女神と花祭り〜見習いユールが観た花戦〜凡人と行く至って普通の中世風旅日記<番外編2>
いつもフィラネスに振り回されている付き人ユールの視点からの物語。花祭りの序章。
初夏の宵がゆっくりと忍び寄り、夜の帳を静かに降ろし始めた。
夜気を含んだ風が項を通り抜け、祭りで高揚した身体に心地よい涼を運ぶ。
初日を終えた街は、浮かれ気分のまま茜色に染まっていた。珍しい屋台や出店に歓声を上げる子ども達。叱りながらも、楽し気にそぞろ歩く家族連れ。街角で芸を披露する旅芸人や吟遊詩人。酒場のあちこちでは祝杯が上がり、ケンカも始まる。そんな喧噪も、街中に飾られた花々の優しい香りに包まれていた。
春の到来を告げる『花祭り』は、スエラ領の都アスンでも二日間行われる。
春の女神セロネラを祀って、街全体を花で飾り付けて今年の豊穣を願う。着飾った娘達を乗せた華やかな山車が街を練り歩き、近隣の村人達が伝統の踊りを披露して祭りを盛り上げる。
陽はとっぷりと暮れようとしていた。だが、辻辻には篝火が焚かれ昼間のように明るい。今時分には家に帰るはずの若い娘達も、露天の焼き菓子を頬張り、はしゃぎながらおしゃべりに興じていた。
それもそのはず。ーこれから『夜の花祭り』が行われるからだ。
この祭りには、子どもや年寄りは参加しない。言わば「大人の祭り」。男女の出会いの場であった。
日頃、貞淑や品格を旨とする善男善女も、今夜ばかりは大っぴらに手を繋ぎ、ダンスに興じる事が出来る。人々の様々な期待や思惑を写すように、パチパチと篝火が爆ぜる。
特に、今年初めて参加を許された若者達は、そわそわと落ち着かない。経験豊富な男達から、相手の誘い方や口説き方を冷やかし混じりに、あることないこと伝授され奮い立つ。娘達は今流行りの化粧を念入りに施し、いつもよりちょっとだけ濃い紅を差した。
街中に飾られた花々の芳香が女達の香水と相まって、男達の鼻孔をくすぐる。昼間、見初めた相手を捜す瞳が、期待と不安に煌めいていた。
夜が更けるにつれ、中央広場の舞台の回りには着飾った人々が集まり始めていた。色とりどりの花々で飾られた舞台は白い天幕が張られ、ひと際明るい。これから始まる夜だけの催し物に、期待を込めた人々の熱気が天幕を揺らしていた。
夜祭りは歌に始まり、歌に終る。事前に選ばれた歌い手「夜告げの鳥」が開会を告げ、「朝告げ鳥」が締めくくる。その間、玄人芸人や旅芸人、街の歌自慢の素人まで、この華やかな舞台に上がり、それに合わせて人々は夜通し歌い踊るのだ。
この舞台の目玉は、何と言っても高級娼婦達の競演だった。日頃、滅多にお目にかかれない美姫達に、男達は色めき立ち、女達はその最新ファッションに釘付けになる。
娼館は新たな客を呼び込む宣伝として、選りすぐりの美女を送り込んだ。富豪や貴族達は、贔屓の芸妓の衣装や飾りに競って金貨をはずみ、贅を尽くした趣向で人々の話題を攫うのも恒例となっている。
「今年の一番は『金の孔雀』のマエーレか、フェビナだと思うぜ!」
「何いってんだ!『薔薇の館』のソポンに決まってる!」
男達が下品な笑い声を上げている後ろから、冷めた声が飛んだ。
「へえ〜、あんな下品で悪趣味な女が、あんたの好みかい。」
「ジョーナ!い、いや、もちろんお前が、一番だよ」
「今更、遅いんだよ!他をあたりな!」
「お、おい、ジョーナ!待ってくれよ〜。」
相手を追いかけて駆け出す仲間を見送り、噂話は尚も続く。
「そういや、あのクヤデの舞姫は、今年も拝めるのかねぇ。」
一人が口にすると、座は一気に盛り上がった。
「そうそう!いつ出る?今夜か?明日か?」
「俺は今夜と踏んだ。」
「どうだろなあ。去年なんざ『朝告げ鳥』の直前でよ、参ったぜ。でもよ、すごかった!待った甲斐はあった!あんまり歌が素晴らしかったもんで、みんな満足して『朝告げ〜』が歌う前に帰っちまったんだぜ。」
「本当かよ?話し盛ってねぇか。」
「嘘じゃねぇさ。一度観たら虜になっちまうぜ。歌って良し、踊って良し。その上、あの美貌!たまらねぇ。」
うったりと宙を見る。
「あんな美女と同衾してみたいねぇな。」
『無理無理。お前の稼ぎじゃあ、10年掛かる。」
「だーから、タダで拝める祭りに来てるんじゃねぇか。」
「一日しか出ねぇし、順番は変わるし、振り回されるけどな。」
「く〜〜っ!そこがたまらねぇ!」
賑やかな喧噪の中、「夜告げの鳥」に選ばれた男性が舞台に上がり、人々の熱狂とともに夜祭りの幕が上がった。
広場には薄闇が広がり、正面の舞台だけが明るく見える。それを取り巻くように屋台の小さな灯りが瞬いて、星空のようだ。
そんな様子を、広場に面した三階の窓辺からぼんやりと眺める女性がいた。
開け放たれた窓からは舞台の音楽と歓声、無数の屋台から様々な香りが流れ込んでくる。
そんな状況など一切感じられないほど、彼女の回りだけは静謐な空気が宿っていた。
女神に例えられるその美貌。豪華な刺繍を施した絹地のガウンを纏い、窓辺に寄せた椅子で頬杖を付きながら物思いに耽る。それだけで一幅の絵のようだ。
よく手入れされた金髪の巻き毛が、波打ちながらその身を流れ落ちる。若草色の眼を細め大きく息を吸い込み、悩まし気なため息をもらした。紅色の唇が確信を込めて呟く。
「新芽の素揚げ…クムの蒸し焼き!うん。」
領都アスンの花祭りに、クヤデの高級娼館『百花の園』が参加するのは毎年の恒例だった。
もちろん、主催者から特別招待されているからに他ならない。有力者レイナック卿からは花祭りの期間中、数ある屋敷の中からまるごと一件を宿として提供されるほどであった。
そこまで優遇されるのには理由がある。一重に『百花の園』の最上位『華』の一人、フィラネスを舞台に立たせるためだった。
レイナック卿は、毎年物議を醸し出す彼女の舞台が大の気に入りだ。どんな横やりが入ろうとも自分の権限でフィラネスの出演を決めてしまう。
