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4.イルカと泳いだ海の青さは

 戻らなきゃいけないのは分かっている。

 大人の夏休みは期間限定というのも分かっている。

 だけど、今去るのはやっぱり惜しくて。

 六日間だけ、俺は滞在を延長した。


「のんびりできるうちは、していったらいいんと違いますか」


 女将さんはそれだけ言って、にこやかに笑ってくれた。

 詮索してこないので、こちらも気楽だ。

「あら、そうなると献立の種類を増やさないといけないわあ。同じものばかりだと飽きちゃうものね」と言うので、俺は慌てて止めた。


「いや、大丈夫です。ここの食事、すごく美味しいので」


「それは言ってもらえたら嬉しいけどねえ」


「ほんとに気を使わないでください」


 無理したわけじゃない。

 父島で採れた食材は何でも美味い。

 魚はもちろん、野菜が格別な味だ。

 島トマト、島きゅうりなど種々の野菜は味が濃い。

 沖縄と同じ亜熱帯気候に属するせいだろうか。

 サラダにしても浅漬けにしても、滋味に富んでいる。


「環境って大事なんですね。たくさん遊んでたくさん食べて。心も体もリフレッシュ出来ている気がします」


「そうだと思いますよお。人間も自然の生き物ですからねえ。小笠原に来た人、皆さん帰る頃には顔が晴れ晴れしてますもの」


「へえ、やっぱり違うんですかね」


「違うんでしょうねえ」


 ころころと笑い、女将さんは引き下がった。

 部屋に一人残り、俺は手酌で酒を注ぐ。

 飲んでいるのはラム酒だ。

 小笠原ではサトウキビが採れる。

 それを使い、地元でラム酒を醸造しているらしい。


 透明な液体からは灼けるような甘い匂いがした。

 砂糖が主な原料だから当然か。

 ストレートで喉に流し込む。

 蒸留酒独特のむせるような喉越し、一瞬遅れて痛快な酔いがくる。

「ふぅ」と息をつき、今度はゆっくりと口に含んだ。

 ラムの風味が舌の上で踊る。


 "考えてみれば、酒を飲むのも久しぶりか"


 酒を楽しめないほど、精神的にきていたから。

 グラスに再びラム酒を満たす。

 透明な液体がグラスを充たし、ふわりと鼻孔をくすぐった。

 地酒は地元で味わうのが一番だ。

 風土との相性が酒にはある。

 味わうほどに酔いが回る。

 飲みすぎないよう抑えた。

 ほろ酔い状態の頭で、この旅の意味を考える。

 もう延長はしない。

 旅の結末の前に、リカバリーした自分を遡ることにした。


 "イルカと泳いだのがきっかけになったのかな"


 鬱屈したものから解放された感覚があった。

 それだけじゃない。

 目に見えるものが彩りを増し、鮮やかになった気がする。

 海でイルカと泳いだから? 

 以前の俺なら笑って否定しただろう。

 だが、元気になってきたのは事実だ。

 海は生命の源だ。

 そこに住むイルカと交信出来たなら、ご利益があってもおかしくないかも。


 "帰る前にお礼ぐらい言わなきゃな"


 帰る気になったこと自体が進歩だし。

 逃げ出した事実に向きあえる自分がいる。

 新しい人生へ踏み出そうという気にもなっている。

 そのきっかけをくれたのは、ドルフィンスイムだ。

 言葉で表現出来ない何かが、あの体験にはあった。


 だから全部きちんと話した上で。

 俺はイルカに謝意を示そう。

 最後のドルフィンスイムの機会に。


† † †


 その日はよく晴れていた。

 見上げれば抜けるような青空だ。

 陽射しはきつい、というより痛い。

 ボートの日陰に避難して、水平線を眺めてみる。

 遠くに船影が一隻見えた。

 漁船だろうか。


「やっぱイルカも込みで自撮りしたいじゃん? めっちゃ仲良くなったし、今度こそいけるって!」


「うわ、考えただけでテンアゲー!」


 見なくても分かる。

 あの二人だ。

 まだいたんだ、というかいつ帰るんだろう。

 余計なお世話だが、滞在費とか大丈夫なんだろうか。

 でも見てる限り、マナーはきちんとしてるんだよな。

「海にぽい捨てとかありえないっししょ!」と怒りながら、浮かんでるビニール袋拾ったりしてたし。

 その時の光景を思い出して、俺は穏やかな気持ちになった。

 どんな人にもいいところはある。

 見かけで判断しちゃいけないよな。

 見かけ、か。

 人とイルカじゃ全く違うが。それでも通じるものはあるのか。

 あってくれればいいなと願った時だった。


「さて、皆さんいいですかー。ポイントに着きました。これから海に潜りますよー」


 インストラクターの声がかかる。

 ボートが速度を落とした。

 一部の乗客が歓声をあげた。

 昨日いなかった人達だ。

 今日がドルフィンスイム初体験なのかもしれない。

 ここのところ通っていたから、俺はスタッフとも顔馴染みになっていた。

 一人でテキパキと準備をする。


「深見さん、明日でお帰りなんでしたよね。最後になるので、良い体験を」


「ありがとうございます」


 インストラクターに頷き、ボートの梯子を慎重に降りた。

 一歩ごとに近づく海面は、どこまでも青い。

 この莫大な水が重なる中を、イルカは泳いでいるのだ。

 自由に、どこまでも。

 まるで人間とは違う生き物。


 "よし"


