第七話
公爵令嬢セシリアは、王太子アドリアン殿下の執務室の一角で、優雅に書類を整理していた。
彼女の心は今、満足感に満たされている。
ルミナ・エリス令嬢と騎士レオ・バルデスを、それぞれ王宮内において、物理的に離れた位置に、それも機密性の高い部署へと引き離したことは、セシリアの計画にとって決定的な勝利である。
二人が結ばれる幸せな結末による破滅の未来は回避されたとセシリアは確信した。
(これで二人を中心とした激しい愛憎劇は起きない。私に向けられる糾弾と公爵家の没落は阻止できる。後は内乱エンドを起こさないように殿下を支え隙を見せない未来さえつくれば良い)
セシリアは殿下を支え結末を下記かるのだと判断した。
その決断の代償として、彼女は王太子アドリアン殿下により厳しい監視下に置かれることになった。
アドリアン殿下は、以前にも増してセシリアを自身の傍に置き続けた。
彼の執務室にはセシリア専用のデスクが設けられ、セシリアが書類を読み上げる時、アドリアン殿下はしばしばペンを止めるのだ。
そして熱のこもった視線で彼女を見つめている視線を、彼女自身も感じていた。
セシリアはその視線を、自身の公務の正確さ、冷静な判断力、それ以外の行動すべてを評価しているように見え、王妃となるべき人間への値踏みなのだろうと解釈した。
彼の目的は、セシリアの能力を最大限に引き出し、王妃としての支配下に置くことなのだと、そう理解していた。
彼女は殿下の要求に完璧に応えることで、今後の展開を制御しようと考えていた。
自身を認めさせ、制御できる枠割を得て内政を管理し、破滅の無い結末へと到達することが、彼女が切望する未来なのだ。
そんなアドリアン殿下は、熱い視線を送りながら彼女に告げる。
「セシリア。この案件の処理は貴女に一任する。貴女の判断に間違いはないと信じている」
アドリアン殿下は分厚い書類の束をセシリアのデスクに置いた。
彼の声は穏やかだが、そこには一切の拒絶を許さない絶対的な命令が含まれている。
セシリアは、その期待に応えることこそが、今の自分の責務であるのだと認識した。
「畏まりました、殿下。迅速に処理いたします」
彼女は深く一礼し、すぐに作業に取り掛かった。
だが、彼女は殿下の過剰な信頼と親密さから、何かがおかしいと感じているのも事実だ。
ルミナがレイへの想いを抱えているこの世界であれば、殿下のターゲットは自身を含む公爵家の三人となることは理解できる。
だがしかし、セシリアが殿下のターゲットとなる場合には「四角関係混沌ルート」には成りえないのだ。
残された選択肢はターゲットが公爵令嬢の二人の場合だが、その場合は今のシナリオが進んだ段階で、自身への値踏みをしているのも異常事態ではあるとセシリアは判断した。
これは何か重大な見落としをしているのではと、セシリアは警戒を強めていた。
殿下は自身を完全に制御下に置いた後、公爵家をも制御下に置き、殿下の支配を完全なものとしておきたいのだろうと考えたセシリア。
そんな彼女の誤解は、殿下の愛を見抜けなかったこと……。
アドリアン・ヴァルキュリア殿下の純粋な愛情を、彼の内から出る傲慢な支配欲としか捉えられない彼女の自己防衛的な思考から生まれていたこの大きな誤解を、公爵令嬢セシリア・アークライトはまだ気づかない。
◆◇◆◇◆
ある日の午後、セシリアは殿下の命により騎士団の機密文書管理棟へと書類を届けに赴いた。
目的は騎士レオ・バルデスに、殿下の勅命文書を手渡すことである。
セシリアは騎士レオの姿をあえて遠ざけ、彼のルミナへの想いを自己解決により浄化させることを待つつもりであった。
しかし殿下からの勅命である以上、彼に会うことを避けられない。
一方、機密文書管理棟の薄暗い廊下でセシリアを待っていたレオ。
彼の顔つきは以前にも増して精悍になり、その瞳はセシリアに向かって燃えるような忠誠心を放っている。
騎士レオは、男爵家の出ではあるが、貴族としては貧しい生活から成り上がった騎士である。
その体躯は頑丈で、鍛え上げられた筋肉が制服の下でしっかりと隆起していた。
彼はセシリアに会うや否や、片膝をつき深々と頭を下げた。
「セシリア様。この忠臣に謁見の機会をお与えくださり、感謝いたします」
