第十話
◎
僕はあの啓示的な夢を、奇妙なほどはっきりと覚えていた。
あるいは夢ではなかったのかもしれない。僕は過去の記憶と想像の世界を混ぜ合わせ、自分の中にあるイヌブセさんの像と無意識で対話をしていたのかもしれない。情報を整理するために。現状を正しく理解するために。
夢から覚めた僕は、無性に彼と話がしたくなって、何度か連絡を試みた。けれど応答はなかった。彼は僕とちがい、思念子機を四六時中身に着けているわけではなさそうだった。たぶん、ベッドの脇にでも置いてあるのだろう。課題や公務に追われているときに、僕から話しかけられても困るから。
僕は世話役の老人に、それとなく彼の現状を訊ねてみた。予想はできていたことだったが、陛下はお変わりありません、というそっけない返事が返ってくるだけだった。僕は仕方なく、彼の方から連絡が来るのを待った。
一日たっても、二日たっても、彼からの連絡はなかった。やきもきはしたが、耐え難い、というほどのものでもなかった。僕はそんな自分の心持ちが不思議だった。彼女からの連絡が途絶えたときは、毎日気もそぞろで落ち着かなかったが、いま僕はほとんど不安を感じていない。もちろん僕は彼に対して彼女と同じ懸想を抱いているわけではないから、心持ちが変わるのは当然といえば当然だ。しかし僕は彼を心から救いたいと思った。彼女への懸想と同じくらい、それは強い気持ちだったはずだ。それなのにどうして、彼からの連絡がなくても平気でいられるのだろう。
僕は彼とのやりとりを反芻し、すぐに理由に気が付いた。
『心配せんでも、また連絡したるから』
彼はそう言っていた。僕はそれを心から信じていたので、不安を覚えることがなかったのだ。
どうしてだろう。彼女とも最後に会ったとき約束をしていた。彼女は次に来るとき、必ず僕のために野花を摘んできてくれると言っていた。その約束は信じられなかったのに、どうして彼の言葉は絶対だと思えるのだろう?
僕はまた彼とのやりとりを反芻する。それからイヌブセさんとの夢での対話を思い出す。
イヌブセさんは友情を一方的でも成立するものだと言っていた。そして友とは、すべてを差し出してもかまわない、どんな献身をいとわない相手のことだと。
僕は赤面する。現実でも、僕はつま先から頭の先まで真っ赤になる。
恥ずかしい。と同時にとても嬉しい。
まったく子供みたいで嫌になる。
僕が彼からの連絡をなんの不安もなく待ち続けられるのは、実際に連絡がこなくてもかまわない、と思っているからだった。
僕は彼になんの見返りも求めていないのだ。彼が僕を無視しようが、裏切ろうが、僕は気にも留めない。いやさすがになにか手ひどい裏切りを受けることがあれば、すこしは傷つくかもしれないが、しかしさほど大きな傷にはならないだろう。
友だちのために人間の奴隷になることを選んだイヌブセさん。特異階級の人たち。
僕は彼らの気持ちが、ほんのすこしだけわかった気がした。
◎
彼から連絡がきたのは、三日後の夜のことだった。
『起きとるか、おっさん』
彼の声は前回と同じように、疲労でかすれ、眠気で間延びしていた。
『その後はどうだい』
僕が応じると、彼は深いため息を返した。
『どうもこうもない、あれからなんも変わってへん。今日も朝はようから視察やらようわからん会議やら連れまわされて、へとへとになって帰ってきたら息つく間もなく修練場に放り込まれてこの時間まで課題こなして……舞台と撮影掛け持ちしとったときでもこんな忙しいことなかったわ』
『それは大変だったね』
僕は彼を労わったが、一方で、前回僕の話を最後まで聞いてくれていたら、とも思う。
『でもまたこうして話せて嬉しいよ。前回は結局なんのアドバイスもできなかったから』
『アドバイス?』
なんのこっちゃ、と彼が言うので、僕は嘘だろう、と思わず呆れてしまう。
『僕が念力操作についてのアドバイスをしようとしたのに、もう眠いから次にしてくれと君が打ち切ったんじゃないか』
『そういえばそんな話したか?すっかり忘れとったわ』
彼は大きな欠伸をかいた。
どうも、前回よりよほど眠いらしい。
『でも悪いけど、あんたの話に付き合う余裕はいまはないねん。もうくたくたで指一本動かせん。頭もろくに働いてへん。いま何言われたって頭に入らんし、特に霊力操作の話はかんべんや。ついさっきまで鬼ほどしごかれとったからな。そんなことよりもっと別の話をしようや』
こう言われては、僕も引くしかない。
なにしろ彼は声だけでわかるほどひどく疲れ果てている。いまの状態ではまともな念力操作は行えないだろう。彼は休まなくてはならない。たっぷりと睡眠をとり、明日に備えなければならない。
