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『光の抜け道で、君に会う』 ──世界のどこかに、私たちの放課後が残っている。  作者: 妙原奇天


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第1話 夜の教室

 家の窓ガラスは、冬が終わりきらない夜の匂いを抱え込んでいた。マンションの外廊下を走る誰かの足音が一つ、二つ、遠ざかって、静かになった。私はデスクライトだけをつけて、スケッチブックをひらく。ひらいたはずなのに、鉛筆は最初の線を地面に降ろせない。紙の白さがまぶしすぎる。机の端に置きっぱなしの、美術部の名札は裏返ったまま、表の自分と裏の自分の境界みたいに転がっていた。

 明日、行ける気がしなかった。学校に。保健室登校さえ、最近は胸の奥で何かが抵抗している。理由はひとつではない。目に見えるものと言いにくいものが混ざって、透明な重りみたいに、私の足首にまとわりつく。メッセージアプリのアイコンには、既読にも未読にもできない通知が並んでいる。触れば波立つ。放っておけば底に沈む。ただそれだけのことなのに、手を伸ばすのが怖い。

 鉛筆を置いて、ため息で机のほこりが少し跳ねた。立ち上がって、部屋の鏡の前に立つ。鏡は全身が映る大きいやつで、引っ越し祝いに母が奮発して買ってくれた。そこに映っている私は、制服ではなくジャージ上下で、髪をひとつに結んでいる。頬に触れると冷たかった。ここにいる自分が、ほんとうに自分なのか確かめたくて、私は鏡に近づいた。

 鏡の表面が、一瞬だけ水面みたいに揺れた。え、と声にならない息が漏れた。手のひらをそっと押し当てる。冷たい固さがあるはずの場所に、わずかな沈みがあって、指先が吸い込まれる感覚がした。逃げたほうがいいという考えより先に、そこだけが温かいと思ってしまった。喉がからからで、名前を呼べば助けてくれる誰かがいるわけでもない。ただ、少しだけ手首を押し込んだ。くっと引かれる力に、身体が前のめりになる。

 踏み出した足が床を見失った。視界が暗くなって、耳の奥で薄い鐘の音みたいなものが鳴った。落ちる、と思ったのに痛みはなかった。代わりに、鼻に覚えのある匂いが刺さる。ワックスと古い紙と、夜の空気の混ざった匂い。目を開けた。

 私は、教室に立っていた。

 黒板。掲示物の剥がれかけた掲示板。窓の外は夜で、グラウンドの向こうの体育館の非常灯が薄く点っている。空気は冷たいけれど、頬に当たる風は動かない。時計は九時四分のまま、秒針だけが静止している。誰かの笑い声も、廊下を走る音も、どこにもなかった。

 だけど、ひとりではなかった。

 後ろのドアのほうから、松脂のようなきしむ音がして、私は振り向いた。そこに、見たことのない六人がいた。制服の人もいれば、パーカーの人もいる。年はたぶん、同じくらい。みんな同じものに驚くときの顔をしていたが、目の奥だけは、それぞれ別の海を映しているみたいだった。

 彼らの前に、一人の少女が立っていた。白いワンピースに、狼の面。お祭りの露店で売っているような紙の面じゃない。もっと古くて、木でできているような硬い質感。口元の裂け目から、彼女の息が少し漏れて、面の内側で曇っては消えた。

 少女は、黒板と私たちのほうを交互に見た。それから、面の奥で笑ったような気配がした。声は思っていたより幼くも、思っていたより大人でもなかった。

「夜間教室へようこそ」

 誰も返事をしなかった。床の上の蛍光灯の反射が、私の靴の先で震えた。胸は音が鳴りそうなくらい速かったけれど、不思議と逃げだしたいとは思わなかった。ここは危険で、同時に安全だ、と直感した。安全という言葉の意味が、いつのまにか私の中で変わっていたのかもしれない。誰も知らない場所。誰も私を呼び出さない場所。そんな場所は、今の私にとって、たしかに救いだった。

 黒板に白い光の線が走った。チョークで書いたわけでもないのに、文字が浮かび上がる。ゆっくり、ゆっくり、誰かが確かめながら書いているみたいな速度で、その言葉は形になった。

