私のエッセイ~第百五十三弾:ボクサー列伝(6):ジョン・L・サリバン~ ボストン・ストロングボーイ
皆さん、おはようございます。 お元気ですか・・・?
本日は、副題のように『ボストン・ストロングボーイ』あるいは、『ビッグ・ジョン』と称された、一人の豪傑ボクサーを紹介します。
ジョン・ローレンス・サリバン。
略して、ジョン・L。
・・・近代ボクシング幕開けの象徴となった、『アメリカン・ドリーム』を体現した偉大な人です。
彼は、1858年10月15日、アメリカはマサチューセッツ州ボストン郊外のロクスベリー・コンコルド街で生まれました。
父も母も、純粋なアイルランド人。
祖父は、いわゆる『ケルト族』の名レスラーだったそうですから、やはり、『血は水より濃し』の言葉どおり、格闘家としてのセンスを生まれもっていたのでしょう。
家柄も良かったらしく、何不自由なく育って、名門『ボストン大学』まで通う秀才でしたが、同時に、たいそうな暴れん坊でもあり、地元のアマチュアのボクシング大会に参加しては、小額の賞金を稼いでいたそうです。
本人いわくの『退屈な大学』を中退し、ブリキ工や鉛管工のアルバイトをして、その日暮らしをしていましたが・・・
『男のロマン』である拳闘への情熱は冷めることはなく、19歳でプロの門をくぐります。
・・・サリバンがデビューした当時は、まだ素手で殴り合う、いわゆる「ベアナックル」の時代でした。
サリバンは、その『サザエ』のような頑強なこぶしで、相手をガンガン倒しまくりました。
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1882年2月。
全米(= すなわち世界)ヘビー級タイトルを難なく手中におさめます。
これは、チャンピオン『パディ・ライアン』を9回に気絶させて奪ったもので、これを機に新王者サリバンは、アメリカ各地を渡り歩く、『戦いの旅』を始めます。
ユニークなのは、そのツアーの最中に、彼が「もし、4ラウンドまで俺の前に立っているボクサーがいたら、そいつに100ドルくれてやる!」と豪語し、それを実践したことです。
たまに、その「予告KO」を逃すこともあったようですが・・・ほぼほぼ、4回以内でのKOの嵐で、相手をバッタバッタと、面白いようにぶっ倒し、気絶させ、のしていきます。
ハンサムだった彼は、さらに銀幕の舞台にも立ち、主人公を演じるなど、とにかく「野放図」で、お忙しい人物でもありました(笑)。
だが、富と名声を思いのままにした彼にとって、激烈なリング上でのやり取りは、年齢を重ねるうちにだんだんと酷なものになっていきました。
1889年7月に、『ポリス・ガゼット』という新聞が認定する王者『ジェイク・キルレイン』を75ラウンド(!)もの長いマラソン・ファイトの末にKOして以来、正式な真剣勝負としての試合ではなく、エキジビションのような『仲良し試合』の、いわばフレンドリー・マッチでお茶を濁す・・・そんな程度になっていったようです。
(・・・ちなみに、ベアナックル時代のボクサーたちの動画での試合は、まだトーマス・エジソンが映像フィルムを発明する前でしたので存在せず、サリバン対キルレインの試合の様子を撮った、たった四枚の写真が現存するのみです。)
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さて・・・そんな折も折、ジョン・グラハム・チェンバースという人が提唱した、近代ボクシングのルールが定められ、現在のボクシングのルールにもつながる、新しいスタンダードとなりました。
具体的な内容は、以下の通りです。
「1ラウンドは3分とする」、「インターバルは1分」、「5オンスグローブ着用の義務付け」、「投げ技の禁止」、「10カウント以内に立ち上がれない場合はKO負け」
反則について - 「ベルト以下への打撃の禁止(= 金的攻撃禁止)」、「腰より下の抱え込みの禁止」、「倒れた相手への攻撃禁止」、「蹴り技」、「頭突き」、「目潰し・目玉えぐり」の禁止
サリバンが主に闘っていた時代以前の「ベアナックル」の世界では、蹴り技はさすがに見られなかったということですが・・・金的攻撃、首絞め、目潰し、倒れた相手への攻撃などは、普通になされていたようですね。あぁ、おそろしい・・・。
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近代ボクシングの幕開けとともに、無敵サリバンの前に立ちはだかった、ひとりの男がいました。
『ジェントルマン・ジム』
そうあだ名された、銀行員上がりのこれまたハンサムな男、ジェームズ・J・コーベットは、鮮やかなフットワークと、ジャブとストレートによるコンビネーション「ワンツー・パンチ」で、これまでの腕力ファイト一辺倒だった、足を止めて素手でガンガン殴りあうタイプの、いってみれば、まるで「我慢くらべ」のような古臭いヘビー級のボクシングに革命をもたらした、近代ボクシングの元祖的存在です。