しかしこんな状態がいつまでも続くようでは、僕はいつまで経っても彼の支援ができない。
さてどうしたものか。
僕が黙考していると、彼が心配そうに声をかけてきた。
『どうした、おっさん。拗ねたか?いじけんなよ。しゃーないやろ。あんたとちがってオレは忙しいんやから』
『それは承知しているよ』
僕は彼を安心させるために、努めて穏やかな調子で言った。
『ただ、君は本当に疲れているようだし、僕と話をするより休んだ方がいいんじゃないか、と思ってね』
『たしかに、あんたのいかれた話に付き合う元気はないな』
彼は短く息を吐いた。
『でも、誰かと話したかったんや。眠いしめちゃくちゃ疲れとるけど、それ以上にストレスたまっててな。こっちの世界のやつとだけ関わっとると、頭おかしくなりそうになんねん』
『僕に君の話相手が務まるだろうか?』
『無理やろな』
彼はにべもなく言った。
『おっさんまじで世間知らずやし話通じんからな。でも、他に相手もおらん。仕方ないからあんたで我慢するわ』
ずいぶんと傲慢で失礼なものいいだったが、僕はちっとも腹が立たなかった。むしろ嬉しかった。いまのところ僕は彼に直接的な支援はなにもできそうにない。けれど話し相手にはなれるのだ。彼がそれを望むなら、僕はもちろん応えたいと思った。そして僕自身、彼といろいろな話をすることを望んでいた。
『あんたさ、もとの世界に未練とかあるか?』
僕は少し考えてから、ない、と答えた。
『あちらの世界での未練を、僕はこの世界で晴らしている。だからむかしに戻りたいとは思わないよ』
僕はまた少し考えて、でも、と付け足す。
『君と話すようになってから、心変わりした部分もあるけどね。例えば、そうだな、僕は仕事ばかりで、世間でなにが流行しているかなんてまるで知らないままだったけれど、やはり少しは目をむけるべきだったなと思っているよ』
若者文化への理解がすこしでもあれば、彼との齟齬を減らせたはずだ。
彼もそれには同意して、そうやな、と言った。
『あんたはもうすこし世間を知っとくべきやったな。どういう団体に所属してたのかは知らんけど、あんたの思想は世間一般とかなりズレとる。もっと広い目でもの見られれば、おかしな団体から抜け出すこともできたやろうなあ』
『おかしな団体って、君ね、僕が働いていた工房は特異階級が管理、運営していたんだよ?自慢じゃないがそこに所属していた僕の社会的信用は官僚や警官の非じゃない。役者である君とは天地の差もある』
僕はついむきになって言い返してしまった。しかし僕もプライドというものがある。動機こそろくでもないものだったけれど、とても真剣に仕事に打ち込んでいたことは事実だ。工房の仕事は熱意をもって取り組むにふさわしいものだったし、僕はそこで培った自分の技術に対して少なからず自信を持っていた。彼の軽口は、そんな僕にとってとても聞き流せるものではなかった。
僕は一呼吸挟んでから、調子を緩めて言った。
『まあ稀有という意味では、おかしな団体、ともいえるかもしれないけれど。工房は世界で唯一、特異階級が市民階級を直接雇用していた場所だったからね。しかしそれにしても、工房で働く技師をコケにするなんて、君こそもっと世界を広い目で見た方がいい。なにか観念動力に関することで嫌な目にでもあったのかい?僕の親世代より上ならともかく、いまどき技師に対して偏見を持つなんて、時代錯誤も甚だしいよ』
『ようわからんけど、つまりおっさんはなんかの職人やったんやな。その業界ではそれなりに評価されてて、それを誇りにしとるんやな』
これだけいってもまだ軽口をたたくのか。
技師というだけで、たいていの人は尊敬のまなざしを向けてきたし、それだけで相手の信頼を得ることができたものだが、この若者にはそれが利かないらしい。これもジェネレーションギャップなのだろうか。
『けど役者を馬鹿にしたのはいただけんな。職人も役者もやってることは同じものづくりやろ。それにオレは芝居で飯をくっとった。駆け出しのころならなんぼコケにされても平気やったけど、いまは我慢ならん』
先に僕をコケにしたのは君の方じゃないか。そう言おうと思ったが、あまりにも大人げがないので控えた。
それに、彼の言い分にも一理ある。
僕は彼の役者という仕事をうさんくさいと思っている。観念革命以前ならまだしも、この時代に役者だけで生計を立てる?まったく想像がつかない。未だに人間が作る映画や舞台があるなんて、十八歳で仕事を始めて以降、すっかり世間から遠ざかってしまった僕には想像もつかない。だから先ほどの発言をしたときも、心のどこかで彼を見下してしまっていたかもしれない。
