第四話
◎
そんなわけで、僕は恋人を失い、代わりに無二の親友を得た。
彼女を恋人と呼ぶのは不適切かもしれない。実際に僕たちは恋仲であったわけではなく、僕が一方的に思いを寄せていただけなのだから。しかしもし彼女がこの世を去ることがなければ、僕の想いは届いていたかもしれない。相思相愛になれていたかもしれない。僕はあったかもしれない未来を捨てきれずに、彼女のことを恋人だと呼んだ。もちろん頭の中でだけだけれど。
人と人の関係性はいつどう変わるかわからない。道端ですれ違った相手と、ほとんどの場合は一生交わることはないだろうが、ふとしたきっかけで、友人や恋人といった親密な関係を築くことになるかもしれない。あるいは仇として手にかけることだってあるかもしれない。
つまりどんな可能性だってあるのだ。人と人の間には。
彼とはじめて会ったとき、僕はひどく混乱していたし、彼も取り乱していた。お互いにまともな状況ではなかった。しかし例え冷静であったとしても、僕たちは互いが互いにとってなくてはならない存在になるとは考えもしなかっただろう。
なぜなら僕たちは、この世界でたった二人だけの異界人でありながら、まったく異なる心境にあったからだ。
僕はこの世界で二度目の生を受けたことを心から感謝していたが、彼は怒り、嘆いていた。
神を憎むどころか、その存在を否定するほどに。
「よく正気でいられるな」
彼は大股を広げ、乱暴に髪をかきむしった。
「いやむしろ狂ってるやろ?なあ?そうじゃなきゃ敵の親玉に鼻の舌伸ばすなんてありえへんもんな?」
「敵の親玉って、彼女のことを言っているのか?」
「彼女?」
「つまりその身体の本来の持ち主のことだよ」
ああ、と呻き、彼は項垂れた。が、すぐに顔をあげ、垂れ下がった長髪を煩わしそうにかきあげた。
「うっとうしいな。切ったろか」
「やめてくれ」
僕は思わず声を大きくした。
絹糸のように艶やかな彼女の長髪が切り落とされるところなど、想像もしたくなかった。
「あんた、ほんまにこの女に惚れてたんか」
彼は唇の端を引きつらせた。嘲ろうとしたが、怒りの方が勝ったらしい。
「やっぱり狂っとる。それとも洗脳でもされたんか?」
「僕は正気だよ。洗脳されているつもりもない。それに彼女は敵ではない。僕の一番の味方だ」
「話にならん」
言うなり、彼は泣き崩れた。
「なんでオレがこんな目に……」
泣きたいのはこちらの方だった。
けれど彼が嗚咽を噛み殺して泣く姿はあまりにも哀れで痛々しかったので、僕はため息を飲み込んだ。
男が別の姿をしていたら、僕は容赦なくため息をぶつけただろう。涙ながらに彼を詰りもしたかもしれない。しかし彼は彼女の姿をしていた。そこにもう彼女はいないのに、まるで彼女を泣かせてしまったかのようで、僕は泣くに泣けなかった。
「君は僕と同じなんだね」
彼がいくらか落ち着きを取り戻したところで、僕は訊ねた。
「しかし君はいつからそこにいるんだ?少なくともひと月前まではいなかったはずだ」
彼は答えようとしない。
僕は口調を強めて、彼に問い続ける。
「教えてくれないか?君は僕のことをいくらか知っているようだが、僕はなにも知らないんだ。君は僕を蔑んでいるようだが、僕にはその理由を知る権利がある。理由のない暴力はこの世でもっとも罪深いものだからな」
彼は俯いたまま呟いた。
「……理由のある暴力はいいんか」
「ないよりはマシだ」
「あほか。暴力は暴力やろ」
彼は僕の上掛けをひったくり、乱暴に顔を拭った。
それからとつとつと語りだした。
ここに至るまでの経緯を。
「目が覚めたらこの女になってたんや。でもあんたと違って、オレは救世主として召喚されたわけやない。――――オレがこの女になったのは、事故なんやと」
彼の話を要約するとこうだった。
彼はある日目覚めると彼女になっていた。僕のようにお膳立てされたものではなく、それは誰にとっても想定外の召喚だったらしい。
当然だろう。なぜなら彼女は皇帝、この世界の統治者だ。そんな人間の身体を召喚の器とすることなどありえない。統治者の身内から生贄が選出されることはあれど、統治者自身を生贄にすることなどありえない。そんなことをすれば誰も統治者になりたがらなくなる。優れたリーダーは救世主以上に不可欠だ。統治者の身体にしか救世主は降ろせない、といったような条件でもない限り、生贄に選ばれることはないはずだ。
それは誰の意図したものでもない、不慮の事故だった。それは誰も望んでいなかった不幸だった。
