くじらのひとみ
1
好きなことは歌うこと。
嫌いなものはくじら。
くじらの、あの達観して偉そうなところが、気に食わない。
「ハナリさん、あなたの取り柄はなんですか」
言い切りの形でそう言われた彼女は、地面とにらめっこを始める。“目を見て話しなさい”と注意されないだけ、彼女の教師は優しい。そう、優しいのだ。こうやって発破かけてくれる行為自体、ありがたい話なのである。
にしたって……もうすこし他の言い方はないのだろうか。
取り柄なんて、あるわけない。
答えられないことを確信して発言するのは、少々意地悪ではないのだろうか。
「黙っていても何もわかりませんよ。もう高校生活も半分を過ぎました。やるべきことをきちんとやっていれば、こんなことにはなっていなかったのでは」
言葉にできず感情が目に溜まるのは、幼稚なことなのだろうか。
言いたいことはたくさんあるのに、それを言えないのは彼女の勇気不足か。ビビりだなんて陳腐な言葉でこの感情を片付けるのは怠惰なのだろうか。この目の前にいる教師に怒りを抱いてしまうのは、反抗期とかお年頃とか。そういうやつなのだろうか。
あ、ヤバい。
また怒られてしまう。
彼女だってそうはしたくない。したくないが、勝手にそうなってしまうのだ。止めようがない。
「せんせー!これ日誌」
明朗な言葉が静かな廊下に響き渡る。予想していなかった登場だというのに、一言一句、はっきりと聞き取ることができた。
あぁ、すごいな……
羨ましさや妬ましさ。そんな醜い感情が胸に渦巻く。頭も良くて、人望もある。まさに漫画で見る“クラス全員友だち!”みたいな感じで。
担任教師から説教を受けていたハナリは、目を細めて幼馴染であるコウを見る。
彼女に勝っているのは身長だけだ。それ以外は何も、どこをとってもハナリはコウの下位互換でしかない。手に衝撃が走る。痛い。痛みの正体を探るべく視点をコウから離し、右手首へ向ける。
「え……?」
「それじゃ、せんせー。さようならっ!」
子どものような明るい笑顔は変わらず、そこには皮肉も何もこもっていない。手首の痛みはそのままで、なんなら力が加わって引っ張られる。転ばないように次の足を踏み出し、もう一度足を踏み出す。
「ちょ、ちょっと!コウさん!まだ先生はハナリさんとお話中ですよ!」
呼び止める先生の声が遠くなっていく。まるで新幹線にでも乗ったのかと錯覚するぐらいに目まぐるしく背景が動いていく。
「コウさん……、」
肩まで伸ばした髪をハーフアップにしている。無邪気さとほんの少しの大人っぽさ。兼ね備えられた容姿は誰もが憧れるものである。しかし、彼女のクラスの立ち位置はそうはなっていない。やることなすこと常に破茶滅茶の滅茶苦茶なコウという少女。そこに、誰かに憧れるような大人っぽさという要素は皆無だ。
まぁ長々と説明したが、要するに黙っていれば……というやつである。
「ふっふっふ〜、いいからいいからっ!」
不安そうな瞳を察されたのか、相変わらずの明るい声で励まされる。しかし、手を引く手は震えており、表情もどこか儚さを覚える。いいからというのは何を示しているのだろうか。
走る、走る、走る。
学校の敷地なんてとっくに越えてしまい、もはや知らない土地まで来てしまっている。一体何時間こうして走っているのだろう。ビルの森の中をただひたすら走り抜ける。真冬の夕焼けはよく空の色が変わる。今日は真っ赤な気分らしい。
鳴り響くサイレン。大人たちの静止の声。頬を滴る汗が冷たい。
果たして、彼女はハナリをどうしたいのだろうか。
「どこだったっけな……」
帰宅ラッシュで酷い人混みの中、そんな声が聞こえた。視線を上げると、若い男性の顔があった。何かを探しているみたいに視線を動かしている。目の下には隈ができており、頬も痩せこけていた。
そんな男性の横、人混みの中をヘビのようにすり抜け、裏路地へと入る。
狭い。非常に狭い。二人通るには狭すぎる。が、一人ずつならどうにかなりそうだ。
「逃げない……から。離して……?」
とハナリが言っても聞く耳を全く持たず、手を繋いだまま縦に並んで路地を進む。横に並んでいない分、前が見えなくて不安だ。
「着いた」
ようやく開いてくれた口はそんなどうでもいい言葉だった。これには流石のハナリもカチンと来たのか、顔を顰める。
「一体どこに……」
コウは空気を読んでくれたのか、その奥にあるものを見せるように壁に寄る。
黒紫色の木材に、ドアスコープ。簡素な扉だ。それでも異質だと思わせるのは、無機質なコンクリートにそんなアンティークな扉があるせいか。それとも動物の穏やかな目をしたドアスコープのせいか。
「早く早くっ、見つかっちゃう前に入っちゃおう!」
コウはポケットから何かを取り出し、ギュッとそれを握る。手の中で淡く光ったそれに呼応するように扉が自動で開く。どれだけ目を凝らしても、扉の奥は淡い黄色の光でしかない。
超常的な現象に本能的な恐怖を覚える。
震えることも、拘束しているコウに抗うこともできず、流れのままにその中へと引きずり込まれる。
2
「ここは……」
なんてありふれた言葉を呟いてみる。いわゆる“異世界”といっても差し支えないほどの異質感。どこまでも広がる果てしない草原に、雲一つ見当たらない原色の青。まるでゲームの世界にでも入ったかのようだ。
温かい陽が差しているというのにも関わらず、自然と暑くは感じない。風はあるが、季節の雰囲気が全く無い。
「ハナリハナリっ、こっち」
肩をぽんぽんと叩かれ、ゆっくりと振り向く。情報の多さが、脳の許容量を優に超えている。そうなると人間は、割ともうどうにでもなれという精神になるものだ。ハナリは半ば理解を諦めたふうに顔を下にし、そして、上げた。
「は……」
さっきから驚いてばかりだ。しかしそれも無理はないだろう。
どうやらハナリたちが立っている場所は草原の中でも小高になっていたらしく、後ろは緩やかな坂になっていた。
否、そんなことはどうだっていい。
パレットのような景色。色とりどりの布にたくさんの大人。地理の教科書で見たような海外風の市場。強いて言えば、アジアっぽい雰囲気だろうか。
「コウちゃん〜〜!!」
「レイカ姉さんっ!!久しぶり!」
「いっやぁ久しぶりだねぇ。いつ以来よ?」
「受験があったから……、1年くらい?」
「うっわぁ受験かぁ……大変だったねぇ……」
まるで本当の姉妹のように話し始めるコウたち。レイカお姉さん、と呼ばれた女性はぎゅうっとコウを抱きしめていた。ハナリよりもずっと身長が高い。髪をお団子にし、可愛く三編みで縁取られている。
お姉さんという言葉がお世辞に聞こえないほど若々しく、笑顔の似合う女性。という印象だ。
「そう!!ま、余裕だったけどね〜」
コウはドヤ顔でピースをする。それに答えるように「ナイス〜」といいながらいいねサインをつくるレイカ。
「……この人は?」
我慢ならず、ハナリはコウに耳打ちするように問いかける。コウはよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりにレイカへと手を向ける。
「コホン、この方はレイカさん!この市場のリーダーの1人で、その中でもここに迷い込んできた人の案内をしてる人なんだ」
「レイカだよ〜、よろしくね」
怖がらせないためか、わざわざ屈んで目線を合わせてくれる。なるほど、これは確かにリーダー適任だ。
「私はハナリです……、その、ここって……?」
ずっと気になっていたことだ。ただ一色の空。どこまで続いているのかわからない草原。そんな場所にある謎の市場。人がたくさんいるので恐怖とまでは行かないものの、異質な空間に対する嫌悪感だけはどうにも拭いきれない。せめて概要だけでも知りたいところだ。
「ここは……っと説明したいところだけど、特に名前はないのよねぇ。わかりやすく言うなら、避難所、かしら。」
「避難所……」
