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『光の抜け道で、君に会う』 ──世界のどこかに、私たちの放課後が残っている。  作者: 妙原奇天


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第3話 図書館の幽霊(楓)

 図書室の朝は、紙の匂いでできている。

 登校時間より少し早く来ると、空調が動き出す前の静けさが棚にたまっているのが分かる。私の靴音は薄く、床のワックスはまだ冷たい。カウンターの中に入り、貸出ノートの角を指でそろえる。宛先不明の栞が三枚、忘れ物ボックスから出てきた。鳥の羽が押し花になったもの。誰かの手書きの英単語。チケットの半券。


 棚を回る。913の前で立ち止まって、列をひとつ抜き出す。並び順が崩れていないか、指先で背表紙を撫でていく。指に紙の埃が少しつく。私はそれを拭わずに、背表紙の黒の上で白い粉の跡を見た。痕跡が、誰かがここを通った証拠だと分かるからだ。


 『夏の残響』という薄い文庫が、ひとつだけ列から浮いていた。背のラベルは貼り直した跡があり、透明テープに小さな気泡が閉じ込められている。ページを開くと、貸出カードのポケットが破れていた。透明なビニールポケットの中に、二枚目のカードが重ねて入っている。どちらも日付が薄く、名前の欄はかすれている。最後のサインのところだけ、鉛筆の圧で紙の裏に跡が残っていて、そこには見覚えのある丸い字が揺れていた。


 灯。


 私は息を止めた。胸の奥で小さな輪が広がって、喉の壁にぶつかる。指先の白い粉が、今度は汗で溶けた。貸出カードは、学校が新しいシステムに変わってからほとんど使われない。けれど、ここには彼女の筆圧が残っていた。名前の最後の点が、強すぎて紙を少し貫いている。そこだけ指の腹で触ると、刺のように痛んだ。


 カウンターに戻って、欠号のリストを開いた。『夏の残響』は所蔵のままだ。紛失ではない。つまり、今あるこれがすべてだ。私はページをぱらぱらとめくった。どこにも書き込みはない。栞もない。けれど、紙の縁が一枚だけ濃い。めくると、真ん中あたりのページがほんのわずかに盛り上がっている。糊の浮き。誰かが何かを貼って、剥がした跡。そこには何も残っていないのに、無かったことにするには厚みがありすぎた。


 閉館時間に、先生が来てカギを閉めるとき、私は「少し残ってもいいですか」と言った。先生は眉を上げたけど、すぐ頷いて「十五分だけね」と笑った。時計の針が扉の向こう側で鳴っている。私はカウンターの椅子に座って、静まりかえった図書室に背中を預けた。紙の海の上には灯りが落ち、窓ガラスは夕焼けを過ぎて、夜の色に近づいていく。ガラスは鏡に変わり、鏡は水面になり、私は立ち上がって、それを確かめるみたいに近づいた。


 ガラスが一度だけ、深呼吸のように膨らみ、しぼむ。私の指先は、躊躇を追い越した。冷たさはすぐに消えて、夜の空気が頬に触れた。


     ◇


 夜の教室。止まった秒針。黒板に白い文字。

 未央が席に座り、鉛筆を握っていた。玲奈はスマホを伏せて、その背面に親指の爪で小さく線を刻んでいる。蓮は窓を開けないまま、外の闇に耳を澄ませていた。智樹は椅子の背に顎をのせ、小さな音で歌のサビだけを繰り返している。健吾はボールを膝に抱え、拭いても取れない土を、拭き続けていた。


 教壇に、狼の面の少女が立っている。

 面は相変わらず口元が少し曇っている。そこに吐かれる息が、白いのかどうか、夜の中では分からない。


「今日は、持ってきたものがある」


 少女はそう言って、教壇の上に一冊の本を置いた。

 見覚えがある。『夏の残響』。

 図書室のあの本。けれど、背表紙のラベルは剥がれている。ラベルが無いのに、ここにあると分かるのは、本の角の擦れた角度や、表紙の紙の質感が、私の手の中のそれと一致しているからだ。


「楓」と未央が私を見る。

「図書委員なんでしょ?」


「うん」


 返事は薄く、喉にひっかかった。

 狼の面の少女は本をひらいた。最初の数ページは白い。活字が抜け落ちたみたいに、紙だけが並んでいる。ページをめくる音がやけに大きい。紙が紙を擦る音が、教室の空気に線を引く。