当初、『百花の園』の主マダム・ルルーシュは参加を渋っていた。
アスンの同業者との軋轢を回避するためだ。だが、館にとっても大事な上客である卿の申し出を無下には断れない。しかも、フィラネスの知名度が高くなればなるほど、新たな客の獲得出来る。
両者のバランスを考えた末、フィラネスとお抱えの音楽隊のみで参加することにした。大道具の持ち込みも、一緒に舞台を盛り上げる踊り子も一切無しで歌かダンスを一演目だけ披露する。広い舞台にたった一人、天幕だけの殺風景な舞台なら、それほど目立つまいと考えたのだ。しかし、後にマダムはこの事を後悔するハメになった。
予想に反してそれが彼女の魅力を一層際立たせることになったのである。
「フィラネス様!」
ノックもそこそこに、ユールが飛び込んで来た。
「また順番が変わったんですよ!信じられない!」
「そう。」
あまり興味も無さそうな様子に、苛立ったユールが足を踏み鳴らす。
「13番目ですって!最初は35番目、次が40番目。そこまでは、まあ仕方がないかと思いましたけど、さらに27番目から一気に13番目ですよ!あと二刻(2時間)しかないのに!舐めるのもいい加減にしてほしいわ!数も悪いし!ああ、腹が立つ!」
ここ数年、主催者側には他の参加者達からは不満、批判が相次いでいた。そのほとんどがフィラネスの後ではやりにくいというものだ。彼女の後では観客が激減したり、あるいは盛り上がり過ぎ誰も舞台を見なくなったりと、変事が起きるからだ。
「君達が、彼女の上を行く舞台を披露すればいいだけのことだろう?」
レイナック卿にそう言われてはぐうの音もでない。そこで彼らは、彼女の舞台と距離を置くよう、進行係に賄賂を送ることに躍起となったのである。
おかげで演目の順番が二転三転する事態が発生していた。
事情を知らず、いきり立つ娘に元凶のフィラネスは穏やかな笑みを向けた。
「まあ、落ちつきなさいな、ユール。ここはアスンよ。毎度のことだわ。」
フィラネスの言葉にハッとする。ユールは冷静さを取り戻し考えた。
(招待出演者でありながらこの扱いは毎度のこと…と、いうことは、フィラネス様は毎度何かをやらかしている…というわけね)
ユールはがっくりと肩を落とした。
そんな彼女を他所に、フィラネスは外から聞こえる曲に合わせて鼻歌を歌っているのだった。
<ペンタス>のユールが、憧れだったフィラネスの身の回りの世話をするようになって半年。だが、『華のフィラネス』のイメージが壊れるには十分な時間といえた。理想の姿は、あっという間に叩き壊されたのである。
最高位の『華』は館の中でも滅多に会う事はない深窓の麗人達だった。そもそも<ペンタス>とは住む建物も違う。『睡蓮』ならともかく『水盤』に昇格したら言葉を交わす事もほぼない。そのため、彼女達の私生活はベールに包まれていた。その美しく優美な姿を遠目で見て、ペンタスの少女達は想像(というか妄想)の中にあった。
ユールも御多分に漏れず、世話係を拝命した時は天にも登る心地で誇らしく思ったものだ。
だが、日々生活を共にするようになれば、いくらかメッキは剥げるものだ。しかし、この館最上位の『華』達が、見た目と中身の落差はその範疇を越えていたのである。
ここでマダムの意図に気付いた。『華』を見習い達から遠去ける事で、彼女らが勝手に『華』を神格化するように仕向けているのだ。もっとも、今は実態を知られないために「隔離」していると考えた方がしっくりする。
サロンや殿方の前での彼女達は、近寄り難いほどの美貌とセンスの良さ、知己に飛んだ話術とそれに見合う立ち居振る舞いをする。まさに憧れであり完璧な手本であった。
しかし、その反動なのか日常生活では…
最初は何が起こったかわからなかった。
目の前で繰り広げられる事が信じられず、固まるばかりで対処出来ないでいるユールの肩を叩く者がいた。ノスティミアの世話係のジュランである。
「いいこと、ここでは「表の顔」は忘れる。ここに居るのは、別人よ。悪童と変人とマニア!そう思えばいいわ。いい?悪童と変人とマニアよ!まず、慣れるまで顔を見ない。わかった?」
そう言ってジュランは口許だけで笑った。小脇に本を数冊抱えて、肩にも本を抱えている。当然、肩を叩いたのも本の角だ。
誰が悪童で誰が変人かマニアか…それはすぐにわかった。
お茶を入れようとポットの蓋を取った途端、中からカエルが飛び出した。またあくる日は、靴下を結び止めるリボンを探していたら、2匹の野良猫に結び付けられていて捕らえるのに往生した。しかも、神出鬼没ときている。大人しく読書をしていると思い、ちょっと目を離すと居なくなる。それが客人との約束がある時に限って姿をくらますので焦って探していると、いつの間にか澄ました顔で露天の焼き菓子を渡されたりする。どうやって外に出ているかは、未だに謎だ。
…つまり、フィラネスは悪童であった。
ジュランの有難い教えを実践しながらも、何度罠にハメられたことか。
おかげで堅物といわれたユールも、今ではかなりこなれて用心深くなったのは言うまでもない。
言葉の端々、ちょっとしたしぐさ、前後の出来事から思考する。そうする事で、罠を回避出来るようにはなってきた。まだ勝率は低い。だが、見破られた時のフィラネスの顔が見物なのだ。困ったことに、最近はその顔見たさに悪知恵の裏をかく事ばかり考えている。
「待つ時間は退屈だもの。早く終った方がいいわ。」
楽し気に笑ってゴブレットを呷る姿を見て、我に返る。
「あ!ダメですよ、もう!踊る前に飲んじゃ!またマダムに叱られますよ!」
まったく、この人は!急いで酒壺を取り上げた。いくら飲んでも表情は変わらないが、酔うと突飛な行動に走る。ある種の『酒乱』だ。突然、客を殴り倒した現場に遭遇してから、ユールは常に「酒」には注意している。だが、いつも気が付けば手品のように酒壺を手にしているのだった。