「そう。元の世界、現実世界で、疲れた人が集う楽園。ここは、なんでもできる場所。なにをやってもいい場所。誰にもなんにも咎められない。――やりたいのに、やりたいことをできない。そういった人たちのために作られた場所」
楽園。もしレイカの話が本当であれば、まさにその名の通りだ。しかし……なんというか。
「怪しくない……?」
「私も最初はそう思ったよ!でも、本当だよ」
コウもハナリを説得させようと思っているのか、いつになく真剣な視線でハナリの瞳を覗いてくる。
「まぁまぁ、すぐ慣れるわよっ!嫌だったらいつでも帰れるし、どうせなら少し見ていかない?」
本来なら断るべきなのだろう。こんな怪しい勧誘、他に見たことがない。だが、実際に超常的な現象をこの目で見た、なんなら体験したのだ。それに、このコウがここまで気に入っている。おそらく、おそらくだが悪いところではないのだろう。それに……、
「自由……」
「ねぇレイカ姉さん。ハナリにもこのペンダント渡してくれない?」
「いいよ〜!はい、これ」
ハナリはレイカに手を出し、ペンダントを受け取る。冷たい。どうやら金属製のものらしい。思っていたより質量を感じ、そっと手を自分に引き寄せ、手を開く。
「っ!」
悲鳴にならなかっただけ褒めてほしいものだ。穏やかな目をしている。人のそれではないものの、なにかの。動物の目を模したペンダントであることはすぐに理解した。
ギョロッとこちらを覗く“それ”は、心まで見透かされてしまいそうだ。
恐怖だなんて、ありふれた感情。抱いたことのないものは、おそらくいないだろう。なにかに怒られる前、なにかが始まる前。など、怖いと言われるのはたいてい“なにかの前”である。
しかし、もちろん例外もある。
人間とはそもそもなにか。人間はヒト以前に動物である。人間はそれを、いつも理性で制している。だが、先程も述べた通り人間は動物である。本能には、抗えない。
「ハナリ?」
コウの心配する声もハナリには届いていない。
多くの人は“なんてことない”、そう思うかもしれない。しかし彼女にとってそれは、畏怖で。人生の障壁といっても過言ではない。
「コウさん……、ううん、ごめんね、大丈夫……」
震えた声だ。耳を澄ましていたコウでさえ、数秒経ってようやく言葉の意味を理解した。
「そ、そう……?無理しないでね」
いつも元気な彼女だが、珍しく大人しくなり、本気で心配してくれていることがわかった。
「これつけなきゃダメですか……?」
「持ってるだけで大丈夫よ〜、ごめんね、びっくりさせちゃったかな……」
レイカは申し訳なさそうに眉を下げる。ハナリはようやく我に返ったのか、「大丈夫です」とこちらもこちらで申し訳なさそうに小さく頭を下げる。
「よし!ハナリ、改めて聞くけど、大丈夫っ?」
切り替えるように明るい声を出したのはコウだ。手を一回叩き、笑顔で問いかけられる。
「大丈夫……、だけど……」
不明の恐怖は正直、このままで大丈夫なのだろうかという不安は消えない。コウの様子を見るところ、出入りが自由というのは本当らしいが、にしてもあんな飛び出し方をしてここに来てしまったのだ。帰ったら怒られやしないだろうか。
「よし!じゃあ大丈夫だねっ!レイカ姉さん、あの部屋に案内してもいい?」
レイカは首を縦に振り、コウの行動を許可する。レイカはこのあと予定があるといい、その場で別れることとなった。
改めて見ても、違和感でしかない。
こんなだだっ広い草原に突然市場がある。それも、高密度の。家がないというのに一体何をそんなに売買しているのだろうか。作るにしても、素材となるであろう羊の牧場も見当たらない。
「おじさん久しぶりー!あ、いいねその服!!」
「おぉー、コウじゃないか!久しぶりだなぁ。この服、いいだろ?」
どうやら、ハナリが思っているよりもコウはこの空間に馴染んでいるようだった。嬉しい、というよりどうしても心配が勝ってしまう。確かに、あんなに人と仲良くできるコウであれば、こんなことになっているのもおかしくはないが。
なんて悩んでいる間に腕を引かれてどんどんと市場の中を歩いていく。色んな人に挨拶しては「久しぶり」と笑顔で交わす。市場といっても食料などは売っておらず、どうやら服専門の市場らしい。
「ここがレイカ姉さんのお店っ!」
と紹介したのはなんの変哲もないただの店だ。木造テント式の店で、屋根や側面をカラフルな布で作っている。売られているであろう服もとても可愛らしい。あのおしゃれなお姉さんにぴったりだ。
「可愛い……」
「でしょ〜、レイカ姉さんおしゃれだからねぇ〜」
なぜコウが得意げに、とツッコみたくなったがぐっとこらえ、黙ってコウについていく。裏へ回り、店の中に入る。おそらくレジっぽいものに、たくさんの服と布。あとミシン。と、……多分機織り機。床は木でできており、ここが一時的なイベント会場でないことを示していた。
コウは木の板を一つポコン、と押す。するとなんのカラクリか、床の一部が穴になる。戸惑いを隠しきれないハナリにコウはニコッと笑いかけ、「こっち」と言いながら穴の中へ入っていく。
ハナリはもうどうにでもなれ精神でその穴へ飛び込む。
幸いにも浅く……下にふかふかのクッションが敷いてあったので怪我もなければ痛みも感じなかった。上を見上げると、先程落ちたであろう穴が見える。果たして、下から穴を見上げたときに“穴”と表現するのかは疑問だが。
帰ったら調べてみよう。
「っていうか梯子あるじゃん……!?」
「いやぁクッションの良さわかってほしくて……」
「ま、まぁ……悪くはない、と思うけど……」
そこでようやくハナリは部屋の様子を見る。そう、そこは部屋のようになっていたのだ。壁は一面が木材そのまま、もう一面は水色に染められている。狭いにも関わらずソファや観葉植物、子ども向けのおもちゃなど物がとても多い。しかしそれでも洒落ていると印象を受けるのは部屋主のセンスなのだろう。
制服のハナリたちが浮いてしまうくらい、そこの空気は独特なものだった。まぁ、これは今に言えた話ではないが。
「さて、なにから聞きたい?」
「……聞きたいことだらけだよ。一体、いつから知ってるの?」
「あんま詳しい時期は覚えてないけど小3とかじゃないかな?」
「ここでは、なにをするの……?」
「服を作る!って言ってもまぁ、人によるけど!好きなことしていいんだよっ」
「……いつ帰るつもりなの?」
「ん〜、飽きたら!」
なんてこちらの質問に答えながら淡々となにかの準備を進める。もうずっと見ていない裁縫道具と、とても可愛い布。普段の子どもらしい彼女しか知らない人はきっと似合わない、というだろう。けど、ハナリからみてみるとこっちのほうがずっと似合っているように見える。なんでかわからないけど、なんだかそんな気がする。
コウはアンティークな木の椅子に腰掛け、テーブルに置かれてあるミシンを起動する。ミシンと言っても、機械的な見た目ではなく、どちらかというと少し昔のものだ。なぜこんな世の中に……と思ったが、ここに機械があったらそれはそれで景観的におかしい。景観だけで成り立っているというのだろうか……?流石にそんなことはないと思いたいが。
ミシンを起動させ、黙々となにかを作っていく。なにか、とはいっているがおそらく服とかその類のものだ。
「なーにそんな見つめて。ハナリもやる?」
ビクッと肩が揺れる。そんなに見てしまっていたのだろうか。ハナリは少し視線を逸らし、「迷惑じゃなければ……」と控えめにその提案に乗った。コウはハナリもやることをすでに想定していたのか、準備をたった一瞬で済ませてしまい、「じゃあどうぞ」と「気が変わった」と断る余地もなく始まってしまった。
同じくミシンを起動させ、助けを求めるようにコウを見る。
「私下手だよ……?」
「知ってるよ?」
「意地悪……、」
ミシンが下手、というのは決して謙遜なんかではない。本当に苦手なのだ。一応、小中での家庭科の授業で最低限の使い方を知識としては知っている。しかし、いざ実践となってみると、勝手が違うようで。うまく出来た試しがないというかなんというか。といった感じだ。
