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第八話

 返事はない。

 絶句しているのか、呆れて言葉を失っているのか。

 これまでの彼の様子からするとおそらく後者だが、僕はかまわずに続けた。


『君は僕と同じ市民階級(トレンド)だろうから知らなくても無理はないが、特異階級(プログレ)楽園(エデン)はまさにこんな場所なんだよ』


 僕は特異階級にあった雇用主から聞いた、彼らの楽園について語る。


『そこは豊穣の大地だった。聖書に出てくる原初の楽園そのものだ。――――空は青く澄んでいる。大地は緑が鮮やかだ。羽毛布団のように柔らかい草原。熟れた身をたっぷりと実らせる果樹。川底の透けた清流がどこまでも続いている。枯れることも濁ることもない泉が必要な分だけ敷かれている。虫や獣はこれ以上ないバランスで共生していて、生も死も過不足がない。大地をぐるりと取り囲む山脈は、城壁のように高く聳えているが、威圧感はなく、むしろ母の腕の中にあるかのような安心感を中で生きる者たちに与える。曇りの日はほとんどなくて、たいてい晴れ。ときおり降る雨は優しく、長く続くことはない。大地を必要な分だけ潤すとぴたりとやんでしまう。嵐も強風もない。雪はごくまれに降る。生娘が初めてたたくおしろいのように淡い雪だ。穏やかな四季にくるまれたその地は、現世に再建された楽園(エデン)。人が人であった時代のビオトープ』


 けれど現生人類のほとんどはそこで暮らすことができないだろう、とイヌブセさんは言っていた。

 虚構の羊水で育てられた君たちは、楽園をもはや楽園と思うことはできない。君たちにとってビオトープは懐かしい故郷ではなく不自然な造り物でしかない。ごくわずかな例外だけが、このビオトープに馴染むことができる。彼らはそこで真の幸福を追求することができるだろう。我々が理想とする、人間のあるべき姿をとりもどしてくれるだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 僕はそんなイヌブセさんの言葉を思い出しながら言った。


『僕の雇用主は特異階級だった。数えるほどしかないが、実際に会って話をしたこともある。そこでその人は僕に楽園の詳細を教えてくれた。特異階級の国。かつての地球のどこかにあった、彼らの住処の情景を』


 僕はそこで口を閉ざしたが、彼からの応答はない。

 また思念子機を外されてしまったのかと思い、何度か呼びかけると、小さな子供が癇癪を起したような、うめき声が返ってきた。


『頼むからわかる話をしてくれや。わけわからんスピ語はうんざりや』


『スピ語?』


『スピリチュアル語!』


 と、言われても、僕には意味がさっぱりわからなかった。


『そうやなかったらなんや?統合失調症か?寝たきりで頭おかしなったか?転生失敗したとき、頭のネジも外れたか?あんたの方がよっぽど、この世界をフィクションと混同しとるやんけ!』


『気持ちはわかる。特異階級(プログレ)市民階級(トレンド)に直接接触して、ましてや楽園について自ら語るなんて、僕だって実際にあの人と会うまでありえないことだと思っていた。でも本当なんだ。僕の言った楽園は都市伝説によくあるものかもしれないが、その都市伝説は事実だったんだよ。僕には創作の才なんてこれっぽっちもない。だから――――』


『だからそのプログレってなんやねん』


特異階級(プログレ)特異階級(プログレ)だよ。傍観する統治者。摂理を解する人たちだ』


『……なんやあんたの方がここの連中よりよっぽど異界人みたいに思えてくるな』


 話が通じん、と彼は言った。


『あんた、ほんまに日本に住んでたんよな?』


『生まれも育ちも日本国だ。両親も祖父母もジャパニーズ。それ以前はわからないけど、生粋の日本人だという自負はあるよ。特異階級に近い仕事をしていたけれど、日本から出たことがあるわけでもないしね』


