒼真。探したぞ」


「……隼人」


桐生隼人。桐生さんの従兄弟。


桐生さんを嵌めた張本人。


「こんな寂れた場所で惨めに暮らしてるのか」


隼人は店内を見回し、嘲笑った。


「廃駅のカフェ? 笑えるな。天下の桐生グループ御曹司が、こんなゴミ溜めで」


「——お客様」


私は静かに前に出た。


「当店では、他のお客様の迷惑になる言動はご遠慮いただいております」


隼人が私を見た。値踏みするような、嫌な目。


「誰だ、お前」


「店主の藤崎です。何かご用でしたら、お伺いしますが」


「ふうん。蒼真の女か?」


「いいえ。ただの雇用主です」


「雇用主?」


隼人が声を上げて笑った。


「こんな女に雇われてるのか、蒼真。惨めだな。本当に惨めだ」


「隼人」


桐生さんが低い声で言った。


「何をしに来た」


「何って——お前を連れ戻しに来たに決まってるだろう」


隼人は芝居がかった仕草で肩をすくめた。


「逃げられると困るんだよ。マスコミがまだ嗅ぎ回っててな。『不正の責任者が逃亡』なんて見出しが出たら、会社のイメージに傷がつく」


「責任者は俺じゃない。お前だろう」


「証拠がないだろ?」


隼人は笑った。


「帳簿も、メールも、全部お前の名前になってる。誰がどう見ても、お前が犯人だ」


「捏造したんだろうが」


「証明できるのか?」


桐生さんの拳が、震えていた。


「……できない」


「だろう? だから大人しく戻ってこい。記者会見で頭を下げれば、それで終わりだ。お前は『反省した元社員』として、静かに消えればいい」


「断る」


「断る権利があると思ってるのか?」


隼人の声が、低く凄んだ。


「お前に味方は一人もいない。家族も、社員も、全員俺の側についた。お前は孤立無援なんだよ、蒼真」


「——それはどうでしょうか」


私は、一歩前に出た。


「は?」


「孤立無援かどうかは、まだ分からないと思います」


隼人が私を睨んだ。


「部外者が口を挟むな」


「部外者じゃありません。私はこの店の店主で、桐生さんは私の従業員です。従業員を守るのは、雇用主の義務ですから」


「守る? お前が?」


隼人は馬鹿にしたように笑った。


「こんな田舎のカフェの女が、桐生グループに逆らえると思ってるのか」


「逆らうつもりはありません。ただ——」


私は穏やかに微笑んだ。


「惨めかどうかは、自分で決めます」


「……何?」


「この駅が惨めかどうか。この生活が惨めかどうか。それを決めるのは、あなたじゃない」


隼人の目が、わずかに揺らいだ。


「私たちがここで、何を大切にして、どう生きているか。あなたには分からないでしょう?」


「……くだらない」


隼人は吐き捨てた。


「まあいい。今日は挨拶だけだ。蒼真、よく考えろ。次に来るときは——」


「隼人さん、でしたっけ」


奥から、声がした。


源一郎さんが、静かにカウンターの影から姿を現した。その手に、古いスマートフォンを握っている。


「今のお話、全部録音させてもらいましたよ」


隼人の顔が、凍りついた。


「証拠を捏造した。帳簿を改竄した。今、あなた自身がそう言いましたな」


「な——」


「わしは耳が遠いもんでな。大事な話は録音する癖がついとるんですわ」


源一郎さんは、にっこり笑った。


「桐生の若旦那は、わしの店の大事な常連でしてな。その人を陥れようって輩を、黙って見過ごすわけにはいかんのですよ」


隼人の顔が、みるみる青ざめていった。



隼人が逃げるように去った後、店内は静まり返った。


「源一郎さん……」


桐生さんが、呆然と源一郎さんを見ていた。


「なぜ、俺のために」


「なぜって」


源一郎さんは、ゆっくりとコーヒーを啜った。


「あんたは凛ちゃんの客だからだよ。凛ちゃんが信じた人間を、わしが疑う理由がない」


「でも、俺は——」


