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翠色の目をした彼

作者: siroErori






 夜のうちに彼は旅立とうとした。




 その音でわたしは目を覚ました。すこし違和感の残る左足の気を使いながら、部屋をうす暗いオレンジに灯しカーテンをよけた。




 困った人だ。彼は皆が寝静まったこの時間に旅立とうとしたらしい。寝つきも気分もよくないわたしに、ざりざりという音は湿った空気の中でもとてもよく耳に届いた。



 わたしは網戸を開け放しにしてそれを黙って見届けていた。彼がここから出て行くことは叶わなかった。彼は怪我をしていたのだ。それも取り返しのつかないほどに。



 彼は這はい蹲つくばっていた。わたしはいたたまれなくなって静かにしゃがんで手を差し出した。彼は声を上げず、ただわたしの指先に触れた。



 彼の眼は翠色をしていて、とても、とても大きかったのだ。わたしに分けて欲しいと思うくらいだった。





 その輝く瞳に、わたしは惹きつけられていた。





 昼間に彼と出会った。彼は急な雨に降られ、わたしの住むアパートに逃げ込んだらしい。蹲って動けずにいた彼を偶々見つけたわたしは部屋にあげ、介抱してあげた。全身が濡れており、布を当てがって水滴をこまめに落としてやる。彼は過ぎ去ってゆく雨雲を遠くの方に見て、直ぐにでも立ち去ろうとしたがその時にはもう腹に小さな傷が開いていて、...背姿もボロボロだった。


 わたしにしてあげられることなんか、表面を繕ってあげる程度で、静かに休める場を与える以外になかった。だからそのまま部屋にいさせてあげた。彼にはもう、何処かへ向かう力は残っていないと勝手に決めつけた。

 そうとしか、思えなかった。彼が外に出たらすぐさま襲われるだろうし。彼は綺麗すぎたから。外は危険な奴が多くいるんだ。わたしはまぁ、そんな心配無いんだけど。彼を魔の手から遮るには、わたしはうってつけだろうから。



 彼には、せめてそこまでで我慢してもらう。彼はわたしが言うまでもなくベランダに出て佇んでいた。それからわたしは会う約束をしていたクラスメイトのもとへ向かったんだ。





 なのにわたしはうっかりやで。彼のことをいままですっかり忘れてしまっていたんだ。集まりでいろいろあってね。帰ってきてすぐベッドに入ったから。疲れていたし、ごめんね。





 再び部屋に入れ、ベッドに寝かせてあげた。わたしはそばに腰かけて彼を見る。


 彼にはもうひとつ、惹かれる部分があった。彼は、小さな呼吸を全身でするんだ。目を凝らすとわかった。お腹の下の方まで微かに膨れてるのがかわいくて、けどわたしはあまりまじまじとみているのも悪いと思いながらも夢中に繰り返すそれを眺めた。




 彼は生きていた。




 そんなことが、当たり前のことだけど身に染みてくる。左足に巻いてあるテーピングに目をやる。ピリリと痛みが走った。ため息が出る。




 わたしは試しに自分のおなかを見下ろしてみた。けど、意識して視ても大して変わらない。服がだぼったいからか。

 あと猫背だからお腹の方まで空気が入っていかないのだと思い、仰け反ったら自分が消えた(そりゃそうだ)。


 改めて、背筋を伸ばすとただただ緊張感があった。おなか周りが震えて、きゅうっとして、苦しい感じがあるだけだ。それは、視界に映らない。

 わたしは、私自身が生きているということの実感が薄れていたんだ。薄めてたと言ってもいいかもしれない。




 彼はみるからに活き活きとしていた。だから激しい音も立てる。構やしないのだろう。怪我さえなければどこへでも行けるんだから。わたしは、静かだった。静かに、沈んでいた。底の方で、声も上げず、あえてそうしていた。雨が、あのまま止まなければよかったんだ。それか雨が、ずっとふらなければよかったのに。