『じゃあやっぱなんかカルトにでも入ってたんか?どっかの地方の集落でおかしな価値観刷り込まれた、とか。そうやったら同情するけど』


 僕は首をひねる。


『いや?僕は生まれてからずっと都市生活者だよ』


『そのわりに受け答えぜんぶちょっとズレてるんよなあ。あんた変わり者やったやろ』


『……どうかな』


『少なくとも友達はおらんかったやろ』


『プライベートで食事に行くような相手はいなかったね』


『そうやと思った』


 彼は欠伸を噛み殺した声で言った。

 僕は天窓を見つめる。少し白んできただろうか?早めに切り上げるつもりだったが、気づかぬうちに、ずいぶんと話しこんでしまったようだ。


『おっさんの話は意味不明やけど、でも、さっきのは詩的で悪くなかったな』


 なかなかいい描写やった、と、彼はまどろみ始めた声で言った。


『ここは禄でもないとこやけど、たしかに景色だけはいいからな。ロケでスイスの田舎行ったことあるけど、雰囲気が似てる』


『ロケでスイス?君、海外渡航経験があるのかい?』


『おう。まだ駆け出しのころ、インディーズ映画のわき役もらってな。大したことない映画やったけど、監督が金持ってて、海外ロケしたんや。少人数の弾丸撮影で、観光なんかろくすっぽできんかったけどな。よう覚えてる。初夏で、一番きもちのええ季節やったから。車から景色眺めてるだけで楽しかったわ』


 僕は驚く。映画撮影のために海外渡航?

 僕の知らぬ間に、映画はそれだけ金と労力をかけるに値するものに変わっていたんだろうか。

 しかしこの驚きを口に出すとまた彼に馬鹿にされるような気がしたので(世間知らず過ぎる、世相に疎すぎる、といった具合に)僕はそうか、とすべてを心得ているかのような相槌をうっておいた。


『似ているんだね、スイスとここの景色が』


『せや。建物とかは中華風やけど、いつも視界のどっかに雪山が見えてるかんじとか、だだっぴろい草原とか、ゆっくり動く羊の群れとか、同じくらいゆっくり流れる雲とか――――観光できてるんやったらすごいリフレッシュできたと思うで。心身ともに洗われたやろうな。ここは人も少ないし空気もうまいから』


『それに食事もおいしい』


『わかる。まあもうちょいジャンクな方が俺好みやけど――――下町とかいけばあるんかな。フライドポテトとか、ラーメンとか』


 僕は笑った。

 彼の精神は前世の死亡時と変わらずもう二十代半ばだというのに、あんな脂っこいものを食べたいと思えるなんて、ずいぶん胃腸が健康なのだ。あるいは子供舌、というべきか。僕が二十歳のときにはもう油ものはしんどくなっていたから、感心さえする。


『なにがおかしいんや』


『いいや。僕もジャンクフードは久しく食べていないな、と思ってさ』


 子供舌だといえばきっと彼はまた機嫌を損ねてしまうだろう。だから適当に同調しておいた。それにこの身体であれば、僕でもまたジャンクフードをおいしいと思えるかもしれないから。


『それにしても、やっぱり僕の想像通り、ここは楽園とそっくりなんだね』


 僕は話を戻した。


『描写が詩的だと言ってくれたが、実はあれは僕の考えた文言ではない。僕はイヌブセさん――――というのは、特権階級である僕の雇用主なんだけどね――――が語った楽園の情景をそっくりそのままなぞっただけなんだ。でも、驚いただろう?そうなんだ。彼らの住んでいた楽園は、この世界とよく似ているんだよ。僕は楽園もこの世界の風景も実際目にしたわけではないが、イヌブセさんに教わった楽園の風景と、彼女に教わったこの世界の風景はあまりにも酷似していて、まるで同じ場所のことを語っているようだった。そして僕から楽園の話を聞いた君もまた、それをこの世界の話だと思った。――――つまりさ、本当に信じがたいことだが、やはりここは異世界なんかじゃない。なにかしらの事情があって、楽園以外が凍り付いてしまった、未来の地球なんだよ』


『単純すぎるやろ』


 そんなんじゃカルトにも引っかかるな、と彼は言った。


『あんたの知ってる景色と、この世界の景色が似とるから、ふたつは同じ世界やって?それやったら、オレやって、ここはスイスに似てると思う。けどそれだけで、ここが未来の地球とは断言できんやろ。まあ、それじゃあそもそも異世界ってなんやねんって話になるから、可能性のひとつではあるけど、オレは認めたくないな』