「いいっていいって間違えても!そしたら私がカバーするしさ」
「余計手間かからない……?私、コウさんにあんまり迷惑かけたくな」
「ちょっと待った!……ねぇ、ずっと思ってたけどさ、その呼び方さみしいよ。せっかく幼馴染なのに」
わざわざ作業をしている手を止め、不機嫌そうに頬を膨らませるコウ。そう、そうだ。ハナリはコウと幼馴染である。一体いつからこんな感じになってしまったのだろうか。なんてのは冗談である。確かに幼稚園、小中高と同じ学校に通っていたが、特別仲が良かったわけではない。むしろ逆だ。
喧嘩をしていたわけではない。ただ、所属しているグループが違ったのだ。
誰にも好かれなかったハナリと、誰からも好かれるコウ。
お互いかどうかはわからないが、少なくともこちらからコウにあまり良い印象は抱いていなかった。憧れるし尊敬もしている。しかし、そこの根底には嫉妬やそうなれない自分への憤怒。
誰からも好かれるコウを唯一嫌っていたのが、ハナリというわけだ。
「じゃあ……なんて呼べばいい?」
「コウ。それかコウちゃんって呼んでくれてもいいよっ!」
わざと可愛子ぶるコウ。両手を頬に当て、まるでぶりっ子のようだ。いや、実際そうなのかもしれないが。友だちとして、好きになってしまう。面白いと思ってしまう。話していて、楽しいと思ってしまう。そう思うのが悔しくって。
「ねぇ、もしかしてだけどさ」
普段の声とは全く違う。物静かな大人のようで。そこには、子どものように希望を謳う少女はいなかった。大人で、絶望していて。それでも希望を欲していて。それに恐る恐る触れるかのような声だった。
「私のこと……嫌い?」
心配や危惧ではない。かと言って確認でもない。希望だ。間違いなく、彼女は……「嫌いだ」と言ってほしいのだろう。そんな目で、そんな表情で、よく今までみんなを騙せていたよな、と思う。
「嫌いじゃないよ。でも……ちょっとだけ、気に食わない……かな」
コウはその言葉に一瞬だけ目を見開く。が、次にはもういつもの“コウ”に戻っていて。
「変なこと言ってゴメ」
「要領がいい。頭が良い。コミュニケーションも得意……、明るくて、いつも面白くて。ちょっとポンコツなところまである。だから、みんな気づいてない。誰も、本当は賢いって気づいてない。……そういうところが、気に食わない」
「……じゃあ、嫌いなんだ」
珍しいね、と呟く声はどこか喜んでいた。相手が私じゃなければ引かれてるよ……とハナリはツッコみたくなるところをぐっと堪える。はあ、と小さくため息をついて再び手を動かし始める。
しかしコウはなかなか動かし始めず……
「嫌いではないよ。気に食わないってだけで……」
「気に食わないって、あんまり人に言うもんじゃないよ?」
「そっちだって。人に嫌いって言われて喜ぶ人はなかなかいないよ」
そうやって軽口を混ぜて、クスクスと二人で笑い合う。仲は、良くない。それは言い切れる。けれどテンションも、波長も不思議と合う。この世界なら、この空間なら。仲良くしててもいい。そう思っているのは、きっとハナリの方だけではない。コウもわかっているはずだ。学校という空間で、教室という場所で。私たちは仲良くなってはいけない。
きっと、この二人がその場所で仲良くしたところで誰も咎めることはないだろう。しかし、彼女たちが嫌なのだ。彼女たちにとってそれは、あまりに自分に不都合すぎる。それをお互いわかっているからこそ、今まで踏み込んではいなかった。
それを今日、あっちが壊してくれた。
「服、出来たよ」
ハナリは自信満々にコウに見せた。
「……ハナリは店番担当ね」
「ひどくない……?頑張ったんだけどなぁ……」
それから二人は話しながら、笑いながら服を作り続けた。コウの努力のおかげか、ハナリはなんとか形になるところまでは出来るようになった。教えられている間のハナリの表情は、そこまでいいものではなかっただろう。だって、屈辱だ。普段から嫉妬で狂ってしまいそうな相手に、ものを教えられるなんて、彼女が最も嫌っている。それでも、その状況を苦だった、と愚痴を言えないのは、きっと楽しかったからだろう。腹の立つことに、コウとなら仲良くやれるようだった。それが、コウによる努力の賜物でないことを内心密かに祈りつつ、「飽きた」というコウの一言でその世界を去った。
家へ着くと、両親からこっぴどく怒られてしまった。……いや、あれを説教というのは少し違うような気もする。あれは、おそらく心配から来た怒りだ。人は、あまりに心配を相手にしたとき、怒りをあらわすことがある。あまりハナリが両親に対して反抗しなかったのはそれを理解していたからだろう。
コウの方は大丈夫だっただろうか。と心配になり、何度かスマホで連絡を取ろうとした。そして、何度もやめた。きっと、余計な心配だ。それに、彼女らの関係はあの世界でこそ成立しているものだ。こっちと、ごっちゃにしてはいけない。ハナリは小さくため息を付き、寝床についた。
それからというもの、ハナリたちは毎日通うようになった。
放課後であろうと、休日であろうと。暇さえあればそこへ行き、服を作る。服を作ることは、正直まだ好きになれない。店に出せるものはここ一週間でようやく作れるようになってきたものの、当たり前だがコウには劣る。それがもろに出てしまうのは、なんというか気に食わない。
教室での態度は相変わらずだ。お互い、他人のふりをする。
それが、きっとお互いにとって一番いい関係だから。
3
もう一ヶ月くらい経ったのではないのだろうか。世間はクリスマス前で浮ついた空気となっていた。群がる人々をかき分け、いつもの路地裏へと入る。恋愛……というものに興味を抱いたことはないが、こうやって置いていかれたふうに世間が変わっていくのは、少し気に食わない。第一、恋愛以前にハナリは交友関係をどうにかするべきだ。それを本人も十分に理解しているのだろう。
はぁ、余計なことを考えてしまった。ハナリは首を横に振り、相変わらず異質な雰囲気を纏っている扉に手をかける。ドアスコープのように見える大きな瞳。これがアレのものだとわかってからは、できるだけここで立ち止まることのないようにしていた。
穏やかな瞳と、不機嫌なハナリの瞳が交わる。確かに、アレに抱いている恐怖は本能的なものだ。そこになんの要因も、根拠もない。だからこそ、少し困っているのだが。まぁとはいえ、日常生活でアレと触れ合う機会などほぼほぼない。だから、特段困り果てているというわけではないのだが。
あぁ、ごちゃごちゃ考えてしまうのはきっと街の雰囲気のせいだ。この雰囲気に乗れていない自分に目が行ってしまっている。ただそれだけの話である。さっさと扉を開いて中へ入ろう。またいつも通り、レイカがドア前で待機しているはずだから。
「こんにちは。コウは……、え」
「ハナリ……」
そこにいたのは、レイカではなかった。ハナリより少し低い身長。ハナリと同じく制服のまま来たのか、白シャツに赤いリボン。茶色のセーターの上から黒いパーカーを羽織っている。
いや、そんなことはどうだっていい。
顔色が悪い。震える右手を抑えるように左手で掴んでいる。その手も震えてしまっているので、全くもって意味のない行為ではあるが。不安を訴えるような瞳に、口をぱくぱくと小さく動かす。なにか言うことを躊躇っているように見える。……どれも、普段の彼女なら決して他人に見せることのない姿だ。
「コウ……、」
なにがあったの、と言葉が続かなかった。やはり、ハナリはどこまで行っても自分が可愛いのだろう。きっと、自分の傷つくことが起きたから、目の前にいる彼女は、コウは……こんなに発言を躊躇っているのだから。
「……」
正面に立っていたコウは、黙って身をハナリから見て右側に避けた。ずっと見えていなかった市場の景色が、そこでようやく明らかとなる。ここは小高い草原の丘だ。そのおかげで、よく市場が一望できる。