 もう一度、話せたら

 声が出なくなる、というのはこういうときだと思った。私はその言葉を読む前から、その言葉を知っていた気がした。頭のどこかにずっと貼りついていた紙を、今初めて正面から見せられたみたいに。

「ここは、あなたたちが夜のあいだだけ来られる場所です」

 狼の面の少女が言った。

「昼には、あなたたちの現実に戻っているはず。ここで過ごしても、時間はずれません。夢だと思ってもいいし、夢じゃないと思ってもいい」

 前の列の席に座っていた男の子が、咳払いをした。癖のありそうな髪をかきあげ、困って笑う。

「えっと、俺、健吾。これ、さ……たとえば誰かのドッキリとかじゃなくて?」

「そう思うなら、それでもいい」

 少女は肩をすくめた。動きのひとつひとつが水の中みたいになめらかで、なのに確かに床に影を落としている。

「ただ、ここにいるあいだ、ひとつだけ約束してほしい」

 少女は黒板の言葉を指さした。

「忘れたはずのことを、忘れたままにしないこと」

 教室の窓の外には夜が貼りついていた。星は見えない。風も吹かない。世界は止まっているのに、胸の奥だけがとくん、と脈を打つ。

 私たちはとりあえず、名前を言い合った。一人は玲奈。スマホを握ったまま、電源を確かめてため息をつく。楓は本を胸に抱きしめていて、視線が泳ぐときだけ唇の端がわずかに動く。蓮は黙って窓の外を見ていて、問いかけるように夜の色を確認していた。智樹は机の端に指でリズムを刻んでいた。健吾は、さっきの明るさの続きで笑おうとしたけれど、途中でやめた。私の番が来たとき、喉が詰まって名前が出てこないかと思った。未央、と言って、語尾が震えた。震えたことに、少しだけ安堵した。私はまだ、震えるだけの余白を持っている。

 狼の面の少女は、自分の名前を言わなかった。代わりに黒板の端に白い線で輪を描いて、そこに小さな三角形を七つ、花びらのように付け足した。

「ここでは、何か一つずつ置いていってください。言葉でも、絵でも、音でも。ここでだけ、あなたがあなたでいていいもの」

 玲奈が、ことり、とスマホを机に置いた。画面には通知がいくつも来ているが、彼女は見なかった。「とりあえず、置いてみる」と彼女が言うと、楓はかすかに頷いて本をひらいた。そこには文字がない。白紙のページ。彼女は白紙を見ているのではなく、そこに隠れているものの気配を読もうとするみたいに、紙の縁を指で辿った。

 私は、何を置けばいいのか分からなかった。鞄からスケッチブックを出す。真新しい表紙。描いていない線は、罪みたいに重い。鉛筆を握る。握るだけで汗ばむ。私は前に座っている子の背筋を見た。細い。肩がきゅっと上がっていて、疲れている人の肩の形をしている。描こうと思えば描ける。けれど、描いたものは、彼らのどれでもなく、私自身の影に見えてしまう気がした。

 蓮が不意に立ち上がって、窓のそばに寄った。「風、ないね」と誰にともなく言った。窓の鍵に手をかけても、外れない。開けないほうがいい、と狼の面の少女が静かに言った。「ここでの約束を守れるなら、朝には自然と帰れるから」

 自然と、という言葉に、私はかすかな不安を覚えた。自然って何だろう。私の世界で起きることのほとんどは、誰かの都合で決まっていく。自然に見える強制。強制に見えない自然。どちらも似ている。

 黒板の文字が、また一行増えていた。最初の言葉の下に、少し幼い字で。

 見てくれているだけで、助かるときがある

 誰が書いたのかは分からない。狼の面の少女が書いたのかもしれないし、教室そのものが記憶を吐き出したのかもしれない。私はその言葉を、指の腹でなぞる仕草を頭の中で想像した。チョークの粉が指につく。白い粉を拭うと、制服の紺に雪が降ったみたいに見える。

