第七話
災厄を躱す。
それは婉曲した比喩ではなく、これ以上ないほど直接的な表現だった。
この世界には必ず百年に一度、未曽有の大災害が発生する。それは記録に残る九百年、一日のずれもなく、九月の十二日の日の出とともに現れ、きっかり七日後、十九日の日の出とともに去っていく。災害の形は様々で、地震、隕石、急激な気温の上昇あるいは低下、大雪、台風、害虫の異常発生、強烈な感染速度と感染力をもつ疫病など多岐に渡る。一方災害がもたらす被害は一律で、社会が崩壊寸前まで陥るほどすさまじいものだという。
百年に一度人類を存亡の危機に追い込むこの現象は災嵐と呼ばれ、人々に畏怖されている。
人々は災嵐に対してさまざまな抵抗を試みてきたが、全人類、社会全土を守りきれたことは一度もない。いつも誰かが犠牲になった。なにかを切り捨てなければならなかった。災嵐の爪痕は深く、百年かけてもその傷が癒えることはなかった。流された血と涙がようやく乾いたと思ったら、次の地獄が幕を開ける。いたちごっこ。終わらない悪夢。この地の人間は、災嵐という理不尽な暴力に支配されて生きていた。
誰もが解放を願っていた。
繰り返される悪夢から抜け出したいと思っていた。
なにしろこの地は、百年に一度の七日間を除き、楽園のように豊かで穏やかな場所なのだ。災嵐以外に一切の天災はなく、それどころか災嵐以外で飢饉や疫病が流行ったこともない。外から攻めてくるような敵もなく、内政も非常に落ち着いている。この千年、いくつかの派閥争いや小競り合い、主義の相違による衝突はあったようだが、僕から見ればそれらは非常にささいな、かわいらしいとさえ言ってしまえる程度のものだった。驚くべきことに、この世界には戦争という言葉がないのだ。神という概念がないように、人間同士の大規模な殺し合いが、一度として起こったことがなく、また想像されることもなかったのだ。
この世界の総人口はおおよそ八百万人。人の居住域はおおよそ四万平方キロメートル。さまざまな要因がもたらした結果とはいえ、この規模の社会が千年間も安定した基盤を保ち続けられているのは、ひとえに環境がこれ以上ないほど恵まれているからだろう。
伝聞でしかこの世界の情景を知らない僕でも、ここが楽園だということはわかる。
まるで人間が快適に過ごすためだけに作られた世界だ。環境の方が人間という生物に適応するため形を変えた、といってもいい。閉鎖的なこの世界で人々がうまくやっていけているのは、食べるものにも寝る場所にも困ることがないからだろう。水も空気も澄んでいて、日も風も優しいからだろう。
だからこそ人々は災嵐を恐れている。憎んでいる。
災嵐さえなければ、世界は永遠に平和を享受していられると、真の幸福が実現すると、この世界の人々は心から信じていた。
災嵐が発生する時期は把握されているが、その実態を予測することはできない。
実態がわからなければ対策を打つことは難しい。大火を恐れて湖のある草原に逃れても、その年の災嵐が虫害であれば真っ先に餌食にされるだろう。大風を避けるために地下豪を造っても、災嵐が洪水であれば逃げ場のない地下で溺れ死ぬことになる。地震から逃れるために飛行船を造っても、災嵐が隕石であれば格好の的になるばかりだ。七日間というごく短い期間で発生し収束する致死の疫病など、僕の生きていた世界であっても、備えはもちろん対応のしようはない。(特異階級と、そのおこぼれに預かれるごく一部の超富裕層、僕のような特別技術者となればまた話は変わるが)
災嵐はこの世界の人々では太刀打ちできない超自然現象だ。
ならば、逃げるしかない。
人々はそう考えた。実に単純だが、これほど明快な解決方法もない。勝てない相手ならば戦わなければいいのだ。なにしろ敵は七日間しかこの地に留まることはできないのだから、その七日間をスキップしてしまえばいいのだ、と。
時間跳躍。
それが人々の選んだ方法だった。
古典的なフィクション用語だが、彼らの計画を表すのにこれほど適した言葉もない。この世界の人々は災嵐の起こる七日間を飛ばす。時空を歪め、全人類を、人の居住域をすべて未来に送る。そうすれば世界はなにひとつ損なわれない。誰も傷つかず、なにも失われない。