未だに、初めて来たときのことを思い出す。好きな場所だ。
「ひっ……」
まるでパレットに大量の絵の具が無造作にバラ撒かれたようだ。それぞれが自己で完結している店たちは、統一感こそなかったものの、変なところで景観として調和が取れていた。
だが、今はどうだ。
色とりどりの布は宙を舞い、屋根の役割を完全に放棄していた。素人が頑張って手作りした店は、暴風によっていとも簡単に破壊されていく。見たところ、人は見当たらない。コウがあまり慌てていないところからも、きっと誰かが指揮を取って早めに全員を逃がしてくれていたのだろう。
しかしこのどうにも拭えない不安感は一体どこから来ているというのだろうか。ハナリはバッと上を、空を見上げる。全体的に暗く見えるのは、そうみえるのではない。本当にそうなのだ。
いつ来ても、ここは快晴だった。天候なんて概念は存在しないのだろう、とハナリが結論づけてしまうくらいに、この世界での天候の変化は全くと言っていいほどなかった。それが今や、真っ白な雲がいくつか浮かんでいる。それが、何らかの光の関係でこの市場全体に影を落としているのだろうか。
「ハナリ……あれ」
コウにぽんぽんと肩を叩かれ、コウが指さしたほうへ視線を動かす。
扉と同じ、黒紫色の体。お腹は真っ白で、それがまた異質さというものを思う存分に発揮していた。二つの、人間で言うならおそらく手に該当するヒレ。緩やかな曲線を描き、細長いシルエットは哺乳類というより魚類に近い印象を覚える。
穏やかな瞳は、何も映していない。
しかしどこにいても目が合うような気がする。
空を海とし、天高く回遊するその姿は、まさに天使そのものだ。
残酷で、終わりを告げる天使。
「コウ……、」
ハナリはコウの袖をぎゅっと力強く握る。そんな幼稚な仕草も、今だけは仕方がないと言えよう。
これは、誰だって怖い。
「……、あいつが来てから、帰れないんだよね。扉が、なくなっちゃって。だから、ハナリはあっちの、レイカ姉さんたちのところにいて」
市場とは反対の方向、だだっ広い草原を指さす。そこには見覚えのある人がたくさん集まっていた。しかし、その誰もが不安の色を強く示していた。レイカも笑顔でみんなを励ましているようだが、挙動不審だ。
「コウは……?コウは、どうす」
「倒しに行く」
食い気味にそう答えたコウ。こちらを見る目は穏やかで。でも、やられるつもりなんてないと言いたげに、強かで。むしろ、恐怖を覚えてしまう。
あぁ、でも。なんだか、コウらしいといえばコウらしいのかもしれない。冷静を保っているのも、実はそう見えるだけで。でもきっと、怯えてなんか全くなくて。内心が冷静じゃないのは、きっと、怒りで。
ハナリとコウは違う。そんなの、ハナリ自身が一番わかっている。ここで過ごした年月は、彼女の方がずっと長い。そこに嫉妬なんて、生まれるわけがない。今更どうしようもないのだから。
でも、実は、ここに幼少期からコウが入り浸っていたと知って、ちょっとハナリは嬉しかったのだ。何でも完璧にこなす彼女が、ちゃんと人間だということを知ったような気がして。
少なくとも、恐怖が消えたのだ。
うん、そうだよね。
好きな場所が消えるのは、壊されるのは嫌だよね。
「私も、行く」
そう言ったらコウはニヤリと口角を上げた。
あぁ、もう!やっぱりいつも貴方の手のひらの上だ!!
と、怒りと恥ずかしさで顔が熱くなってしまう。でも、正直、ハナリも最初っからわかっていたことだ。まず、この“扉があった場所”に彼女が待機していることがおかしいのだ。彼女の性格を加味するのであれば、なりふり構わずあいつを倒しに行っているはずだ。
それをせず、ここで待っていたということは、ハナリが「一緒に行く」ということを確信してのことだったのだろう。
それぐらい、コウには自信があったのだ。この場所が、ここにいる人が、ハナリも大好きなんでしょ?
――私の紹介したところ、とっても素敵な場所でしょ?
それに思いっきり肯定してしまった。まぁでも、嘘ではない。本当だ。
「えっと、一応作戦はあるんだけど……」
コウは誰もいないのにもかかわらず、そう言って私に耳打ちをしてきた。内緒話。コソコソ話。まだ子どもだけれども、子どものように。そうやってひみつのさくせんを彼女たちは立てる。こうしたら?ああしたら?と、大人たちへサプライズをするように。
やがて、ハナリは手を口に軽く当て、笑い声を上げる。
「それ、すごくいい!」
彼女たちはそうやって作戦会議を終えると、まずは市場へ直行する。暴風のせいでお店の屋根だった沢山の布切れが落ちていた。隣を見ると、凄惨な状況に顔を顰めているコウがいた。
「ぁいだっ」
「顔。怖いよ……?」
軽いデコピンだ。それなのに「痛い」と反応したのは予想外の行動だったからだろう。それくらい、ハナリが攻撃しようとしているのに気づかないくらい、きっと気持ちが一杯一杯なのだ。
しっかりしなくちゃいけない。
改めてその意識が強まったハナリは、そこに落ちていたミシンを拾い上げる。
「電源電源……」
先程のことをなかったことに、もしくは誤魔化したいのか、そう呟きながらわざとらしく電源を探す。こういうところ、特に気に食わない。言いたいことがあるのなら、はっきり言えばいいのに。なんて、自分が言えたことではないか。
ハナリは静かに息を吐き、ミシンを起動させる。人の物だが……この際仕方がない。
緊急事態なのだ。これくらい、この市場の人なら許してくれるだろう。
コウも無事電源を見つけ、ミシンを起動。慣れた手つきで布を縫っていく。
やはり速度は勝てない。いや、速度だけじゃない。丁寧さも、想いも、何もかも負けている。
悔しい。もちろん、やはり悔しい。でも、そのときのコウの表情を見たら、そんなことどうでも良くなるくらい安心した気持ちになった。
よかった、ちゃんと楽しんでいる、と。
約五分間彼女たちは黙々と制作し、無事にそれを作り終える。途中で風に邪魔されたりあの怪物……くじらの鳴き声に耳を押さえながらもどうにか完成、といったところだ。
布をぎゅっと抱きしめ、二人は元々扉があった場所へ全力疾走。
「ハナリー!!置いてくよ!」
「ま、待って……ひっ」
キィン、と金属音のような音が鳴り響く。鐘をつくような、綺麗な音では決してない。脳を揺さぶり、地を震わせる。自分がこの世界の神だ、天使だと。そう知らしめるにはもう十分すぎるほど暴れ回っている。
「ハナリ……!」
コウは片腕に布を抱き、こちらに手を差し伸べる。あぁ、こんなの、少し前までは想像もつかなかったな。なんて、呑気なことを考えてしまう。
「っふふ」
「ちょっと、何笑ってるの!?」
さっきのあれでおかしくなっちゃった?と心配げに顔を覗き込まれ、若干申し訳ない気持ちになってしまう。確かに、少しおかしくなってしまったかもしれない。
「ごめん……ちょっと、嬉しくなっちゃって」
「……あぁもう!!絶対、倒そうね」
恥ずかしくなってしまったのか、それともただの嫌悪感か。前者であることを密かに願おう。乱暴に手を離され、直後、こちらに拳を突き出してそう言った。やはり恥ずかしかったのか、頬がほんの少し染まっている。
でも、瞳は見られただけで震え上がってしまうほど、真っ直ぐだ。
不意にハナリは、目を細めてしまう。
あまりにも、眩しすぎて。
あまりにも、美しすぎて。
人間として、あまりに素敵で。
「うん。もちろん」
この場所と、人を。守るために――
小高い丘。陽の光が唯一落ちるこの丘も、遠くに見える不安そうにしている大人たちも、乱暴に髪を撫でる鬱陶しい風も。今はどれも、派手な舞台演出に過ぎない。
「行けるね」
言い切りの形でそう言われた彼女は、コウとにらめっこを始める。あぁ、もうきっと、何も怖がることなんてない。
コウと一緒なら、きっとどこまででも飛べる気がするから!