「早い順番なら演目も替えようかしらね。」
澄んだ声で歌うような言われた言葉に、ユールは目を剥く。
「はあ!?」
思わず不満が声に出てしまい、慌てて咳払いでごまかす。確かに、演目は二つ用意してある。
「『鉄の男』は取り止め。『森の迷い子』で行くわ。大至急、音楽隊に伝えて来てちょうだい。それから、赤の衣装の用意もね」
「…は、はい。畏まりました」
「急いで」
フィラネスの命令である。ユールは部屋を飛び出した。廊下を足早に進みながら気持ちが高ぶる。
祭り用の選曲を聞いたときから、疑問に思っていた。二曲はまるで趣が違う。違い過ぎるのだ。明るく軽快な『鉄の男』はわかる。どこの祭りでも耳にするし、踊りやすい曲だ。
だが、『森の迷い子』は違う。昔から知られた曲ではあるが、その調べは暗く陰鬱なものだ。曲名の通り、不安を誘う。どう考えても祭りを盛り上げる曲ではない。
(あの曲で、どんな風に舞うのだろう。)
実は、そっちの方が気になっていた。当初の予定で『鉄の男』に決まったときは、ちょっと残念に思ったくらいだ。
ユールはフィラネスが踊るところをまだ見た事がない。客の相手として、サロンでダンスを踊る姿は完璧で優雅そのもの。しかしそれは、祭りの出し物として踊るものとは違う。
毎年話題となる踊りとはどんなものか、その練習を見られるかと内心楽しみにしていたが、それは叶わなかった。楽隊の演奏を聞いただけで、準備は呆気なく終ってしまったのである。
館お抱えの楽隊を呼び、フィラネスは選んだ2曲を通しで演奏させた。2回目の演奏が終ったところでテンポや繰り返す箇所、楽器の数などを細かく指示した。もう一度演奏させて確認する。
その間、椅子に座ったまま微動だにしない。すっと背筋を伸ばし、優雅な座り方のお手本のような姿勢で目を閉じて聴き入る。楽隊も慣れたもので、フィラネスの指示を一度で完璧に演奏してみせた。
「結構。では、当日。」
極上の笑みで労をねぎらい、楽隊は退出。
その後も、楽隊に何度か演奏させる事はあっても、舞いを練習する素振りもなく当日を迎えたのである。
あの余裕からすると、やはり予測はしていたのだろう。まるで前座のような扱いを受けも、フィラネスは揺るぎない。相手の出方を見て、対抗策として演目を替えたということか。
(まさか、暗い曲で演じて、祭りを盛り下げる?)
ユールは自分の考えを即座に打ち消した。彼女の知るフィラネスは、同業者の妨害など歯牙にもかけない。自らの遺恨のために祭りに水を差すなど、考えもしないだろう。
ただ、危惧すべき点が一つ。ここ半年で、感じた彼女の性格だ。
ー売られたケンカは、楽しく反撃♡
フィラネスが呼吸をするように、反撃を繰り出すのを何度見た事か。例えば、彼女が歩く先に足を出して躓かせようとする輩がいるとする。すると、相手の出された足を引っかけ、蹴り上げるのだ。当然、仕掛けた輩はバランスを崩して転倒ーといった具合だ。
今回も曲にかかわらず盛り上げる自信があるのだろう。
ただ問題は、その対抗策の結果だ。どんな騒動に発展するか予想が付かない。結果がどう出るか、期待と不安が綯い交ぜになってユールを高揚させる。
楽隊の控え室の前で足を止めた。
(フィラネスの付き人として、最善を尽くす。今は、それしか考えるな。)
自分に言い聞かせて大きく息を吐く。呼吸を整え、ユールは部屋をノックした。
そんなユールの思いを知ってか知らずか、フィラネスはガウンの裾に隠していたビーク酒の壺を取り上げた。ユールに取り上げられたゴブレットに再びなみなみと満たす。開け放ったままのドアを眺めながらゆっくりと一口味わう。日頃はそんな無作法をしない娘だ。彼女の心情が透けて見える。
(大分熟れてきたわね。)
生真面目で、感情を表に出さず従う。半年前のユールはそうだった。貴族の娘だっただけあって、『貞淑な妻になるための躾』をしっかりされていた。
しかし、ここは娼館だ。男達が求めるのは従順な妻ではない。どういう訳かマダムは、そんな真面目な子ほどフィラネス付きにする。またかと、思いながらも『華』である自分の役目として受け入れて来た。
しかも効果は覿面で、三月過ぎる頃から、表情豊かに自分を発するようになった。特に指導をした自覚がないので、彼女にとっては謎だ。
ただ一様に、口うるさくなるのは何故だろう。あれしちゃダメです、これを早くやってください、酒の飲み過ぎです等々…喧しい。同輩のノスティミアに愚痴ると一笑さた。
(そりゃあ、貴女の『破壊力』は半端ないものねぇ。でも、叩くハンマーが的確でれば、自ずと鉄は鍛えられるものよ。)
相変わらず、褒めているのか貶されているのかよくわからない。だが、ノスティミアが言うのならそうなのだろうと納得する。
その時、廊下を黒い影が通り過ぎた。フィラネスはすかさず、その名を呼ぶ。
「ノーク女史!」
無視するかと思いきや、しばらくして戸口に背の高い黒衣の女性が眉間に皺を寄せながら立った。
「何か?」
素っ気なく応じる女史に微笑みながら、手招きする。
「お願いがあるの。聞いてくれるかしら。」
ピクリと肩眉を跳ね上げながら、それでも話を聞く。しばし沈思する。
「…それは、私の仕事ではありませんわ。致しかねます。」
「あら、じゃあ、トゥトゥイーに頼んでちょうだい。彼なら出来るでしょう?」
トゥトゥイーとは『百花の園』に出入りしている人物だ。いつも黒尽くめの民族衣装を着ている黒曜人で、影のようにマダムに付き添うこともあれば、意外な役目をこなしたり、しばらく姿を消すこともある。ノーク女史の双子の弟とも噂される謎の人物だ。女史は腕組みをしてフィラネスを見下ろす。気の弱い者なら、その威圧感だけで震え上がるだろう。
「仕掛ける理由は?」
「演出効果よ、あくまでも。言い訳も立つし」