私たちがいま観ているようなボクシング・スタイルは、このコーベットが初めて作りました。
この若くてスマートな男は・・・それまで力まかせのファイトだった「ベアナックル」から、詰め物をした革製グローブを着用して、あの伝説の巨人・・・ジョン・L・サリバンに挑戦する運びとなります。
では、現存するフィルムも写真もありませんが、その試合の模様を、かいつまんで実況してみますね。
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・・・ 1882年7月9日。
場所は、ルイジアナ州ニューオーリンズ。
挑戦者コーベット:26歳。身長180.7cm、体重80.7キロ。プロ歴は、8年。これまでの戦績は、5勝5KO2引き分け2ノー・コンテスト。
王者サリバン:33歳。身長177cm、体重100.3キロ。プロ歴は、14年。これまでの戦績は、38勝無敗33KO3引き分け。
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ニューオーリンズのオリンピック・クラブのリング中央で、ボクシング史上、初めて「グローブ」というものを両手にはめて対峙する両戦士。
そんな彼らに、これから行なわれる試合についての注意点や指示を与えたレフェリーは、びっくりしてしまいます。
「・・・じゃあ、こんなことしてもいけないんですか?」
そう言いながら、いきなりコーベットが、サリバンの喉元に、右こぶしを強く押し付けたのです。
チャンピオンは、この銀行員上がりの挑戦者の無礼に、思わず顔色を変えました。
・・・しかしこのとき、天下の名王者は、西部から来た若者の「作戦」に、すでに引っかかっていたのです。
カーーーーン!
開始のゴングが鳴ると、さきほどの無礼千万な若造の挑発行為・態度にすっかり腹を立てていたサリバンは、頭にカーッと血がのぼり、満面憤怒の形相で挑戦者に襲いかかり、渾身の力でもって、右を大きくふるってコーベットの顔面に叩き込んだ・・・
と思われた瞬間、挑戦者コーベットは、するりと身をかわしてしまいます。
今度こそ、チャンピオンの強打をまともに喰ったかと思えば、一瞬の差でよけて、空を切らせてしまいます。
ロープに追いつめて、満身の力を込めて打ち下ろせば、敵は『ダッキング』や『サイドステップ』『スウェイバック』といった、それまで誰もやらなかったような新しいボクシング・テクニックできれいに避けたばかりか、そのたびにニヤリと笑って挑発。
そして、こうした防御技や、今でいうところの「フットワーク」という、足さばきの妙技をコーベットが披露したとき、観客は、サリバンたちベアナックルの戦士たちがそれまで展開してきたような、上半身をまっすぐに立て、その場に足を止めて闘う『アップライト・スタイル』とはまるっきりちがう斬新な戦法に驚愕します。
しかし中には、「あんなやり方は、卑怯というもんでねえか!?」とか、「このスプリンター(= 逃げ専門)野郎!!」と怒る観客もいたとか。
こうして、会場を埋める観客の大部分の「サリバンびいき」が腹を立ててやじれば、コーベットはくるりとサリバンに背を向け、大声でいいます。
「・・・いまに、面白くなりますから!!」
まともに一発もコーベットにパンチを当てられないサリバンは、そのうち疲れてきました。
・・・完全な「スタミナ切れ」です。
天下無敵の英雄サリバンも、慢心から酒と女に明け暮れて、練習に手を抜いてきたツケが、ここで回ってきたようですね。
この「果し合い」の結末・・・フィナーレは無残なものでした。
第21ラウンド、1分30秒。
口からも鼻からも血を噴き出して、まったく手の出なくなったサリバンが、コーベットから、いいように一方的に打ちまくられ、バッタリ倒れると、そのまま失神してしまったのです・・・。
・・・ベアナックルで鳴らしたサリバンのラストファイト・・・そして、ボクシングの試合に、初めて「科学」「サイエンス」というものを持ち込んだコーベットによる、『近代ボクシングの幕開け』でもありました。
「5対1」の賭け率を見事にひっくり返し、21回に鮮やかなノックアウトで新王者になったコーベットでしたが、なにしろ自分の父親までもが、「あんな立派な人を、あんなに血まみれの無残な目にあわせるなんて!」と、えらくご立腹で不機嫌なのには弱ったという、コーベットの述懐もあるほどでした。
・・・しかし、話はここで終わりません。
コーベットに完敗を喫したサリバンでしたが、意識を取り戻した後、大勢のファンの前で、「新王者ジムを、みんなで祝福して下さい!!」と言ったものですから・・・
会場には、嵐のような拍手が沸き起こったといいます。
ただし、その大喝采というものは・・・勝者コーベットのためのものではなく、敗れた老雄に贈られたものであったというのは、まったく皮肉なものですよね。
・・・やはりサリバンは、最後の最後まで、『アメリカン・ドリーム』そのものだったんですよ。
~ 完 ~