彼らの選んだこの方法は、最も攻撃的な逃亡といえるだろう。つまり彼らは災嵐を自分たちの時間から切り落とそうとしているのだ。それは言い換えれば災嵐という現象を消滅させるも同然で、逃げるその足で敵を踏み潰す行為だ。
これまで嬲られるがままだった人類が、災嵐という理不尽な現象にはじめて一矢報い、その一矢でもって災欄を完全に克服する。まるで夢物語のような話だが、この世界の人々は本気でそれが果たせると信じているし、僕も実際にそれは可能だと思う。
彼の容量を得ない説明でも十分に確証を持てた。この世界の人々が持つ時間跳躍術は本物だ。僕と彼を召喚させた技術と同じように、この世界の文明レベルにはどう考えても不釣り合いだが、しかしなぜか彼らはそれを持っていた。
八百万人の居住域をカバーする時間跳躍ともなれば大掛かりで複雑な構成が必要となる僕のいた世界にあっても、百基のスーパーコンピューターと最新鋭のAIを組み合わせて果たせるかどうか、といったところだ。時間跳躍技術は理論研究こそ細々と続けられているが、結局コストのわりに得るものがない。無駄が多い。そもそも時間を飛ばすことに何の意味があるのか?未来へ過去を持ち込むことの、あるいは過去を未来に再現することの意義は?そう問い詰められるばかりで、実証実験まで踏み切られた例はない。ところがこの世界の人々がもつ時間跳躍術は完成されていた。それも仰々しい装置はなにひとつ必要とせず、ある手順に乗っ取り空間に霊力を行き渡らせるだけ、という非常にシンプルな代物だ。なにしろ地面にチョークで図形を描き、それに合わせて霊力を流しこむだけなのだから、まるで魔法のようだ。まさしくアーサー・C・クラークの提言どおり、高度な科学は魔法と見分けがつかない。
いかなる機構も研鑽が進むと記号化する(小型化、軽量化、一体化、単純化、と進んでいき、最終的には記号化、最もシンプルな形にたどり着く)ものだが、この時間跳躍術はまさしく記号化された最先端技術だった。
しかしそれは僕からしてみれば、という話で、この世界の人々の認識とは異なる。なにしろ時間跳躍術はつい最近開発された技術ではなく、この世界で伝統的に受け継がれてきた太古の技術だそうだ。使いどころがないので、見向きのされてこなかった伝統技法だというのだ。そしてなぜ使いどころがないのかといえば、その対象範囲があまりにも狭いからだ。
この世界の人々が操れる霊力の量は非常に限られたもので、そのわずかなエネルギーだけでは、人間一人を一分後に跳躍させることすら難しい。そのため時間跳躍術は、せいぜい手品のタネに使われる程度の、価値のない技術として軽んじられてきた。
――――異界から召喚した人間は自分たちよりはるか膨大な霊力を有することができる。
――――そしてその霊力を用いれば、世界全土を災嵐後の未来へ飛ばすことも可能である。
という発見が、近年なされるまでは。
彼らにとって僕は文字通り救世主になりえる存在だったのだ。世界を地獄の七日間から逃がすために、なくてはならない存在だったのだ。
僕が技師であることは関係なかった。だから彼が僕の代わりを務めることになった。
彼らが求めていた救世主とは、つまりエネルギー源なのだ。
異界人であるならば、誰でもよかったのだ。
『君はすべてを信じているのかい?』
僕は彼に尋ねた。
『いま君がしてくれた話は全て、君を取り囲んでいる皇族から聞いたものだろう?君はそれをすべて受け入れたのかい?災嵐は本当に現れると思うかい?その災嵐を、世界全土、全人類の時間跳躍という荒業で乗り越えられると思うかい?』
『わからん』
彼は即答した。
『けど連中は嘘をついているようには見えんかった。あんた知らんかもしれんけど、災嵐対策にこの世界の人間はめちゃくちゃ必死こいてんで。そもそもそうじゃなきゃ召喚術なんてグロいことさせへんやろ?あんなんただのイケニエやからな。それも自分で腹を切らなあかん。立派な肩書持ったお偉いさんがそれを次から次にやってのけるなんて、世界の命運でもかかってなきゃ、おかしいやろ』
召喚術は自身の肉体に僕ら異界人の魂を呼び降ろす術だ。彼が言ったように、それはハラキリと例えるにふさわしい。術者は自ら腹を裂き、魂を外にかきださなければならない。そして虚空にさまよう僕らの魂をつかみ、身体におさめ、自ら腹を縫い留めなければならない。それには卓越した技術と強靭な精神力が不可欠だ。僕が召喚されるまでに何十人もの技師が召喚術を実行し、成果を得られぬまま帰らぬ人となった。