蕩けるような笑みは、ノーク女史には通用しない。若草色の瞳と冷静な紫の瞳がしばし視線を絡める。
「…トゥトゥイーに任せましょう。」
「ありがとう。」
女史は、くるりと背を向けて戸口で立ち止まった。
「言っておくけど。」
突然、男の声がクギを刺す。
「マダムの耳には入れるからね。それを頭に入れて、手加減しなよ。」
その声に驚く事もなく、了解を得たとばかりに微笑む。
「わかってるって。」
「…どうだか。」
「あ、新芽の素揚げとクムの蒸焼き、買って来てちょうだーい。舞台終わりに合わせてね。時間経つと美味しくないから。」
「…そんな暇があると?」
「アナタなら出来るでしょう?」
ため息を付いて廊下に消える。フィラネスは満足そうにゴブレットを飲み干した。
歓声が鳴り止まない。
『薔薇の館』のソポンが歓声に応えた。歌い踊り、途中で衣装の早変わりするという派手な演出。しかも、早変わり後の衣装が金ピカな上、飛び跳ねると胸が溢れ出るあられもない代物だった。ダンスで足を高々と上げるとスリットから派手な刺繍入りの靴下が、靴下止めまで露わになった。もちろん、ちゃんと下穿きは着けているが女達は眉を顰め、男達ははやし立てた。
予想通りの歓声を浴びて満足気なソポンは、舞台裏で後続の演者と擦れ違う。一瞬足を止め、素早く振り向いた。驚きのあまり彼女は、大声でその名を叫んだ。
「大きな帽子!」
ゆっくりと振り返った美貌が、悪戯っぽく笑う。
「久しぶり。元気そうね、大口。」
笑顔で抱き合い、はしゃぎながら話し始めた二人を、ユールは驚きの目で見つめる。客の前はもちろん、館の中でさえ孤高の存在のフィラネス。滅多に笑わず、感情を表に出さない彼女の、そんな様子を見たのは初めてだった。しかも、『大きな帽子』と『大口』と、どうやらあだ名で呼び合う仲らしい。二人があまりに対照的過ぎて、頭がついていかない。周りの人々も意外な組み合わせに驚きの目で向けていた。
「あんたにしちゃ、随分出番が早いんじゃない?」
フィラネスは、その外見からは想像出来ない飾り気の無い口調で問う。対するソポンも、至って普通に汗を拭きながら肩を竦める。
「お互い様。どうせ大店の都合ってとこでしょ。相変わらず、露骨よね。あ〜、でもよかった、あんたの前で。でなきゃ、あたしの舞台が霞んじまうとこだったよ。」
「何言ってんの。あれだけ舞台を湧かせておいて、よく言うわ。」
「下品に!派手に!元気よく!が、心情だからね。」
「後半のあのステップ、斬新で面白かったわ。ドレスのスリットも良いアイデアね。あのソックスが利いてたわ。すごく良かった。」
「ありがと。あんたに褒められるのが、一番嬉しいよ。」
はにかんだようにソポンは笑った。意外なほど素直で屈託がない。衣装の派手さにとらわれず、ダンスのステップを見ていたフィラネス。お互いを認め合っていることがユールにもわかった。
「しっかし、今回はまた清楚な衣装だね。」
確かに、今夜のフィラネスの衣装は一見清楚というより質素に見えるだろう。長い金色の巻き毛は櫛を入れたままで、一切の飾りはない。化粧も薄い。白のシフトドレス(下着)の上に、二枚の布を肩ブローチで止め、腰帯で押さえただけの衣装は神話に出て来る古代人の装いだった。
だが、その髪は朝日に煌めく川面のように艶やかで豊かに流れ落ちる。下手な髪飾りは不要だった。シフトドレスは上質の純白のリネン。二枚の布は深紅のビロード。縁取る金モールの他に、裾に金糸で細かな唐草模様の刺繍が施されている。肩ブローチは当然、純金だ。見る人が見れば、その価値がわかるだろうが、祭りの中では大人しく見えてしまうのも事実だ。
(いいのよ、私達は客分枠での参加なのだから。アスンの大店に花を添えるくらいの方が丁度良いの。それでなくとも面倒なんだから…)
衣装についてマダムとに相談したところ、そんな投げやりとも言える答えが返って来た。この時期、マダムは機嫌が悪い。ユールは知る由もないが、自分の誤算から毎年繰り返す『面倒ごと』で頭が一杯なのだ。
去年まで同行していた<睡蓮>のフィリアに聞いてみると、何ともいえない笑いを浮かべた。
(ああ、ユールは同行するの初めてだものね。あの人の踊りは絶対に観ておくべきよ。……まあ、後が大変だけどね)
どうにも釈然としない謎かけのようだ。嫌が上にもフィラネスへの期待と不安が高まるのだった。
その時、ソポンに向かってフィラネスが答えるのが聞こえた。
「そうよ。巫女さん並みに清楚でしょう。」
古代彫刻によくあるポーズを決め、ニヤリと笑う。
「今日はね、『森の迷い子』で踊るわ。」
そして、踵をドンと踏みならす。
ソポンは足元を見、驚きの表情で口に手を当てる。彼女にはフィラネスの意図が読めたようだ。
「おお、怖っ!やっぱ、先で良かった!」
大袈裟に身震いするソポンと笑い合っているフィラネスを眺めながら、緊張が高まるユールであった。
ソポンと別れて舞台の袖に向かう。
「とても、親しいんですね。」
呟いてから、立ち入ってしまった事に気付いて詫びる。
「全然」
「え?」
呆気に取られている。
「昔からのケンカ相手よ」
気にする風もなく答えが返って来た。舞台を見つめる美しい横顔には、先ほどの邂逅の余韻が漂っていた。
「小ちゃい村でね、『踊りの名手』を競ってたわ」
ー同郷。しかも、ケンカ出来るくらい言い合える友人…図らずも同じ道を歩んだ二人が今、都の大舞台に立つ。
フィラネスとて生まれた時から『百花の園』にいるわけではない。当然、故郷もあれば、幼馴染みもいるだろう。そんな当たり前な事も日頃は全く感じさせない。
「『国一番の舞い手になるのは、この私!』が口癖でね。だからあだ名は大口。今では、誰も笑わないわ」
舞台を見つめるその瞳に、強い光が宿った。
「私も負けてられないわね。」
口元の笑みに何故か総毛立つ。どうやら、好敵手が彼女に火を付けたらしい。
(これは…嵐の予感?)
