2.挑戦、ドルフィンスイム
結局一日目は何もしなかった。
午睡の後やったことと言えば、近くを散歩して夕ご飯を食べただけだ。
アクティブな旅では無いとはいっても、引きこもり過ぎかもしれない。
とはいえ、そのおかげで気力は少し回復した。
やることも決まった。
二日目の今日、俺はイルカと泳ぐ。
アキに勧められたのだ。
「深見さん泳げますか?」
「まあ人並みにはね」
「だったらやっぱりドルフィンスイムかな。船に乗って沖に出て、イルカのいる辺りでどぶん。あとは一緒に遊泳するんです。楽しいですよ!」
「来る途中でイルカ見かけたんだけど、やっぱりいるんだ。一緒に泳げるものなの?」
「勝手に向こうから近寄ってきますよ。幾つかの注意事項さえ守れば大丈夫です」
イルカと泳ぐ。
何とも非現実的な響きだ。
だが面白いかもしれない。
俺が決断するのに時間はかからなかった。
その結果、こうして大型ボートに乗ったというわけだ。
俺の他にも何組か参加者がいる。
イルカと泳ぐという体験を前に、期待を隠しきれていない。
「ねー、知ってる? イルカってさ、数かぞえられるんだって! すごくね?」
「まっじ! ウソ、あたしらより頭いいじゃん!」
あ、いた。
あのパリピギャルの二人だ。
会話の内容は……いや、聞かなかったことにしよう。
それよりあの二人、あの格好で泳ぐ気なのだろうか。
マイクロビキニはスポーツ系の泳ぎには向いていないと思う。
まあいいか、人それぞれだよな。
俺はイルカと泳ぎに来たんだ。
振り返ると父島が小さく見えた。
だいぶ離れたようだ。
視線を落とす。
目下の海は純粋な青というより、少し緑色も混じっている。
透明度が限りなく高いのだろう。
海面を見下ろすと、数メートル下まで余裕で見えた。
陽光が水の中に独特なゆらぎを作り出していた。
奥行きのある幻想的な光景だった。
その時、ボートがスピードを落とした。
「はい、間もなくポイントに着きます。えー、皆さん、右舷前方を見てください。あそこにイルカがいるのが見えますでしょうか」
インストラクターの声に、全員がどよめいた。
慌てて声を抑えながら、ボートの右舷前方を見る。
凪いだ海面に、ぼこりと浮かぶものが見えた。
青みがった灰色、滑らかな流線型をしている。
それがこちらへ向きを変えた。
と思ったら次の瞬間には、海に沈んだ。
「あー」というため息が場を満たす。
「泳げばすぐに会えますよ」とインストラクターがとりなした。
そのまま説明に入る。
「えー、あれがミナミハンドウイルカです。とてもフレンドリーなイルカで、自分から寄ってきてくれます。ただし無闇に触ったり叩いたりしないでください。急に動くと、こいつは危ないと思われてしまいますからね」
おお、そういうものか。
イルカは生来臆病な生き物なんだろうなあ。
「おっけー、あたしめっちゃ気使う! 両手両足ぴんと伸ばして凝視するから!」
「絶対沈んじゃうじゃん、ウケるー」
お前らはちょっと黙っててくれ、頼む。
ともかくも、暴れたりしなければ大丈夫らしい。
「あとイルカは感受性が高いからリラックスしてください」と最後に言われた。
感受性ねえ。
人の気持ちも分かるのだろうか。
種族が違っても?
"ま、どうにかなるさ"
今は楽しみと不安が7:3というところ。
ウェットスーツを着込むと、自分もイルカになったような気がした。
つるつるした表面のせいかな。
更にこの上にライフジャケットを着込む。
フィンを履きシュノーケリングの道具をセットすれば完成だ。
「はい、出来た人からこちらのハシゴで下りてください。海に入る時は静かにね」
指示に従い、ボートの縁へと向かう。
フィンのせいで歩きづらい。
ペタリペタリとどうにか歩き、ハシゴを掴んだ。
ハシゴへと身を移す。
一歩降りるたびに、自分と海の距離が近づく。
この水面下には何があるんだろう。
ザン、と波が跳ねた。
海面を見透かすと、透き通った青が層を成している。
微かな恐れをねじ伏せる。
俺はするりと海に沈んだ。
コポン、と泡が周囲で弾けた。
体が水に包まれる。
独特の浮遊感のあと、波にゆらりと揺らされた。
水中メガネ越しに下方に視線を移した。
青っぽく染まった視界の中に、カラフルな彩りが動いている。
魚だ。
黄色、青、ピンクといった派手な色が目立つ。
自分の体の下に、生き物が泳いでいる。
そう考えると奇妙な気がした。
その時だった。
急に左から音がした。
キュ、ともキュオンともつかない高く柔らかい響きだ。
そちらに体ごと振り向く。
"う……わ"
びっくりした。
いた。
イルカだ。
さっきのはこいつの声か。
数メートル離れた水中で、こちらを見ている。
体長凡そ2.5メートルぐらいか?
