第8話:火薬と不信の境界線
朝霧が砦を包む中、ジード=アーガスは崩れかけた司令部の一室にいた。
机の上には山積みの破損報告書、補給依頼書、死亡通知。
それらを前に、彼はただ頭を抱えてうずくまっていた。
「……無理だろこれ」
部屋の隅から、きっちり軍服に袖を通したレイナ=ヴァルトが鋭い視線を向けていた。
「それらは司令官として当然の業務です。書類は時系列でまとめ、兵站には最低限の記録が必要です」
「無理だって言ってんだろ……書き方がわかんねぇよ。てか字が多い……」
ジードはぐしゃぐしゃになった報告書を前にため息をつく。
だが、レイナの視線はふと別の部分に止まった。
砦の全体図。そこには、木炭と石灰で描かれた即席の地図があった。
「……これは?」
「朝の巡回で見た配置。どこが壊れてて、どの班が疲れてるか。おおまかだけど頭に入ってる」
レイナは言葉を失った。彼女が報告書に求める情報が、ジードの頭の中にすでに網羅されていた。
「あなた……記憶と観察眼で動いてるの?」
「知らねえよ、そんなの……でも、寝ないで歩き回ってりゃ、嫌でも覚えるって」
その言葉を口にするジードの目には嘘はなかった。
レイナはしばらく黙ってジードを見つめていた。
「……本当に、戦術も学ばずにここまで?」
ジードは肩をすくめて答える。
「戦術って、あれだろ? 本に書いてあるやつ。俺には無理だよ。だって、現場は毎回ちげぇんだから」
「それでも、判断を下すのはあなたなんですよ。命の重さを預かっていることを、自覚してますか?」
「してるよ。してるから、怖くて仕方ねぇんだ」
レイナはその答えに目を見開いた。
一瞬、ジードの人間性に触れたような気がした。しかしその直後、胸の奥にずしりとした不安が広がる。
——命令書には従った。現場の声も無視できなかった。だからこそ、彼を臨時の指揮官に任命した。
だが本当に、それでよかったのか?
この男に、数百人の命を預けてしまって良かったのか?
そして——この砦に残るということは、自分の命もまた、この男の判断に預けるということ。
「……仕方ありませんね。命令書に従った結果ですから」
レイナは小さくため息をつきながら、ジードに向き直った。
「ジード=アーガス。今後、あなたの指揮を補佐するのは私の役目です」
「はあ? いや、俺に補佐って言われても……」
「常識から叩き込みます。軍規、報告の書き方、命令の出し方、全部です。あなたに命を預ける以上、こちらも本気でやらせていただきます」
ジードは口を半開きにして、呆然とレイナを見た。
「マジかよ……俺、勉強とか苦手なんだけど」
「残念ですが、私は勉強を教えるのが得意です」
「……」
日が暮れる頃には、司令室の机の上にはジードの殴り書きとレイナの添削で赤く染まった書類が山のように積まれていた。
「……あー、頭が沸騰しそう。マジで寝たい……」
「覚えるまで寝かせません。最低限の軍規と報告書式だけでも理解してください」
「拷問かよ……」
「はい、では“戦略的撤退”の定義をどうぞ」
「“逃げる時にかっこつけて言うやつ”……じゃないのか」
「違います」
夜の帳が降りても、教官と生徒のような二人のやり取りは止むことなく続いていた。
ーーーーーー
翌朝。砦に新たな報告が届く。
「報告、敵軍に動きアリ。規模は前回の3倍程度と推定!」
ジードは無言でサイコロを握りしめた。
「来たか……」
再び、砦に火薬と鉄の匂いが漂い始めていた。