それこそ神のいたずらとしか思えない。処女懐胎のようなものだ。彼女は正式な手順を一切踏むことなく彼を宿した。しかしまったくありえないことではなかった。なぜなら処女懐胎を成したのは彼女が初めてではないからだ。
複雑でほとんど運任せの召喚術。これに頼ることなく、異界人をその身に降ろした人間は、歴史上数名記録されている。ほとんどが数百年前のもので、それこそ聖書に書かれた処女懐胎と変わりない。ほとんど伝説、おとぎ話の中の話だった。
それがよりにもよって、世界に危機が迫るこのタイミングで、統治者の身に起こった。
彼女は異界の魂にその身を奪われ、死んだ。
器を失くした彼女の魂は消えるという。もとの身体に残ることも、異界の人間と入れ替わるようなこともなく、ただ静かに消えていくという。
彼女は死に、代わりに救世主がやってきた。
これは他ならぬ当人たちにとっても不幸な出来事だった。災厄を退けるという一大事業に粉骨していた彼女は、志半ばでこの世を去ることとなった。彼女の身体に二度目の生を迎えた彼は、自らの境遇を受け入れがたいものとして嘆いていた。
そう、彼は僕と異なり、与えられた身体に不満を持っていた。
どうやら前世ではまだ二五歳の若者だったらしい。それも自分の容姿に自信を持っていた。しなやかな四肢、整った顔立ち、抜群の運動神経。本人曰く「波に乗ってる二・五次元俳優」で「覇権アニメが原作の舞台の主演に選ばれた」ところだったという。それがどれほどのすごいことなのか僕にはよくわからなかったが、とにかく本来の彼の容姿は人並み以上のもので、彼はそれを自負していた。
そんな彼だからこそ、彼女の、三八歳の女性の身体は受け入れ難いものだった。強い違和感があり、拒否感があった。彼女は美しく、見た目は年齢よりもずっと若々しかったが、実際に若者であった彼からすると、それは表面的なもので、もとの自分の身体とはやはり別物だったという。おまけに性別まで異なるのだ。柔らかな身体も、高い声も、軽い股座も、彼には馴染みのないもので、易々と受け入れられるものではなかった。
「まだここが異世界であっただけマシやけどな」
彼はひどく投げやりな調子で言った。
「自分の部屋でこの身体になってたら、オレはもう多分一生外に出られへんかった。ここは異世界で、ネットもテレビもなんもなくて、オレのこと知っとるやつが誰もおらん。それだけが唯一の救いや」
「ネット?テレビ?」
僕は彼が口にしたそれらの言葉に驚いた。なにかの比喩だろうか?それともスラング?研究所にこもりきりだったので、世間に疎いという自覚はあったが、ここまで若者言葉についていけないとは。おまけに彼は関西訛りだ。英語や中国語訛りならまだしも、日本方言を生身で話す人間に会ったのは、僕はこれが初めてだった。
近頃の若者は、方言を話すのがトレンドなのだろうか?それはとても難しいし、勉強のいることだと思うが、しかし僕の幼少期もベトナム語と日本語のミックスが粋な話し方だと流行したことがあった。(ブームはすぐに去ったが、未だに僕のすこし上の世代では、会話にベトナム語を交える者が多い)いわゆる関西弁の発音はベトナム語と同等かそれ以上に難しいと思うが、だからこそ粋だと持て囃されているのかもしれない。ひとつのリバイバルだ。
「なんや」
考えこむ僕に、彼は訝しむような視線を送る。
僕は彼がどのように関西弁を修得したのか、彼の同世代はみな彼と同じように関西弁を用いるのか訊ねたくなったが、おじさん扱いされるのが嫌で、なんでもない、と首を振った。
そもそもいまは、そんな呑気な会話をしている場合じゃないのだ。
「君は、寂しい、とは思わないのか?両親や友人のもとを離れてしまったわけだけれど」
「寂しいに決まっとるやろ。だけどこんな姿晒すくらいならもう二度と会えへんほうがましや」
彼はわずかに逡巡してから、僕に問いかけた。
「でも、ほんまにもう二度と会えへんのやろか?」
彼は両親に大切にされてきたんだろう。そして友人にも恵まれてきたのだろう。彼の問いかけには、それを知るに十分足りるほど、痛切な響きがあった。
「おそらく」
僕は彼を慰めはしなかった。
「君は二度ともとの世界には戻れないだろう。もちろんそこにいた人たちと再び相まみえることもない」
彼は志半ばで死んだのかもしれないが、その人生はおそらく満ちたりたものだったのだろう。それが僕には羨ましかった。ここで彼の身に降り注いだ不幸は、その帳尻合わせなのだ、きっと。だから彼は向き合わなければならない。
酷薄な現実と、彼女の肉体を、受け入れなければならない。
「なんで断言できるんや」
訊ねておきながら、彼は僕を責めたてた。
