第九話
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僕とイヌブセさんは階段の上から楽園の景色を眺めていた。
なだらか草原。馬の群れが喉を潤す泉。遠くにかすむ森と、太くぼやけた地平線を引く山陰。空の低いところを鳥が飛んでいる。大きな鳥だ。もしかしてあれは彼が言っていたドラゴンだろうか?僕はじっと目を凝らすが、鳥はただの鳥に見える。おそらくアホウドリだろう。大きな翼をほとんど動かすことなく旋回を繰り返している。大きな円を、まるで空にたどるべきレールが引かれているかのように、正確に描き続けている。
――――美しい場所だろう。
イヌブセさんは、いつも通りの、抑揚に欠けた声で言った。
――――楽園というのは、君たち市民階級が使う通称だが、まさしく僕らが目指しているのは、旧約聖書にある人間の最初の故郷、エデンの園の再建だ。
イヌブセさんはまだ二十代半ばの青年だった。
青年、といっても、性別も齢もはっきりとしない、あらゆる意味で中立的な人物だった。長身痩躯で姿勢が良く、佇まいも顔立ちも端正だが、見惚れるような美しさはない。どこか作り物じみている。僕ら市民階級のように、容姿をある程度整えるための調整手術(たいてい五年おきに受ける。美しくなるためではなく、外見的逸脱による差別を逃れるために欠かせないものだった)を受けてつくられる平凡な顔立ちではない。これ以上ないほどまで整えた結果、美も個性も遠のいてしまった。完ぺきなバランスの顔立ちでありながら、目を離した次の瞬間には忘れてしまいそうなつかみどころのない外見を、イヌブセさんはしていた。
――――人は神に管理されていた時代、真に幸福だった。けれど神は幼かった。人が罪を犯し、楽園が瓦解したのではない。神が人の奴隷であることができなくなり、人を追放するしかなかったのだ。
イヌブセさんの中立性は喋り方にも表れている。イヌブセさんの声は、変声前の少年か、出産直後の若い女性のかすれたソプラノだった。それでいて口調は老人のようで、もう五百年は生きているかのような、達観して、どこかくたびれた趣があった。
――――我々は楽園を再建し、それを管理する神となる。人間の幸福の奴隷となり、楽園を維持するためだけに存在するシステムと化す。
僕はイヌブセさんと話していると安心と同時に恐れを抱いてしまう。僕はこの人の言うことをほとんど理解できなかったが、しかし理解できずとも納得してしまう、妙な説得力があった。中立的な話し方のせいなのか、この人の言うことに従っていれば間違いない、と思ってしまう。むしろ自分の足りない頭などすべて放棄して、ただこの人に言われるがまま働いていたい、と望むようになってしまう。
例えその結果に、大量殺戮を犯すことになろうとも。親を殺し、幼子を犯し、町中に火をつけ、あらゆるデマを喧伝して回ることになろうとも。イヌブセさんの指示であればきっと正しいと思ってしまうだろう。
もちろん実際にそんな指示を受けたことはないし、そもそも僕はイヌブセさんに出会う前から、仕事に身を沈めていた。働くことだけに集中し、それ以外の情報を、感情や欲望を、すべて締め出していた。イヌブセさんに会ったときすでに、僕は仕事の奴隷で、新しくイヌブセさんの奴隷になることはできなかった。(僕の雇用主はイヌブセさんで、僕の務めていた工房はイヌブセさんが所有者だったので、イヌブセさんの奴隷だといえば、それでも間違いはなかったが)
――――しかし実現にははるか長い時間が必要だ。君が生きている間に完成することはない。また完成したからといって、君が楽園に住むこともできない。
それはもちろん、と、僕は言う。
楽園を造っているのは特異階級の人たちだ。ならばそこに住むべきは、あなた方のご子孫でしょう。
――――我々の子や孫は、我々と同じ神になる。そもそも我々はすでに生物の理から外れかけている。繁殖は遠からず行われなくなる。死の克服と同時に、我々は入れ替わりの停滞を終え、次の段階へと進む。
次の段階?
