第六話
一夜明け。
王太子アドリアン殿下の勅命は、セシリアの予想通り彼女とレオ・バルデス騎士の距離を、物理的に遠ざけるものであった。
セシリアは王宮の重要公務補佐として、朝から晩まで殿下の執務室に拘束されることになった。
レオは王宮騎士団の最奥にある、機密文書の管理部署へと配置換えされた。
早すぎる別れではあったが、セシリアは自身の計画の最終段階が完了できたと確信した。
レオはルミナから完全に引き剥がされ、ルミナもまたレオの保護を失った。
この、ゲームのシナリオにはないそれぞれの立ち位置により、破滅の運命は訪れることは無いと、セシリアは冷静に分析していた。
だが彼女は、アドリアン殿下の行動が、アークライト公爵家への警戒心からくる監視と、自身に対する支配欲の表れであると、深く誤解したままであった。
一方、王宮の端にある下級貴族の居住区では、この事態の変化により一人の女性が困惑していた。
その女性こそ、ルミナ・エリス令嬢である。
ルミナの長く金色の髪は、風に揺れるたび柔らかく輝く。
その瞳には聖なる癒しの輝きが宿り、誰に対しても分け隔てなく向けられるその視線は、周囲に安らぎを与える聖女。
彼女は小柄で華奢な体つきだが、常に周りを優しく照らすような柔らかな笑顔を浮かべている。
彼女の存在そのものが、この世界における神聖なる癒しの輝きであった。
ルミナは少し前から、自身の護衛であった騎士レオの姿が見えないことに気づいた。
自身の護衛を外されてもなお、公爵令嬢であるセシリアのそばに控えている姿を、王宮内では度々目撃していた。
だがここ数日、彼の姿が消えたことに、彼女は困惑しているのだ。
彼女はレオが今も所属していることになっている騎士団に問い合わせたが、返答は「騎士バルデスは機密性の高い重要任務に就いた」という事務的なものしか返ってはこなかった。
ルミナは、それまでの騎士レオによる献身的な護衛を当然のこととして受け入れていた。
彼女が困った時もは、必ずレオが助けの手を差し伸べてくれていた。
彼の不在は、ルミナにとって初めての日常からの逸脱であった。
そんなルミナの魅力は、彼女の純粋さによって周囲の人間が抱える苦悩を無意識に癒す力にあった。
騎士レオにおいても、彼女の傍にいた時は、彼はルミナの笑顔を見るたびに過去のトラウマからくる自己嫌悪を、一時的にだが忘れられていたのだ。
彼女はまるで太陽のように、他者の心に宿る闇を照らし出し、そして癒す力を持っている。
しかもその力は、意識的な愛や策略といった感情から作られたものではない。
それは彼女の生まれ持った性質であり、ルミナ自身はその力が持つ影響力を理解していなかった。
レオの不在は、そんなルミナの心に不安をもたらした。
その不安は、彼女の持つ神聖なる癒しの輝きを無意識に増幅させた。
ルミナは、レオの身を案じる気持ちを抑えきれず、彼を探すことを決意した。
彼女は王宮内の人間から協力を得て、レオの新しい配置場所が騎士団の機密文書管理棟であることをすぐに突き止めることができた。
ルミナが向かったその棟は、王宮の北側に位置すており、常に厳重な警備が敷かれている。
ルミナは躊躇することなくその場所へと向かった。
一方、騎士レオ・バルデスは、機密文書管理棟の薄暗い執務室で膨大な古文書の整理作業に没頭していた。
彼はセシリアの言葉を胸に刻んでいる。
『貴方は今、公的な責務を果たしている。その高潔な騎士道を、最後まで貫き通してみせなさい!』
セシリアから与えられた騎士の誇。
そして彼女から与えられる救済は、レオの精神を完全に支配していた。
彼の苦悩は、以前とは全く異なる形へと変質していた。
ルミナへのほのかな愛情は、セシリアの策略により「護衛対象への義務感」という理性的な感情に置き換えられた。
しかしその義務感と、セシリアへの狂信的な献身が、今、彼の心の中で衝突を始めていた。
レオはセシリアの計画により過去の罪悪感から解放された。
しかし同時にセシリアは今、アドリアン殿下の厳しい監視下に置かれている。
彼はセシリアを「孤独に戦う高潔な主」として認識している。
そのため自分は一刻も早くこの公務を完了させ、セシリアの元に戻り、彼女の盾となるべきだと強く感じていた。
それがセシリアの恩に報いる唯一の方法であると。
その献身こそが、彼の騎士としての新たな存在意義となっていた。
ルミナの安否を気にかける「騎士の義務」と、セシリアを守るという「絶対的な忠誠心」が、彼の心の深層で激しくぶつかっている。
レオは、セシリアの命令に背くことは、自らの騎士道を否定することだと理解していた。
彼の思考はルミナへの感情を「職務の妨げとなる、排除すべき感情」として処理し始めた。
レオが内面でそんな葛藤を抱えているある日の午後、ルミナは機密文書管理棟を訪ねた。
