第2話 消えたサッカー部
昼休みの校庭の隅には、いつもボールの音がある。蹴る音、弾む音、笑う声。
そのどれも、もう二度と自分のものじゃない。
健吾は、体育館裏の古いベンチに座っていた。ユニフォームの袖の白いラインは薄汚れ、青は少し褪せている。三年間、洗って、擦り切れて、それでも捨てられないまま残った。膝に載せていると、あの頃の熱と匂いが、わずかに蘇る気がした。
けれど、ボールを蹴る音が近づくたびに、喉の奥がざらついた。耳を塞いでも、身体の奥で鳴っている。
誰かが笑っている。その笑い声の端に、自分の名が混じる気がする。冗談の延長。笑いの標的。笑いの中心。境界線がいつの間にか入れ替わっていたのに、気づくのが遅かった。
あのとき、止められなかった。
いじめという言葉を、当時は誰も使わなかった。チームの“悪ノリ”だった。けれど今思えば、それは、ひとりの子を壊すための遊びだった。
その子は、無口だった。練習でも声を出さない。笑わない。
ボールを受け損ねて転んだとき、誰かが靴で土を蹴り上げた。
「見てろよ、これがサッカー部だ」
誰が最初に言ったのか、もう思い出せない。自分も笑った。笑うことで、加担した。
それが“灯”だったことに気づいたのは、ずっと後だった。
彼女がマネージャーを辞めた日、誰も止めなかった。顧問も、仲間も。
その日を境に、チームは練習試合をすべてキャンセルした。理由は「体調不良」だった。
そして、一年後。灯が亡くなったという知らせを聞いたとき、健吾は何も言えなかった。
何も言えないというのは、罪の形だ。
その夜、健吾は夢の中でボールの音を聞いた。けれど、誰も蹴っていない。風もない夜。ボールだけが、ゆっくりと転がっている。
気づけば、またあの教室だった。
時計は止まったまま、窓の外は夜。
未央が机にスケッチブックを広げて、何かを描いている。蓮は窓際で空を見ていた。玲奈はスマホを伏せて指でなぞるように触っていた。楓は本を抱えたまま、黒板の前で立ち止まっていた。
狼の面の少女――灯の姿をした“誰か”が、教壇の上に立っていた。
彼女の手の中に、ボールがあった。土で汚れて、皮が剥けかけている。
健吾は、その音に、心臓が跳ねた。
「どうして、それを」
声が掠れた。
少女は首を傾けた。
「落ちてたの。誰かが置いていったみたい」
「……俺のだ」
「そう。じゃあ、返すね」
彼女はゆっくりとボールを床に落とした。ボールは小さく弾んで、健吾の足元で止まった。空気が抜けかけているのか、弾み方が鈍い。拾い上げた手のひらに、冷たさと重さが同時に染みる。
未央が顔を上げた。「サッカー部、だったの?」
健吾はうなずいた。
「部長、だった。……いや、名前だけの」
「名前だけ?」
「守らなきゃいけない奴を、守れなかった」
教室の空気がわずかに揺れた。玲奈がスマホを握りしめ、画面を見ずに呟いた。
「私も。誰かを“助けられなかった”って、ずっと思ってる」
楓がページを開く。文字がまた、勝手に浮かび上がっていく。
──『見てるだけの人も、きっと痛い。』
健吾は喉の奥で笑った。
「痛い、って感覚も、ずっと鈍ってた。後悔しすぎて、痛み方が分かんなくなるんだな」
「じゃあ、もう一度、感じてみれば?」と狼の面の少女が言った。
声は優しかったが、刃のように冷たくもあった。
「感じるって、どうやって?」
「思い出すこと」
少女が指を鳴らした。教室の景色が一瞬で変わる。
床が土の匂いに変わり、白線が浮かぶ。風のない夜のグラウンド。
彼ら七人は、古いスタンドの下に立っていた。
ボールがひとつ、中央に転がっている。照明もないのに、薄く光を帯びていた。
「これ……」
「練習試合の夜だよ」
少女が囁く。
「誰もいなくなったグラウンド。灯が最後にボールを置いた場所」
健吾は息を呑んだ。あの夜。彼女が辞める前日。部員たちは集まらず、ただ空のグラウンドを見ていた。灯は一人で、誰もいないフィールドの真ん中に立っていた。彼女がボールを置き、軽く蹴った。その音だけが闇に残った。
「俺、見てたんだ」
健吾は呟いた。
「遠くから。止めようと思って、止まれなかった」
膝が勝手に震えた。呼吸が浅くなる。
「なあ……なんで、俺なんだよ。どうして、呼んだんだよ」
声が震える。
少女は答えなかった。ただ、面の奥で微かに笑ったように見えた。
「もう、見てるだけじゃなくていい」
彼女の言葉と同時に、風が吹いた。ボールが転がる。健吾は思わず駆け出した。足が、動いた。
土の感触が靴底から伝わる。ボールに足を伸ばし、蹴り上げた。
乾いた音が夜を切った。
空気が動く。心臓が戻る。
涙が勝手にこぼれた。
「見てるだけじゃ、届かない。けど、今なら」
息が詰まり、視界が滲む。
ボールはゆっくり空中を回転しながら、消えていった。
代わりに、黒板が浮かび上がる。そこに、白い文字。
怖くても、見ていてくれたなら、うれしい
それを見た瞬間、足の力が抜けた。膝が土につく。
土は柔らかく、温かかった。
未央が駆け寄り、手を差し出した。
「立てる?」
健吾は首を横に振った。
「立たなくていいや。今だけは」
彼女は何も言わずに隣に座った。
二人の影が土の上で重なった。
朝になった。
目を開けると、自分の部屋の天井があった。制服のまま眠っていた。
枕元に、泥のついたボールが転がっている。夢ではない、と直感した。
手で触れると、かすかに温もりが残っていた。
健吾は立ち上がり、カーテンを開けた。
朝の光が、まっすぐ部屋に差し込んでくる。
心臓の奥が、昨日よりも少しだけ軽かった。
その軽さが、まだ痛みの中にあることを確かに感じながら、彼はボールを胸に抱いた。
夜。
鏡に手を伸ばす。
水面のような揺らぎの向こうに、あの教室が見える。
黒板の文字は変わっていた。
まだ、話していないことがあるでしょう
健吾は微笑んだ。
「分かってるよ。次は、誰の番だ?」
鏡の奥で、狼の面の少女が静かに頷いた。
その頷きは、赦しではなく、問いの形をしていた。