『なぜ?』


『だって、未来なのに退化しとるやん、社会。ディストピアですらない。何百年後の世界なんか知らんけど、地球のほとんどの場所に人は住めなくなってて、残ったやつらは中世みたいな生活しとって、ようわからん災害におびえて、常に絶滅の危機抱えとるなんて未来、夢なさすぎやろ』


 一理ある、と僕は思ってしまった。

 実際のところはさておき、これが人類の行きついた未来だとは信じたくない。そんな彼の心情に、僕は共感を抱いた。


『まあ異世界にしたって夢ないけどな。中途半端やねん。魔法みたいな力があるのはおもろいけど、でもけっこう地味やし、どうせならもっとがっつりファンタジーな世界に行ってみたかったわ』


『例えばどんな世界だい?』


『人食いモンスターがうじゃうじゃしとるような世界』


『それに夢があるのかい?とても過酷な世界に思えるけど』


『男のロマンや。オレ、モンハンめっちゃ好きやったから、どうせ異世界転生するんならああいう世界がよかった。半獣半人とかエルフとか鬼とかそういう異種族がわんさかいて、なんや仲間とパーティ組んで冒険して、そういう異世界転生やったら、けっこう楽しめたかもしれん』


『仲間と冒険か。それはたしかに、楽しそうだ』


『やろ?まあ冒険するには狭すぎるけどな、この世界。倒すべき敵も、災嵐なんちゅう形のないもんやし――――ああ、でも、ドラゴンはおるな』


()()()()?』


『ああ。せや。オレがここは未来やのうて異世界って思う理由、ドラゴンもあったわ』


『おとぎ話に出てくる、翼の生えたトカゲのことかい?』


『そう。そう。でっかいトカゲ。遠くにしか見てへんけどな、この世界、ドラゴンがおんねん。他の動物はふつうなのにな、妖精も怪獣も怪魚もおらんのにな、ドラゴンだけはおんねん』


 彼は欠伸をひとつ挟んでから続けた。


『空の高いとこを、よくひとりで飛んでるわ。群れることはほとんどない。一頭だけで、気持ちよさそうに空を泳いどる。すぐに気づくで。白銀っちゅうのか?鱗か体毛か知らんけど、太陽反射してきらきら光っとるから、月の明るい夜とか、太陽が高い時間帯は、あいつらが空に出るとすぐにわかる。めったに地上にはおりてこないらしいけどな、たまに降りてきては、なんやいろいろ悪さするらしい。そういうときにはな、専門の討伐部隊のやつらが出張って、ドラゴンをとらえてバラすんやて。ドラゴンの身体はいろいろ利用価値があるから――――ってまじでモンハンの世界やん。ええなあ。そのための訓練なら、オレいくらでもがんばれるんやけどなあ』


 彼はまた大きな欠伸をした。


『あかん、もう朝になるやん。すっかり話こんでしもた。いまからでもなんぼか寝とかんと――――じゃあな、おっさん。また気が向いたら話相手になったるわ。おっさん一人にしてたらますます妄想に拍車がかかりそうやから。認知症予防に付き合ってやる。感謝せえ』


 一方的に通話を打ち切ろうとした彼を、僕は慌てて引き留める。


『待ってくれ。肝心な話が済んでいない』


『なんや。あんたとちがってオレは今日も忙しいんやで』


『だからその忙しさを少しでも軽減させるために、ひとつアドバイスをきいてくれ』


『また今度な』


『頼む、きっと役に立つから――――いいかい、きみの取り組んでいる()()。念力……ではなかったね。霊力操作。それはちょっとしたコツさえつかめばすぐに上達するんだ。まず――――』


 今晩(もう朝だが)四度目となる彼の大きく長い欠伸が、僕の話を遮る。


『あかん限界や。おっさん、心配せんでも、また連絡したるから、今日はこれで堪忍な』


 ほなまた。そう言って彼は思念子機を外した。


 僕は深く息を吐いた。まったく、最近の若者とこうもズレているとは。同じ市民階級なのに、特異階級と同じかそれ以上の隔たりを感じる。僕が若者言葉や彼らの文化に理解があれば、話をもう少しスムーズに進められたのだが、なかなか思い通りにはいかないものだ。