頷くことで返事をし、腹をくくる。
布を広げ、持ち手を握る。
良い風だ。
ここの丘で、風を感じられたらと、何度思ったことだろう。もちろん、こんな形で叶ったことを許してはいないが。
市場に散乱している布が舞い上がる。
上昇気流だ。
「今……!!」
ハナリの言葉を合図に、二人の少女は舞い上がる。布……パラシュートを広げ、どこまでも、空高く。
目指すは雲の位置にいるあのくじら。
それでもやっぱり……
「あっはははは!!なにこれ楽しい!!」
「ひぃぃぃぃぃ」
大きな声で笑い声を上げるコウに、声にならない悲鳴を上げるハナリ。恐怖。これについては、誰も文句は言えないだろう。これを怖くないと思える人は、ごく少数だ。そう。
「コウ怖くないの……?」
「んー?全然っ!!楽しいのほうが勝ってる!」
先程までのやや怒りがこもっていた瞳はどこへやら。満面の笑みでそう答えるコウに、再び嫉妬や羨望といった感情が湧き出てしまう。
「……楽しい」
信じられない言葉に、オウム返しのように呟いてしまう。
この状況を、彼女は本当に楽しんでいるのだろうか。彼女が立てた作戦といえばそうなのだが、そんなに簡単に自分のことを信じられるものなのだろうか。
彼女の、パラシュートを握る手は震えていた。それが筋力でないことぐらい、ハナリにはすぐに分かった。
だってこの世界、おかしいのだ。全く、と言ったら嘘になるが、手にかかる体重を殆ど感じない。それこそ、普段運動していないハナリでさえ、自分の体重を支えているのだから。
「あー……、そんなにジロジロ見られると、流石の私も恥ずかしいっていうかー……」
あはは、と苦笑しながら視線を逸らす。ハナリはパラシュートを握っている自分の手を見る。震えていない。
なんだ、私よりずっとコウの方が怖がっているじゃないか。
「っふふ」
「うっ、うるさい!!私はビビリなんかじゃありません!なんにも怖がったりなんかしない、子どもです!!」
「はいはい」
それは学校でのコウでしょ、とまでは言えなかった。けれど顔に出ていたのか、コウは酷く憤慨した様子でそっぽを向いてしまう。
手はもう、震えていなかった。
この世界は不思議なことだらけだ。
重力はあるのに、パラシュートを握る手にかかる体重はまるで感じない。
どこから湧き出ているのかもわからない電気。
誰が準備したのか、誰が持ってきたのかもわからない布や店の骨組み、そして何よりミシン。これは一番意味がわからなかった。
そして、今。
ハナリたちは真っ白の雲に足をつけていた。
「ねぇねぇ、これ食べれるかな?」
さっきまであんなに怖がっていた……、いや、訂正させてもらおう。未だに怖いと感じているというのに、なんの意地なのか、強がっているコウが雲を引きちぎってキラキラした瞳でこちらを見てくる。
「怖くないなら、食べたらいいんじゃないかな……」
「いじわる」
コウはポイッと雲をその辺に捨ててしまう。ゆっくりと綿のように落下したそれは、もう他のものと区別がつかなくなってしまった。
「それにしても……」
なぜ今まで、そんなおかしなことに気がつかなかったのだろう。コウも、一応雲に乗れることは動揺しているみたいだし、気づいているのはハナリだけではなさそうだ。
「なんか、夢みたいだね!」
「それだ……!!」
夢の中では、おかしなことに気がつかない。気がつけない。
起きて初めて、それがおかしなことだったのに気がつく。
あぁ確かに、そんな感覚だ。そっか、夢か。
「みたいって言っただけだから!ここは、本当」
そうじゃなきゃ、私が困る。そう付け足しながら彼女は床……じゃなくて、雲の上に座る。いつ抜けるかわからない場所によく座れるなぁ、と思いつつも、その夢という言葉が思いの外説得力があったのか、ハナリも近くに腰を下ろす。
「ここからアイツまでは、多分届く」
そう、元々はくじらの上で行う予定だった作戦会議。雲の上に降り立ったのは流石に予想外であったが、届くのであればあまり大きな問題ではないだろう。
「だね。問題は、どう倒すか……だけど」
この世界は、コウの言葉を借りるのであれば夢だ。もう少し詳しく表すのであれば、子どもの夢だ。子どもの夢に、武器系統の何かがあるとはとても考えにくい。
「と、なると……倒すってよりも、追い出す……もしくは、」
超常的な現象を期待して、なにかをするか。それにしてもそのなにかが思いつかないのであまり意味もないが。
この手の発想は、きっとハナリよりもコウのほうが得意だ。その希望を持ってハナリは本人へ視線を送る。
「うーーーん」
しかし当の本人も頭を抱えて唸っている。ならば、なぜあんなに自信満々に「パラシュートで行こう」なんて耳打ちをしたのだろうか。怒り……を通り越してもはや呆れである。
まぁ、コウが悩むのもわかるが。と二人で頭を抱える。問題を解決する時、問題をまず分析しなければいけないと誰かが言っていたような気がする。この場合の問題とは、間違いなくくじらだろう。
しかしアレを分析するのは……少し、いや、だいぶ気が引けてしまう。
コウもじっくり見ているようだが、ああいう風には……できる気がしない。
できて、解決策が思いついたとして、それを実行する時にハナリは果たして動けるのだろうか?
今でこそアレを一瞬しか見ていないため、どうにか上まで来れたが、しっかりと見れば見るほど、アレをくじらだと認識してしまう……というのは、なんとなく体感で理解していた。
こんなの、悪夢だ。
何が子どもの見る夢だ。出来の良すぎるただの悪夢。
それに、もしハナリがコウと同じようにアレを観察したところで、果たして何か案が思いつくのだろうか?
コウができないことを、ハナリはできるのか?
答えはノーだ。そんなの、あるわけがない。
「コウ……なにかわかった?」
「んー……わかんない。やっぱり、アイツの背中に乗ってボッコボコに殴るとかしか……」
そんな脳筋な作戦、死んでもやりたくない。それに、成功するような気もしない。……というのは流石のコウでも理解しているのか、本気では言っていないようだ。内心ホッとしつつも、再び顔を伏せてしまう。
コウも、なんとなく察しはついているのか、これ以上のことは何も言ってこない。
何度も言うが、これは本能的な恐怖だ。
動物としての、本能的な。何か特に理由があるわけでもない。
そんなものがあるのは、ハナリだけなのか?
コウには?先生には?みんなには?
意味もなく怖いものというものは、存在しないのか?
「ねぇ……」
こんなこと、今話すべきではない。そんなことはわかりきっている。わかり、きっていることだ。でも、どうしても、聞かずにはいられなかった。
コウが怖がっているところなど、ほとんど見たことはない。先程のようなイレギュラーはさておき、ハナリでいうくじらのような“具体性のない、ただ莫大な恐怖”は持っていないのだろうか。
あまりに顔に出てしまっていたのか、なにかを察した様子でうーんと少し前とは違う意味で頭を抱える。
「そりゃあ、多少あるよ?具体的なものは……、秘密」
そこに普段のような茶化した空気は全くない。秘密、と答えるコウの顔には「本気で話したくない」と思いっきり書かれてあった。……良くないことを聞いてしまったのだろうか。と不安になってしまう。
だって、コウのこんな顔、今まで見たことがなかったから。
「怖いとき、コウはどうしてる……?」
そう、大事なのはこっち。彼女が怯えているものに……興味がないといえば嘘になるが、今はそこまで大切ではない。
コウはえー、と空気を軽くするために大きめなリアクションを取る。なんだか、レイカのようだ。
「頑張ってる、としかいいようがないかなー。まぁ、でも。信じてるよ、いつでも」
信じているよ、とはどういうことか。なにを信じればいいのだろうか。疑問は沢山浮かんだが、はっきりと言い切ってみせたコウにそんな無礼な質問を出来るわけはなくて。
「信じてる……」
しかしどうにも繋がらない。その疑問は口から溢れ出てしまい、結果的につぶやきとなってコウの耳に届いた。
「そ。相手と、一緒にいる味方を」
くじら、ハナリと順に人差し指でさしながら教える。敵を信じる?どういうことだろう。コウの恐怖の対象は、そんな、信じる信じないがあるというのだろうか。
わからない。
恐怖の対処法を少しも知らないハナリには、なにも。
「……」
「相手を信じるってことは、侮らないってこと。油断しない、今の私と対等な位置にあると思うこと。ってことは、とはなっちゃうけれど、もちろん自分のことを下に見るのも禁止」
人差し指を天にさし、くるくると指先が弧を描く。歌うようにつらつらと述べるコウの言葉は、何故かすっと心の中に入ってくる。
「……、油断、しない」
「そう。味方は……、言う必要ないよね?」
ニヤッと口角を上げ、こちらを見る。
もう、その手には乗らないよ?