その時、舞台の裏手からユールを呼ぶ者があった。
舞台の裏手を覗くと、真っ暗だ。誰もいない。空耳かと思い気やその時、風に乗って下から濃厚な芳香が立ち上って来た。目を向けると、足元近くに大きな白い花の花束。その中に青白い顔が闇に浮き上がっている。
「!!」
辛うじて悲鳴を飲み込む。よく見ると知った顔だ。
「…トゥ、トゥトゥイーさん?」
彼が来ているとは知らなかった。ユールはちょっと戸惑いながらも舞台端に寄る。顔ほどもある大きな花はハイドラだ。ねっとりとした独特の芳香が辺りに漂う。
「あの、フィラネス様に御用ですか?」
ユールは身構える。一体何事だろう。彼が来る時は、緊急事態か、正攻法ではな|い指示を出す時だ。そのせいか、彼に対して苦手意識がある。正直、眼が怖い。まるでガラス玉のように、何の表情も伺えないからだ。
「フィラネスから頼まれた。渡してくれ。」
素っ気なく言うと、花を差し出す。
舞台は地面から結構な高さに作られている。背の高い彼でも、顎の高さだ。ユールは跪かなければ受け取れない。
「キャッ」
慎重に手を伸ばしたはずが、バランスを崩し前のめりに身体が傾いた。
(落ちる!)
咄嗟に、目の前のトゥトゥイーの首にしがみつく。
「大丈夫?」
微動だにせず、受け止める。瘦せていても、やはり男だ。笑いを含んだ彼の声が耳をくすぐる。
「は、はい。すみません」
心臓がバクバクだ。闇に沈んで地面が見えない。深い井戸を覗いた時ようにヒヤリとした。
急いで身体を離そうとすると、「このままで」と素早く耳元で囁かれた。
「ついでに伝言も頼むよ」
密かに緊張が走る。
「『仕掛けは風上に置いた』そう言えば、わかる」
「…フィラネス様のご指示…ですか?」
「ああ、この花を荷馬車いっぱい買い上げて、そのまま放置してきた」
耳を疑った。一本でも芳醇な香りを放つ花だ。風上に置く事で広場全体に香りが広がることだろう。
すっと身体を離し、大輪の花束を渡される。
いつも見下ろされている彼を、自分が見下ろしている不思議。視点が変わったせいか、意外にもいつもの嫌な感じが薄れる。
(綺麗…)
いつもは冷たく感じる瞳の紫色さえ、今夜は美しく見える。角度が違うだけで、感じ方も変わるものか。
さらに意外な事なことが起きた。トゥトゥイーが笑ったのだ。
(この人も、笑うんだ。)
始めて見たせいか、妙に落ち着かない。
「頼んだよ」
その一言と同時に闇に消えて行った。
(…今夜は妙だわ。香りに酔ったかしら)
渡された白いハイドラの花束を見る。<水竜>の名を持つ花から独特の芳香が立ち上る。ひんやりと湿気を含んだような甘い芳香が絡み付く。彼女はこれをどう使うつもりなのか。仕掛けーという言葉が気になる。
(広場を香りで満たす相乗効果…って)
何かを掴みかけた時、歓声が上がった。前の演者が終ったらしい。フィラネスの出番はもうすぐだ。
ユールは急いでフィラネスの元に向かった。
伝言を反芻しながらフィラネスに目を移して、その光景にぎょっとした。
どこから手に入れたのか、小振りな素焼きの壺に直に口を付けている。どう見てもビーク酒の酒壺だ。それを今まさに飲み干したところだった。一部始終を見ていたらしい裏方衆が、その飲みっぷり讃辞を送っている。
目眩を起こしかけているユールを振り返り、満足げに微笑みながら酒壺を差し出す。
呆然としているユールからハイドラの花束を受け取ると、黒いレースのベールをふわりと冠った。ゆっくりと真っ暗な舞台に歩み出す。
トゥトゥイーの伝言を伝え忘れたことに気付いたのは、その後だった。
いつの間にか、舞台が暗い。
人々は気にする風もなく、周りの衆と演目談義で盛り上がっていた。 なにせ、祭りは始まったばかりだ。幕間の進行が遅れているだけだろう。ちょいと飲み物でも買って来ようか、というあんばいだ。
照明の篝火が減らされ、白い天幕が黒い天幕と入れ替わり闇に沈んでいる。しかも、なかなか始まらない。人々もさすがに、ざわつき始めた。
そんな中、暗い舞台の真ん中に白い花が咲く。
陰気な笛の音が単調なリズムを奏で始める。『森の迷い子』か。何人かが気付いたが、幕間の余興だとしか思わなかった。
影は動かない。笛の音が何度も繰り返すので、人々はそこで漸く舞台に目を向けた。
舞台上白い花束が浮かんでいるのを見て、そこで初めて演者が舞台に立っていることに気付く。足先まで隠れる黒いベールを頭から冠っているので、男か女かもわからない。人々が舞台に注目し始めた事で、少し広場が静かになった。それでも、人影は動かない。しばらくして、焦れた人々の間から罵声が飛び始めた時、大きく篝火が爆ぜた。
それを合図のように、花がゆるりと動き始めた。
白い花がなめらかに空中を漂う。単調なリズムに合わせ、シャンシャラと鈴の音が響く。まるで花が舞っているように薄暗い照明に花の白さが浮き立ち、翻るたびにねっとりとした甘い芳香が広がる。花が一つ、床に置かれた。
曲の繰り返しで笛にリュートが重なる。篝火が一つ増えた。
踊る白い素足が照らし出される。女の足首だ。
いつの間にか静かになった広場で、人々が息を飲む。男達はその白い足に釘付けになった。シフトドレスとは、いわば下着だ。ペチコートより短く作られている。当然、足首まで露わになった片足に金色のアンクレット。鈴が付いているらしくステップを踏むたび、シャンと涼やか音を立てる。踵を返すと篝火の光を強く弾いた。また一つ花が置かれる。
素足を見せることは、恥ずべき行為とされていた。女達が顔を赤らめて顔を背けようとした時、舞手がゆっくりと首を回し、黒いベールが肩先まで捲られ、長い波打つ金髪が煌めいた。