 しかしわずかな前進はあった。彼のおかれた状況を知ることはできたし、この世界について、彼女や世話役からは聞くことのできなかった話を聞くことができた。

 災嵐という不可解な現象。時間跳躍や転生といった文化に不釣り合いな高度技術。そしてドラゴンという謎の生物。

 まったくわけのわからないことばかりだ。それらについていくつか憶測を立てることはできるが、現状では判断材料があまりにも少ない。なにしろ僕が目にできるのはこの世界のごく一部、全体像から見れば毛穴のひとつにも満たないこの寝所の天井だけなのだ。手で触れることのできる範囲はさらに狭い。それでは世界観について考察することなど到底不可能だ。

 しかし幸いなことに、僕には耳がある。情報を届けてくれる存在が少なからずいる。それはとても頼りないもの(肝心なことは口にせず、口にしたことも真偽の不確かな世話役の老人。若く聡明だが、会話できる時間は一週間に十分程度という制約付きの若い技師。それから、郷里を共にする仲ではあるが致命的な世代間ギャップにより話が噛み合わない彼の、たったの三者)だが、話をうまく統合すれば、世界の輪郭くらいはつかめそうだ。


 僕は右耳にはめていた思念子機を左耳へと移し、空いた右耳の穴周りを軽くマッサージする。

 精度は申し分ないが、成形はいまひとつだ。長時間つけていると、耳が痛んでくる。僕はマッサージを続けながら、傍に控えていた世話役の老婆に声をかけ、水を一杯もらう。

 老婆は何も言わない。僕が一晩中起きて百面相をしていたことには気づいていたのだろうか。僕が彼と思念を交わしている間中、老婆は僕から十歩ほど離れた場所に置かれた背もたれのない丸椅子に、背筋を伸ばして座っていた。僕に視線を向けることも、声をかけることもなく、ただ彫像のように鎮座していた。正直にいって気味が悪かったが、寝たきりの僕に介護人は不可欠だし、なんの価値もない僕に対して罪悪感というただそれだけの理由のために献身を見せる老人たちを無下にするのは忍びなかった。

 僕は時間をかけて水を飲み、空になったグラスを老婆に返した。


「ありがとうございます」


 礼を言うと、老婆は小さく会釈した。

 それからちらりと、僕の左耳に視線を送った。


「ああ、これは、ちょっとしたお守りのようなものなんです。僕の故郷の伝統的な装飾品で、身に着けると、耳がよくなるといいますか、大切な言葉を逃してしまわないためのものなんです」


 僕の出まかせを老婆が信じたのかどうかはわからない。

 老婆はただ小さく頷き、グラスを下げた。

 僕は老婆がもとの椅子にもとの姿勢で座るのを見届けてから、目を閉じた。

 さすがに()()過ぎた。これだけものを考えたのも久々だ。

 僕はくたびれていたが、眠りはなかなか訪れず、長い時間、頭の中で彼との会話を反芻していた。


『オレは二回も死ぬなんて御免や』


『男の身体やったらなんぼマシやったかわからん』


『オレに人権はないからな。むちゃくちゃな一人二役でも、引き受けるしかあらへん』


『災厄を躱すのが、オレの救世や』


『あんた、ほんまに日本に住んでたんよな?』


『今度のイケニエは若手のホープやって』


『未来なのに退化しとるやん、社会、夢なさすぎやろ』


『ああ、でも、ドラゴンはおるな』




 僕は彼との会話を反芻しながら、その日の夜まで、浅く細切れな眠りを繰り返し続けた。

 ほんの短い眠りの間に、いくつか夢も見た。

 夢はどれも前世の世界が舞台で、たいていはなにかに追われるように仕事をしていた、あの頃の切迫感をそのまま追体験するような夢だった。

 ひとつだけ印象深かったのは、昼食後しばらくして落ちたまどろみの中で見た夢だった。

 僕はイヌブセさんと話していた。

 いつかの追体験ではなく、真新しく混沌とした、いかにも夢らしい夢だった。

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