 そうだったなら、今日みたいなこと。






 クラスの数人に非難された。部活に出ろという。動けないわけでもない。足の故障はもうとっくに治っていてもおかしくないでしょうと。それは、確かにそうだ。このテーピングは、あの空間から逃げる口実でもあった。当然の非難。


 わたしの成績は悪くなかった。だからリハビリも兼ねてサポートをお願いされた。

 いつものようにひひと笑って見せやり過ごそうとした。彼女たちは真剣だった。わたしは、真剣になれなかった。



 大事な試合前に左足を故障した。あんなこと許されなかったのに。あの日も豪雨だった。体育館に、たまたまほんの小さな雨漏りがあった。皆も少しずつ水の粒を落とした。わたしは誰よりも汗を張った。漲っていた。どこまでも高く飛べた。誰かが悪いとかじゃあ、ない。ただ、いろんなものが寄せて、集まって——————





 攫われたんだ。






 それから、わたしは死んだように生きていた。気まずくて、やる瀬なくて、申し訳なくて、だからこそあの場からいなくなるべきなんだって。

 だから今日も、そんなことを遠回しに、口に出してしまったんだ。水溜まりを踏み抜くみたいに、いつも以上に周囲を巻き込んだ。





 ...今だっていっそ、この彼のように取り返しがつかなくなってしまえばよかったのになんて思ってしまっているんだから。最低だ。



 わたしは、もうあの空間にはいられない。






 彼は何も言わない。ただシーツに捕まって休んでいる。わたしのなかで今か今かと暗雲が立ち込めていた。土砂降りが来る。雷だって落とせるだろう。わたしは上半身を倒した。すぐそばに彼がいる。動かないけれど、まだ、生きてる。わたしは、終わらせてしまいたかった。






 彼を見て思う。だからこそ彼は訪れたのか? 彼の背中に指を伝つたわせた。指先は膨れなかった。わたしは自分と彼の運命的出会いについて結びつけて考えずにはいられなかった。急な豪雨と共に、わたしのもとへきた彼。このボロボロの姿で。あの日の私のように。





 だから昼間、彼を見つけたあの瞬間に、手を差し伸べてしまったのか?





 彼には羽根が、ついていたから?





 その羽根が、網目のように、血を巡らせているように見えたその羽根が、生きた羽根が一枚、ぐずぐずに、跡形もなくなっていたから? わたしと重なって、見えたから?







 そのとき掌に乗った彼は腹まで小さく欠けていた。そこから伸びる尾の先端までは紙の風船みたいで、奇跡的に先のほうまで息は届いている。しかし簡単につぶれてしまいそうだった。






 彼はこれからどうなるのだろう。わたしは、どうすればいいのだろう。






 わたしは、彼と出会ったことで何か変わってしまったのだろうか? だから今日、いつもみたいに飄々としていられず、皆に、あたってしまったのだろうか。






 彼は、2階へ続く階段の下で蹲っていた。そこはわたしの玄関から少し離れていた。急な土砂降り。郵便受けを覗きに行こうとしたんだ。それで偶々たまたま外に出た。



 郵便受けには何も入っていなかった。安心していた。戻る途中で、彼に出会った。ただ、それだけ。それだけの、はずだ—————―









 あ。







 思い出した。








 そうだ。








 そうだった。









 嫌いやーなこと。









 わたしにとってそれは、都合の悪すぎること。









「...あー」






 天井を見上げた。彼と会った瞬間のことを、完全に全開に思い出した。わたしは、大きく見開いた翠色の彼の視点で、わたしの姿を回想してみた。





 それは多分、彼にとって突風よりも恐ろしいものに映ったに違いない。コート上で横に身体を動かす距離よりも遠かったであろう地点から、一直線に、わたしが、突っ込んでクる。網も持たず、素手で。普段なら、それを許さない。しかし、彼の翅は、鬼蜻蜓の彼の翅は、一枚欠けていて、全身は濡れていた。その上胸に傷があった。やり過ごす以外の選択肢は、とれなかったのだ。