女は同じリズムを同じステップで舞う。楽器が加わるたびにほんの少し、違う表現が入る。たったそれだけなのに、一挙手一投足から目が離せない。花が一つずつ置かれ、舞台の上に白い花の輪が描かれて行く。
次の繰り返しで今度は打楽器の力強いリズムが加わった。
また一つ篝火が増える。
そして、ベールが滑り落ち、広い舞台でただ一人舞い続ける女性に人々は息を飲んだ。
ークヤデの舞姫だ。
声にならない響めきがあがる。気付いた観客もいただろう。女神の化身のようなその姿に呆然とする者、待ちわびた者の中には感極まって涙を浮かべる者すらいる。だが、辺りに立ちこめる濃厚な花の香りに絡み取られたように、誰もが歓声を上げる事なく、祭りとは思えない静けさの中、フィラネスだけが単調なリズムで舞い続けていた。
これは夢か、幻か。息をしたら消えてしまうのではないか。
人々は息を詰めてそれを観ていた。音のリズムも踊りも優美で、陰鬱なメロディに乗せて滑らかな舞いが続く。神殿の巫女の奉納舞いを見ているような、その場には神聖な空気があった。
何より、まるで女神が降臨したかのような近寄り難い美しさ。その反面ひどく…ひどく淫らな気分になるのは何故だろう。
胸が露わなわけでもなく、高々と足を上げるでもない。強いて言えば、ゆっくりと滑らかに動く白い腕。指先までその動きに目が吸い寄せられる。素足に煌めくアンクレット。高く上げた時にだけ袖が滑り落ちて露わになる白い二の腕。コルセットを付けていない緋色の布に隠された胸の曲線。身を翻すたびに煌めく長い金髪。その間から見え隠れする白い項…。
そして目差し…密かな熱気が渦巻くように、身体がほてる。花の濃厚な芳香と相まって、自分の高ぶりに耐えきれず、思わず隣りの相手の手を握った。男女は互いに見つめ合い、お互いの気持ちを認めあった人々は、広場から静かに消えて行った。
アンクレットの鈴が、シャランと響く。
ユールもまた、目が離せなかった。それは観客たちとは別の理由からだ。
(肌を見せて男を魅了するのは簡単よ。所詮、お互いその程度だわ。上物の男を釣りたいなら、頭を使って欲望をそそるの。)
以前、フィラネスが語った言葉だ。その時は、意味がよく飲み込めなかった。
しかし、今、それを知る糸口に気付く。ある記憶が蘇ったていた。
その夜、フィラネスは常連客の相手をしていた。客は泊まる気はなく、彼女に酒の相手をさせて会話を楽しんでいた。フィラネスも誘うわけでもなく話に興じている、かに見えた。
話に頷きながら、何気なく彼女が葡萄の一房を取る。
房を高く掲げて顔を仰のかせるのを見て、ユールは気減に思った。いつもはそんな事をしないからだ。
葡萄の房を唇に寄せる。
房の先端の実を舐るようにピンク色の舌先が捕らえ、咥える。
瑞々しい赤紫色の実と紅い唇。
実は口中に消え、紅だけが残る。
咀嚼して白い喉が動く。
その間、客は彼女から視線を外さず眺めていた。
それだけだ。たったそれだけなのに、その夜、フィラネスに部屋の用意を命じられた。客がその気になったらしいことはわかったが、当時の自分にはそれがよくわからなかった。ただ、紅い唇が酷く扇情的だった事…。
今ならわかる。フィラネスが刺激したのは、相手の想像力だ。
(もしかして、フィラネス様は舞台でそれをやっている?)
そして、もう一つ。
(『仕掛けは風上に置いた』そう言えば、わかる。)
ハイドラが使われる有名な香水がある。その名も『花の扉』。意中の相手を誘惑する時、あるいは、初夜の花嫁を緊張から解き放つ香りとして知られる。つまり、人々が知っている香りであり、色事と結びつく香りとも言えた。
その香りが今、この広場を満たしている。
興奮と慄然が相まって、ユールは我知らずスカートを握りしめた。
人々の興奮をよそに、彼女は自分で作った花の輪の中で淡々と舞いを繰り返していた。
いつの間にか、太鼓は止み、篝火も一つ消えている。
ねっとりと纏い付くような甘い香りが広場全体を包み込む中、踊りは繰り返され、彼女の汗に濡れた肌は明るさが陰る中でも妖しく煌めいて、人々の視線を絡めとる。
さらにリュートも止み、篝火もまた消えた。
笛と鈴の音だけで奏でられる物悲しいメロディ。それとは対照的に、熱気を帯びた空気が花の香りを一層強くしていた。そんな中、何度となく繰り替えされた踊りに変化が生じる。床のベールを拾い上げ、両手に持ちながら舞う。
薄闇の中、彼女の姿が、振られるベールによって見え隠れを繰り返し、闇の中に沈んで行く。最後に一回転しながら、ふわりと頭上に広げ、ベールに身を包んだと同時に最後の篝火が消えた。笛の音も止む。
舞台にはただ白い花の輪。
あれほどの興奮が嘘のように、シンと静まり返った。
一拍おいて、割れんばかりの歓声と拍手。人々は熱狂した。
「その後、どうなったんですか?」
昔話が過ぎたようだ。エルリーの羽根ペンはさっきから止まったままだ。インクが羊皮紙にシミを作っているのにも気付かない。
「さあ、どうだったかしら」
「え〜、それはないでしょう。ユール姐さん」
おどけた笑いを浮かべながら、ピシリと言う。
「続きが聞きたかったら、持ち物リストを仕上げなさい」
慌てて羊皮紙に目を落とし、大きなシミに悲鳴を上げる。
「そのまま書いていいわよ。あなたの覚書きなんだから」
ほっとした様子で書き始める。今年初めて花祭りに同行するフィラネス付きの<ペンタス>エルリーは、なかなに失敗上手で見ていて飽きない。彼女の指南役として同行する事になったユールは、彼女がリストを仕上げるのを待つ間、当時に想いを馳せる。
