第四話
温室での記憶の覚醒から一夜が明けた。
セシリアは自室の書斎で冷たい紅茶を飲みながら思考を整理した。
彼女は今、恋愛シミュレーションゲーム『 多角形な乙女たち ~ 令嬢たちの複雑な恋愛模様 ~ 』の世界にいる。
そして、これまで歩んだセシリアとしての人生を顧みた結果、自身は主人公ではなく、破滅の運命を背負う悪役令嬢として設定されているだろうと予想した。
しかし彼女はこの運命を明確に拒絶する。
この世界はもうゲームのシナリオではない。
アークライト公爵令嬢セシリアとしての、現実の人生である。
セシリアは前世の記憶と、公爵令嬢としての卓越した頭脳を最大限に使い思考を繰り返した。
彼女が最も愛する対象であるレオ・バルデス騎士を、この破滅的なシナリオから引き剥がすことが最優先の目標だ。
同時に自身も生き残らなければならない。
レオがルミナ・エリス令嬢への愛を確信するイベントは、あの温室での相談から数日後に起こる。
その後、全てがうまくいけばレオと主人公には幸福な人生が約束される。
そうなれば残りのヒロイン候補は、セシリア自身も含め破滅の道を歩むだろう。
その幸せを唯一獲得できる主人公は、今回はすでにセシリア以外の三人に絞られている。
それは避けなければならないが、その為には別の道を進まなくてはならないが、残念ながらそんなシナリオはゲーム内に用意されていなかった。
このルートに入ってしまうと、主人公がレオのハートを射止めなければ、この王国全体が破滅へと突き進む内乱ルートに移行するのだ。
時間はわずかだ。
どのルートにも合致しない形でシナリオを捻じ曲げなければならない。
彼女に残された猶予は長くて一週間。
恐らく主人公はルミナだ。
だがあの二人の可能性も残されている。
具体的にはルミナとの関係が上手くいかず、悩んだ末に主人公であるロザリンド、もしくはクラリッサへと愛の矛先を変えるイベントが始まるのだ。
セシリア自身が主人公である可能性は、過去を顧みれば無いと断言できる。
その前にあるはずの茶会での肉体的接触イベントが発生していないからだ。
その間にルミナを含む三人からレオを、物理的、かつ精神的に引き離し、彼の意識を自分へ向けさせる必要がある。
計画の実行には公爵令嬢としての権力と地位を最大限に利用することに躊躇はなかった。
誘引の第一歩は、公的な権限を用いた彼の配置転換だ。
感情的なアプローチはその後だ。
セシリアは目の前の世界が持つ冷徹なルールと、愛する人を救い出したいという強い私情を融合させ、緻密な戦略を練り上げた。
彼女の決意は固い。
この世界が作り出した理不尽な運命を、彼女自身の意思で書き換える。
セシリアの奪取計画は、まずルミナ・エリス令嬢という存在を正確に把握することから始まった。
他の二人も調査はするが、時間が残されていないため、本命のルミナが最優先だ。
ルミナ・エリスは子爵家の令嬢である。
彼女の長い金色の髪は美しく輝き、朝露のように煌めく大きなエメラルドのように癒しを感じる瞳が特徴である。
華奢な体躯は守護欲を掻き立て、貴族令嬢としては地味な装いだが、その親しみやすい雰囲気がむしろ王宮の男性たちの心を捉えていた。
ゲームにおいては、彼女は無垢と純粋さを体現する「正妻主人公」である。
レオは長年にわたりルミナの専属護衛を務めてきた。
その忠誠心と義務感が、愛情と混同しやすい形で強く結びついていることをセシリアは知っている。
ルミナ自身はレオを信頼できる騎士として扱っている。
しかし彼女の無意識の言動、つまりゲームのテキストでは、レオの忠誠心を利用する形での甘えが多く見受けられた。
レオがルミナへの愛を確信するイベントは、彼が騎士としての義務と男としての感情の狭間で苦悩し、最終的に「彼女を守るために命を捧げたいという感情こそが愛なのだ」と結論づける瞬間だ。
この結論に至る前に、レオの苦悩を別の角度から肯定する必要があった。
すなわち、「騎士としての忠誠心こそが、いかなる愛情よりも高潔な美徳である」と、彼に再認識させることが必要だ。
計画の第一段階として、セシリアは公爵家の権限を行使した。
彼女は、王太子アドリアン殿下の執拗なまでの自身への執着をも、この計画の重要な手段として組み込んだ。
殿下のこの執着は、シナリオに沿わない結末を迎えるために利用可能な、強大な権力となりうる。
翌日、セシリアは父である公爵に王宮への提言を依頼した。
提言の内容は「王太子殿下の公務多忙に伴う、王宮騎士団の護衛体制の再編と強化についての改善案」である。
表面的な理由は、王太子殿下の移動範囲と公務内容が拡大しているため、現在の護衛では手が回らないという至極真っ当なものだ。
提言の核心は、王宮騎士団の中から選抜された優秀な騎士数名を、「主要公爵令嬢の短期的な公的護衛」として派遣する枠を設けることだ。
名目は「王太子殿下との婚約者候補としての令嬢たちへの、王宮式典参加時における機密保持と安全確保の強化」である。
これは公爵家からの提案であるため王宮も無視できない内容であった。
父である公爵は娘のこの突発的な要求に驚いた。
しかしセシリアは、「殿下への忠誠心」という公爵家の理念に触れ、この提案が将来の王妃としての資質を示すための絶好の機会であると強く進言した。
公爵は娘の知的な判断力を信じ、この提言を王宮へ正式に提出した。
この策の狙いは、レオ・バルデスを「選抜された優秀な騎士」の一員として組み込み、ルミナの専属護衛という立場から一時的に引き剥がすことである。