 健吾が、目を伏せて笑ってみせた。「なあ、これ、もしかして俺が一番苦手なやつかも」

「どれが?」

「見てる、ってやつ。俺、ずっと見ないでやってきた気がするから」

 彼の言い方は軽いのに、机の影が小さく揺れた。私は息を吸って吐いた。吐くのがうまくいくと、少しだけ身体が戻ってくる。

「未央は?」と智樹が、机を指で叩くのをやめて、私を見た。私、と反射的に繰り返してから、どうしようもなく昔のことを思い出していた。

 中学の美術室。窓際の席。黄ばんだカーテンがひらひらして、粉っぽい匂い。私の描く線はいつも薄くて、先生はもっと強く描こう、と言う。強く描くと違う人の線になるのが嫌で、私は弱く描くことをやめられなかった。そんなとき、背後から不意に声がして、わっと心臓が跳ねた。

 その子は、出来上がった私の静物画を覗き込んで、「この色、すき」と言った。瓶の影に、ほんの少しだけ青を差した。私以外、たぶん気づかないくらいの青。あの子は気づいた。何でもないように見えて、私にとっては世界がひっくり返るような瞬間だった。

 名前は、灯。

 私は口を開きかけて、閉じた。名前を出した途端、教室の空気が音を立てて変わる気がして、怖くなった。代わりに、私はスケッチブックをひらいた。白紙の真ん中に、迷いながら線を一本置く。線は震えて、でも消えなかった。消しゴムに手がいかなかったことに、ほっとする。もう一本。もう一本。線と線が触れて、形になっていく。瓶の輪郭。机の角。窓の枠。夜の黒。

 私は、夜の黒を塗らなかった。塗るときっと、ここが閉じてしまうと思ったから。塗らない黒は、白の余韻でできている。余韻なら、まだ息ができる。

 玲奈が私の手元を覗き込んで、小さく笑った。「いいな、それ。未央の線、やさしい」

「やさしい、って、弱いってことかもしれない」

「違うと思う。弱い線は、消える線。未央のは、残る」

 言葉を受け取るのが下手になっていた。褒められると、どこかが痛い。昔はうれしいだけだったのに。うれしいだけでは済まない日々を通って、私は今ここにいる。

 楓が、白紙だったはずの本をひらき直した。「ねえ」と彼女が言う。ページの隅に、鉛筆の薄い文字が浮かんでいる。うっすらと、消し跡みたいに。そこには、短い文章がいくつも、点のように散っていた。読むと、それぞれ別の人の現在の断片のように思えた。朝起きられないこと。食卓の沈黙。走る音。逃げる音。笑顔の写真に写っていない手の震え。

「これ、誰かが書いた?」

「書かれた、が近いかも」

 狼の面の少女が言った。

「ここは、あなたたちの言えなかった言葉のたまり場だから」

 蓮がページを指でなぞった。彼の指先は細くて、傷痕が一本、薄く走っている。彼は自分の指を見つめるみたいにして、ページの端を抑えた。

「だったらなおさら、朝になったら消えちゃうのかな」

「消えないよ」と少女は答えた。

「消えないように、あなたたちがここにいる」

 それは矛盾しているようで、矛盾していなかった。誰かが見てくれれば残る。見てくれる誰かを、私たちは夜のあいだに少しずつ取り戻す。取り戻す、という言葉を考えながら、私はスケッチブックの角に小さく名前を書いた。未央。自分の名前を自分で書くのは、ひどく勇気がいる。けれど、書いた直後に心臓が少し楽になった。名前が、私の輪郭を仄かに縫い止める。

 教室の壁に掛け時計の影が四角く落ちている。秒針は動かないまま、時間だけが私たちの中で前に進む。黒板の言葉は、時々、誰も見ていない瞬間に増えている。誰も見ていないからこそ、増えているのかもしれない。私たちは少しずつ、誰かの話をした。話してみると、話せることがまだ残っているのが分かった。残っていることがあるうちは、たぶん大丈夫だ。

 帰り道のことを考えた。どうやって帰るのか。どこに出口があるのか。少女は「朝になれば」としか言わない。私は鏡のことを思い出して、ポケットの中の部屋の鍵を握った。鍵は冷たくて、ここでは何の意味もない。