『オレはオレの芝居を売って生活しとった。ディーラーが車売ったり、役人が事務能力売るのと同じや。あんたかて自分の技術を工場に買ってもらって生活してたわけやろ。同じ仕事や。上も下もない』
僕はこれにはなにも言い返せなかった。
たしかに、技量とその需要によって得られる報酬の額は異なるが、職種そのものに貴賤はない。市民階級以下は平等で、差別することができない。僕らは同じだけの価値しか持っていない。弱者もいれば強者もいる。貧しきものも、富める者もいる。けれどそれだけだ。イヌブセさんたち特異階級との差に比べれば、それはベビーカーですら軽々と乗り越えられるかすかな段差に過ぎないのだ。
『ああ、腹立つ。デビューしたての頃は、やれ現実みろだそれじゃ食っていけないだいろいろ言われとったけど、近頃じゃみんな手のひら返してすりよってきとったから、よけいに効いたわ』
彼は大きく舌打ちをする。
まずい。どうやら僕は、彼の琴線に触れてしまったようだ。
『すまない、君を怒らせるつもりはなかったんだ』
僕はひとまず謝罪する。焼け石に水だろうか、とも思ったが、存外彼はあっさりと受け入れてくれた。
『気にせんでええ。もっとひどいことはさんざん言われてきたからなあ。それに――――くそ、おかげで思い出したわ。舞台の主演が決まったこと、オレまだおとんに報告してなかったわ。あの禿げ頭ぎゃふんと言わす前に死んでしもたんや』
彼の声はそこで一度途切れる。水か何か飲んでいるのだろう。声はないが、彼の意識がまだ子機に向けられている。僕は彼が無意識に送ってくる思念、パチパチと火花が散るような感情の発露を感じながら、彼が再び話し出すのを待つ。
『オレは未練ばっかりや』
しばらくして、いくらか落ち着いた彼の声が戻ってくる。
『やり残したことが山ほどある。これからってとこやったんや。好きなアニメの舞台化。それも主演やで?ずっと前から狙ってもん勝ち取って、演出との相性も良くて、稽古もうまくいっとって、本番が楽しみでならんかった。それなのに――――ああ、オレが死んだあと、舞台、どうなったんやろ。代役立てたんかな?まあまだ時間あったし、たぶんそうしたよな』
クソ、と彼は力なく悪態をついた。
『あの舞台だけやない。他にも決まってた仕事あったのに。はあ。役つくようになって、メディア出て、フォロワーも増えて、ようやく認められてきたのとこやったのに、なんでこれからってとこで死ぬんや。タイミング悪すぎやろ』
彼の声は沈んでいる。きっと表情は暗いだろう。もしかしたら泣いているかもしれない。
僕は彼を慰めたいと思う。けれどかけるべき言葉は見つからない。もし彼がいますぐ隣にいたのなら、そして僕の身体にもうすこしだけ自由がきくなら、僕は黙って彼の肩を抱いたのだが。
『死ぬのにふさわしい日は、どんな日だろう?』
肩を抱くことができない以上、言葉で寄り添うしかない。
僕は慎重に言葉を選んで、彼に問いかける。すこしでも、曇った彼の眼をぬぐってやろうとする。
『もし一度でも本番を迎えることができていたら、君は満足して死を受け入れることができただろうか?』
『そんなわけないやろ』
彼はそう答えたが、一拍おいて、いやどうなん?と自ら反駁する。
『好きな作品の主演張れるってほんま一生に一度あるかないか、宝くじの一等あてるより難しいって先輩ゆうてたからな。あの舞台一回でも踏めたなら、短いけどいい人生やったって思えたかもしれん』
『うらやましい』
彼を慰めるためではなく、心から、僕はそれを羨ましいと思う。
『僕の前世には仕事しかなかったが、そんな情熱を抱いたことは一度もなかったよ。プロジェクトが成功しても、達成感より安堵の方が強かった。ひとつ終わればまたすぐ次のプロジェクトにとりかかっていたし、熱心に取り組んでいたつもりではあったが、その熱はコンピューターの排熱と同じで、輝かしいものではなかった』
『夢のない人生やったんやな』
『はっきりと言ってくれるね』
『友達も恋人もおらんかったんやろ。なんか、趣味とかもなかったんか?』
『ないよ。僕は本当に仕事しかしていなかった』
そうしなければならかなかった。
僕は仕事に打ち込むことで、現実的なすべての問題から逃げることができた。工房に引きこもり、最低限の人との関わりだけで生きていかなければならなかった。
『推しとかもおらんかったんか?』
『推し?』