「書かれてないんじゃない」と玲奈が言う。「消されてる」


「消されるってことは、誰かが書いたあと、誰かが消したってこと」と智樹。


 私はカウンターの椅子の感触を思い出す。糊の浮き。剥がされた跡。今、目の前の本にも同じ微かな厚みが見える。楔のように残る痕。私は指を伸ばし、ページの端に触れた。紙は冷たくない。夜の温度で、呼吸の温度で、かすかに温かい。


 ページの真ん中に、点が現れた。鉛筆で軽く刺したような、小さな点。その点は、誰かの意志に従って、少しずつ線になっていく。右上に向かい、くるりと戻って、ひらがなの「あ」になった。誰も筆記具を持っていない。誰の手も動いていないのに、文字だけが生まれていく。あ、り、が、と、う。


 ありがとう。


 黒板の隅で、白い粉がさらっと落ちた。

 健吾が息を呑む音がした。未央が膝の上で鉛筆を強く握った。

 狼の面の少女は黙って、ページを押さえている。彼女の爪の先は短く、紙に食い込まない。


 文字は続く。

 ありがとう。みてくれて。つぎは、わたしのばん。

 そこで筆跡は止まり、一拍置いて、今度は別の筆圧が乗った。

 すごい、とか、よかった、とか、そういう言葉じゃ足りないことって、あるよね。

 ──それは、未央の字によく似ていた。

 私には分かる。彼女が黒板の言葉を無意識になぞるときの、線の揺れに似ていた。


 蓮が低く言う。「誰の本?」


「図書室の」と私は答える。「でも、ここにあるのは、図書室の“形”じゃない」


「記憶のほうだね」と少女が言った。「書かれたのに、消された記憶。消したのは誰だと思う?」


 誰だろう。教師か、管理の誰かか、本人か。

 私は喉の奥で言葉を探す。

 消す、という行為は、暴力ではないことがある。守るための消去。守りそこねたことを、なかったことにするための消去。けれど、そのどちらにもならなかった場合、ただの空白が残る。空白は、最初から無であるよりも、少し重い。


「私」と言いかけて、やめた。

 私には、消したい文章がいくつもある。書いたあとに、読み返して、やっぱり違う、と思って消す。残るのは跡だ。鉛筆の灰色のかすれ。紙の毛羽立ち。消しゴムのカス。私は跡を見てしまう。消せないものを、見てしまう。


 ページの下に、薄く、日付が現れた。六月十一日。放課後。

 文字がまた浮かぶ。

 ──『楓へ。あなたが静かにページをめくるのを、私は見ている。声を出さないときのあなたが、一番よく喋る。』

 そこまで書いて、ふっと字が溶けた。

 私は息を吐くのを忘れていた。胸の骨の間が痛む。楓という名前を、誰かにこうやって書かれたのは、いつぶりだろう。


「灯?」と未央が呟く。

 狼の面の少女は、うなずきもしないし、否定もしなかった。代わりに、黒板に指を向けた。黒板にも、新しい文字が現れている。


書かれなかったことは、なかったことじゃない


「図書室で」と私は言った。「貸出カードのポケットに、二枚目のカードがあった。剥がされた跡も。たぶん、そこに……彼女の名前が、あった」


「どうして剥がしたんだろ」と智樹。

「残すのが怖いから」と玲奈。

「残しても、誰も見ないから」と健吾。


 私は首を振った。

「見てる。誰かは、見てる。見ている私は、ここにいる」


 気づけば、立っていた。

 カウンターの向こうで体重を支える癖が、ここでも出る。膝の裏が固くなる。けれど、足は震えない。

 狼の面の少女が、本を私に差し出した。

「読んでみて」


 私は本を受け取る。

 活字のないページに、声を出して読む。

 声を出すと、文が現れていく。

 ──『七月。雨。傘を忘れた日、あなたは本で頭を隠して走った。ページが濡れた。私はその跡が好きで、乾かすときの紙の波打ちも好きだった。』

 文字は私の声につれて増え、私の沈黙で止まる。

 声で書く。読むことで、記録する。

 私は、いつのまにか泣いていた。目尻の水が、ページに落ちる。落ちたところが濃くなり、文字とにじむ。にじんだ文字は、消えない。濃くなった涙の跡が、行間の影を深くする。