「うん、そうだね」
「ばっ……、はぁ!?な、なんでそんな急に……」
どうやら予想外だったらしく、逆に不意打ちを食らってしまう。その表情を見られて、満足だ。そういえば、コウの戸惑う顔を見たのは初めてかもしれない。慣れていないのだろう。耳まで赤くなっている。
「ふふっ」
「わ、笑わない!!ほら、もうできるでしょ!」
意表を突かれた、という事実によっぽど動揺しているらしく、さっきまでの遠慮はどこへやら。コウに照れ隠し……にしては激しすぎるが、背中を叩かれる。
腹をくくれ、そういうことなのだろう。
下を向き、ため息をつく。雲に立っている、眼の前に化物、となりにはコウ。
一体、何の心配があるというのだろうか。
一体、何にそんな怯える必要がある?
「…………でも」
それらはすべて、意味がない。
人は恐怖を目の前にすると、なんにもできなくなってしまうのである。恐怖に身を伏せ、脅威に苛まれる。あぁ、怖い。どうしようもなく怖い。きっと、この気持ちは誰にも――
「わかるよ。」
「……」
「怖いんでしょ?もう、動けなくなってしまうくらい」
そうだ。
「手も足も震えて、心も、冷えて。それすら恐怖と捉えてしまう。そうでしょう?」
うん、そのとおりだ。
「だからって、やらずに終えるの?」
「……」
責めるような口調だというのに、全く心が不安定にならない。いや、そうしないようにハナリがコウに努めさせているのだろう。その瞳は希望を讃え、ギラギラと輝いて見えた。「これくらいハナリならよゆうでしょ?」そう問いかけられているみたいだ。
「私は、もうずっと。ここに来てから……、いや。ここに来る前から、ずっとハナリのことを信頼してたよ」
「うそ……」
そんなの、うそに決まっている。だったらなぜ。なぜ、いつも話しかけてくれないのか。なんて、聞けるはずもなかった。それに関しては、お互いが暗黙の了解をしているから。
でも、それ抜きにしても、だ。
幼馴染というのにもかかわらず、仲が良くなった記憶はない。そんな彼女がハナリに「信頼している」?馬鹿げた話だ。いっそ、笑ってしまう。だって、ハナリは、コウの下位互換だ。どこを見ても、なにを見ても、劣ってしかいない。そんなハナリの、どこを信頼しているというのか。
うそだ。うそだよ、やっぱり。
「うそじゃない。じゃなきゃ、こんなところ連れてこない」
「でもそれは……弱い私を助けてくれたからで……」
「ここに来る人が、みんな弱い人だなんて説明した覚えはないけどっ?」
でも、ここに来る人は……、みんな、好きなことをやっていて。笑顔で、言い方は悪いが、現実を捨てた人たちで。大人なのに、子どもみたいで。子どもの夢みたいな世界で、息をしている。
たしかに、間違いではないとハナリも思う。どちらが正しいのか、なんて決められる話ではない。ただ、一般的に見て。現実と向き合うというのが大人なのではないのだろうか。
「……コウは、ここにいる人は強いと思ってるの?」
「もちろん。よっぽどの勇気がないと、こんな変な世界に留まるなんて言わないよ」
ま、あの人達にとってはあっちの世界のほうがよっぽど変なのかもしれないけど。と付け足す。
「……」
わからない。そんなの、まだ子どものハナリにわかるわけがないのだ。コウよりずっと子どもで、怖くて前にも進めない。そんな、幼稚なハナリには。まだ難しすぎる話である。
「話は変わったけど、信頼してるから。どこに、って聞かれたら、その性格だよ。最初、私が聞いたことハナリが返してくれた言葉、覚えてる?」
「えーっと、嫌い?って聞かれて、気に食わないって返した」
「そう、まさにそこだよ!」
覚えていたことが嬉しかったのか、笑顔で「よくぞ!」とでも言いたげに身を乗り出してくる。
「……コウは、好きって言葉、言われ慣れてるだろうから。そこじゃないところ言ってやった」
「おっ?ってことは好きなところもあるの?」
「もちろん……!!好きなところもあるし、気に食わないところもあるよ」
コウの瞳が、なぜだか揺れる。綺麗に輝き、光が反射する。突然のことだったので、その原因が目に溜まった水であることを理解するのに、少し時間を要した。
「……そこを、信頼してるんだよ。そういうところ、とても、すごいって思ってる。だから、ハナリも信じて」
立ち上がったコウに、手を差し伸べられる。右手。今でこそ目立っていないが、よく見ると怪我の跡が複数ある。それが裁縫によるものだと言うのは、すぐにわかった。
あぁ、コウも。
コウも、昔はうまく出来なかったんだ。
それは、落胆でも失望でもなかった。かといって、相手を馬鹿にしたり、嘲るような気持ちも一切ない。
手芸だけじゃない。人間関係だって。きっと、たくさん失敗して、たくさん傷つけて。そして今があるんだ。
ハナリだけじゃない。きっと、みんなだって。綺麗なところを見せているけれど、案外、みんな怪我だらけなのかもしれない。そう思うと、
「怖くない……」
「あっ、手見たなー?高く付くよ」
軽口をケラケラと笑いながら言えるのだから、本当にすごい。
まだ敵わない。全く持って勝てていない。負けてばかりだ。
でも。
「こっちのセリフ」
なんかいもリベンジするよ。
いつかきっと、こっちが勝てるように。
そのためにも。まずは自分に勝たなくちゃいけない。自分に勝てずに、他人に勝てるわけがないのだから。
ハナリはコウの手を取り、立ち上がる。息を吸い、吐く。こんなに高いのに空気はちっとも冷たくない。息がしやすいので、とてもありがたい。
顔をゆっくりと上げる。
それと同時くらいか、大きな口を開け、鳴き声……というより最早叫び声である。耳を塞ぐ暇なんてない。あいつを見る時間なんて、1秒でも短くしたい。
なにか、なにかないか。
黒紫色の体。
白い腹。
大きなヒレ。
グロテスクな口内。
何もかもが、大きさ的に規格外すぎる。
こんなやつを追い払うなにか。
瞳は穏やかで、なにも映していない。
まるで、伽藍堂――
そう、これが気に食わなかった。
上から目線で、どこまでも達観したようで。
この不思議な世界とつなぎ合わせる役目を担っている、不思議な扉。そこにあるドアスコープのような瞳と、形が、重なる。
「コウ!ペンダント見せて……!!」
自分も持っているということをまるで忘れて、コウに指示を出す。思っていたより声が出てしまったのか、コウがびっくりしてしまう。しかし、そんなの今はどうでもいい。それより。それより、だ。
「これが……、どうかしたの?」
服と服の間に挟んで隠していたのだろう。独特な隠し方に内心驚きつつも、くじらの目へ人差し指をさす。
「くじらのひとみ」
ペンダントと、それは、綺麗に重なった。大きさこそ全く違うものの、それ以外を除けば同じところは多い。形はもちろん、瞳の色も同じだ。
違うのは大きさと、……、映しているものだ。本物の方は空っぽ。ペンダントの方は硝子でできているのか、反射で彼女たちの顔を映していた。
「ホントだ……、よく気づいたね」
今気づいたわけではない。この瞳は扉のものと同じ。ペンダントをもらった時点でハナリは気づいていた。これは、くじらのひとみだということを。
