3.たった六日ではもの足りなくて
疲れたし切りもいいので、一度ボートに戻った。
水から体を持ち上げると、急に重さを感じる。
浮遊感が無くなっただけじゃない。
海で泳いだ疲労が手足にきているからだ。
「おかえりなさい。楽しかったですか?」
「ええ。凄いですね、イルカって」
フィンを外しながら、インストラクターに答える。
「でしょう。皆さんそう言いますよ」とインストラクターは快活に笑った。
よく日焼けして、いかにも海が似合いそうな青年だ。
「イルカと会話出来るって感じ、ありましたか?」
「ええ。そんな確実じゃないですけど。あ、通じているのかなって思う時はありました」
「そうそう、そうです。イルカって、人間の方を見て対応しますからね。人の行動で大体こんな感じかな、と察しているのかもしれません」
「へえ……」
「初めてでそこまで出来たら凄いですよ。何回か繰り返せば、もっとイルカと触れ合えるようになります」
もっと、か。
座椅子に腰掛けながら、俺は海面を見た。
穏やかな波が揺れている。
この下には海が広がっている。
イルカ達はどんな生活をしているのだろう。
自由に泳ぎながら、何を考えているのだろうか。
知りたい。
その願いが自分の中で膨らんだ。
「慣れればもっと泳げますか」
インストラクターに問うと、彼は頷いた。
「ええ。最初はどうしても緊張しますからね。回数を重ねると、自然と上手く泳げます。そしてもっと楽しめます」
「分かりました」
時計を見る。
先程のドルフィンスイムは大体20分くらいか。
少し休憩したら、体力も戻ってきた。
あとでもう一回やってみよう。
そう決めて、俺はペットボトルを開けた。
冷たい真水が喉へと染み渡っていった。
自分の身体を海に沈める。
遠い昔、生物は海から陸へと上がった。
その時、足を手に入れ歩行を覚えた。
だから俺の今やっているこれは逆だ。
陸から海へ。
先祖返りだ。
生命が育まれてきた青の中へ、水を蹴って潜る。
キュ、キュキュという独特の音と共に、イルカが近づいてくる。
さっきのとは違う。
別の個体だ。
ニ、いや、全部で三頭いる。
「よろしく」と親しみを込めて、俺は彼らと向かいあう。
一瞬、ほんの一瞬だが、イルカが微笑んだように見えた。
キューと高い声を伸ばし、三頭のイルカは悠々と泳ぐ。
俺もそれについていく。
分かる。
このイルカ達はこの人間と遊んでやろうと思っているんだ。
時折こちらを見る仕草、ごくゆっくりとした泳ぎがその証拠だ。
掴まえてごらんと言うように、こちらに尻尾を振り向ける。
原始の海をゆらりと掻いて、俺はそちらに手を伸ばした。
海に差し込む陽光が、イルカの姿を青く浮かび上がらせた。
† † †
イルカと泳ぎ、昼食を挟み、今度はホエールウォッチング。
夕方、陸に戻り解散。
この間、ディスプレイや文字にはほとんど向き合わない。
宿に戻り、夕食。
そのうち日中遊んだ疲れからか、自然と眠くなってくる。
四日間連続で、こんな健康的な時間を過ごした。
「深見さん、いい顔していますね。バカンス満喫って感じ」
「え、そう?」
アキに話しかけられ、俺は自分の顎を触った。
自分では気が付かないが、そうなのかもしれない。
旅行前の鬱屈した気分は今は無い。
短期間とはいえ、存分に自然に触れた効果なのだろう。
「うーん、そうかもしれないな。今は自分がやりたいことしかしてないからね」
「やりたくないことをずっとされていたんですか?」
「まあ、そうだね」
苦笑してしまった。
やりたくないことか。
いつからかそうなってしまっていたな。
うつむくと自分の手元が見えた。
今は釣り竿を握っている。
少し前までは何を握った手だったのか。
ノルマ、生活、社会的な立場?
体と心を犠牲にするほど、それらは大切だったのか?
答えは既に出ているはずだが、口にはしなかった。
自分の注意を釣り竿に向ける。
今日はドルフィンスイムは止めている。
その代わり、桟橋で釣りというわけだ。
白舟亭の近くなので、アキは俺の様子を見に来たらしい。
「大人になるとさ、段々素直になれなくなるんだよ」
ポツリと呟いた。
海面に浮かぶウキを見つめながら。
アキは何も言わない。
俺から少し離れた場所から、ちらりとこちらを見ただけだ。
「ほんとは自分でもイヤだなと思っているはずなのに。こうでなくちゃとか、これが正しいんだって自分に思い込ませて。窮屈になっていく」
それが必要な時もあるだろう。
いつも自由で楽しいほど、人生は甘くない。
だが、自分に嘘をつき続けるのは――やはり辛い。
その嘘を自覚した瞬間に、何かがポキリと折れる。
「だから逃げ出してきたんだな、俺は」
「逃げ出しちゃったんですかー」
「うん。色々と抱えきれなくなってね」
子供に話すことではないかもしれない。
だが、アキはこういう話に慣れているのだろうか。
「ふーん」と相槌をうっている。
桟橋に腰掛け、足をぶらぶらさせていた。
「驚かないね」
「え、うーん。その、こう言ってはあれですけど割とよく聞く話なので。小笠原に来る人って、深見さんみたいな人多いですよ」
「へー、そうなんだ」
「ええ。だって、ここに来るの大変ですからね。六日に一度の定期巡航船しか交通手段は無い。そこまでして、海を満喫しにくるんです。よほどのマリンスポーツ愛好家以外は」
アキは一度言葉を切った。
潮風が彼女の髪を流す。
「人生に行き詰まっちゃった人ですねー」
「なるほど。珍しくないんだね」
「ええ、全然珍しくないですよ。他にはそうですね。海洋学者や島マニアの人達かな」
「最低でも六日間だもんな。手軽に来れる場所じゃない」
家族旅行で一泊二日でとはいくまい。
世間からずれた人達のたまり場と言うと過激だが……間違いとも言えないか。
「アキちゃんも大変だな。島の人以外はそういう奇人変人ばかりって環境で」
「え、そうですか? うーん、でも昔からそうでしたしね。逆に普通っていうのが分からないんですよね」
「高校卒業したら都会に行きたいかい」
「どうでしょう。憧れは確かにありますね。自分の知らない世界があって、私はそれをネットかテレビでしか知らない。直に触れてみたいな、とは思います」
「自然な欲求だ」
「ええ。でも、それって言い出したらきり無いですし。海だってそうじゃないですかー」
「海が?」
「はい。私、小さい時から海で泳いでますけど。それでも水深3、4メートルまでしか潜ったことないんですよ。もっと深くて日の光も射さない海。小笠原じゃない別の国の海。それを全部知りたいなんて思わないです」
意外な発想に虚をつかれた。
海に囲まれて育った子ならではか。
「そうだな。人の出来ることじゃない」
「ですよね。だから私は一度は都会に出ても、戻ってこようと思うんですよね。手の届くところが一番だと思うから」
「なるほど」
まだ子供の考えだと笑うことは簡単だった。
事情次第で人は自分の考えを曲げる。
それを俺は知っている。
けれど、世界を海に例えて理解するというのは面白かった。
自分の海か。
俺にもあるのか、そんな場所が。
そこに帰らなきゃいけないのは分かっている。
ここがそうではないのは知っている。
けれども、まだ。
「明日さ、帰ろうかと思っていたんだけど」
「はい」
「六日間延長してもいいかな」
「喜んで!」
それまでにはきっと。