第三話
◎
結果的にいうと、僕の彼女への思慕は、あっけなく散ってしまった。
彼女に拒絶されたわけではない。僕が諦めたわけでもない。僕の初恋と失恋は、本当に神からの罰としかいいようのない形で、もたらされたのだった。
彼女は僕に花を摘んできてくれるといった。僕はそれを心待ちにしていた。けれど約束をした日から、一週間たっても、二週間たっても、彼女は現れなかった。
もともと彼女は常に僕の傍にいたわけではない。彼女は皇帝で、多忙だった。本来であれば僕の相手などしている立場の人間ではなかった。
この世界において、皇帝という称号はいわばお飾りのようなもので、彼女の役割は議会のまとめ役に過ぎないという。絶対の権力があるわけでも特権的な身分というわけでもなく、あくまで象徴的な存在に過ぎないという。それでも仕事は多忙を極めたし、なんの役にも立たない死にかけの男にかまっている暇は、本来なかった。
僕が寝かされている神殿(正式名称は西方霊堂というそうだが、なんだか慰霊堂のような響きがあって嫌な感じがするので、僕はあえて神殿と呼んでいる)は彼女の職場である首都から馬で一日かかる距離にある。ふだん、僕の身の回りの世話は、僧のような身なりをした老人たちが引き受けており、彼女が僕のもとを訪ねてくるのはせいぜい週に一度だった。老人たちは彼女の親族、隠居した皇族だった。彼らは寡黙で、最低限のことしか口にしなかったので、僕は常に話相手に飢えていた。
自分が存外おしゃべりなたちであったというのも、この世界にきてからの発見だった。
神殿には隠居した皇族の他にも、観念動力の専門家である技師が在中し、日ごとに僕の身体の検査や、問診を行った。彼らもまた話相手にはなりえなかった。僕のもといた世界はここよりずっと技術が発展していたので、僕は彼らに技術的なアドバイスを授けることもできた。しかし彼らはそれを求めていなかった。僕のもといた世界の歴史や文化にも興味を示さない。僕のいた世界とこの世界は異なるものではなく地続きなのではないか、という僕の仮説にも、耳を貸してはくれなかった。
彼らはどうも、僕の話はすべてたわごとだと思っているようだった。信憑性のない、実証できない僕の話に時間を割く余裕は、彼らにはないようだった。
彼らは前世での僕によく似ていた。仕事に追われ、心に余裕がないようだった。たった一人、僕の話をおもしろがってくれる若い技師がいたが、彼も急がしいようで、検診を行う短い時間しか僕の相手にはなってくれなかった。
僕はそれを寂しく感じたが、彼らを責めることはできなかった。ある程度心を麻痺させなければ取り組めない仕事がある。情報を極力排し、視野を狭窄させなければ、遂行できない任務がある。僕は同じ技術職として、彼らの心境が痛いほどわかった。おまけに僕が得たこの肉体は、彼らの元上司のものだ。それも厚い信頼と深い尊敬を受けていた人物だという。彼らが僕に対して親身になることは困難だろう。
僕が接触できるのは技師か隠居した皇族のどちらかだけだった。僕が失敗作の救世主だからだろうか。どうも、彼らは僕の存在を公にはしたくないようで、僕はこの世界にきてから一度も神殿の外に出たことが無いし、技師と皇族以外の人間との接見も許されなかった。
つまり僕のまともな話相手は彼女だけだったのだ。周りにもう少し話相手がいれば、僕が彼女への懸想をここまで深めることもなかっただろう。彼女の負担となることはわかっていながら、弱みに付け込んで、無理に迫るような真似はしなかっただろう。
けれど僕が強く要望しなければ、多忙な彼女がわざわざ時間を作って僕のもとを訪ねることはない。僕はこの世界で安楽に暮らしていたが、けれど彼女に会えなくなると思うと、それは途端に色あせてしまう。
不思議なものだ。前世で僕は、理想の身体さえ手に入れば他にはなにもいらないと思っていたのに。実際にそれを手にして心に余裕が生まれると、そのすき間を埋めたくなった。ひとつ渇望が満たされると、また別の渇望が生まれる。満足するということを知らないのだろうか、僕という人間は。あるいは、人間という生き物が、元来そういう性質なのか。
