第6話 智樹の手紙
手紙なんて、もう何年も書いていない。
ペンを握ると、指先がすぐに痛くなる。
文字の形をどう作ればよかったか、思い出せない。
智樹は机の上に白い便箋を広げた。
封筒は用意していない。宛名もない。
ただ、どうしても書かないと眠れない夜だった。
机の上には、母の書き置きがある。
──「夕飯は冷蔵庫。レンジで温めて」
それだけ。
シールで留められたメモの文字は、丸くて小さい。
子どもの頃は、それを見るだけで安心した。
今は、胸の奥にぽっかりと穴が空く。
音のない部屋。
窓の外には、夜風も人の声もない。
まるで、世界が息を止めているみたいだった。
鏡の向こうに、また水面が揺れる。
夜の教室。
黒板の上に書かれた言葉は、もう見慣れたチョークの字だった。
「書けない言葉が、一番本当の気持ち」
未央が鉛筆を回している。
楓は静かにページを閉じた。
玲奈はスマホをポケットにしまっていた。
蓮は筆を置き、息を整えていた。
健吾は黙って窓の外を見ていた。
教壇の上に、ひとつの封筒が置かれていた。
宛名は、白い紙に黒いインクで。
“智樹へ”。
自分の名前。
智樹は息を呑んだ。
「……俺?」
狼の面の少女がうなずいた。
「受け取って。読むかどうかは、あなた次第」
封を切ると、便箋が一枚。
小さな字でびっしりと書かれている。
読み始める前に、胸の奥がじんわり熱くなった。
『あなたが笑っていた日、私は生きようと思えた。
でも、あなたが笑わなくなった日、私はその理由を考えた。
それが私の最後の宿題だった。』
字は丸く、少し癖がある。
見覚えがあった。
──灯。
教室の空気が変わった。
静けさが、やわらかく沈んでいく。
便箋の続き。
『あなたの言葉はいつも途中で止まる。
でも、それが好きだった。
途中で止まるから、次を想像できる。
だから、私はあなたの続きを見たかった。』
智樹の喉が詰まった。
声を出そうとすると、空気が震える。
泣くのとは違う。
何かが、胸の奥でやっと音を立てて動き出した。
狼の面の少女が、黒板にチョークで小さく書いた。
「書き終わらなかった手紙を、誰かが受け取る」
智樹は机の引き出しを開けた。
中には、白い便箋が一枚入っている。
昨日の夜、書けなかった手紙だ。
「……俺も、書くよ」
彼は便箋を取り出し、ペンを握った。
ペン先が震える。
紙の上に一文字ずつ置いていく。
『灯へ。
あのとき、ありがとうと言えなかった。
俺の冗談に笑ってくれて嬉しかった。
あれが、誰かに笑ってもらえた最後の記憶だ。
だから今度は、俺が笑う番だと思う。』
書き終えると、インクが涙で滲んだ。
未央が静かに隣に座り、ティッシュを差し出した。
「届くと思う?」
「分からない。でも、書けたから、それでいい」
智樹は手紙を折って、封筒に入れた。
宛名を書こうとペンを取ったが、止まった。
宛先は、もう要らない気がした。
黒板に新しい言葉が浮かんだ。
「宛名のない手紙は、世界のどこかで届く」
教室の空気が、少し明るくなった。
窓の外で、初めて風が動いた。
その風が、黒板の粉を運び、白い煙のように舞った。
智樹は封筒を掲げた。
風がそれを受け取り、教室の外へと運ぶ。
封筒は光に溶け、消えた。
「……ありがとう」
声が自然に出た。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
涙がこぼれても、笑っていられた。
朝。
目を覚ますと、机の上に便箋が一枚あった。
昨夜書いた手紙は消えている。
代わりに、そこに見知らぬ字で一行。
──「読んだよ。続きを楽しみにしてる。」
智樹は笑った。
声を出して笑うのは、久しぶりだった。
夜。
再び教室に戻ると、仲間たちが待っていた。
黒板には、誰が書いたのか分からない一文。
「言葉は、誰かを生かす」
未央が言う。
「きっと、灯も聞いてるよ」
狼の面の少女は、静かにうなずいた。
そして言った。
「あなたたちの“書かなかった言葉”が、私をここに留めていた。
でももう、少しずつ消えていく。
次の夜が、最後になる」
教室の中に、沈黙が落ちた。
それは恐怖ではなく、約束の沈黙。
智樹はゆっくりと立ち上がった。
「最後の夜、ちゃんと“言う”よ」
狼の面の少女の頬の下で、光が一筋だけこぼれた。