 ついで、第三者の視点でわたしは回想しよう。



『彼女は全力で鬼蜻蜓オニヤンマを捕まえようとしていました』

以上。






 そして最後に、わたし自身の視点だ。


 ありありと目に浮かぶ。彼、鬼蜻蜓オニヤンマの彼を視界に捉えたその瞬間、わたしは無意識に駆け寄ってしまっていたんだ。彼を拾うように、羽根シャトルを拾うように。雨粒でほんの少し輝いて見えた、彼のもとへ。


 痛みは感じなかったはずだ。彼のことを何とかすることで頭がいっぱいだったから。どちらの足を踏み込んだかなんて、知らない。けど、その時の彼を拾う動作に一点の曇りも無かったはずなんだ。


 言い訳なんか、できっこなかった。わたし自身が、それを理解できていたんだから。決定的だった。誰かに見せびらかす以前の、取り繕う以前の衝動。駈け出さないためのテーピングも、自分で無かったことにしてしまったんだから。

 それなのに、わたしは皆に適当なほらを吹いてやり過ごそうとした。見抜かれて呆れられて当然だ。わたしは確信した嘘を突き通そうとした。そりゃあ、キレられる。わたしは、往生際が悪すぎた。そうだったんだ。








 彼は、今にも本当に死んでしまいそうだったから。次の瞬間には、誰かに踏みつぶされてしまいそうで。わたし自身が、わたしを殺そうとするより悲惨な目に遭う。道端でよく目にしていた。彼らの残骸を。そんな風に、なってほしくなかった。









 だから、自分の言い訳なんか、置き去りにして駆け出した。








 靄が晴れてきた。わたしは無意識を纏っていた自分の包帯を引き剥がした。


 そして、左足のテーピングも、引っぺがした。ひりひりするし、あかく染まって痒くもなってきた。



 違和感は当然だった。全快している脚に、これは必要のないものなんだから。




「どーしよー。あぁああああ...おにちゃん、どうしよう」




 ベッドで未だ動かずにいる鬼蜻蜓のおにちゃん(今付けた)に助けを求めた。途端に弱気になった。全面的に自分が悪いとなると、気は抜けるばかりで。萎む。苦しくなってきた。薬をもらうべきか。



 彼は、動かなかった。




 ...。




 わたしは、考えを後回しにしてもう一度、外に彼を連れ出してあげた。まだ、鬼蜻蜓の彼は生きている。目も心なしか死んでいないように映る。微かな月明かりが翠色の輝きをさらに強調するようで、それをしばらく眺めていた。


 欠けた腹の部分は黄金の毛色をしていた。その模様は暗闇に広がる波紋みたいにしっぽの先まで広がっている。とても、綺麗だった。



 彼を周囲に邪魔のない一番飛び立つに相応しい地点へと連れてきた。彼はここからなら飛び立てるだろう。あの月までだって届くに違いない。確か時速が70kmだっけ。はやいね。まあのんびりいけばいつかは着くさ。わたしの最大風速はその5倍はあるけどね(プロでなおかつ瞬間風速ならね)。



 わたしが彼を押し出してあげるわけにもいかないので(バラバラになるよ)、彼の同行は月に任せることにした。ちょっと隠れ気味だけど。むしろ今日って、そういう日だったりしますか?








 もし、明日起きたときに彼がまだ飛び立てなかったら、わたしがどこか悪い虫のいないところへ連れて行ってあげよう。







 もし、彼がいなくなっていたなら。彼は飛び立ってゆけたということなんだ。それなら、大丈夫だ。それなら、わたしだって後に続くべきじゃあないだろうか。彼のボロボロの姿に比べたら、わたしはなんて健康的なんだろう。足はまだ動く。傷ついてすら、いないんだから。






 けど、どうやって謝ろう。わたしは不安になってくる。誰かとコミュニケーションなんて、あまり考える気が無いから。また気まずくなるだろうか。

 けど、その時は、その時じゃないか。わたしには、プレイがある。試合で結果を出す人間であればいい。許してくれないかもしれないけれど、それも一つの貢献だ。わたしなりの、貢献なんだ。コミュニケーションと呼べるかはわからないけど。