流石に、この空間にくじらがいることは知らなかった。あの化物を見たときから嫌な予感はしていたが、こうしてみると一目瞭然だ。ハナリもポケットからペンダントを取り出し、本物とそれを見比べる。
「くじらのひとみっていうのは、元々知ってた」
「ふーん、気に食わないのに詳しいんだ?」
からかうような調子でこちらに問いかけてくる。……確かに。他の同級生よりも、自分はくじらについて詳しい自信がある。なぜだろう。嫌いなはずなのに。気に食わないはずなのに。
いや、今はそんなことどうでもいい。そういうのは、終わってからにしよう。
「そこそこは。それで、これをどうするかだけど……、」
ハナリは先程コウにされたように耳打ちをする。うんうんと頷きながら真剣に聞いてくれるコウに感謝をしながら。作戦を伝える。
「それ、すごくいい!!」
「ふふっ、でしょ?」
目を輝かして賛同してくれたコウに、わざとらしく、ハナリはそう言ってみせた。
二人は一旦雲の上に置いていた布たち……パラシュートを拾い上げ、くじらへと近づく。到着した時こそほぼ同じ位置だったが、雲が高くなっているのかくじらが降下しているのか、その差は随分と開いていた。そのおかげで、「間違いなく着地が出来る」と確信が持てるくらいにはハナリたちとくじらに差ができていた。
もう、準備は万端だ。
「「行こう!!!!」」
二人は声を合わせて空に叫ぶと、思いっきり地を……雲を蹴り飛ばし、宙へと足を踏み入れる。
上昇気流に乗ったときとは全く違う、風と浮遊感を直に感じる。最初からパラシュートを開いているわけではないので、本当に、生身で空中ダイビングをしているようだ。……現実世界でやったことはないが、おそらく似たような感覚だろう。くじらへの移動の面は心配いらない。真下に、もう見えている。
どんどん近づいてくる黒紫色に恐怖を覚える。この世界は、きっと生死の概念が存在していないのだろう。なぜならここは、子どもの夢。
お腹が空くこともなければ、寒くも感じない。落下の速度も、きっと現実のそれとは大きく違っている。
落下への恐怖ももちろんある。そこまで、ハナリは肝の座った人間ではない。
「ひっっ……」
隣から息を呑むような悲鳴が聞こえる。コウだ。上昇気流に乗った時は堪えられていたらしいが、流石に落下には耐えられなかったらしい。強がることが得意な彼女は、ようやくここに来て悲鳴を上げた。
「ふふっ」
「わっ、笑わない!怖がってなんかないし」
落下中だというのに会話ができるのも、不思議だ。ま、もう麻痺してしまったのか、あまり“不思議”だとは思わなくなってきてしまったが。
「そろそろかな……!!コウ!」
「りょーかいっ!!」
お腹のあたりで結んでいた紐を解き、パラシュートを展開する。今更だが、きっとこんな雑なもので機能するのも、この世界だからだろう。
彼女たちは数分ふらふらと揺られ、無事にくじらの背中へと着地する。
「……やっぱり、敵意はないみたい」
「ね!よかったー」
雲に着地した時点では真横にいた。その時点で何となく察しはついていたが、どうやら予測は正しかったらしい。
くじらとはいえ、この世界の不思議さには抗えないらしい。海に住んでいないからか、背中は床のように硬い。……、いや、現実世界でもくじらの背中に足をつけることはないのでわからないが。おそらく硬い。冷たい石のようだ。
「さっさと終わらせよう……」
こんな気に食わないヤツの上に長居はしたくない。今も、怖いという感情はある。でも、なんだか。
最初の時よりは随分とマシだ。
本当に、自分の恐怖をぶっ壊した彼女がますます怖くなる。そして、面白いとも思う。
「私右目行くから、ハナリ左ね!」
「うん、わかった」
そんな彼女とも分かれても、不安がハナリの行動のしがらみになることはなかった。体を縛る布切れが邪魔で、それを投げ飛ばす。落ちないように、十分以上に注意しながら走る。あぁでも、現実のようなくじらでなくてよかった。おそらく、もっと気持ち悪い踏み心地だったのだろう。その点、こちらのくじらは石やコンクリートの上を走っているように感じる。おかげで、変にくじらというものを意識することもなかった。
「準備できたーーー??」
反対側から大声が聞こえる。やはり、最初の掛け声はコウにして正解だった。
気が、締まる。
「できたよーー!」
ポケットからペンダントを取り出し、大声で返事をする。いつもよりずっと、声が出る。こんなに声が出るんだ、と自分でも驚く。でも、やはり楽しい。あぁそういうことか。
彼女が楽しいと言っていたのは、こういうことだったのか。
ぎゅっとペンダントを力強く握りしめ、その腕を振り上げる。
「「せーのっっ!!」」
その掛け声と同時に、ペンダントを無理やり目へと押し込む。
フニャッとした不快感のある触り心地に顔を顰めつつも、グッと力を込める。血が吹き出ることもなく透明な膜がハナリの左手、もといペンダントをすんなり受け入れる。中は空洞になっているらしく、膜の中にある左手は感覚がない。変に血や謎の液体とかではなくて良かったと安心しつつ、覚悟を持って、その手を広げる。
ペンダントが中にはいったことを確認し、コウの方を振り向く。どうやら成功したようで、こちらへ駆け寄ってくる。
「成功した……かな?」
「うん。きっと」
足元が淡く発光する。
彼女たちは顔を見合わせて笑みを浮かべた。
淡い光は、やがて強い光となり。目を眩ませる。ぎゅっと目をつむり、空中で手を泳がす。コウは……コウは……?
「……ねぇ、ハナリ」
「コウ……!!これ、どうしよう……」
「どうしよう、ね」
目が眩しさに慣れ、ゆっくりと瞳を開く。そこにはコウが冷や汗をかいて立っていた。多分、ハナリ自身も冷や汗を頬に垂らしていると思う。
なぜか?
それはお互いの足元が示していた。
相当な質量を持ったくじらは光の粒となる。蛍……よりも強く大きな光は空中へ逃げるように消え去る。
綺麗だ。
こんな状況でなければ。
彼女たちを支えていた地面……もとい、くじらの背中は綺麗に消えてしまい、床が抜けるような感覚を味わう。ひゅん、と不快な浮遊感。いつだったか、この感覚は内臓が浮くからだと聞いたことがある。
垂直落下。何もしない訳にも行かず、とりあえずハナリは離れないようにコウと手を繋ぐ。
「ぎゃああああ!!どうしよう!どうしよう!!」
「どうもこうも……!!パラシュートは……?」
「降りた時に外しちゃった……!」
「あああああもう……!!」
と、怒るハナリも同じように着地と同時に外している。……その結果、こうなっているのだから。
「コウ、ハナリ!!こっちよ!!」
普段のゆったりとした声とはまるで別人だ。凛とした声は空へ響き、無事に二人の耳へ届く。
下を見ると、大きな布が一枚、広げられていた。……たしかに、こうするしかないかもしれない。
色々疑念はある。
果たして、本当にあれで私たちを受け止めることができるのだろうか。クッションは?無いとしたら、下のスペースは足りているのだろうか?