 梯子を離した。

 小さな水飛沫をあげて、俺の身体は海に沈んだ。

 ウェットスーツ越しに水の感触があった。

 一掻き、二掻きして少しだけ潜った。

 最初の頃と違い、戸惑いは無くなっている。

 ごく自然に俺は海に溶け込んでいく。

 ほら、周りを見回す余裕もある。

 コポリ、と白い空気の泡が一つ見えた。

 下方、岩場の陰からだ。

 俺が探していた相手だ。


 "やあ、またお邪魔しているよ"


 声にならない声で俺はイルカに語りかけた。

 今日はニ頭で泳いでいる。

 つがいなのだろうか。

 俺の姿を認め、キュウウと鳴いた。

 多分機嫌がいいのだろう。

 何回か潜っている内に、イルカは声を使い分けていると知った。

 人間の可聴域の声だけでも、相当種類があるらしい。


 キュ、キュキュという甘えるような声は、何して遊ぼうかと言っている。

 もう一頭はキュキューキュキュと鳴いた。

 これはご機嫌いかがですか――だと思う。

 俺が勝手に思っているだけど。


 "ありがとう"


 心の中で答え、イルカとの距離を詰めた。

 腰に付けたペットボトルを手に取る。

 中身はただの空気だ。

 これを見ると、イルカは喜ぶ。

 前に俺がこれで遊んだことがあるからだ。

 二頭はキュッと少し高い声をあげた。

 俺の周りに寄ってくる。


 "好きだなあ、ほんと"


 ペットボトルの蓋を外す。

 空気がポコリと泡になった。

 これに手を差し出し、細かく小さな泡にした。

 イルカにとっては面白いらしい。

 その泡へとくちばしを突っ込んだ。

 じゃれるような仕草は中々愛らしい。

 警戒心が解けた頃を見計らい、俺は片方にそっと手を伸ばす。

 指先が皮膚に触れた。

 生ゴムに似た感触があった。

 海水の圧力に耐えるだけの丈夫さと柔軟性。

 だが、生き物らしい体温も確かにそこにはある。


 "凄いな、君達は"