「どんな人間かは、見てれば分かる」


源一郎さんの目が、穏やかに細まった。


「三週間、あんたを見てきた。凛ちゃんの手伝いを黙々とやって、楓ちゃんにも優しくして、わしの話にも付き合ってくれた」


「……」


「人を見る目なら、四十年駅長をやってりゃ養われる。あんたは、悪い人間じゃない」


桐生さんの目が、微かに潤んだ。


「……ありがとう、ございます」


「礼はいらん。ただ——」


源一郎さんは、私を見た。


「凛ちゃんを、頼むよ」


「え——」


私は思わず声を上げた。


「源一郎さん、何を」


「いや、何でもない。じゃあ、わしは帰るよ。録音データは、あんたに渡しておくから」


源一郎さんは、桐生さんにスマートフォンを手渡した。


「上手く使いな。これで、逆転できるかもしれん」



その夜。


閉店後、私と桐生さんは向かい合って座っていた。


テーブルの上には、源一郎さんから受け取ったスマートフォンと、桐生さんが持っていた古い資料の束。


「これで、戦えるかもしれない」


桐生さんの声に、初めて希望が混じっていた。


「隼人の自白に加えて、俺が持ち出した取引記録がある。照合すれば、改竄の痕跡が分かるはずだ」


「弁護士は」


「信頼できる人間が一人いる。連絡を取ってみる」


私は頷いた。


「よかった」


「……藤崎さん」


「はい」


「なぜ、あんなことを言った」


「あんなこと?」


「『惨めかどうかは自分で決める』。隼人の前で」


私は少し考えた。


「……本当のことだったからです」


「本当のこと?」


「私も、ずっと言われてきたんです。『惨め』『可哀想』『落ちぶれた』。でも——」


私は窓の外を見た。星が見える。


「私は今、惨めじゃない。この場所が好きだし、ここにいる人たちが好きです。それを、誰かに否定される筋合いはない」


「……」


「桐生さんも、そうでしょう? ここでの生活が、全部惨めだったわけじゃないでしょう?」


桐生さんは、長い間黙っていた。


やがて、小さく呟いた。


「……惨めじゃなかった」


「え?」


「ここでの三週間。コーヒーを淹れてもらって、草をむしって、パウンドケーキの味見をして——惨めだと思ったことは、一度もなかった」


その声は、震えていた。


「むしろ——」


「むしろ?」


「会社にいた頃より、ずっと。息ができた気がする」


私は、何も言えなかった。


胸の奥が、きゅっと締め付けられた。


「藤崎さん」


「……はい」


「一つ、聞いてもいいか」


「何ですか」


「君を裏切った婚約者——名前は」


私は一瞬、言葉に詰まった。


「……水原健吾。なぜですか」


桐生さんの顔色が変わった。


「水原、健吾」


「知ってるんですか」


「ああ。知ってる」


彼は資料の束から、一枚の書類を引き抜いた。


「桐生グループの不正取引。その取引先の担当者の名前が——」


私は、その書類を見た。


取引先:株式会社○○商事

担当者:水原健吾


「……嘘」


「嘘じゃない。俺が嵌められた不正に、こいつも関わっていた」


世界が、ぐらりと揺れた気がした。


三年前、私を裏切った男。


今、桐生さんを苦しめている不正に、繋がっている。


「私たちの過去が——繋がってた」


「ああ」


桐生さんは、静かに言った。


「偶然じゃないのかもしれない。俺がこの駅に来たのは」


私は、震える手で書類を握りしめた。


過去の傷が、再び疼き始めていた。



その夜、私は眠れなかった。


水原健吾。


三年間、忘れようとしてきた名前。思い出すだけで胸が塞がる、あの笑顔。


『君のためを思って言ってるんだ』


『俺がいなきゃ、君は何もできないだろ?』


優しい言葉で私を縛り、才能を搾り取り、最後に捨てた男。


(まさか、ここで名前を聞くことになるなんて)