優れた人材はなにものにも勝る財産だ。技量と指導力、なにより世界のために命を捧げる忠誠心を持った技師たちを、救世主召喚計画が始まったこの十年で何十人という単位で失うことが、この狭く未発達な社会においてどれだけの損失か、計り知れたものではない。しかしそれだけ、本気ということでもある。そうまでしなければ、災嵐に対抗することはできない。
人々は災嵐を心から恐れている。それは本能的な恐怖といっていい。災嵐は確実に現れる。そしてなんの策も講じないままでは、世界は確実に滅ぼされる。そう、誰もが信じて疑っていない。
『あんたの身体のもとの持ち主もえらい優秀な技師やったらしいで。腕がいいだけやない。面倒見がよくて、人望も厚くて、部下たちは最後まで生贄にさせることに反対しとったらしい』
『そうか。なら彼らはひどく落胆していることだろう。尊敬する上司の献身が、なんの成果も果たせなかったのだから』
申し訳ない、と僕は思う。
召喚術の失敗の原因は、術式のほんのわずかなズレであったという。それさえなければ、あるいはもう少し時間をかけて召喚を行うことができれば、僕はこの身体に完全に定着することができた。彼と同じように、どのような後遺症もない、健康な中年男性として生活することができていただろう。
召喚の失敗に僕の過失はない。それでもやはり責任を感じてしまう。
僕がもし完全な受肉を果たせていたのであれば、犠牲が無駄になることもなかったのだから。
『落胆してる暇もなさそうやったけどな。あんたの失敗がわかって、すぐ次を始めたらしいで』
『また誰かが腹を切ると?』
『せや。今度のイケニエは若手のホープやって。いまあんたのこといろいろ調べてる技師の中に、まだ二十歳にもなってないのが一人おるやろ?えらい優秀な子やから次に選ばれたって、なんかの式典に出たとき貴族のおっさんらが噂してるの聞いたわ』
僕の傍にいる若手の技師といえば一人しかいない。
彼女へ手紙を届けてくれた、研究熱心で好奇心旺盛なあの少年だ。
『君がいるのに、もう人を呼ぶ理由はないだろう』
僕はつい、そう口にしてしまった。
彼の肩の荷を軽くするという意味では、救世主役を引き受けてくれるもう一人がいるにこしたことはない。けれど僕は、あの親切で聡明な少年が、救世のためにその身を捧げるのは惜しい、と思ってしまった。
『保険や、保険』
犠牲になる少年についての同情は特に抱いていないらしい。彼は冷淡とさえいえるほどの軽い口調で言った。
『いや保険はむしろオレの方やねんけどな。皇帝が異界人に身体を乗っ取られたって公表することはできへん。オレが異界人やと明かせば、災嵐はどうにかなっても、間違いなく内乱が起きる。カリスマ的な人気あるからな、この女。それが異界人に乗っ取られて、しかもしばらくその事実が隠されてたとあっちゃ、民衆は黙ってへん。それは皇族の連中としても困るわけや』
『なるほど。世界を救った異界人の役を、表立って皇帝役と兼任することは不可能、ということか』
『せや。救世主と皇帝は同時に壇上におらなあかんからな。一人二役は無理なんや。あんたみたいな寝たきりでもいい、とにかく災嵐が発生する時点で生きてる異界人が必要なんや』
『本物である必要はないんじゃないか?大衆を欺くことだけが目的なら、誰かが異界人のふりをすれば、それでことは済む』
誰かが犠牲になる必要はないのだ。
しかし彼は、それじゃあかん、と僕の甘い考えをはねつける。
『ただのハリボテやのうて、保険としての機能も果たしてもらわなあかん。召喚した異界人には、実際に救世術を会得させる。そうすれば万が一オレになにかがあったとき、そいつが代わりに術をかければええし、逆にそいつになんかあったとき、オレが術をかければいい。たった一人に世界の命運預けるのはリスキーやからな。二人でも心もとないけど、ないよりはマシっちゅうことで、呼ぶらしいで』
僕は頭を抱えた。
保険。そんな理由であの少年が犠牲になるのかと思うといたたまれない。けれどその重要性もまた理解できるし、他の保険の当てがすぐに思いつけるわけでもない。
『とにかくまあ、隔離されたあんたと違うて、オレはこの世界の連中がどれだけ災嵐にビビってるか、この目で見とるからな。連中がオレを騙そうとしてるようには見えん。どう見てもガチや。信じるほかにない。せやからオレもガチで、自分の見守るために、連中の言いなりになっとるんや』