 感嘆を指先から伝えるように、そっと撫でた。

 もう一頭も寄ってきたので、同じように触れてみた。

 キュッと声をあげ、イルカが俺の方を見た。

 目が合った。

 水中メガネ越しでも、俺の気持ちは分かっただろうか。

 感謝の意は通じただろうか。


 どちらからともなく一緒に泳ぎ出す。

 時折俺は浮かび上がり、シュノーケルで呼吸する。

 肺に酸素を詰め込んで、またイルカについていく。

 急ぐでもなく止まるでもなく、ごく自然なスピードで。

 俺の泳ぎとイルカの泳ぎがぴたりと同調していく。


 何とも言えない気持ちだった。

 どう表現していいか分からない感情だった。

 感動とも喜びとも違う。

 もっと静かで深い想いが、俺を包んでいた。

 青い海の中で、俺はイルカに近づいた気がした。

 触れただけじゃなく、また別の意味で。


 そうだな。

 ちょっと重いけど聞いてくれるかい。

 何で俺がここにいるのか。

 今話さないともう機会は無さそうだから。


 二頭と泳ぎながら、

 俺は語り始めた。

 ごく近い過去のこと、あるいは心の中で溜め込んでいたものを。



 大学を卒業してから、一つの会社にずっと勤めていた。

 信販会社、いわゆるクレジットカードの会社だ。

 カードの利便性を客に説き、一枚でも多く契約数を稼ぐ。

 営業だからな。

 それが仕事だ。


 ――別に疑問なんか抱かなかった。


 それが当たり前だと思っていた。

 同じような毎日が繰り返される。

 ほとんどの客からは無視され、ノルマ達成の為に精神をすり減らす。

 楽しくは無かった。

 けれどもそんなものだと思っていた。

 金をもらうのは簡単じゃない。

 仕事の自分は別人。

 切り分けて考えて生きてきた。


 ――何年働いたんだっけ? ああ、そうそう。七年だったな。


 述懐しつつ、海の底の方を見た。

 数十メートル先では、魚が群れを成している。

 銀色の鱗が水を通して煌めいた。

 隣を泳ぐ二頭のイルカを見た。

 こいつらもあの魚群に気がついているだろう。

 格好の餌なのに、そちらに向かおうとしない。

 まるで俺の話を聴く方が大事だとでもいうように。


 つまらない話で済まないと思った。

 だが、心の奥では蓋が外れていた。

 イルカの肌に触れながら語り続けた。

 今さら止められなかった。


 構わなかった。

 仕事がつまらなくてもそれでも良かった。

 他に出来ることも興味があることも無い。

 生きていく為には仕方がないんだ。

 自分に言い聞かせて、窮屈なビジネスシューズを履いていた。


 ――そのはずだったんだ。


 だが、仕事内容が変わった。

 ある日を境にして、単なるクレカの営業だけじゃなくなった。

 高価な浄水器の販売と抱き合わせになったんだ。

 リボ払いならお得ですよと。

 毎月一定金額でのお支払なので無理がありませんよと。


 海の中に俺は俺の言葉を沈めていく。

 青い海には似つかわしくない、汚い人間の行いを。


 確かにリボ払いは、月々一定金額の支払いによる返済だ。

 だがちょっと頭の回る人間なら分かる。

 最初の頃の支払いは、ほとんどが利息だってことにな。

 つまりトータルで見れば、利息分の支払いがべらぼうに大きくなる。

 信販会社が得するように出来ている……そんな支払い方法だ。


 詐欺とまでは言わない。

 だが高齢者を狙い撃ちして、不要な浄水器を買わせる。

 それもリボ払いで利息をむしり取ってだ。

 買う側と売る側がフェアな立場なら、騙される方が悪いと思う。

 だが、独り暮らしの高齢者ってのは話相手に飢えている。

 俺がこんな商売をしていると知っていても、会話の為に乗ってくる。


 ――大変なんでしょう、今の若い人は。よっしゃ、一つ買ってあげる。


 カモにされてると知っているのに。

 食い物にされてると分かっているはずなのに。

 あんた何でそんな笑顔で契約書にサインしているんだ。

 俺が何をしているのか分かっているんだろ?

 あんたら高齢者の財布を狙った商売だって、ろくでもない仕事だって知っているんだろ……


 保たなかった。

 自分だけならともかく、他人を踏みつけてまで働きなくなかった。

 先が見えないまま、会社を辞めた。

 スーツとビジネスシューズはゴミ箱に叩きこんだ。

 夏が迫る梅雨のある日のことだった。


「そのままどうしようもなくなって逃げてきたってわけだよ」


 どこでもよかった。

 自分のいた日常から逃れられるなら。

 先が見えない不安から目を逸らせるなら。

 例え幻想だと分かっていても、他の何かを見たかったんだ。


 コポリ、とペットボトルから白い泡が零れた。

 どうやら最後の空気だったらしい。

 二頭はその泡にじゃれつく。

 俺の上方で、くるりと身を翻した。

 その時だった。



 大変だったね

 よく話してくれたね



「え」

 

 頭の中に直接響くような声がした。

 今のは何だ。

 驚きの余り呼吸を忘れかけた。

 慌てて水面に浮上する。

 シュノーケルを使いながら、二頭のイルカを見つめた。

 目が合う。

 イルカの黒く透き通った瞳からは感情が伺えない。

 けれども。



 いいんじゃない? 

 そんなこと何でもないよ

 長い人生から見たら一瞬でしょ


 間違ったことしていたと気がついたんでしょ

 だったらやり直せばいいんじゃない



 これはイルカの声なのだろうか。

 いや、単なる幻聴かもしれない。

 それでもいいか。

 少しくらいの不思議など、この広い海にとっては許容範囲なのかもしれない。


 トゥン、と自分の心音が聴こえた。

 普段より少しゆっくり穏やかに聴こえた。

 水の中で手を伸ばす。

 二頭のイルカのくちばしに触れた。

 そっと触れた指先には予想より固い感触。

 けれども今の自分には何よりも暖かい。


「ありがとう」


 何が出来るのかも、何がしたいのかも分からない。

 けれど、頑張ってみるよ。

 いくら気持ちよくても、海は俺の世界じゃない。

 俺は陸地で生きていく。

 もう少しましな生き方を探して、人生を泳いでみよう。

 頑張るってそういうことだと思うからさ。


 ふわりと光が上から射した。

 海の青が透き通る。

 頃合いかな。

 惜別の念を込め、最後にもう一度触れた。

 フィンを蹴り、そのまま海面へ浮上した。

 最後のキューという声がさよならの四文字に繋がった。


「疲れたらまた会いに来てもいいかな」


 海面に仰向けになりながら呟いた。

 体を運ぶ波はただ優しく、そっと頷いてくれたような気がした。

 分かっている。

 これはきっかけに過ぎないって。

 本当に大変なのはこれからだって。

 今の俺は水の中からようやく顔を上げた段階だ。

 海面に浮上して岸まで泳ぐのは、自分の力でやるしかない。


 それでも。

 ずっとたゆたっているよりは、きっと。

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