ベッドの上で、天井を見つめた。


祖母から譲り受けた琥珀のピアスを、無意識に触っていた。


——コンコン。


ノックの音。


時計を見ると、深夜一時を過ぎていた。


「……誰ですか」


「俺だ」


桐生さんの声だった。


ドアを開けると、彼がカップを二つ持って立っていた。


「……何ですか、こんな時間に」


「眠れないだろうと思って」


カップの中身は、温かいミルクだった。


「台所、勝手に使った。すまない」


「……別にいいですけど」


私はカップを受け取り、廊下の窓際に腰を下ろした。桐生さんも、隣に座った。


二人で、黙ってミルクを飲んだ。


「……水原のこと」


「はい」


「思い出したくないことを、掘り返してしまった」


「別に。いつかは向き合わなきゃいけなかったことです」


私は窓の外を見た。月が出ている。


「逃げてきたつもりだったんです。あの人からも、過去からも。でも——」


「でも?」


「逃げても、消えないんですね。傷は」


桐生さんは何も言わなかった。


しばらくして、静かに口を開いた。


「俺もだ」


「……」


「ずっと逃げてきた。期待に応えられない自分から。本当の自分を見せることから。誰かを信じることから」


彼の横顔が、月明かりに照らされていた。


「でも、ここに来て——少しだけ、変わった気がする」


「変わった?」


「逃げなくても、いいのかもしれないと思えた」


彼が、私を見た。


「君のおかげだ」


「私は何も——」


「してくれた。君は、何も聞かずに受け入れてくれた。働く場所をくれた。美味いコーヒーを淹れてくれた」


「それは、仕事ですから」


「違う」


彼の声が、少し強くなった。


「仕事だけじゃない。君は——俺を、人として見てくれた。肩書きじゃなく。過去じゃなく。今の俺を」


私は、言葉に詰まった。


(それは、私がしてほしかったことだから)


誰にも、私を見てほしかった。『元敏腕バイヤー』でも『可哀想な女』でもなく。今の、ただの藤崎凛を。


「桐生さん」


「蒼真」


「え?」


「名前で呼んでくれ。……その方が、いい」


私は少し驚いて、それから小さく笑った。


「分かりました。蒼真さん」


「敬称もいらない」


「それは……ちょっと」


「なぜだ」


「だって、まだ——」


私は言葉を切った。


「まだ?」


「……いえ、何でもないです」


(まだ、あなたのこと、よく知らないから)


言えなかった。言ったら、何かが変わってしまいそうで。


蒼真さんは、それ以上追及しなかった。


二人で、また黙ってミルクを飲んだ。


「明日から、動く」


「はい」


「弁護士に連絡を取る。隼人と水原、両方の不正を暴く」


「……私に、できることはありますか」


蒼真さんは、少し考えた。


「一つ、頼みがある」


「何ですか」


「ここに、いてくれ」


「……ここに?」


「俺が戻る場所として。この駅が——君がいるこの場所が、必要だ」


私は、胸が熱くなるのを感じた。


(帰る場所)


私にとって、この廃駅がそうだったように。


彼にとっても、ここが——。


「いますよ。ずっと」


気づいたら、そう答えていた。


「私は、どこにも行きません。ここが、私の居場所ですから」


蒼真さんは、微かに笑った。


初めて見る、穏やかな笑顔だった。



それから二週間。


蒼真さんは、弁護士と連携して着々と準備を進めていた。


源一郎さんの録音データ。持ち出した取引記録。そして、内部告発者として名乗り出る覚悟。


「記者会見を開く。来週の水曜日だ」


閉店後のカフェで、蒼真さんは静かに言った。


「すべてを話す。隼人の不正も、水原の関与も、俺が嵌められた経緯も」


「……怖くないですか」


「怖い」


即答だった。


「会社に戻れる保証はない。名誉が回復する保証もない。すべてを話して、それでも誰にも信じてもらえないかもしれない」


「それでも、やるんですね」


「ああ」


蒼真さんは、窓の外を見た。


「逃げ続けても、何も変わらない。それを、ここで学んだ」


「私は何も教えてないですけど」


「教えてくれた」


彼が振り向いた。


「君は、ここで戦っていた。逃げてきたんじゃなく、新しい場所で、自分の居場所を作るために戦っていた」


「……」


「俺も、戦いたい。自分の人生を、取り戻すために」


私は、何も言えなかった。


胸の奥が、じんわりと温かくなった。



記者会見の前日。


蒼真さんは、東京へ発つ準備をしていた。


「何日くらいかかりますか」


「分からない。三日か、一週間か——もっとかかるかもしれない」


「そうですか」


私は平静を装った。


(寂しい、なんて言えない)