「眠くなったらここで寝ていいの?」と智樹が言った。

「いいよ」と少女が答えた。

「ここで眠ると、少しだけやわらかい夢を見る」

「やわらかい夢って?」

「起きたときに、心が残っていられる夢」

 私は机にうつぶせになった。木の匂い。額に当たる冷たさ。耳の下で自分の呼吸が膨らんで縮む音がする。寝てしまったら、朝が来るのが怖い。朝が来たら、ここがなくなるのが怖い。怖いのに、まぶたが重くなる。重くなることを許した。許す、という言葉が、こんなふうに身体の動きと繋がるとは知らなかった。

 眠る前、私は黒板の端に目をやった。新しい一行が、また増えている。

 おかえり、と言ってほしかった

 胸の奥で古い扉が軋んだ気がした。誰の言葉か分からないのに、誰に向けられたものか分かってしまう。灯の声が、遠くで笑う記憶が、淡く浮かび上がる。私は起き上がりかけて、やめた。今はまだ、追いかけない。追いかけたくてうずく足を、机の横で組み直した。

 気づいたら、教室はうすく明るかった。夜がほどけていくときの、青と灰の間の色が窓の向こうに滲んでいる。誰かの寝息。ページをめくる音。面の少女は窓の影の中に立っていて、私を見ているのか、朝を見ているのか分からなかった。

 鐘の音は鳴らなかった。代わりに、窓ガラスが一瞬、水面のようにわずかに揺れた。私のまぶたの裏に、部屋の鏡が重なる。立ち上がる前に、机の引き出しに手を伸ばした。引き出しは鍵がかかっていないのに、少しだけ重い。開けると、中に薄いノートが入っていた。表紙には、学校の校章。何の変哲もない、配布用の連絡帳みたいなやつ。

 ひらくと、最初の数ページは空白だった。最後のページにだけ、文字が並んでいた。見覚えのある字とない字が、まじっている。そこには七つの名前が、順番でもアルファベット順でもなく、ただそのとき思いついた順番みたいに書かれていた。

 未央

 健吾

 楓

 玲奈

 蓮

 智樹

 そして、少し間をあけて、もう一つ。

 灯

 指先がその名前に触れる前に、ノートの紙が朝の光を吸った。窓の外で鳥が一羽、短く鳴いた。私は顔を上げた。狼の面の少女が、ほんの少しだけ首を傾けた。その仕草は、私が知らない誰かのようで、よく知っている誰かのようでもあった。

「朝だよ」と少女が言った。

「また夜に」

 私はノートを胸に抱きしめた。抱きしめるという行為が、こんなにまっすぐ効くことを、忘れていた。光が広がって、床の影が薄くなって、私は立ち上がる。足元が軽い。軽いことに罪悪感が少しだけ寄り添う。でも、いい。今はそれでもいい。私は窓の揺らぎのほうへ歩いた。歩くたびに、名前が胸の中で音になる。私の名前と、六人の名前と、最後に、灯の名前。

 次の瞬間、私は自分の部屋に立っていた。鏡の前。デスクライトはついたままで、鉛筆は机の上で転がっていた。窓の外は朝。遠くで、登校する子たちの笑い声がする。私は鞄の中身を確かめた。見覚えのない薄いノートが一冊、入っている。最後のページをめくると、あの七つの名前が、朝の光の中でも薄れずに残っていた。

 鏡の中の私が、ゆっくりと息を吸った。吐いた息が白くならない季節が、もうすぐ来る。私はスケッチブックをひらき、鉛筆を握った。一本、線を置く。昨日より、少しだけ強い。強いけれど、やさしい。窓ガラスが、ほんのわずかに水面みたいに揺れて、すぐに透明に戻った。

 学校へ行けるかどうかは、まだ分からない。分からなくてもいい。夜になれば、教室がある。見てくれている誰かがいる。私が見返すべき誰かがいる。黒板の言葉がまぶたの裏で光る。もう一度、話せたら。私は鉛筆先で机を小さく叩いて、朝の音に小さな合図を混ぜた。

 行こう、と声に出さずに言って、立ち上がった。ノートの重さは羽のようだった。私の名前が、私の中で、やっと少しだけ、居場所を見つけた気がした。

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