あの夜、フィラネスの艶舞を観た人々の行動は早かった。ダンスどころではない。意中の相手と手に手を取って、広場を後にしたのである。一刻も早く二人きりになれる場所を求めて。
宿に殺到したが、それでなくても祭りで満室である。宿屋でも目端の利く者は予め部屋を空けておき、通常の倍の価格で提供して一儲けした。あぶれた人々は郊外に散り、あるいは街路の暗がりから甘い吐息や囁きが聞こえてくる始末となった。
結果、その後の公演は観客不足で精彩を欠き、後続の演者からは大いに不満が出たのは言うまでもない。不満はもちろん『百花の園』に向けられた。だが、その程度で萎縮するマダムではない。後日、公然と嫌味を言い放った同業者に対して、涼しい顔でこう返したと言う。
「あら、だって『大人の祭り』でしょう?祭りの趣旨には叶ってますわ。何か問題でも?」
舞台後の騒ぎはユールの想像を超えていた。興奮した人々が舞台の回りを取り囲んだのである。だが、時すでに遅し。すでにクヤデに向けて馬車が走り出した後だった。馬車は3台。どれにフィラネスが乗っているかわからない。それでも、貴族や富商達、野次馬の馬車や馬が追う。
アスンからクヤデまでの街道が、ちょっとした追跡騒ぎとなった。後に、これも毎年の恒例だと聞き驚いたものだ。
さて、当のフィラネスはといえば、ちゃっかりアスンの宿舎に戻り、念願の新芽の素揚げとクムの蒸焼きに舌鼓を打っていたのである。
「今回は、帰らなくていいって。ミアさまさまだねぇ」
上機嫌でビーク酒を呷った。
繰り返される舞台後の騒動に頭を悩ませたマダムは、戦術家である『華
』のノスティミアに対策を依頼し、毎年違う趣向で『クヤデ誘導作戦』を展開していた。
ノスティミアは、蕩けるような艶冶な美女だ。その外見とは裏腹に軍事、戦略に造詣が深く、軍人に人気が高い。その他、歴史、天文、文化にもたけ、知識人からも『知性の宝石』と称される。『百花の園』の作戦参謀にして、マダムの後継者とも目される彼女は、毎年手を替え品を替え様様な作戦を立てては男達を翻弄したのである。
そのままの興奮状態でクヤデに帰れば、フィラネスの争奪戦になることは眼に見えている。場合によっては興奮した客達が、血を見る事態に成りかねない。それを上手く納めるためにも、フィラネスの動向がわからない方が何かと都合がいい。
その年はフィラネス抜きの作戦。クヤデまでの街道の数カ所に馬を休ませる休憩所を設け、酒や軽食を用意した。お代は「クヤデに行く」とさえ言えば無料。その側には『百花の園』の指名券や割引券が商品の有料の楊弓場(遊戯用の小弓)やダーツ場が設置されていた。お得なゲームという甘い鼻薬に男達はしばし足を止め、ある者は頭を冷やし、ある者はゲームや酒で脱落し、クヤデに着く頃には半分程度に減っていた。一足先に戻っていたマダムが、何とか駆けつけた客達を万全の体勢で出迎えた。サロンを開放して、美酒と料理、明るい音楽と華やかな美女で迎え入れたのである。
もはやここまで到着するのが目的になり、フィラネスの事はどうでもよくなっている者がほとんどだった。
常連客は毎年変わる趣向を楽しみにしており、美女達に道中の武勇伝を語りながら上機嫌で部屋に上がっていった。新参の客は田舎町と思っていた場所で都以上の美味しい酒、旨い料理、美女との会話を楽しんだ。
それでも、フィラネスを出せと騒ぐ野暮なお客には、マダムや支配人のジョルディが応対し事を納めるのだった。
あれから3年が経つ。ユールは2年ほどフィラネスの付き人を勤めた後、昨年から<睡蓮>として一本立ちした。<華>を目指して修行の日々である。
フィラネスは変わらぬ美貌のままだ。相変わらず酒癖は悪く、エルリーは手を焼いているらしい。
しかし、今年はいつもとは違う。
彼女はこの花祭りを最後に『百花の園』を去るのだ。
フィラネスがこの館に来て丁度10年。その区切りに自由の身になる。このことは、一部の者しかまだ知らない。ユールも本人に聞くまで知らなかった。未だに信じられない。
「あたりまえじゃないの。私だっていい年|なのよ。いい加減、引退するわ」
付き人が長かったせいか、ユールには気さくに話すようになったフィラネスがそう言って笑った。
この『百花の園』は他の娼館とは違う仕組みがある。借金で娼妓を縛るのではない。この店でいう『借金』とは、いわば『奨学金』のようなものだ。
女性が学問を納める事が困難だったこの時代、身分の低い女性が学問や手に職をつけるには、尼僧になるか高級娼婦になるかしか道はなかった。
マダムは娼館を営みながら、それに付随する職人を育て、優れた者には工房や店を持たせた。その上がりから『借金』返済をさせて、完済後も幾分安く仕入れられる仕組みを作っていたのである。読み書きに始まる学問や語学、服飾、宝飾、医療、料理、調度品に至まで、<ペンタス>の間に適正を見極め、大半が身体を売ることなく<水盤>へ振り分けられる。娼館に出る<睡蓮>、後に<華>になる者は、ほんの一握りだ。
高級娼館であるため、客は豪商や貴族ばかりだ。小規模な店ではあるが、客筋は良い。<睡蓮>1年目のユールでさえ、ほぼ半分以上返済が済んでいる。
もちろん、10年も居るフィラネスには借金はない。そのため、客の相手をするのも休むのもかなり自由がきく。渋い顔をしながらも看板娼妓であるためマダムも見て見ぬふりだ。いままで何人もの名うて豪商、貴族達からプロポーズを受けて来た事か。すべてを袖にして、この館に留まる理由。宝石や衣装、『華』という地位に執着があるようには見えない。今までは謎だった。