「藤崎さん」


「凛」


「え?」


「私も、名前で呼んでいいですか。お互いに」


蒼真さんが、少し目を見開いた。


「……いいのか」


「だって、『藤崎さん』って他人行儀じゃないですか」


(本当は、名前を呼んでほしいだけ)


「……凛」


彼が、初めて私の名前を呼んだ。


胸の奥が、きゅっと締め付けられた。


「行ってきます。帰ってきたら——」


「はい」


「また、君のコーヒーを飲ませてくれ」


私は微笑んだ。


「いつでも。何杯でも」



記者会見は、大きなニュースになった。


『桐生グループ不正疑惑、元幹部が内部告発』


『真犯人は従兄弟? 驚愕の証拠公開』


『取引先にも疑惑波及——水原健吾氏、不正関与か』


テレビをつけると、蒼真さんの姿が映っていた。


スーツ姿で、カメラの前に立っている。あの廃駅に来た夜とは、まるで別人のような凛々しさ。


『私は、真実を話すためにここに立っています』


彼の声は、震えていなかった。


『三ヶ月前、私はすべてを失いました。会社も、信頼も、居場所も。でも——』


画面の中の蒼真さんが、一瞬だけ遠い目をした。


『ある場所で、ある人と出会って。自分の人生を、諦めてはいけないと思いました』


私は、テレビの前で涙が溢れるのを止められなかった。



それから、一週間。


隼人は逮捕された。証拠隠滅と詐欺の容疑で。


水原健吾も、取引先からの信用を完全に失った。会社を追われ、美咲にも捨てられたという噂を、どこからか聞いた。


(ざまあ、とは思わないけど……)


心の中で呟いて、私は自分の口元が微かに緩んでいることに気づいた。


(嘘。ちょっとだけ、思ってる)


三年分の痛みが、完全に消えたわけじゃない。


でも、何かが——確かに、軽くなった気がした。



二週間後。


いつもの朝、いつものようにカフェを開けた。


源一郎さんがやってきて、楓ちゃんがやってきて。旅行ブロガーの西園寺さんが「記事が大反響でした」と報告に来てくれて。


穏やかな、いつもの日常。


でも、何かが足りなかった。


(蒼真さん……)