不安に満ちた表情でコウの目を見る。
あぁ、大丈夫だ。
きっと、大丈夫。
そう思えるくらいの説得力が、コウの瞳にはあった。
コウが信じる人を、信じよう。
理屈?理論?知ったこっちゃない。
私は、信じたいことを信じる。それだけでいい。
矛盾もこだわりも、今は全部を捨ててしまおう。
布が大きくなる。大人たちが端っこのほうを持っていてくれている。誰も、疑ってなどいない。みんな、信じている。
ハナリはきゅっと目をつぶり、その中へと飛び込む。深く沈む、も、地面に触れることはなく、そのままトランポリンのように跳ねる。
あぁ、やっぱり。おかしいのに。おかしいのに、そうなると信じていた自分がいるのも事実だ。そう思えるのも、少しおかしいのかもしれない。けれど、ここぐらい良いのではないのだろうか。多少おかしくたって、別に誰も気にしないだろう。
いや、もしかしたら。ここだけじゃない可能性もあるが。
彼女たちは大人の手を借り、無事に布トランポリンから降りることに成功する。帰還した彼女たちを褒め称えたのは、市場でよく目にしていた大人たちだった。全員とまではいかないものの、ほとんどの人とは会話をしたことがある。そういう人たちに褒められるというのは、なんだかくすぐったい。でも悪くはない、むしろ嬉しい。
そんな大人たちをかきわけて、とびきり見覚えのある人が彼女たちに近づく。
「コウ、ハナリ」
スラッとした背丈のレイカが、眉を下げて二人の名前を呼んだ。その姿は、どこかさみしげで。いつも「レイカ姉さん」と呼んでいた二人だったが、この時ばかりは子どもに見えてしまった。それくらい、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。
二人はなにを言われるのかと身構え、背筋が自然と伸びてしまう。
「あの怪物はね、厄介だけど、それと同じくらいこの空間を支えてくれていたの。ここは、本来は子どもだけの世界。子どもだけしか、行き来ができない」
「子どもだけ……?」
「そう。大人になると、外に出たペンダントを見失っちゃうし、この扉の場所も忘れてしまう。……私たちは、子ども、言ったら、19歳の頃からずっとここにいるの。大人に、なりたくないから」
子どもだけの秘密基地。響きのいい言葉をあえて選ぶならこうなるのだろう。しかし、それも“本来であれば”という話だ。今は、ハナリたちも知っての通り、大人しかいない。ここから一歩も外に出ずに生活が可能なのか、と一瞬ハナリは論理的に考えるも、すぐにそれを辞める。
だって、ここは子どもの夢の世界だ。
死とは、無縁の世界。空腹にもならなければ、死んだことにもなっていない。
それすなわち、外の世界では“生きている”ことになっている。
一体どういう原理なのかはわからないが、おそらくここの人たちは外の世界で生きているということになっている。でなければ、行方不明者としてニュースにならないのが不思議だ。
原理など、考えたくもない。
あのくじらを見てしまったからには、ここを“夢や超常的ななにか”とでも捉えなければ、きっとこっちが呑まれてしまう。
「それで……、あの怪物と、どんな関係が?」
「簡単に言うなら、扉が消える。今、出る判断をしなければ、永遠にここに閉じ込められることになる」
他の大人たちも知っていた、もしくはわかっていたのか、その言葉を聞いても特に動揺することはなく、ただただ無言で俯く。表情は、見えない。見たくもない。
「そんな、……私……!!」
「落ち着いて、コウ。貴方のせいじゃないわ。貴方達が助けてくれなかったら、ここはもっと悲惨な状況になってた。……いくら傷つかないと言っても、傷つけられた体験が、残ってしまう子もいるから。だから、安心して?きっと、元々はこうあるべきなの」
自分が倒してしまったから、と自責の念に駆られるコウを、レイカは目線を合わせるように屈んで肩を優しく握る。頭を近づけ、額と額をコツン、と優しくくっつける。本当に、本物の姉妹のようだ。
「うぅっ……、みんなも、ごめん……」
ボロボロと涙を流すコウの姿を、ハナリはそっと、後ろから見守っていた。
4
「二人は、どうする?」
レイカにそう問いかけられ、ハナリは手を口元に当てる。
“二人はどうするか”その問いに込められた意味は明白だった。
要は、「ここで生きる」か「元の世界で生きる」か。その二択を迫られているのだ。正直、ここでの生活は全く苦ではなかった。裁縫も、やればやるほど上手になり、まだコウに勝てる気配はないが、それでもいいと、思えるようになってきた。
お腹もすかない、消えたことにもならない。それに何より、責められることもなければ、冷やかされることもない。哀れみの目で見られたり、気まずいとかも考えなくていい。怒られることも、自分を責めることも、ここではしなくていい。
自分の好きなことが出来る。
なんて素敵なことだろう、と思う。
これ以上、他になにを望む?とも思う。
寂しさも、裁縫が飽きるということに対しても、別に恐怖はない。なぜならここは子どもの夢の世界。きっとなんでも出来るし、なんにでもなれる。
だけど。
「私は、外に出たいです」
ハナリの口からは、自分でも思ってもいなかったことが口に出てしまった。レイカはそれに驚くことも、肯定や否定をすることもなかった。ただ微笑みで返事をし、「理由は?」とハナリへ説明を促す。
「あの世界で、一緒にコウと、たくさんのところを冒険したい」
その言葉に、レイカよりも、言及された本人であるコウよりも、ハナリが驚いてしまう。発言したのはもちろん自分だったが、まさかこんなふうに考えていたとは。
時折、人は説明しているときに初めて自分の本音に気づくことがある。
あぁ、そっか。
まだ、試してないこと、やったことないこと。きっとたくさんあるのだろう。こうやって、人前で本音を話したのも、きっと初めてだ。
だから、帰りたいのか。
最初っから諦めるのは、やめてしまおう。
その大切さを、今日。いや、今まで、ここで教えてもらったから。
ハナリは覚悟を持って、極めて簡潔にレイカへ説明をした。レイカは無言で、しかし優しく頷き、「さてと」と言いながらコウの方を見る。
コウは、ハナリと反対に、怯えたような瞳をしていた。まるで、今から自分がやってしまった悪いことを告白するような、子どものような瞳だ。こんなところで、彼女を「子どものようだ」と思う日が来るとは、思ってもいなかった。
「私は……外になんか出たくない。だって、私が一番私らしくイられるのは、ここしかないから」
考えてみれば、普通のことだ。
今回、確かにハナリは救われた。いや、これを“救われた”と表現するのは些か問題があるかもしれないが、でも、そうだ。少なくとも、コウに、この世界に、生きる勇気をもらった。
生きていく覚悟をもらった。
生きていくという感情をもらった。
生きていく情熱を、もらった。
しかしコウはどうだ?
確かに、コウもハナリとの出会いで多少救われはしただろう。しかし、それはあくまで“もう一つの居場所”としての役割を果たしただけに過ぎない。自分を知る人がこの世界の住民以外で一人増えた。たったそれだけのことである。
それに、ハナリとはそもそも前提が違うのだ。
ハナリはここたったの一ヶ月程度の話だ。しかし、ハナリの記憶が間違っていなければ、きっとコウにとっては小学校三年生からの物語だ。それは、重みが違ってくるというものである。
それについて、ハナリが言い出せることはなにもない。
気持ちのわからないはずの人間が知ったような口をきくのは、あまりに失礼だ。
「ハナリだけ、戻ってよ。それで、いい。それが、いい」
「嫌だよ。……私は、コウと一緒に、冒険がしたい」
だって、君とならきっと、どこまででも行けるような気がするから。と言いかけて、辞める。これ以上は、きっと責めてしまうことになる。これで承諾されても、ハナリが一番嫌うやり方となってしまうから。それだけは、絶対に避けたい。
これは単なる願望でしかないが、きっとコウも同じように考えているのだろう。いつもの茶化しも、おふざけも。ハナリより遥かに優れた頭脳で論破してこようともしなかった。悩んでいる。きっと、お互いに。
「だったら、私たちも着いていきましょう」
固く、重くなっていた空気を溶かしたのはレイカだった。わざとらしく、少し演技がかったような言い方をしたのは、いつもコウの茶化しを間近で見ていたからだろう。
「レイカ姉さん……?」
「も〜、コウちゃんにそんな顔、似合わないわ。無理な選択を迫らせちゃってごめんなさいね。……決まっていたのだけれど、一応意見、聞いてみたくなっちゃって」
てへっとふざけながら言うその様子に、だんだんと察しがついていく。
後ろの大人たちは、いつもに増して笑顔で。大人で。眩しい笑顔を見せていた。ようやくコウもわかってきたのか、顔がぱっと色づく。
「れ、レイカ姉さん……!!」
喜怒哀楽。すべてを詰め込んだ声だ。内容、黙っていたこと、ここを離れること、これからのこと。すべてに感情を向けていた。
確かに。コウはこっちのほうが似合っている。
「ふふっ」
「ハナリまでぇ……、ちょっと、ずるいよみんなぁ……」
コウは瞳からボロボロと涙をこぼす。様々な感情がそこにこもっているということは、流石のハナリでも理解が出来た。
こちらも釣られて、涙を零してしまったくらいだ。
そこからは、簡単だ。
あちらへ行くと、なにも残っていない。
この世界は、“なかったこと”になる。
服も、持ち運び禁止だ。
でも、消えない。
私たちが覚えているから。
私たちが、成長した証だから。
子どもの夢。悪くはなかった。むしろ良かった。
これから先、きっとこの選択を後悔する日は来るだろう。
「傷つかないでいられたのでは」「もっとのびのびと成長できたのでは」と。
けれど、この選択を、私は失敗にしたくない。
それに、失敗をそれだけで終わらせることが出来ないって知ってるから。
信じてるから。信じたいから。
だから今日も、私は前を向く。
なにがあっても、たとえ下を向いてしまったとしても。
きっと最後には、前を向いている。
隣に君がいるから。いなくなっても、今日のことをこの先忘れることはないから。
だから、君も忘れないでほしいと思う。願う。
だってそれは、あまりに
「気に食わないからね」