とにかく彼女はある日突然ぱったりと僕のもとを訪ねてこなくなった。
僕はとても落ち込んだし、混乱した。
理由を訊ねても、世話係の老人も、技師たちも、わからないと首をふるばかりだった。きっと忙しいんでしょう、と。そのうちやってきますよ、と、毒にも薬にもならない慰めを与えるばかりだった。
さまざまな憶測が頭をよぎっては消えていった。本当に忙しいのだろうか。花を摘んできてほしいという子供じみた願いに辟易したのだろうか。手を握ったのが嫌だったのか。僕の言葉がなにか勘にさわったのだろうか。僕の相手をすることが嫌になってしまったんだろうか。どこでなにを間違えたのか。どうすればよかったのか。考えても答えは出なかった。
僕は若い技師に頼み込み、彼女へ文をしたためた。自分の子どもでもおかしくない年齢の少年に恋文の代筆を依頼するのはどうかと思ったが、僕はこの世界の文字を書くことができなかったし、彼女の親族である老人たちに頼むよりはマシだと思った。
彼はそれを快く引き受けてくれた。ツテを使って、彼女に直接手紙を渡してくれるという。
僕はその若い技師に深く感謝した。なにかお礼をさせてほしいと言うと、彼はぱっと顔を明るくした。
「でしたら今度、僕の作った霊術――――そちらの世界では念動機構と言いましたか?――――を見てくださいませんか?まだ設計段階なのですが、是非意見をお聞かせください」
もちろん、と僕は答えた。
正直言って自信はなかった。僕は最新の念動機構であれば知らないことはなかったが、この世界の技術(おそらく僕の世界に換算すると百年ほど前の技術)に対しては素人同然だ。最新機器に慣れた外科医が、治療のために人の腹を開けることなどありえないとされていた時代の人間に指南するようなものになる。彼の設計図を見ても、僕はきっと適切な助言を与えることはできないだろう。
それでも僕を慕ってくれる若き技術者を、無下にすることはできなかった。前世の僕は後進の育成など考えたこともなかったが、部下か、あるいは教え子、弟子とも呼べる存在がいれば、仕事は別の形で僕を満足させてくれたかもしれないと、彼を見て思ったからだ。
彼のような後輩がいれば、僕を苛んでいた孤独は、すこしは和らいでいたかもしれない。
◎
――――春を待ちわびています。
手紙の書き出しは、こんなふうだった。
――――僕は本当に幸運な人間でした。理想の身体を手に入れ、絵に描いたように穏やかで安らぎに満ちた生活を送っていました。歩くこともままならない身ですが、僕はここにきて不自由を感じたことは一度もありませんでした。余命いくばくもない身ですが、こんなに満ちたりた日々の中でならいつ死んでも悔いはないと思っていました。
――――けれど貴方に会えなくなってからというもの、僕の心はすっかり萎れてしまいました。
――――乾いた寒風に晒されているような心地です。僕の故郷では、冬は空気が乾燥するのですが、こちらではどうでしょうか?真冬の海で漂流しているような気分と言って、貴方に伝わるでしょうか?(そういえばこの世界には海がありませんでしたね。対岸が見えないほど巨大な湖を、代わりに想像してください)
――――僕にとって一番の幸運は、貴方に出会えたことでした。この世界に来てからの僕の日々が満ちたりていたのは、貴方という春風があったからです。
――――求めてやまなかった黄金を手に入れ、祖国を救った英雄であるかのような歓待を受けても、貴方がいなければ僕は幸福を感じることができません。
――――貴方は僕の春風。僕の良心。世界を彩る光そのものです。
――――お待ちしています。どうか僕の冬を終わらせてください。野花と共に春の風を運んできてください。
――――そして僕にまた、人生の喜びを、愛を、教えてください。
手紙を書いたのは生まれて初めてだった。