連絡は何度かあった。「まだ時間がかかる」「もう少しで終わる」。


会いたい、とは言えなかった。言ったら、彼の邪魔になる気がして。


午後五時。


閉店の準備をしていると、扉が開いた。


「いらっしゃいま——」


言葉が、途切れた。


蒼真さんが、立っていた。


ラフなジャケットにジーンズ。廃駅に来た時とも、記者会見の時とも違う、自然体の姿。


「……ただいま」


彼が、静かに言った。


「——おかえりなさい」


気づいたら、涙が頬を伝っていた。


「泣くな」


「泣いてません」


「泣いてる」


「泣いてないです」


蒼真さんが、小さく笑った。


「変わらないな、君は」


「変わりましたよ。少しは」


「どこが」


「泣き虫になりました。あなたのせいで」


彼が、一歩近づいてきた。


「俺のせいか」


「はい。責任取ってください」


「どうやって」


「……知りません」


私は俯いた。涙を拭う手が、震えていた。


「凛」


名前を呼ばれて、顔を上げた。


蒼真さんの目が、真っ直ぐに私を見ていた。


「俺は、東京に戻ることになった」


「——そう、ですか」


心臓が、冷たく沈んだ。


分かっていた。彼には、帰る場所がある。大きな会社があり、果たすべき責任がある。この小さな廃駅に、いつまでもいられるはずがない。


「おめでとう、ございます」


精一杯の笑顔を作った。


「名誉回復、できたんですね。よかった」


「凛」


「私のコーヒー、気に入ってくれて嬉しかったです。また、いつか——」


「凛」


彼の手が、私の手を掴んだ。


「最後まで聞いてくれ」


「……」


「東京に戻る。でも——」


蒼真さんは、私の手を握ったまま言った。


「毎週、ここに来る。いや、できるだけ頻繁に。仕事を調整して、何度でも」


「え——」


「最終的には、ここに住みたい。この駅の近くに。君の、そばに」


私は、言葉を失った。


「俺はここに残りたい。君のそばで、もう一度やり直したい」


「やり、直す……?」


「人生を。そして——」


彼の目が、真剣だった。


「君と、新しく始めたい。俺と君の、二人の物語を」


私の心臓が、大きく跳ねた。


「……それは、どういう」


「分からないか」


「分かりますけど。でも、確認したいです。ちゃんと、言葉で」


蒼真さんが、微かに笑った。


「君が好きだ、凛。恋愛感情として。一人の女性として。人生を共にしたいと思うくらい、好きだ」


涙が、また溢れた。


「ずるいです」


「何が」


「そんな言い方されたら、断れないじゃないですか」


「断る気だったのか」


「……ないです。最初から」


私は、彼の手を握り返した。


「私も、好きです。蒼真さんのこと」


彼が、私を抱きしめた。


強く、でも優しく。


「蒼真、でいい」


「……蒼真」


名前を呼ぶと、彼の腕に力がこもった。


窓の外から、夕日が差し込んでいた。


廃線の線路が、黄金色に染まっている。



それから、三ヶ月後。


蒼真は約束通り、毎週末にこの駅を訪れるようになった。東京での仕事をこなしながら、少しずつ、地方移住の準備も進めている。


私たちの関係は、ゆっくりと、でも確実に深まっていった。


「凛、これ見てくれ」


ある日の午後、蒼真が古い額縁を手に、カウンターにやってきた。


「どうしたの、それ」


「駅舎の倉庫を整理してたら、出てきた。裏に何か挟まってる」


見ると、それは昔の時刻表を飾っていた額縁だった。「昭和四十二年」と書かれた、黄ばんだ紙。


「裏?」


蒼真が額縁をひっくり返すと、台紙の隙間から古い封筒が出てきた。


「……手紙?」


封筒には、達筆で「春子様へ」と書かれていた。


春子——私の祖母の名前だ。


「開けても、いいかな」


私は震える手で、封を開けた。


中から出てきたのは、便箋一枚。折り目のついた、古い手紙だった。



『春子さん


今日、あなたが東京へ発つのを見送りました。


ホームで手を振るあなたの姿を、私は一生忘れないでしょう。


言えなかったことがあります。ずっと、言えずにいたことが。


私は、あなたを愛しています。


この駅で初めてあなたと出会った日から、ずっと。


でも、私は駅長で、あなたは都会に夢がある人で。

引き止める権利など、私にはありませんでした。


いつか、この手紙を渡せる日が来ることを願っています。

あなたが、この駅に戻ってきてくれることを。


それまで、この時刻表の裏で待っています。

私の想いは、ずっとここに。


田所源一郎』



私は、言葉を失った。


「これ、源一郎さんの……」


「凛の、おばあさんへの恋文だ」


私は手紙を握りしめた。


祖母は、この駅の近くで生まれ育った人だった。でも、若い頃に一度上京して、東京で結婚した。祖父が亡くなってから、この駅舎を買い取って戻ってきたのだ。


「戻ってきたんだ。おばあちゃん」


「ああ」


「でも、この手紙は——渡されないまま」


源一郎さんは、五十年以上も、この手紙を渡せずにいた。


祖母が戻ってきてからも。毎日、このカフェに通うようになってからも。