「異界から人を引っ張る術があるんや。帰す術があったっておかしくないやろ」
「可能性は否定できないが、帰ったところで僕たちは死者だ」
「……なんやて?」
「なにを驚くことがある。まさか君は死んでいないのか?」
彼は眉間に深いしわを寄せた。
「あんたは死んだのか?」
「ああ」
「たしかか?」
「間違いない。僕は病院で息を引き取った。そしてここで、この身体に、二度目の生を受けた」
彼は閉口し、瞠目した。
「まさか、君は死んでいないのか?」
僕の問いかけに、彼は当たり前やろ、と消え入りそうな声で答える。
「死ぬとか、ありえん。あの日はふつうに事務所向かって電車乗って――――それから、なんか衝撃があって――――身体が宙に浮いた、みたいな、よく覚えてへんけど、でも、死ぬとか、まさか、事故ったわけでもあらへんのに――――」
「そして次に目が覚めたらここにいた、と?」
彼は返事をしなかったが、その反応をみるに、図星で間違いはなさそうだった。
「やはり君も死んでいるよ。自覚がないだけで」
「違う」
「残念だが、状況を鑑みるに事実だ」
「ありえへん」
「異世界に転生した事実に比べれば、ずっと受け入れやすいものだと思うが?」
「死んでへん!」
彼は後ずさった。
一歩、また一歩と。まるでそうすることで、僕の突きつけた現実から逃れられるとでも思っているように。
「勝手に決めんなや!オレは死んでへん!」
「しかし僕は死んだよ。僕と君は同じように、誰かの身体を乗っ取る形でこの世界にやってきたというのに、僕だけが死者で、君が生者だったというのは、おかしな話じゃないか?」
「まったく同じではないやろ。あんたのは人為的なもんで、オレのは偶発的なもんや。あんたの来た道は一方通行かもしれんけど、オレのはわからんやろ。帰る方法がなにかあるはずや、絶対、必ず……」
僕は離れ行く彼のために声を大きくした。
「落ち着いて聞いてほしい。君も彼らもここを異界だと考えている。僕たちのもといた世界と似て非なる場所である、と。それは近代フィクションでもてはやされていた多元宇宙論に近い考え方だが、僕の立てた仮説では、ここは別宇宙などではなく――――」
「知らんわ、そんなん!」
気づけば彼の姿はすっかり暗闇の中に溶けてしまっていた。
僕の目にはもう彼の姿は見えなくなっていたが、しかし声の様子から、さほど遠くにはいっていないことが窺えた。
「もう嫌や……」
蚊の鳴くような声だったが、僕の鼓膜はそれを逃さなかった。
「帰りたい……」
かわいそうに、と僕は思った。けれどそれだけだった。僕にはなんの力もない。彼のためにしてやれることなどなにもない。
もし歩くことができたなら、僕は彼のもとまで駆け寄って、その細身を抱きしめてやるだろう。なにも言ってやれないが、ぬくもりを与えてやることぐらいはできる。震えるその身を、抑えてやることくらいはできる。
気づけば僕はすっかり彼に同情していた。彼女を失った悲しみよりも、彼を哀れむ気持ちの方が強くなっていた。雨が雪に変わるような、それはごく自然な変化だった。なにしろ彼は、他ならぬ彼女の姿をしているのだ。彼女の身を震わせ、彼女の声で泣いているのだ。中身がちがう別人だと割り切れるほど強靭な精神を、僕は持ち合わせてはいなかった。
「あんたに会えばなんとかなるような気がしてた」
彼の声はまた遠ざかって行った。
「どうしてそんな気がしてたんやろ。あんたも同じ捕虜で、しかも寝たきりで、オレよりずっと不遇なのに――――」
彼はもはや僕に語り掛けてはいなかった。それは彼自身に向けた独白だった。
「――――せめてあんたが不幸でいてくれたらよかったのに。なんでそんな状態で、呑気にしてられんねん。女に惚れて、自分は幸せ、なんてのうのうと言えるんや。オレはこの女の代わりに皇帝やって、あんたの代わりに世界を救わなくちゃならんっちゅうのに」
「彼女の代わりに皇帝?」
僕はつい口を挟んだ。彼も僕と同じように転生した身だ。だから僕と同じ特別な力を、災厄をはらう技術を持っているのだろう。故に僕の代わりに救世主として祀り上げられているのだろう。それはわかるが、しかしなぜ彼が、皇帝という重役まで担わなければならないのだ?それは先進国の技術者が、技術を伝授するために赴いた発展途上国で、王位に就くようなものだ。お飾りにしたって、なにも彼女の称号をそのまま授ける必要はないだろう。彼女は民衆から厚く支持されているようだったし、そんな彼女の身体だけでなく、称号までも彼が受け継いで、果たして民衆は納得するのだろうか?他の為政者たちは、溜飲を下げるのだろうか?