若い技師は僕のために、検診を手早く済ませ、代筆の時間にあててくれた。まず僕は口述し、彼はそれをそのまま書き出す。一度書いたものを彼が読みあげ、僕はそれを聞き、さらに推敲していく。時間のかかる作業だったが、彼は実に根気よく付き合ってくれた。技術者にふさわしい気質だ。僕は彼がどれほどの能力を持っているのか知らないが、若くして壮年の技術者たちに交じっているところから、優秀であることは疑いようもなかった。
僕たちは一週間ほどかけて手紙を書き上げた。
彼は完成した手紙を僕に見せてくれたが、やはり僕はその文字を解することはできなかった。
口語は日本語だというのに、なぜ文字だけが異なるのか。ここの人たちは、日本語を話すのにアラビア文字を使う。もちろん文法もアラビア式だ。僕がぽつりともらした疑問に、彼もまた疑問を返してきた。
「口語と文語が異なるのは当然では?音と文字をわざわざ合致させる必要はないでしょう?口語は耳に都合がいいものを、文語は目に都合がいいものを使うのが合理的です」
納得はできなかったが、おもしろい考え方だとは思った。
この世界の文明レベルは僕のもといた世界より低いところにある。しかし思想的な面では、同等か、それ以上のところにあるのかもしれない。
あるいはこの若い技師が、飛びぬけて柔軟な思想を持っているだけかもしれないが。
どの世界、どの時代にも天才は現れる。彼もその一人なのかもしれない。
間違いなく優秀であり、おそらく天才である少年は、僕の依頼をきちんと遂行してくれた。
彼は彼女の息子と親しいらしく、そのコネを使って、彼女に直接手紙を渡してくれたそうだ。
そう、なんと彼女は子持ちだったのだ。おまけに、一人はこの身体の男との子だが、もう一人は別の男との間にもうけた子だという。
彼女は子持ちであるだけに留まらず、二人の夫を持っていたのだ。
彼女は皇帝という特別な地位にあり、ここは異世界。僕の持つ常識が通用しないことは覚悟していたはずだが、これを聞いたときにはさすがに開いた口が塞がらなくなった。
しかしそれを知っても僕の心は変わらなかった。
子供がいるからといって、彼女の魅力が損なわれるわけではない。それに一妻多夫が認められているなら、僕が彼女の三人目の夫になれる可能性もある。
死ぬまでのほんのわずかな時間でいい、彼女に愛されてみたい。
僕の頭にあったのは、そんな願望だけだった。
◎
「……どうも」
彼女が僕のもとを訪ねてきたのは、真夜中だった。
僕は眠っていたが、彼女の声を聞いて、慌てて飛び起きた。(正確には飛び起きる力なんてなかったので、ただ両目を大きく開いただけだったが)
「驚きました。会いたいと申し出たのはこちらですが、まさかこんな夜遅くにいらっしゃるなんて」
僕はちらりと天窓を見上げた。三日月の端が見えている。まだ夜は深いところにある。照明具の乏しいこの世界では、大抵の人びとが眠りについている時間だ。ましてや皇帝たる彼女が、お供の一人も連れずに、男の寝床を訪ねていい時間ではない。無論、そういう意図があるのであれば話は別だが。
「とにかくお会いできて嬉しいです。少し瘦せたんじゃないですか?顔色もよくないようだ。よほどお忙しかったんでしょう」
忙しい中、僕のために時間を作ってくれた。たった一人で、誰も連れずに、来訪してきてくれた。その事実は僕を浮足立たせた。期待に胸が膨らみ、いまにもはちきれてしまいそうだった。
「手紙は読んでいただけましたか?」
「……いえ」
上ずった僕の声とは対照的に、彼女の声は細くかすれていた。
「読めませんでした」
読めませんでした?
聞き間違いだろうかと思い、僕は彼女を見つめた。彼女は小さな角灯を手にしていたが、その頼りない明かりが照らすのは彼女の手元と僕の顔だけで、顔は影に隠されてしまっていた。
「読めなかったので、代読してもらいました」
もしや、彼女は失読症なのだろうか。
頭をよぎったその推察を、僕はすぐに打ち消した。ありえない。なぜなら彼女は僕の前で小説や詩を何度も朗読してくれた。この世界の文字について簡単な手ほどきさえしてくれた。
それなのに手紙が読めず、代読を頼んだ理由はなにか。
視力や読解能力を低下させるような病を患っていたのか?それとも僕の書いた手紙を読むことに精神的な負担があったのか?