人間よりかなり大きい。
丸っこい流線型をした体はいかにも泳ぎに向いてそうだった。
手が届く距離ではない。
だが水族館のような仕切り越しでもない。
少し泳げば触れるだろう。
俺は今、イルカと同じ領域にいる。
"お邪魔してます"
警戒されないようにと願い、フィンで水をかく。
イルカの方を見ながら、等距離を保つ。
多分向こうも人間のことは知っている。
インストラクターによれば、イルカにも個性があるそうだ。
好奇心旺盛なものもいれば、警戒心が強いものもいる。
ともかく、相手を驚かしてはならないと思った。
シュノーケルのおかげで水中を見ながら呼吸は出来る。
軽く水を蹴り、少し潜った。
海の一部が俺の上にくる。
イルカはまだこちらを見ていた。
ぼーっとして動かない。
と思いきや、俺との距離が離れるとスッと縮めてくる。
苦笑した。
イルカから見れば、俺の泳ぎなど泳ぎの内に入らないだろうな。
水の抵抗など無いかのように、イルカは自由自在に泳ぐ。
一掻きすれば、驚くほど前に進む。
またキュキューという声がした。
優しいトーンだ。
遊ばないの、とでも問うているのだろうか。
そう聞こえたのは、俺の勝手な空想か。
けれども何だかホッとする。
確信も証拠も無い。
だが、このイルカは多分友好的なタイプだ。
お返しとばかり、
俺は話しかけてみる。
言葉は通じないだろう。
だが、何となくコミュニケーション出来る気がした。
『一緒に泳いでもいいですか』
手足で泳ぐ真似をしながら、相手の目を見た。
黒く丸いイルカの目からは、感情が読み取れない。
思考も当然分からない。
だが、俺にはイルカが頷いたように見えた。
ついてこれるならね、とでも言うようにイルカが少し前に出た。
夢中だった。
両手で水を掻き、フィンで体を前に押し出す。
イルカの後を追うように、自分の体を泳がせる。
海の中は静かだ。
海水自体が立てる音ともいえない静かな音。
そこに交じるイルカの声。
俺の先に立ってからも、キュという鳴き声を時折立てる。
ついてきているかな。
大丈夫かな。
水の中では人は不便だね。
からかうように、イルカは時折俺の方を振り向く。
『ありがとう』
気持ちが和んだ。
イルカは本気なら時速70キロで泳げるらしい。
人の泳ぎなど、散歩以下の単なる漂いだろう。
こんな鈍足に付き合ってくれている。
それが妙に嬉しかった。
思考を投げ捨てる。
一度海面近くに浮上し、シュノーケルで空気を吸った。
勢いをつけ、また潜る。
海の青が多層に重なっている。
重力の楔から逃れ、俺はフィンで水を蹴りつけた。
待ってくれ。
俺も泳ぐから、待ってくれ。
君が住むこの領域を一緒に楽しみたいから。
イルカが身をくねらせた。
ふわりと俺から距離を取る。
目と目が合った。
ごめんね、そろそろ行かなくちゃ。
相手がそう言ったような気がした。
次の瞬間、イルカは一気に俺との距離を離した。
尾びれを振るうたびに、海の底へとどんどんどんどん沈んでいく。
見送るしかない。
遊びの時間は終わりらしい。
諦め、俺は海面に浮上した。
顔に空気を感じる。
シュノーケルを外し、空を見上げた。
海の深い青とは違い、空はどこまでも淡い水色に見えた。