「この女を生きてることにしておきたいんやと」
頭にあふれたそれらの疑問は、口にする前に、遠くから響く彼の一言で一蹴されてしまう。
「この女の地位を失くしたくないんやろ。せやからオレの存在は公表されてへん。オレはひと月前に召喚されてから今日まで、皇族連中に脅されて、ずっとこの女のふりをしなくちゃならんかった」
僕は絶句した。
まさか彼女のふりをさせられていたなんて。
「オレはこれからも死ぬまでずっとこの女といて生きて行かなあかんのか?――――嫌や。そんなん。なんぼ役者やからって、そんな、同じ人間演じ続けるなんて、できるわけない。芝居でもなんでもないやん、そんな――――オレはほんまに死んだんか?そうやとしたらグロすぎるやろ。一回死んだのに、転生した先でも、自分殺して生きなあかんなんて――――」
静寂に響いていた彼の声は、突然の騒音にかき消される。
廊下へと続く観音扉が開け放たれ、堂の中に、明かりを掲げた男たちが飛び込んでくる。
「いたぞ!」
兵士だろうか。男たちはみな、上衣に帯を締め、動きやすそうな股引を履いていた。軽装だが、胸当てと腿当ては金属製で、帯刀もしている。中央アジアの騎馬民族のような装いの彼らは、あっという間に彼の身柄を拘束する。
「困りますな、陛下」
男たちの先頭に立つのは、僕の世話係を務める皇族の老人だった。
老人は手にしていた角灯を掲げ、彼の姿を照らし出した。
悲惨な姿だった。
瞬きの閃光だけではわからなかったが、彼の姿はボロボロだった。恐らく無理やりここまでやってきたのだろう。ほとんど肌着同然の薄着で、手は真っ赤に腫れあがり、肘には擦りむいたあとがあった。靴代わりにボロ布を巻いた足先にも、真っ赤な血が滲んでいる。絹の髪はもつれ、蜘蛛の巣や埃が絡まっていた。そしてその美しいかんばせは、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
しかしそんな姿の彼に対して、老人は冷たく言い放った。
「無責任な行動は控えていただきたい」
彼は涙ながらに老人を睨んだ。
「なにが無責任や。あんたらが勝手におしつけただけやろ。皇帝も、救世主も、くそくらえや」
老人は真顔でかぶりを振った。
「やはり陛下のご病気は深刻なようだ。今一度、きちんとした治療を施さなければ」
老人は彼に手を伸ばした。
「あんたらのためにオレがしてやることなんてなんもあらへん。なんでオレが誰かを救ってやらなあかんのや。誰もオレを救わんのに――――」
彼の口を老人が塞ぐ。なにかを吸わされたのだろう。彼は脱力し、気絶する。
しかし意識を失う直前、彼は縋るような視線を僕に投げた。
「僕が君を救おう!」
気づけば叫んでいた。
なぜそんなことを口にしたのか、自分でもわからなかった。それに僕が叫んだときにはもう彼は気を失っていた。僕がなにを喚いたところで、彼には届かない。それに寝たきりの僕がなにを吠えたところで、それはたわ言でしかなく、彼の耳に届いていたとしても、なんの慰めにもならなかっただろう。
無意味で、滑稽だ。
それはわかっていた。
それでも僕は、叫ばずにはいられなかった。
「君のことは僕が必ず救ってみせる!」
無意識に、考えなしに、しかし心から、僕は彼を救いたいと思った。
こんな気持ちになったのははじめてのことだった。彼に対する哀れみは、彼女に対する思慕と同じくらい、抗いようのない感情だった。
以降、毎週土曜お昼ごろの更新になります。