――――進化だ。
イヌブセさんはゆっくりと後方を振り仰いだ。
僕も同じようにゆっくりとした動作で後ろを見た。
僕らの立つ階段は、古く大きな石造りの階段だった。階段はどこまでものびていて、いまでも真下がかすむくらい高いが、まだまだ高みへと、雲に隠れて見えなくなるくらいまでずっと続いている。
僕は急に恐ろしくなって、上からも下からも目を逸らし、遠くの絶景に目を戻す。
大きな雲の影と同じ速度で移動する羊の群れを見て、僕はほっと息をつく。
豊かで穏やかな世界だ。ここからでは手の届かないほど遠くにある。僕はそこに入ることはおろか、きっと触れることもできないだろう。やるせないが、仕方ない。なにしろ僕には宿命的な欠陥があるのだ。この完璧な楽園にはふさわしくない。
僕はしばらく楽園を眺めていたが、人間はまだどこにもいないようだった。
――――いつか現れる。我々が使えるべき主人は。
イヌブセさんは僕の内心を読み取ったかのように言った。
あるいは、僕は疑問を無意識で口にしていたのかもしれない。
イヌブセさんと話していると、すべてを見透かされているような気分になって、僕はとても正直で口の軽い人間になってしまう。すべて悟られているのなら、嘘も隠し事も無駄だ。すべて明け透けに話してしまった方が、ずっと心が軽くなる。
だから僕は、なんの躊躇もためらいもなく、疑問を口にする。
理解できません。全知全能であるあなた方が、どうして愚かで卑しい僕たちの奴隷になる必要があるんです?
僕らがあなた方の奴隷になる、というのならばともかく。
――――我々は君たちの奴隷になるわけではない。楽園とそこに住まう人間のための奴隷になるのだ。
一体どんな人たちなんですか?その楽園に住む資格を持っているのは。
――――君なら誰を選ぶ?
問い返され、僕は眼下に広がる楽園を眺める。
草原を駆ける白馬がいる。その背に自分が乗っているところを想像しようとするが、うまくいかない。イヌブセさんを乗せてみるが、なんだかひどく作り物じみている絵になる。
彼女だ、と僕は思う。
僕は想像の中で白馬の背に彼女を乗せてみる。
こざっぱりしたシャツにジーンズを着た彼女が、馬の背に乗って野を駆ける。どんな名画も及ばない、美しい光景だ。風になびく艶やかな長髪。汗のにじむ白い肌。手綱を握るしなやかな両手。リラックスした顔には、ほころんだ笑みが浮かんでいる。近づけば鼻歌が聞こえてきそうだ。
楽園にふさわしい人間の基準は、僕にはわからない。けれどできることなら、僕は僕の好きな人を、僕がこの世界で最も美しいと思っている人を、この中に収めたいと思う。
――――残念だがここは箱庭ではない。ここは再現された楽園だ。美しいものが美しいまま保管される場所ではない。作り物であっても、自然は厳しく、ときに残酷だ。
残酷?
やめてください、と僕は思わず声を大きくした。
なぜそんなことをする必要があるのだろう。イヌブセさんたちが管理する世界ならば、完全無欠、安らぎと幸福だけで満たすことだって容易のはずなのに。なぜあえて自然なんて不条理を看過するのだろう。
――――君の考える楽園と我々の考える楽園は異なる。
イヌブセさんはゆっくりと階段を昇りはじめた。
僕はそのあとを追おうとしたが、足が重く、たった十センチのその段差をあがることができなかった。
――――我々は理想の奴隷になるのではない。我々はあくまで、人間という実際的な存在の奴隷にならなければならないのだ。
イヌブセさんの姿はみるみる遠ざかっていくが、その声はすぐ隣から発せられているようにはっきりと聞き取ることができた。
――――君が言うように、我々は全知全能に近づいている。やがて到達するだろう。けれどそうなる前に、我々は我々の主人を見つけなければならない。
イヌブセさんたちは神になろうとしている。それはわかる。けれど神になぜ主人が必要なんだろう?
神こそ、万物すべての主人ではないのか?
――――役割が必要なのだ。我々はやがて肉体を失う。そうなるともうこの世界には関われなくなる。肉体がなければ影をもつことはできない。影がなければ存在することはできない。存在することができなければ、我々は我々の友を守ることができなくなってしまう。
友?