「10年掛りの賭けよ」
そう答えた時、フィラネスは何とも複雑な表情を浮かべていた。確かに最初から<華>を目指すならわかる。しかし、高級とはいえ娼妓には変わりない。その覚悟が最初からあったという事か。極めるためか。どっちにしろ女にとっての10年は大きい。
「プロポーズを受けたわ」
その一言で、ユールはある人物の顔が浮かべた。きっとあの人だ。
時々、庭師の手伝いに来るその男性は、取り立てて特徴のない何処にでもいる男のように見えた。強いて言えば、身体が大きくもっさりした印象からクマを連想する。どういう縁でフィラネスと付き合うようになったのかは定かではない。ただ、彼女がずっと彼を待っていたのは確かなようだ。
最近のフィラネスは、とても柔らかく笑う。側仕えで気心が知れているユールでさえ、こんな表情は初めてだ。フィラネスの変化に複雑な想いを抱きつつ、一緒に居られる今を大事にしようと思うのだった。
「来年から枕を高くして眠れますね、アスンの娼館」
ここ数年、フィラネスに振り回されてきたアスンの高級娼館や芸人達は、さぞ胸を撫で下ろしていることだろう。反対に、毎年楽しみにしてきた人々は、悲嘆にくれるにちがいない。フィラネスはふふんと鼻を鳴らす。
「マダムが一番ホッとしているかもよ。」
顔を見合わせて笑った。
「最後だし、今年は正攻法行くわ」
そう言ってフィラネスが出して来たのは、古びた祭り衣装だった。少し黄ばんで畳み皺が付いた衣装を愛おしそうに撫でる。母から受け継いだもので、これを着て祭りに出ると言う。
「フィラネスの集大成よ」
優雅に腕を一振りした。
楽しみな反面、寂しくもある。もう、あの舞いを観る事が出来ない。ユールが観たのは2回。そのどちらも素晴らしいものだった。
踊っている彼女が一番光り輝いている。
美貌はもちろん、立っているだけで人を引きつける華やかさは天性のものだ。 だから、聞かずにはおれなかった。
「舞台に未練はないのですか」
「あら、踊りは止めないわよ」
思わず、眼を瞬く。最後とか集大成とか言っているではないか。
「もちろん、『フィラネス』としては最後よ」
とぼけた顔でユールを見つめる。
「これからは好きな時に好きな場所で踊る」
さっと手を挙げ、天を仰いだ。
「元々は村娘だもの。村祭りでも、畑の真ん中でも、山の中でも踊るし、歌う。周り全部が舞台よ」
あまりの枠の無さに絶句した。畑の真ん中で踊っている姿を想像してたまらず吹き出してしまった。なんて彼女らしい。
その時、エルリーが来客を告げる。腰を上げかけたユールを手で制し、フィラネスが立ち上がって出迎えた。
「よく来てくれたわね、カーリン!」
「当たり前でしょ。あんたに呼ばれて、来ないと思う?」
聞き覚えのある声に、ユールも立ち上がる。元『薔薇の館』のソポンだ。今はマダム カーリン・プッソールと呼ばれている。2年前に豪商に身請けされ、その支援のもと歌舞団を立ち上げた。今は歌舞団『羅針盤』の座長として忙しい日々を送っていると聞く。
「あら、ヤだ!懐かしい〜!あんた、まだ持ってたの?」
テーブルに広げたままの祭り衣装に手を触れ、遠い目差しで微笑む。
「凝った刺繍よねぇ。あ、このベスト、ハーレンさんお得意のコード刺繍!」
「そうよ。これ、母のだもの。あの年代の人み〜んな同じコード刺繍!」
ケラケラと笑い合う二人は、村娘の頃ように屈託がない。
「で?今度は何を企んでるの?」
さすがソポン、ことカーリンは直球だ。もちろん、迎え撃つフィラネスも同様に返す。
「広場全員による大舞踏会」
「は?」
さすがの彼女も戸惑っているらしく、すぐに言葉が出ない。ユールも同様で、意味を計り兼ねていた。
「音楽を聴いただけで、誰もが踊り出したくなるようなダンスよ」
カーリンは眼を見張る。
「…こりゃまた、大きく出たわね」
「エルリー」
エルリーがドアを開けた。隣室から現れたのは、館専属の音楽隊だった。笛、リトルハープ、太鼓、リュートの4人編成だ。
「エディン、始めて」
名を呼ばれたのはリュートの少年だ。今年入ったばかりだが、類い稀な演奏家として皆に認められている。
(エディンがいるという事は、あの曲かしら)
ユールは密かに胸をときめかせた。彼は演奏の他、作曲も手がける。先日サロンで演奏された曲に、すっかり魅了されていた。
彼は無言で頷き他のメンバーに眼で合図し、演奏が始まる。
ああ、やっぱりこの曲だ。春の喜びを曲にしたらこんな感じだろう。気持ちが浮き立ち、手足が勝手に踊り出しそうだ。
演奏が終っても余韻覚めやらず、何度でも聴きたいと思う。
「…良い曲ねぇ、踊りたくなっちゃうわ」
カーリンも微笑みながら吐息を付いた。
「この曲を聴いて、思い付いたの」
胸を張り微笑むフィラネスは、何とも頼もしい。まるで戦に挑む女神のようだ。と、いうより、悪戯を思い付いた悪童の顔つきである。
「これなら、いけるわ」
カーリンとユール、それぞれ目を合わせてニヤリと笑う。
「もちろん、手伝ってくれるわよね」
呼ばれた理由がやっとわかった。有無を言わせず共犯を言い渡された二人は、顔を見合わせて苦笑する。
フィラネスの最後の大舞台である。彼女の舞台に花を添えられるなら否やはない二人だった。
さて、次はいよいよ花祭り。フィラネスはどんな仕掛けを用意するのか?
作中イメージ曲:ザ・チーフタンズ 森の迷い子The strayaway child
鉄の男The iron man
春の曲はもう廃盤なようで検索でヒットしませんでした。