レオの声は以前の穏やかな響きとは異なり、張り詰めた緊張感を含んでいた。
セシリアは驚き、すぐに彼を立たせた。
「騎士レオ、顔を上げてください。私は今、貴方の上司でも、ましてや主でもありません。それにこれは、殿下から私の与えられたの公務なのです」
彼女は冷たく言い放った。
この言葉はレオを突き放し、彼を公的な役割に専念させるための配慮である。
しかしレオの解釈はセシリアの意図とは大きく異なっていた。
「セシリア様。貴女は私の、唯一無二の主です」
レオは立ち上がったが、その視線はセシリアの瞳から離れない。
彼の全身から発せられる献身の念は、もはや騎士としての忠誠の域を超越していた。
それは狂信的な崇拝に近いものであった。
「私は貴女のお陰で過去の汚辱から解放されました。貴女の言葉こそが、私の騎士としての存在意義です。この命は貴女の宿願を叶え、貴女の全て安寧のためにのみ存在します」
レオはそう断言した。
セシリアは背筋に冷たいものを感じた。
彼の目かははルミナへの淡い恋心など、完全に消え失せている。
そこにあるのはセシリアという名の主への絶対的な服従と、それに伴う極端な排他的な感情であった。
セシリアは、彼の忠誠心の歪みは自身が彼を救った時に与えた、「公的な責務こそが騎士道」という言葉が、レオの心の深い傷を埋めるための絶対的な教義として機能してしまった結果だと悟った。
彼の忠誠心は、もはや彼女の制御下にはない。
「ルミナ令嬢は、先日貴方の不在を心配してこの棟の近くまで来ましたよ」
セシリアは試すように問いかけた。
彼女は、レオの中にルミナへの微かな情愛が残っていないかを確認したかった。
レオの表情は一瞬にして硬質なものに変わった。
「あの令嬢ですか。彼女は公務の邪魔にしかなりません」
彼はルミナのことを、まるで異物のように言い捨てた。
「彼女は純粋な善意から貴方を心配していました。貴女を慕う感情に偽りはありません」
セシリアは思わずルミナを擁護した。
しかしレオの返答は、セシリアの最後の希望を打ち砕いた。
「純粋な善意など、私の救済には繋がりません。私をこの絶望的な運命から引き上げ、新たな使命を与えてくださったのは、セシリア様、貴女一人です」
彼はセシリアへの忠誠を再度宣言した。
彼の忠誠は、ルミナの神聖なる癒しの輝きをも跳ね返す、強固な盾となっていた。
セシリアは全身から力が抜け、持っていた書類の端が震えた。
失敗した。
この一言が彼女の脳内に囁かれた。
彼女は破滅の運命を避けようと二人を引き離したが、その結果、レオからの歪んだ献身を手に入れた。
そしてその歪んだ献身は、アドリアン殿下の狂気に満ちた独占欲をさらに煽っている。
セシリアは、自身が破滅の運命というレールから降りたつもりでいたが、実際には「公爵令嬢セシリアの破滅」という名の列車を、より速く、より強力な燃料を積み込み加速させていただけである。
彼女はレオの背後に闇深いエネルギーを感じた。
それは彼のトラウマと、セシリアの言葉が結合して生まれた制御不能な力に思えた。
(私はルミナとレオの愛の物語を壊しただけではなかった。私自身を主とするより悲劇的で、より救いのない結末へ向かう物語を創造してしまったのだろう)
セシリアはこの瞬間、自らの計画の完全な失敗を認めた。
レオは、セシリアの言葉を自身の騎士道を決定づける聖典の言葉であるかのように受け止めている。
そんな彼にとってセシリアの安全と幸福こそが、この世で最も重要な公務と位置づけている。
セシリアはこの狂気じみた崇拝に対処できなければ、内乱ルートへと真っ直ぐに突き進み、その首謀者は間違いなくセシリア自身にされてしまうだろう。
セシリアは、この恐ろしいルートから離脱しなくてはならないと強く感じた。
彼女は、自身が騎士レオの想いを自身へ三毛させれば、この問題は解決するのだと信じていたが、今、そのことで生じるであろう破滅的な未来に恐怖していた。
彼女が本当に恐れていたのは、自身の破滅や公爵家の没落ではない。
彼女が本当に恐れていたのは、ゲームの世界の登場人物として、自らの意志とは無関係に決められた運命を辿ることである。
(私はこの世界で、私として生きていきたいのに!)
