第5話 蓮と妹の夜
朝になるたびに、夢が剥がれていく。
そのはがれ方が、最近は怖い。
蓮は壁際の机に置いたスケッチブックを開いた。ページの端が少し波打っている。昨日、うっかりコップの水をこぼした。絵は流れていないのに、輪郭の内側に小さな滲みができている。
青い花。白い輪郭。
妹が好きだったモルフォ蝶を描いた。
妹の葬式のあと、家は色を失った。壁紙の白さがやけに目立つようになり、テレビの音が冷たくなった。父は仕事に逃げ、母は言葉を失い、蓮だけが家の中で“生き残ってしまった”ような違和感を抱えていた。
──絵だけが、残ってくれる。
そう信じて描いた。
けれど、描いた絵を見せる相手がもういないことに気づいた瞬間、筆が止まった。
その夜、また鏡の奥が揺れた。
夜の教室。
窓の外は、いつものように風がない。
黒板には、白い粉で書かれた言葉がひとつ。
「失くしたものは、形を変えて残る」
未央が静かにスケッチブックをめくっている。
楓は本の角を指でなぞっていた。
玲奈は机の上にスマホを伏せ、画面を見ない。
健吾はボールを手のひらで転がしている。
智樹は黙ったまま、机の端を指で叩いてリズムを刻んでいた。
狼の面の少女が、ゆっくりと歩いてくる。
彼女の手には、古びた筆と、汚れたキャンバス。
「これは、誰かが残した“途中の絵”」
少女が教壇に置くと、キャンバスの中央には薄く灰色の影が描かれていた。
人のようで、蝶のようで、まだ何にもなっていない。
蓮の喉がひとりでに鳴った。
「……それ、俺の絵だ」
少女は面の奥でうなずいた。
「あなたが描いて、途中でやめた絵」
「捨てたはずだ。燃やした」
「燃えなかった。あなたが“残してしまった”から」
その言葉に、蓮の胸が痛んだ。
燃やした日の匂いが、今も鼻の奥に残っている。絵の具が焦げた甘い匂い。あの時、妹の声が聞こえた気がした。
『にいちゃん、まだ描いて』
幻聴だとわかっている。
でも、あの声を聞いた瞬間、火を止めた。
だから絵は途中で残った。
狼の面の少女はチョークを取って、黒板に新しい言葉を書いた。
「消せなかった痛みは、まだ形になろうとしている」
「蓮」
未央が名前を呼ぶ。
「描いてみよう。もう一度」
蓮は頷いた。
机の上にキャンバスを置き、筆を握る。
絵の具はない。けれど、指先を動かすと、空気の上に淡い光が滲んだ。
それは、妹が好きだったモルフォ蝶の羽の色。
青とも銀ともつかない、夜の光。
描きながら、声が聞こえた。
風のない夜の中で、小さく澄んだ声。
『もう泣かないで』
蓮の手が止まる。
「……灯?」
少女は首を振った。
「違う。でも、同じ“記憶の声”」
教室の空気がゆっくり揺れた。
蓮の描く蝶の輪郭の中に、小さな人影が現れた。
髪を束ね、笑っている少女。
妹の笑顔。
楓が息を呑んだ。玲奈が手を胸に当てる。
蓮の頬を涙が伝った。
「なあ……ごめんな」
言葉が絵の中に落ちる。
その瞬間、蝶が羽ばたいた。
光の粉を撒き散らしながら、絵の中から抜け出し、天井へと舞い上がる。
誰も声を出せなかった。
ただ、その羽音だけが、教室の静寂を破った。
蝶は黒板の上に止まり、そこに小さなチョークの文字を残した。
「にいちゃん、もう大丈夫」
光が消え、蝶も文字もゆっくり溶けていった。
朝。
蓮は目を覚ました。
部屋の隅に置いたキャンバスの上。
昨夜描いたはずの“途中の絵”が、完全に仕上がっていた。
モルフォ蝶が羽を広げ、背景には“白い手”がそっと支えている。
絵の端に、小さく文字が書かれていた。
──「ありがとう」
それは、妹の字だった。
蓮は笑った。
涙が止まらないまま、笑った。
それでも、心は軽かった。
絵が、残ってくれた。
夜。
鏡の向こうの教室。
黒板には、いつのまにか新しい文字が浮かんでいた。
「残るのは絵だけじゃない。描く人の“生き方”も残る」
未央が微笑み、楓が本を閉じ、玲奈がスマホを両手で包む。
智樹がリズムを止め、健吾がボールを置く。
蓮は言った。
「ありがとう。……俺、描きたい。もう一回」
狼の面の少女が面を少し傾けた。
「描けるよ。君は、まだ夜を抜けていない」
彼は頷き、机に座った。
筆を握る手に、もう震えはなかった。
黒板に、最後の一文が浮かぶ。
「失くした人は、描くことで“もう一度”生きる」
その瞬間、窓の外に風が吹いた。
初めて、夜の教室に“風”が通り抜けた。
それは、再生の音だった。