『集団催眠の可能性は考えていないかい?』
『集団催眠?』
『災嵐という現象を、僕はいまだによく呑み込めていないんだ』
『オレの説明が下手やっていいたいんか?』
『いいや。君の説明は簡潔で飲み込みやすかったよ』
おそらく正確性には欠いているが、それでも彼女に初めに受けた解説と合わせれば、十分僕は災嵐という現象の概要をつかむことができた。
『記録に残るこの千年、災嵐とやらは百年に一度、九月十二日の夜明けから九月十九日の夜明まで、きっかり七日間発生してきた。地震火災水害疫病、その形態は多様で、人類社会に大打撃を与えてきた。――――自然現象ではまずありえない。これはどう考えても、人工的に設定された災害だ』
『誰か災害を起こしとるやつがいるっていいたいのか?神か魔王か知らんけど、そういう諸悪の根源がおると思ってんのか?』
『そうとしか考えようがない』
『転生モノっぽい話やな』
彼は茶化すように言った。
『古くさいカビ生えた設定やけど、嫌いやないで、異世界転生モノ。この世界、土地から文化からなにから、全部ファンタジー系のゲームにありそうやもんな。霊力やら時間跳躍やら、いかにもってかんじやったけど、そこに魔王とまでくれば、いよいよゲーム世界や。オレらは異世界に転生したんやなくて、ほんまはゲームの世界に入り込んだだけかもしれへんな』
『ゲームの世界?君はなにを言ってるんだ?』
彼はイヤリングが大きく振るえるほど、不快感でいっぱいの舌打ちをした。
『冗談の通じんおっさんやな。神やら魔王やらボケたこと抜かすからボケ返してやったんやろ』
『気に障ったのなら謝る。言い訳させてほしいんだが、僕は生前、あまり君のような若者とは話す機会がなくてね。研究所に籠りっぱなしで、仕事以外で人と話すこともほとんどなかったから、会話の機微というやつが、どうもわからなくて』
『仕事ばっかりで友達おらんかったタイプか、おっさん。どうせパートナーも子供もいてへんのやろ』
『お察しの通り。しかし、だからこそ教えてほしい。冗談でもなんでもなく、本当にわからないんだ。君はこの世界をファンタジー、つまり前世で生きていた世界とは乖離していると感じているんだね?』
『だって、別モンやろ。ネットもゲームもないような世界やで』
『たしかに、僕らの時代と比べると文明的には二千年ほど遅れがあるね』
『いや二千年は言い過ぎとちゃう?』
『そうかい?歴史には疎くてね。まあとにかく文明は遠く及んではいないが、しかしファンタジーと称してしまえるほどかけ離れているとは僕には思えなくてね、君がこの世界の、一体どこにそんな違和感をもつのか教えてほしいんだよ』
『どこにって、全部や』
心底不思議そうに、彼は言った。
『逆になんであんたはおかしいと思わんのや?外に出とらんからか?世界地図見てみ、ここ、一応惑星みたいやけど、月も太陽もあって、空もあたりまえに青いけど、人が住めるのはサッカーボールに小指の先で印付けたくらいの狭い土地しかないんやで』
『ああ、おもしろいよね。世界地図とは名ばかり、あれは人の居住域の縮図でしかない』
ここで目覚めたばかりのころ、彼女が僕に見せてくれた世界地図。
そこはひとつの大陸とそれを囲う山脈しか描かれていなかった。山脈の外にあるのは海ではなく暗黒だった。斜線で黒く塗りつぶされた外地は、ただ氷結という意味の文字が刻まれているだけだった。
つまりその世界地図に書かれたのは、この惑星の全容ではなく、どこかの大陸の一部分、人が住んでいるごくわずかな土地だけなのだ。
『君、彼らの持つ地球儀は見たかい?』
『あれは地球儀とは呼べんやろ』
僕は同意する。
彼女が世界地図と合わせて僕に見せてくれた地球儀。それは両手で抱える程度の大きさの純白の球体だった。大陸も海も緯度もなにも書かれていない。白紙の球体には豆粒のような小さな二重の黒円があり、それがいま自分たちが住んでいる場所だと、彼女は説明してくれた。
この世界の人々は宇宙についても最低限の知識を持っている。無限の暗闇。そこに浮かぶ無数の星々。自分たちの住むこの純白の星も、そのうちのひとつなのだ、と彼らは認識している。
彼らのもつ地球儀は、我々の知るものとはまるで別物だ。しかしそれでも、これは地球儀なのだ。