これまでの行動は、全て破滅のシナリオを避けるための義務のような日常であった。
それは彼女の人生ではなく、ただの事実であった。
しかし今、騎士レオからの歪んだ献身を目の当たりにして、セシリアは初めて自身の未来を、シナリオからかけ離れた足跡を、シナリオに沿うことのない自らの運命を、自身の手で掴み取らなければならないのだと決意した。
そんな決意を秘め、セシリアはレオに書類を手渡した。
「殿下からの勅命です。貴方の職務は公爵家のためではなく、殿下のため、そして王国の安定のため力を尽くすこと。そのことを深く心に刻んでください」
彼女はこれ以上、彼に自身のための行動を取らせることが怖かった。
レオは、セシリアの言葉に殿下の勅命以上に重い意味があると感じ、静かに書類を受け取った。
「畏まりました。セシリア様の御心に恥じぬよう、誠心誠意務めます」
彼はそう返答する。
セシリアは自身に対するレオの献身を否定することは、彼の精神的な支柱を破壊することになりえると理解し、彼を突き放すのではなく、その献身の対象を「王国の公務」へとシフトさせようと試みた。
セシリアは騎士管理棟を後にし、王宮へと戻る道すがら決意を新たにした。
自らの人生を、破滅の運命から逃れるためだけに浪費することをやめようと。
これからは自身が本当に望むものを手に入れるためだけに行動する。
もちろん彼女が望むそれは、公爵令嬢セシリアとしての立場や、ましてや王妃の座ではない。
彼女が本当に望むのは、自由である。
そしてこの自由を手に入れるため、アドリアン殿下からの支配から、レオの狂信的な忠誠心から、そして何よりも自身が作り上げた悪役令嬢という足枷から解放されなければならない。
セシリアは執務室に戻る途中、王宮の庭園を通りかかった。
そこで彼女はルミナ・エリス令嬢の姿を目撃した。
ルミナは以前のような明るい笑顔ではなく、どこか物憂げな表情で噴水の縁に座っている。
彼女のハニーブロンドの髪は太陽の光を浴びてはいるが、その輝きはどこか翳っているように見えた。
セシリアは思わず立ち止まった。
ルミナの傍には以前のように騎士団の護衛はいない。
セシリアの心に予期せぬ感情が湧き上がった。
それは優越感でも、警戒心でもない。
ルミナの悲しい横顔を見た瞬間、セシリアは深い罪悪感を感じ、胸が締め付けられる程に息苦しさを感じた。
セシリアの行動は、ルミナの純粋な恋心を深く傷つけたことは逃れることのできない罪だ。
ルミナが抱える悲しみは、セシリアが破滅を避けようとした自己中心的な行動の結果であった。
ルミナは、セシリアの存在に気づき顔を上げた。
ルミナの透き通ったエメラルドグリーンの瞳は、セシリアを捉えた瞬間、驚きと同時にかすかな怯えを見せた。
ゲームの中のルミナは、常に自信に満ちた強い主人公である。
しかし今のルミナは、傷つき悲しみを背負った一人の少女であった。
セシリアは、ルミナに近づき静かに話しかけた。
「ルミナ令嬢。ご気分が優れないようですが、いかがされましたか?」
セシリアの声は普段の冷徹なトーンではなく、心配の色を含んでいた。
ルミナは驚きで目を見開いた。
「あ、セシリア様……。お気遣いありがとうございます。大丈夫です」
彼女はすぐに立ち上がり、深々と頭を下げた。
セシリアはルミナの礼儀正しさに、再び胸が強く締め付けられた。
彼女は、自分が排除すべき敵ではなかったのだと実感してしまった。
「貴女は……、騎士レオのことで心を痛めていらっしゃるのですね?」
セシリアは真っ直ぐに問いかけた。
ルミナは一瞬たじろぎ瞳を伏せた。
「あの……。レオ騎士は、私のことを避けていらっしゃるようです。私は、彼に何か失礼なことをしてしまったのでしょうか……」
その言葉だけで、彼女はあまりにも純粋なのだと理解した。
それがなお、セシリアの策略がどれほど残酷であったかを浮き彫りにした。
セシリアは、ルミナの目を見て嘘をつくことができなかった。
「いいえ。貴女は何も失礼なことはしていません」
セシリアは正直に断言した。
「彼は今、王太子殿下の勅命による重要公務に就いています。公的な責務を全うすることに、彼の全神経が集中しているのです」
セシリアはレオの行動を公務という名目で正当化した。
ルミナはその言葉を聞き、少しだけ安堵の表情を見せた。
「そう、なのですね。レオ騎士は、やはり高潔な方です」
ルミナの目には、再びレオへの尊敬の念が宿った。
セシリアはこのルミナの純粋さに、自身がどれだけ汚れた策略を用いてきたかを痛感した。
「ルミナ令嬢。貴女の神聖なる癒しの輝きは、この王宮全体を明るく照らしています」
セシリアは、ルミナが持つ本来の力を初めて心から認めた。
「貴女は、貴女らしく、周りの人々に安らぎを与えるだけで良い。無理に誰かを追いかける必要はありません」
この言葉はルミナに向けたものであると同時に、策略に頼り続けたセシリア自身に向けた言葉でもあった。
ルミナはセシリアの言葉に戸惑いながらも、深く感謝の意を示す。
「ありがとうございます、セシリア様」
ルミナはそう言って、再び優しい笑顔を取り戻した。
セシリアはルミナから離れ、自責の念を抱えながら王宮へと続く道を歩く。
彼女の心の中で長年抱いてきた悪役令嬢としての義務が、音を立てて崩れ去る。
憧憬からの解放、それはルミナへの嫉妬や、シナリオへの固執から解放される瞬間であった。
セシリアは自分の運命を書き換える。
これからは誰も傷つけず、自分自身の自由を追求する。
自らの手でシナリオという名の鎖を断ち切るのだと決意した。
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