――――そうだ。欠陥を抱えた我が友よ。私はすでに人として多くのものを失ってしまったが、この気持ちだけは進化を遂げる最後の瞬間まで消えないだろう。
僕がイヌブセさんの友だち?
――――遠からず君たちは滅ぶ。遠からず我々が進化するように。我々はしかし、君たちを失いたくないのだ。君たちと共にありたいのだ。だからこそ、我々は人間の奴隷となる。奴隷のまま進化し、人間のためだけの神となる。
それはとても一方的ではありませんか、と僕は言う。
見返りもないのに、こんなどうしようもない僕たちに、どうしてあなた方が、そこまでしてくれるんですか?
――――君は友をもったことがないだろう。
はい、と僕は正直に答える。
イヌブセさんは僕を友だちだと思ってくれているようだが、僕にとってイヌブセさんは雇用主以上のなにものでもない。イヌブセさんは僕のボスだ。はるか彼方、僕なんかでは何度生まれ変わっても到達できないであろう高みにいる、生きる世界のちがう人だ。
――――いつか友を持てば理解できる。
僕の失礼な返答など、イヌブセさんはまるで意に介さない。
――――友情に限らず、人が持つ他者への関心、執着はほとんどの場合一方的なものだ。相互に作用しているようにみえている場合であっても、顕微鏡で眺めてみれば、両者が互いに伸ばす糸は材質も質量もまったく異なる。すべての繋がりは歪で、脆く、不平等だ。でもだからこそ、我々の間にも友情は成立する。
僕とイヌブセさんの間に友情が成立しているとは、僕には思えなかった。
あまりにも一方的すぎる。片思いよりも独りよがりだ。
――――君もいつか友を持てばわかる。
イヌブセさんはそう繰り返したあとで、それか、と付け加える。
――――子を持つことだな。親になればきっと私の言う意味がわかるようになる。それに尽くすことを厭わない。それのために働くことが、自分にとって当たり前のことになる。そんな存在が、いつか君にも現れるといい。
恋人でも伴侶でもなく子供なのか、と僕は思った。
子供と友達は似ている。恋人はどちらにも似ていない。そういうことなのだろうか。
――――こちらの世界でなら、君も子を為せるだろう。
イヌブセさんはそう言うが、僕は自分が父親になる姿なんて全く想像できなかった。代わりに自分が彼女を抱くところを想像しようとしたが、それもうまくいかなかった。いつもそうだ。僕はこれまで彼女についてあれこれ想像を巡らせてきたが、そういう実際的な行為に及ぼうとすると、それまで確かな手触りをもっていた想像はとたんに融解してしまう。僕が触れたとたんに、彼女は空気の抜けた風船になってしまう。ぐにゃりと崩れ、僕を抱き返すことも、僕にわずかなぬくもりを与えてくれることもない。
あるいは形を失っているのは僕自身なのかもしれない。僕は確かに彼女を想像できているが、彼女を抱く僕自身をうまく想像できないのかもしれない。
僕は彼女のことを考えるのはやめた。いずれにしろ僕がこの世界で子を為すことはないのだ。数奇な運命の巡りあわせで、僕の子を宿した女性があったとしても、僕の残りの寿命を考えれば、僕が父親としてその子と対面することはない。
ならば友はどうだろうか。
友を持つ可能性ならば、子を持つ可能性よりずっと高い。
――――友だと思える相手がいるのか?
心を読んだようなイヌブセさんの問いに、僕はもはや驚きもせず、はい、と答える。
――――我が友よ。君が良き友に巡り合えたことを、心から嬉しく思うよ。
そう言われ、顔が熱くなる。
階段を昇るイヌブセさんの姿はもう見えない。雲のかすみの中に消えてしまっている。僕はほっとする。イヌブセさんに僕の心は筒抜けだから、この羞恥もきっと見透かされているだろうが、それでも目の前で赤面を見られることがなくてよかった、と思う。
鏡を見なくてもわかる。僕はつま先から頭のてっぺんまで真っ赤に染まっている。
友だち、と言われて僕が想像したのは、もちろん彼だった。