「読めば、書けるのか」と蓮。

「見ることは、書くことだから」と少女。

「じゃあ」と未央が、私の肩のそばで囁いた。「もう少し、読もう」


 私はうなずき、声を整える。

 ──『八月。図書室の冷房が強くて、指が冷たくなった。あなたはポケットに手を入れて、本に触れないようにしながら、ページをめくる前に息をふいた。紙はあたたかくなって、それからまた冷たくなった。』

 そこまで読むと、ページが自然に閉じた。

 黒板の下に、誰かの影が伸びていた。七つ。

 影はお互いに重なって、ひとつになっては離れ、また重なる。

 狼の面の少女が、面を指で押さえた。

「今日は、ここまで」


「まだ途中だよ」と玲奈。

「途中で終わるのが、今日の形」


 少女の声はやわらかいが、余白を残すことに慣れている人の、決め方だった。

 私は本を閉じたまま抱えた。本は軽く、内側に水のような重さがある。

 教室の壁の時計は止まっているのに、外がほんのわずか明るくなった気がした。

 黒板の片隅に、新しい一行が浮かぶ。


つづきは、夜のつづきに


     ◇


 朝。

 図書室のカギを開けると、空気は少しだけ甘かった。紙が夜の湿度を呼吸していた匂い。カウンターに回る。あの『夏の残響』は、所定の棚に戻っていた。背表紙のラベルはやはり貼り直しの跡のまま。ページを開く。活字は元に戻っている。けれど、真ん中あたりのページがふっくらしているのは、そのまま。糊の浮き。剥がした跡。そこに今、薄い薄い鉛筆の影が一行だけ残っていた。

 ──『声にしないと喋れないことがある』

 字は、私の字だった。声で書いたはずのものが、紙の上に残っている。私は指先でなぞり、消さなかった。

 貸出カードのポケットには、新しいカードが一枚、そっと差し込まれていた。印字された列の一番下に、鉛筆で名前を書く欄がある。私は息を吸い、そこに小さく、楓と書いた。名前を紙に預けるのが、こんなに怖いとは思わなかった。けれど、名前を書いた紙は、私の指の熱でほんの少し柔らかくなる。柔らかさは、壊れやすさではない。曲がることで、折れにくくなる。


「おはよう」と先生が入ってきた。「早いね」

「おはようございます」

 声が少し変わった気がする。自分の声が、少しだけ届きやすくなっている。

 窓の外で、雲の陰が校庭をゆっくり横切った。砂の色が濃くなって、薄く戻る。私の胸の奥でも、何かが濃くなって薄く戻る。


     ◇


 夜。

 また鏡は呼吸した。

 私は教室に入ると、真っ先に黒板を見た。そこに、白い粉で囲んだ小さな四角が描かれている。中は空白。その下に、細い字。


ここは、あなたが書いていい余白です


 私はチョークを取った。

 書くとき、手が震える。それでも、文字は残る。

 私が書いたのは、たった五文字だった。

 ──ただいま。

 書き終えると、黒板の白が少し輝いた。

 未央が微笑み、玲奈が親指を立て、蓮が一瞬だけ口元を緩め、智樹がサビの続きを小さく付け足す。健吾はボールを抱いたまま、何度もうなずいた。

 狼の面の少女は、面の奥で目を細めた気がした。

「おかえり」


 その声は、空白を埋める声ではなかった。

 空白が空白のまま在ることを認めてくれる声だった。

 私はその声に、やっとうなずけた。


 教壇の本は閉じられ、代わりに机の上にスマホがひとつ置かれた。

 背面には、爪で刻まれた小さな線。

 玲奈が、ため息をひとつついて、それを両手で包み込んだ。

「次、私だよね」

 彼女の声は、少しだけ笑っていた。

 私は席に戻り、本の代わりに、彼女の画面がこれから映すだろう言葉の重さを想像した。

 空白は恐れではない。余白は逃げではない。そこに書かれるものを待つ静けさ。

 黒板の片隅にまた、白い粉がさら、と落ちた。


見ていることは、書くことのはじまり


 私はうなずいた。

 見ている。

 あなたを。私を。ここにいる、みんなを。

 夜は動かない。時計は止まっている。けれど、私たちの時間は、たしかに進んでいた。

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