提言は迅速に受理され、二日後には王宮騎士団からの公的な通知が公爵家にもたらされた。
通知には騎士団長の署名の下、選抜された騎士名が記されていた。
その筆頭には、当然のように「レオ・バルデス騎士」の名前がある。
辞したとは言え、騎士団長だったということは、イコール王国一の強者であることの揺るぎない証左である。
こうして王命が下された以上、貴族の一員として、レオは逆らうことはできないのだ。
彼はルミナ令嬢の護衛を補佐役に引き継ぎ、公爵令嬢セシリアの護衛として、公爵家に派遣されることが決定した。
三大公爵筆頭のアークライト家の令嬢である自身には、国一番の騎士が護衛に着くだろうという、まさにセシリアの計画通りにことは運んだ。
そして護衛開始となる初日の午後。
数日ぶりに公爵家に再訪したレオは、セシリアの私的な書斎に案内された。
彼はまだ、これが自身の運命を決定的に変える誘引であることを知らない。
レオは完璧な所作で敬礼を行い、硬い口調で職務の開始を報告した。
「セシリア様。本日より三週間、王命により公爵令嬢セシリア様の公的護衛を務めます。レオ・バルデスであります」
セシリアは微笑んだ。
その微笑みは、公爵令嬢としての優雅さを保ちながら、前世の記憶に裏打ちされた計算を含んでいた。
彼女は椅子から立ち上がり、レオの目の前まで歩み寄った。
彼女は、レオの瞳をまっすぐに見つめる。
レオは微かに動揺を覚えた。
彼の知るセシリアは常に冷静で、公爵令嬢としての距離感を保つ人物であった。
そんなセシリアが柔らかな、しかし断言的な口調で語りかけた。
「騎士レオ。先日の温室でのあなたの相談、覚えております」
彼の表情が僅かに強張った。
彼女はゆっくりと話しを続けた。
「あなたはルミナ令嬢への感情が、騎士の義務なのか、それとも私的な愛情なのか、区別がつかないと苦悩していた」
セシリアはそこで一拍置いた。
この瞬間、彼女はゲームの攻略情報に基づいた、最も破壊力のある言葉を投げかける。
「騎士レオ。あなたのその苦悩は、騎士としての高潔さの証明です」
高鳴る感情を押さえつけなから、レオから視線をそらさずにさらに言葉を続けるセシリア。
「いかなる女性への愛情も、騎士が持つべき絶対の忠誠心を曇らせる。ルミナ令嬢は、騎士としてのあなたを最も信頼している。彼女があなたに求めているのは、情愛ではなく、命をかけた守護という騎士の誓いです!」
セシリアの言葉は、レオの騎士としてのプライドに深く刺さった。
彼は騎士団の中でも忠誠心と義務感を何よりも重んじることで知られている。
彼の苦悩の本質は、愛情が騎士の誓いを汚すのではないかという恐れであった。
セシリアの言葉は、その恐れを明確な言葉で肯定したのだ。
レオはハッとしたように目を見開いた。
セシリアはさらに断言した。
「愛はあなたを弱くする。しかし忠誠心は、あなたをこの王国で最も強い騎士にする!そして今、あなたがなすべきことは、その迷いを振り払うことです」
セシリアは、レオの動揺を確信に変えさせるべく、追撃を加えた。
「騎士レオ。あなたは今、王命により私の護衛を務めている。そうですね?」
今までに感じたことのない圧を感じたレオは、喉をゴクリと鳴らしながらうなづくことしかできない。
「公的な職務の最中に、私的な感情に囚われることは騎士として最大の恥である。あなたに課せられた使命は、護衛対象の安全の確保、ただそれだけです!」
セシリアの言葉は、レオの思考を一瞬で支配した。
それを確認したレオは、静かに、しかし力強く答えた。
「御意にございます、セシリア様。私の忠誠心と義務に曇りはありません!」
彼はセシリアの言葉によって、ルミナへの感情を「騎士の義務の延長線にあるもの」と再定義するよう誘導されていた。
レオの騎士としての誇りこそが、彼の愛を一時的に抑制する強い鎖、呪いのような枷となったのだ。
セシリアは冷徹な論理で彼の思考を支配した。
彼女はレオに、今回の三週間の派遣期間中における厳格な任務遂行を命じた。
「この期間中、あなたの意識は完全に護衛対象へと向けられるべきです。分かりますね?」
これは、レオがルミナと接触し、愛を確信するイベントの発生を物理的に阻止するためである。
レオは騎士として、上官の命令、そしてこの任を与えた王命を無視することはできない。
彼は迷いを断ち切るように、深く頷いた。
「承知いたしました。三週間の任務中、私の意識は、すべてセシリア様に向けることを誓います!」
このレオの宣誓により、セシリアは目的の半分を達成した。
レオの身体と彼の思考の一部はルミナから切り離された。
レオが書斎を辞した後、セシリアは一人、庭園を見下ろした。
彼女の奪取計画は始まったばかりだ。
三週間という期間は、レオがルミナへの愛を忘れるには短すぎる。
しかしセシリアが自らの魅力を最大限に発揮し、前世の知識を使って彼の心を攻略するには十分な時間である。
彼女はゲームのイベントを知っている。
レオが抱く騎士の理想、過去のトラウマ、そして彼が真に求める女性の資質。
その全てを、公爵令嬢セシリアの行動と策略に反映させる。
彼女は、自身がこの世界の悪役令嬢としての運命から逃れるだけでなく、愛する人を破滅の連鎖から救い出すと決意した。
彼女の瞳に迷いはない。
この世界はもう彼女の遊び場ではない。
愛を掴み取るための、愛を掴み取り、運命を変えるための戦場である。
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