厳重な警備を潜り抜けることはできなかったが、建物の裏口で、休憩のために外に出てきたレオの姿を偶然発見した彼女。
レオは疲労の色を隠せない顔で壁にもたれかかっている。
ルミナはその姿を見て、安堵と同時に心配の感情が湧き上がった。
彼女は駆け寄り声をかける。
「レオ、やはりここにいらっしゃったのですね。突然姿が見えなくなったから、とても心配しました」
ルミナは彼の疲れた顔を覗き込み、心配そうに見つめた。
自身を見つけた時の彼女の笑顔は、一瞬でレオの心を深く貫いた。
それは過去に彼を癒し続けていた神聖なる癒しの輝きの力である。
レオの理性が一瞬揺らいだ。
彼は、彼女のこの純粋な笑顔と、彼女の持つ安らぎを与えるその輝きを懐かしく感じた。
しかしその揺らぎは、すぐに心に刻まれたセシリアの言葉によって打ち消される。
『いかなる曖昧な感情も職務の妨げになる』
レオは瞬時に表情を消し、騎士としての冷徹な顔に戻った。
彼は一歩後ずさりし、ルミナとの間に明確な距離を置いた。
「ルミナ・エリス令嬢。ここは機密性の高い区域です。貴女のような公務と関係のない方が立ち入るべき場所ではありません」
彼の声は冷たく、事務的であった。
ルミナは、レオのこの冷徹な態度に驚き動きを止めた。
彼女はこれまで誰に対しても、このような拒絶の態度を取られたことがなかった。
「あの、レオ……。私、何か失礼なことをしてしまいましたか?」
ルミナの透き通った瞳に不安の色が浮かぶ。
彼女の神聖なる癒しの輝きが彼に向けられたことで、周囲の空気さえも暖かな安らぎをもたらした。
しかし、レオの心は既にセシリアによって完全に武装されていた。
彼はセシリアから与えられた高潔な主を守るという新たな使命を優先した。
「失礼などありません。しかし、私には今、王太子殿下の勅命による重要公務があります。いかなる私的な接触も、職務の遂行を妨げる行為と見なされます」
レオは、ルミナの心を傷つけていることに気づかなかった。
彼はただ、公的な責務を全うしているという絶対的な正当性で、彼女を冷たく突き放した。
ルミナはこの時、人生で初めての挫折と、愛する人からの冷たい拒絶に立ち尽くした。
彼女の神聖な癒しの輝きも、レオの心に届かない。
レオの心は今、セシリアという名の絶対的な主に完全に支配されている。
ルミナの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女はこの感情を、どう処理していいのか分からない。
レオはそんなルミナの涙を見ていたが、さほど感情は動かなかった。
彼は今、心の中でセシリアの言葉を繰り返している。
「ルミナ令嬢。貴女には、王宮の規則を遵守していただきたい。私はもう公務に戻ります」
彼はそう言い残し一礼すると、冷たい背中を見せて管理棟の中へと戻っていった。
ルミナはその場に一人残された。
彼女の純粋な心は深い悲しみと、初めての孤独に包まれた。
このルミナの動揺は、王宮内の情報網を通じ、すぐに王太子アドリアン殿下の耳へと入った。
アドリアン殿下はセシリアの傍で執務をこなしながら、冷笑を浮かべていた。
「セシリアの策略が図らずもルミナ・エリス令嬢の心に傷をつけた。そして、騎士レオの意識ををセシリアへと固定させた……、セシリアの一連の行動を過去のしがらみを排除し、強力な武力を取り込み自身への支配下に入るための策略であるな」
アドリアン殿下は、様子を伺いながら自身に注目している重鎮たちにそう言って鼻で笑う。
彼はセシリアこそが自分の王妃として完璧であり、彼女を完全に支配下に置くことが、自身の権力を安定化させることに繋がると確信している。
周りにいた者たちはそう誤認していた。
セシリアは、アドリアン殿下からの監視と拘束が強まることを、破滅の兆候として捉えていたが、この一連の流れにより、殿下からの糾弾が始まるまでの時間稼ぎ、もしくは糾弾自体の消滅ができると考えていた。
しかし現実はそうはならなかった。
セシリアはレオの愛を、騎士の忠誠という名の歪んだ形で完全に支配下に置いた。
そしてそのことが、アドリアン殿下の彼女への独占欲を狂気的なレベルへと増幅させる結果となった。
そしてセシリアは自分がゲーム内で起こりうる破滅の運命から逃れたと確信する。
そして現実はそうなった。
しかし彼女が真に逃れるべき運命は、すでにアドリアンとレオ、二人の男性の歪んだ愛と献身によって、ゲームシナリオには無かった新たな形の破滅へと変貌していた。
ルミナの流した涙は、セシリアの計画の成功を意味する。
しかしその涙は、セシリア自身の新たな苦難の始まりを告げるものであった。
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