第1話:炎の砦と無能の平民
帝国歴1022年、春。アレッタ砦は燃えていた。
南方国境に位置するこの小さな砦に、隣国ザルマシュの部隊五千が襲いかかっていた。守備兵はわずか八百。砦の上空には黒煙が渦を巻き、遠方にまでその炎と叫びが響いていた。
砦内部では混乱が支配していた。兵士たちは戦意を喪失し、指揮系統は崩壊。司令部では、砦司令官のロイ・グレイム中佐が蒼白な顔で机を叩いていた。
「無理だ、無理だ!応援は来ないし、あんな数、相手になるわけがない!」
参謀が叫んだ。
「中佐、せめて最後まで指揮を……!」
だがロイは部下たちを振り払い、自分の軍服から指揮官の象徴である金色の紋章バッジを外すと、傍らにいたジード=アーガスの胸に強引に押し付けた。
「お前が代わりに指揮を執れ!これでお前がこの砦の責任者だ! 俺は……伝令として後方に下がる!そうだ、伝令だ!俺は自ら伝令にでるんだ!」
そう叫ぶと、ロイは護衛兵を連れて司令室の裏口から足早に姿を消した。
「え……? おい、冗談だろ……」
場に取り残されたのは、階級もないただの補給係、ジードだった。
砦の中央広場に立ち尽くす彼の周囲では、兵士たちが慌てふためくか、呆然としている。
「......おーい、誰かまだ戦う気ある奴いるかー?」
……その発言には、地獄と化した戦場に、完全に場違いな“ゆるさ”があった。
「てめぇ、なに言ってんだ……!?」
「こんなときにふざけてんじゃ――」
怒声と罵声が飛ぶなか、ジードは堂々とした様子で司令部の中央の椅子に座り、懐からサイコロを取り出した。
「じゃ、これ振って、防衛ライン決めるか。東西南北のどれかに全戦力を集中してみるのがおもしろそうだな」
……静寂。
誰もが一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「お前、……さっきから何言ってんだ!」
「いや、考えてみろよ。中佐は逃げたし、俺たちにはどうせ策もねえ。だったら、ここで一発賭けてみた方が生き残れるかもしれねぇだろ」
「ふざけんな!博打で戦争ができるか!」
「そりゃそうだ。でも代案はあるのか?」
一同はしんと静まり返る。
「今、この砦の責任者を任されてるのは俺だぜ?」
ジードの目は笑っていたが、冷たくもあった。
「これは命を賭ける博打だ。死にたくねぇ奴は、賭けに乗るか、逃げるか、選んでくれ」
彼はしゃがみ込み、静かにダイスを振った。
コロコロ……と音を立てて転がるサイコロが、地面で止まる。
出目は――6。
「……東門、か」
それだけを言って、ジードはふらりと立ち上がり、戦場の方角を見やった。
まるで、今日の昼飯を決めるかのような軽さで。