僕は彼女の不可解な発言を聞き流した。そうでしたか、と明るい声で応じた。なにはともあれ貴方に会えて嬉しい、とでも言いたげな笑みも添えた。
はい、と彼女は答えた。
その手は震えていた。指先が真っ白になるほど力強く、角灯を握りしめていた。
「本当に、貴方が書いたものなんですか?」
そう言ってから、彼女は手紙の内容を要約して口にした。
恋文を宛てた本人に朗読され、僕は顔から火の出る思いだった。改めて聞くと、実に気取った、稚拙で身勝手な文だ。全身がむずがゆい。麻痺して感覚が失われたはずの足先まで、羞恥のしびれが広がるようだ。
「私が書きました」
蚊の鳴くよりも小さな声で、僕は弁明した。
「子どもっぽいと思われたかもしれません。ですがそれだけ、私も必死だったのです。貴方に会えない日々は、昼のない世界を生きているようでした。もとの世界に戻りたいと思ったことなど一度もなかったのに、はじめて帰りたいと思いました。貴方に会えなくなってしまったら、私はせっかくここで与えられる安寧を、ちっとも謳歌することはできませんから。それならまだ、なにかに悩む余裕のなかったあの頃に戻った方がずっとマシだと思ったんです」
嘘だった。
僕は例え彼女に二度と会えないとわかっても、もとの世界に戻りたいなどとは、少しも思わなかっただろう。僕はなにがあっても、あの地獄には戻りたくない。神に与えられたこの理想の身体を、手放したくはなかった。
しかし彼女を引き留めるために、僕は思いつく限りの言葉を尽くした。自分にとって彼女の存在がいかに大きいものであるか、支えであるか、必死になって語った。
「ともかくまた会えてよかったです。――――まだ夜中だというのに、ここだけ先に朝がはじまったみたいだ」
僕は彼女の手元を見た。その手に野花は握られていなかった。
「自由に動けたら、清々しい朝のために、お茶を用意したのですが」
失望を飲み込み、僕は続ける。
「せめて、私のことは気にせずにくつろいでください。ホストの私がこれですからね、ゲストの貴方が椅子にもたれても、足を延ばしても、厚かましいなんてことにはなりません。休日の朝に二度寝をするような気持ちで、リラックスしていってください。この寝台は広いですから、空いているところに寝てもらってもかまいません。安心してください。この通りの身ですから、私が貴方に手を出すことは、万に一つも――――」
頬をなにかがかすめて、僕は言葉を途切れさせた。
僕の頬を掠めたそれは、そのまま寝台を転がり、勢いよく落下した。
それは角灯だった。
彼女が投げたのだ。僕目がけて、彼女は角灯を投げつけたのだ。
石畳を木槌で叩くような低い音が響き、炎が立ち昇る。炎はすぐに小さくなったが、大きく広がったその一瞬で、僕はそれまで影に覆われていた彼女の表情をはっきりと見ることができた。
鬼の形相だった。
怒りと悲しみではちきれんとばかりに、彼女の表情は歪んでいた。
「ええ加減にせえよ」
関西方言だった。
耳にするのはずいぶんと久しぶりだったので、僕はその意味を咄嗟に理解することができなかった。エエカゲンニセエヨ。いい加減にしろ。その言葉より、むしろ彼女の態度で、僕は彼女の怒りを知った。
「なに呑気に女くどいとんねん」
ナニノンキニオンナクドイトンネン。なぜ呑気に女を口説いているのか。僕は彼女が怒っていることはわかったが、なにに対して怒っているのかわからなかった。
というか、目の前にいるのは本当に彼女なのだろうか?
顔も声も彼女のもので間違いなかったが、疑わずにはいられないほど、尋常ではない豹変ぶりだった。彼女はこれまで一度として僕の前で声を荒げたことはない。畏まった態度と、堅苦しい言葉遣い。彼女は僕以外の誰に対しても控えめで礼儀正しかった。いつも憂いを帯びた表情を浮かべていて、怒っているところはもちろん、笑顔だってほとんど目にしたことがなかった。
まるで別人だ。
中身だけが、別の人物と入れ替わってしまったようだ。
「プライドないんか?怒りはないんか?こんな身体にされて、よく平気でいられるな?」
ありえないことだった。けれどこの世界ではそれが起こりうる。なによりも僕の存在が、その前例なのだから。
「目ぇ覚ませや。お前がいま幸せなはずないやろ。むしろお前、地獄におんねんで。寝たきりのジジイにされて、こんななんもないとこに閉じ込められて、ここが地獄じゃなかったらなんや」
この世界にも方言があり、彼女はその話者である。そしてこの粗暴な態度こそ、彼女の本性だった。
僕はこの期に及んで、そんな淡い期待を抱いたが、しかしそれは彼の次の一言によってやすやすと打ち砕かれてしまう。
「いや地獄よりもっと悪いな。この世には神も仏もおらん」
この世界に神はいない。この世界には神という言葉が存在しない。
「こんなババアにされるくらいやったら、磔で釜茹でされたほうがずっとマシやったわ」
それを知っているのは、異界からの渡来人である我々だけだ。