『追ってるアーティストとかおらんかったんか?』
『そうだね。音楽も芸術も、僕はさっぱりだった』
『枯れとんなあ。生きててなんか一個くらい、楽しみはなかったんか?』
『やってみたいことならあったよ』
相撲観戦、競馬、麻雀、近所の銭湯やスナックの常連になって、そこの店員や同じ常連客と毎晩くだらないおしゃべりをすること。ありきたりな男の趣味だが、僕はなにひとつ経験することができなかった。
『どれもこれもジジイの趣味やんけ』
『そうかな。むしろ齢より若い趣味だと思うけど』
『まあ競馬とか麻雀はオレのまわりでも沼ってるやつぎょーさんおったけど、それでも人口の半分以上はジジイやろ』
『知らなかった。また世間知らずを露呈させてしまったな。まあ、僕はそれらを趣味にしたいと思っていただけで、実際に興じたことがあるわけじゃないから』
『仕事だけして死んだんか。えらい寂しい人生やな』
『そうなんだよ』
『否定せえ。いたたまれなくなるやん』
彼の声がすこし遠くなる。子機の位置を調整しているんだろう。僕の耳にも合っていないが、彼の耳にもまた、この子機は合っていないらしい。
『寂しい人生やけど、なんの未練もないってことはないんちゃう?』
子機の調整を済ませた彼の声は、幾分か聞き取りやすくなっていた。
あるいは彼が声の出し方を変えたのかもしれない。
『恋人はおらんでも、家族はおったやろ。世話になった人らに、なんの後悔もないくらい、孝行できてたんか?あんた』
『未練がないのは本当だよ。両親とはずいぶん前に縁が切れていたし、他に世話になった人といえば、工房の管理人、雇用主くらいのものだけど、あの人には仕事で十分恩義を返したと思っているから』
『ほんまに寂しい人生やん』
『でも未練を持たずに済んだ』
その点君は苦労しているようだ、と僕は言う。
『ずいぶんたくさん未練を抱えているみたいだね』
『皮肉か?』
『うらやましいんだよ』
『嫌味か。まあ、あんたの言う通り、オレは未練たらたらや。まだなんの親孝行もできてへんかったからな』
『できた息子だ』
『アホ。けっきょくオレはなんの孝行もできんかった、ただのドラ息子や。――――おとんもおかんもオレが役者になるの反対でな、それなのにオレ無理やり高校中退して東京いってん。もう二人ともかんかんで、一時期はほとんど勘当されてたわ。姉ちゃんと地元の友だちはえらい応援してくれたし、オレ自身反発心でなにがなんでも売れてやるって奮起してたから、ホームシックなんてまるでなかったけどな。でも――――』
乾いた舌打ちを挟んでから、彼は続けた。
『ぎゃふんと言わせてやりたかったのに、できんかったな。オレの主演作、梅田駅にどでかい広告出る予定やってん。それ見せて鼻明かしたかったのに、衣装合わせもせんうちに死んで、はあ、ほんま、なんにもならん』
『君の未練は親孝行じゃなかったのか?』
『親孝行やろ。一度は見限った息子がどでかい看板背負って戻るんや。親としてこれほど嬉しいことないやろ』
僕は思わず笑ってしまう。
『君ほど自身に満ちた人を僕は見たことがないよ』
『役者なんてみんなこんなもんやで。誰よりも目立ちたいから舞台に立つんや』
『魅力的だな。僕は芝居に関心をもったことはなかったけれど、君の演技なら見てみたい』
『見たきゃいつでも見れんで』
彼はそう言って哄笑し、僕の世辞をはねつけた。
『なにしろオレはここのところ毎日女帝をしとるからな。それもただしかめ面して座ってるだけのお飾り女帝。退屈なのにめちゃくちゃ難しい、誰もやりたがらん役どころや。おっさん知らんやろうけど、動かない演技が一番難しいからな。この女は動かへん上にしゃべりもせん。オレみたいなプロ中のプロにしか、代わりなんて務まらん』
『これまでに似たような役を?』
『女やないけど、あるで。さらわれる王子の役でな、終盤の二十分くらいでずっぱりで、壇上の中央で置物みたいに佇んでいなきゃならなかった。役っちゅうより舞台背景やったな、あれは』
懐かしい、と彼は言った。
『二十歳のときの舞台やったから、もう五年前か。鍛えられたでえ、あの舞台は』
『どんなお話だったのかな』
『一時期バズってたインディーゲームが原作のミュージカルや。「世界のはじまりとサンドランド」って知っとるか?』
知らない、と僕は答える。
聞いたこともないタイトルだ。
『だと思ったわ。まあ舞台化決まった段階でオワコンやったからな。そのわりに客入りは悪くなかったけど』
彼は舞台の内容をかいつまんで説明してくれた。
それはモグラと呼ばれる少年の冒険活劇だった。