すぐに調子を戻さなくちゃ。




 そのためにさっさと眠ろう。彼だってわたしが眠らなくちゃまたわたしに見送られて寂しくなるに決まってる(そうに決まってる)。



 わたしは部屋に入り網戸にした。そのままベッドの上でストレッチした。身体は固くなっていた。ここから始めなければ。

 わたしは彼の翅模様を自分の左足に投影してみた。太腿から、膝、ふくらはぎへと延びる赤い模様。それはわたしの血が巡っている、生きているという導しるべだ。足首を握る。そこからつま先まで眺めるとほんの少し青黒い模様が皮膚の中に見えた。確かに、それは張り巡らされている。それはわたしの翅模様だった。生きている翅だった。わたしは、また、あのコートの中で飛べると思った。




 一通りすませ、目を閉じ横になった。ごめんなさいのスマッシュを彼女らに向けて放った。彼女らは何となく怯えてて、鬼教官のわたしが「ごめんなさいひとーつ!」「ごめんなさいふたーつ!」なんて言っている。いいぞ。そのまま誘っておくれ。






〜〜〜






 次の日の朝、わたしは健康的な時間に目を覚ました。夜は明けていた。ハードレッスンは数時間前に終えた気がするけれど、気持ちは晴れやかだ。



 天気予報を見る。午後から雨の予報。わたしは朝のうちに町内を駆け回ることにした。



 30分で断念じた。きづずぎる。なんだごれ。まったく身体が言うことを聞かないではないか。結果を出すとか、プロならねとか、それ以前の問題じゃないか。馬鹿わたし。阿保わたし。せめて散歩くらい普段からしておけってんだこんちくしょう。



 シャワーを浴びて着替えをした。今日は日曜日だ。しかし熱心な皆は部活動に明け暮れるのだ。そこに今日からわたしも参戦しよう。はじめはせっせとシャトル拾いだけしよう。うん。足がまだ、本調子じゃないんでね。しかしそれだって地獄に変わりはないんだよ?




 リュックに荷物をまとめた。左足には、うん、巻かずに行こう。正直蒸れ蒸れで鬱陶しいんだ。走ってて分かった。まだちょっと違和感がねーなんていいつつごまかそう。




 玄関を出た。そういえば、皆になんて誤ればいいんだろう。わたしは、自分ばかり浮足立っていて彼女たちになにをするか考えていなかった。一から説明すべきなのだろうか? 沈んでいた自分って、わかってもらえるものだろうか。困った。



 わたしは振り払うよう飛び跳ねてみた。翅の調子は確かめてある。これならまだ間に合う。午後の雨に備え傘とバスタオルを突っ込んでおいたから危機管理も万全だ。あとは皆への謝罪だけ。






 今朝、わたしはひとつの策を思い立ったのだ。というより、彼が教えてくれたから。それは画期的? でなお原始的? であり『最後の手段』といえた(若干ブラックヨ)。




 わたしは彼の姿をまねてみた。今はお天道様にそのポーズをする。彼は、一晩中その姿で、月に、そして昇る日差しに祈りをささげていたんだ。その姿を見て、わたしも彼女たちにすべき行動がわかった。



 両手を合わせ、黙って目を見合わせればいい、大きく、大きく目を見開いて。両足もめいっぱい拡げておこう。そしてたまに毛繕いをしてもいいかもしれない。誰かには刺さるかも。それでバッチリだ。





 彼には教えて貰ってばかりだった。なんとなく、空に人差し指を差し出してみた。彼が駆けつけてきてくれるかもしれない。


 なにかが触れた気がした。まぶしくてよく見えないけれど、それはたぶん翠色をしていて。しかしそこにはなにもなかった。風がわたしの背中を押した。





 わたしは旅立つ彼から貰った一枚の翅を、大きく音を鳴らしはためかせた。



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