『あれは地球儀だよ』
僕は彼に説く。
『この世界の人々は自分たちの星を地球と呼んでいる。だからそれを模した球体も地球儀と呼称している。僕らが自分たちの星を地球と呼び、その模型を地球儀と呼んだようにね』
故に認めなければならないのだ。偶然の一致か、それとも本当に同じなのか。彼らにとっても、この星は地球なのだ。
『たまたまやろ』
それでも、彼は頑なに認めようとしない。
『ファンタジーフィクションのワークショップで聞いたことあんで。耳なじみのない呼称はほどほどにせんと独りよがりになるって。いかにファンタジーといえど、現実から離しすぎると客がついてこん。プレイヤーだろうが観客だろうが、没入させるためには考えなくても理解できる名詞を一定数用いる必要がある。やりすぎると娯楽やのうてお勉強になるからな』
『君はどうしてもこの世界をフィクションにしたいらしいね』
『神やら魔王がおるって言いだしたんはそっちやろ』
『いやそれを言ったのは君だが……』
『ああ、もう、ごたごたうっさいな』
彼が僕に向ける苛立ちは理不尽なものだが、僕は黙ってそれをやり過ごす。謝っても弁明を重ねても、火に油でしかないだろうから。
『あいつらがこの星を地球って呼んでて、地球儀があって、それだけのことやろ。たまたま名前が一緒なだけやろ。地球儀ゆうて、オレらがいまいるこの土地以外は全部白塗りやん。年中吹雪で、気温はずっとマイナス何十度で、人はもちろんどんな生き物も住んでへん、草の一本生えん場所なんやろ?まあほんまかどうか知らんけど、たしかにこの世界には国って概念ないからな。ここ以外の共同体があらへんし、仮にあっても一切関わり合いはないみたいや』
『ああ、それは僕も感じていたよ。一度提言したことがあるんだ。この地が災嵐に襲われるなら、時間的な回避を試みるよりも先に物理的に距離をとったらどうか、って。けれど検討されることもなく却下されたよ。――――この星で人が住めるのは山脈に囲まれたこの高原だけなのだ、と。だから距離的に逃げることはできないのだ、とね。もし彼らが外地にあるかもしれない別社会と接触があるなら、こんなことは言わないはずだ』
『めちゃくちゃ仲悪くて頼りたくないだけかもしれんけどな』
『そうだとしたら救いようがない』
しかし可能性はゼロではない。
人類はその何万年という歴史の中で、目も当てられないような愚かで幼稚な諍いを繰り返し、そのために幾度となく絶滅の危機を迎えてきた。不可避の災厄が目の前に迫っていようと、分かり合えない相手はいる。どれだけ窮地に追い込まれようとも、全人類が一致団結することは決してない。
僕らはこの長い歴史の中でそれを証明し続けてきた。
差別と偏見。それは人間の宿命的な基礎疾患だ。
『可能性はゼロではないが、限りなく低い』
検討すべきは起こりうる可能性のより高い問題からだ、と僕は仕切り直す。
『いまは外地人の存在については無視することにしよう。――――仮説として、山脈に囲われたこの地の外に人類はいないものとする。外地は一切が氷雪に閉ざされた、暗黒の世界だとする』
『つまり連中の言ってることがぜんぶ本当やったら、っちゅうことか』
『そう、もし彼らのいうとおりこの惑星の人類がひとつの閉鎖的な地域の中で、たった一つの共同体の中で暮らしているのだとしたら、いったい誰が、地球儀を作ったんだろう?』
『そりゃ、誰かが外に出て作ったんやろ』
『氷雪に閉ざされた地球を、蒸気機関の発明にすら至れていない彼らが一周できると?』
彼は少し間を置いてから答える。
『昔は外も中と変わらんかったかもしれんで。なんかこう……外側だけ氷河期になって、人間はみんなここに逃げ込むしかなかった、とか』
『いい線だ。君は勘が鋭いね』
『なんで上から目線やねん。おっさんかてなにも知らんやろ』
『僕は君よりひと月はやくこの世界にきていた。そしていま君の傍にいる人たちとは比べ物にならないほど親切な女性にこの世界のことを教わった。だから君よりはこの世界を理解しているんだよ』
『親切な女性、ね』
僕は彼の皮肉を黙殺し、それに、と続けた。
『僕は前世で特異階級の傍にいた。だからこの世界に覚えあるんだ』
『つまりなんや?』
『ここは異世界なんかじゃない。ここは未来の地球だと、僕は推測している』