——扉が開いた。


「凛ちゃん、今日も——」


源一郎さんが入ってきて、私たちの様子を見て足を止めた。


私の手の中の手紙を見て、彼の顔が凍りついた。


「それは……」


「源一郎さん」


私は立ち上がった。


「見つけました。時刻表の裏から」


源一郎さんの目が、微かに潤んだ。


「そうか……見つかってしまったか」


「なぜ、渡さなかったんですか」


「……言えなかったんだよ」


老人は、ゆっくりと席に着いた。


「春子さんが戻ってきた時、わしはもう七十を過ぎておった。今更、なんと言えばいい。『五十年前から好きでした』なんて。笑われるだけだ」


「おばあちゃんは——」


「知っとったかもしれん。でも、お互いに言わなかった。言葉にしなくても、一緒にいられれば、それでいいと思った」


源一郎さんは、窓の外を見た。


「春子さんが亡くなって、もう五年になる。あの時、言っておけばよかったと——何度、思ったか分からん」


私は、その背中を見つめた。


「源一郎さん」


「ん?」


「私、おばあちゃんの遺品整理をした時に、日記を見つけたんです」


「日記?」


「その中に、書いてありました」


私は、手紙を握りしめたまま言った。


「『源ちゃんは、いつも駅にいてくれる。それだけで、私は幸せだった』って」


源一郎さんの肩が、震えた。


「おばあちゃんも、知ってたんです。きっと。言葉にしなくても、伝わってたんです」


「……そうか」


老人の目から、涙が一筋、頬を伝った。


「そうか。伝わっておったか」


蒼真が、静かに源一郎さんの肩に手を置いた。


「源一郎さん。俺は——」


「ん?」


「俺は、言葉にします。凛にも、大切な人にも。あなたたちの分まで」


源一郎さんは、蒼真を見上げた。


「そうか」


老人は、ようやく笑った。目が三日月になる、いつもの笑顔。


「それがいい。言葉にしなきゃ、伝わらないこともある。わしみたいに、後悔せんようにな」


私は、蒼真の手を握った。


彼も、私の手を握り返した。


過去と現在が、静かに重なった瞬間だった。



一年後。


終着茶房は、少しだけ賑やかになっていた。


西園寺さんのブログ記事がきっかけで、遠方からの客も増えた。楓ちゃんは製菓学校への進学が決まり、「いつかりんさんの店で働く!」と宣言している。


そして——


「凛」


厨房で仕込みをしていると、蒼真が声をかけてきた。


もう、この駅の住人になって半年になる。東京の仕事はリモートに切り替え、必要な時だけ出張する形に落ち着いた。


「どうしたの」


「ちょっと来てくれ」


手を引かれて、ホームに出た。


朝日が、古い線路を黄金色に染めている。私たちが出会った、あの夜と同じホーム。


「何? こんな朝早くに」


「見せたいものがある」


蒼真が指さした先——線路の向こうに、小さな看板が立っていた。


『終着駅前 建築予定地』


「え——」


「新しい家を建てる。ここに」


「家って——」


「俺たちの家だ」


私は、言葉を失った。


「待って、それって——」


「凛」


蒼真が、私の手を取った。


「一年前、俺はここで君と出会った。何も持っていなかった。名誉も、金も、居場所も。でも——」


「でも?」


「君が、すべてをくれた」


私は首を振った。


「私は何も——」


「くれた」


彼の声は、静かだが確かだった。


「居場所と、温かい食事と、美味いコーヒーと。そして、生きる理由を」


「蒼真……」


「だから、俺からも渡したい。これから先の、すべての日々を」


彼が、ポケットから小さな箱を取り出した。


開くと、シンプルな指輪が朝日を反射して輝いていた。


「結婚してくれ、凛。俺と、ここで。この駅で、新しい人生を始めてくれ」


涙が、止まらなかった。


「ずるい……」


「また、それか」


「だって、そんなの……断れるわけ、ないじゃない」


蒼真が、笑った。あの虚ろな目をしていた人と同じとは思えない、穏やかな笑顔。


「じゃあ、答えは」


「——はい」


私は、泣きながら笑った。


「はい。結婚します。あなたと」


指輪が、薬指にはめられた。


朝日が、私たちを包み込んでいた。



「この駅は、もう誰も降りないんです」


かつて、私はそう言った。


でも——


「でも、あなたが降りてきてくれた」


蒼真が私を抱きしめた。


「降りてきてよかった。人生で一番、正しい選択だった」


誰も降りないはずの駅。


捨てられた場所。終わった場所。


でも、ここから——


「ここは、俺たちの始発駅だ」


蒼真が言った。


「終着駅じゃない。ここから、始まるんだ」


私は、彼の胸に顔を埋めた。


遠くで、列車の汽笛が聞こえた気がした。


もう走っていないはずの、幻の列車。


でも、きっと——祖母と源一郎さんが、見守ってくれているのだ。


新しい物語の、出発を。


——廃駅の時計が、静かに時を刻んでいた。


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