1.望んでいた非日常は海の向こうに
見上げれば空が広がっている。
視線を下に落とせば、海が俺の周囲に広がっていた。
異なる色彩の青のコントラストが目に染みた。
船べりにもたれ、そのまま前方を見た。
遠くに、遥か遠くに、微かに黒い影が見えた。
到着予定時間から考えて、あれが小笠原諸島なんだろう。
「おっと」
その時、船が少し揺れた。
ちゃんとした定期巡航船といっても、全く揺れないわけじゃない。
体の軸がぐらりと揺れ、またそれが反対方向に戻る。
この程度なら心地よいかな。
船酔いは勘弁だけど。
「わー、ほら、あっちあっち! 島見えてきたじゃーん!」
「まっじ!? どれどれ、ほんとだ、ヤバイヤバイ! あれがうちらの目指す島!?」
「あったり前っしょ、ハワイに行く船じゃないんだからー」
「そだねー。ハワイだったらパスポートいるもんねー」
右の方で二人の女の子が騒いでいる。
ちらっと見ただけで分かる。
ギャルだ。
ノリが異常にいいので、パリピというやつかもしれない。
彼女らの会話を聞いてると何だか頭が痛い。
うん、確かに小笠原に行くのにパスポートは要らない。
でもそれ以前に船でハワイに行く人はいないだろう。
聞こえなかったフリをして、そのまま海を眺める。
水平線の向こうで、島影が徐々に大きくなってきた。
「小笠原ってやっぱあれ? マカデミアナッツチョコ?」
「んなわけないじゃん、しっかりしなよー。コナコーヒーに決まってるでしょー」
誤解を解いた方がいいのだろうか。
いや、余計な口出しはするまい。
不粋な真似はよそう。
意識的に彼女らをシャットダウンし、海面へと視線を落とした。
サァ、と飛沫が跳ね、俺の顔を掠める。
えぐみ混じりの塩辛さは、これが海水だと教えてくれた。
軽く頬を撫で、海水を拭いた時だった。
「あっ」
遠く視界の片隅。
海面が弾け、灰色の物体が飛び上がる。
魚かと思ったが違う。
くちばしとなめらかな皮膚を持った魚はいない。
「イルカじゃん!?」
「うそ、まじ、めっちゃ跳ねる!」
ギャル二人の歓声がイルカに届いたのかどうか、俺には分からない。
気にするより先に、船の手すりを掴む。
身を乗り出す。
船の左前方で、イルカがまたポゥンと跳ねた。
続けて別のイルカが舞う。
重力の鎖をいとも簡単にちぎり、自由に弧を描いていた。
着水、派手な水飛沫。
数秒後にまたジャンプ。
「ほんとにいるんだ」
呟く。
手元のパンフレットを開く。
『小笠原 〜イルカと泳げる島へ行こう〜』というフレーズが狭い紙面で踊っていた。
イルカと遭遇してから15分、船は島の湾へと滑り込んだ。
外海と違い、湾内の波は穏やかだ。
透明な水を切って港にゆっくりと接岸する。
ここは父島と言って、小笠原諸島の中でも人口の多い島らしい。
とは言っても、街と言える規模じゃない。
カモメのクワックワッという鳴き声が空から降り注いでくる。
「さてどうしようかな」
実のところ何も決めていなかった。
とにかく非日常を体験したい――ただそれだけを考えて、さっきの船に乗ったのだ。
船旅自体が非日常だし、悪い選択肢では無かったはずだ。
振り返るとさっきの船が見えた。
定期船は六日周期なので、最短でも六日はこの島にいることになる。
「あのー、観光客の人ですか?」
「ん、ああ、そうだけど」
若々しい声に振り向く。
日焼けした女の子と目があった。
袖無しのパーカーを着て、俺の方を見ている。
カーゴパンツを履いているのは動きやすさ重視なのだろう。
「もし宿決まってなかったら、うちどうですか。部屋からの眺めもいいですよー」
「じゃあそうする」
「自画自賛になっちゃいますけど、中々いい宿で……って、ええっ! ほんとに来ちゃうんですか!」
「勧誘したのはそっちだろ、お嬢さん」
見て回るのも面倒だったし、土地勘も無い。
いきあたりばったりの旅こそ、今の俺には相応しい。
ちゃんと考えることが出来ない時だってあるさ。
「え、まあそうですけど」と何か言いたげな女の子を手で制する。
「その代わりと言っちゃなんだが、教えてほしいことがある」
「なんでしょ?」
「小笠原って何があるのか教えてほしい。全く何も調べずに来たから、何にも知らないんだ。あ、ある程度の滞在費はあるから無賃宿泊は心配しないでくれ」
歩きながら話すと、女の子は目をぱちくりさせた。
中学生か高校生あたりだろう。
ショートボブの黒髪がよく似合っている。
「えぇ、また無鉄砲なというか珍しいお客さんですね。こんな遠くまで来るなら、普通はちゃんと調べてきますよ」
「なんかさ、疲れたんだ。色々考えるのに」
「そですか。うん、もちろんいいですよ。この島、何にもないかもしれないけど、のんびりするにはいいところですから! 私のおすすめスポット教えちゃいます!」
「頼むよ、お嬢さん」
「アキです、お客さん」
「え?」
「私の名前。片桐アキっていうんです」
そう言って、彼女――アキはポケットから名札を取り出した。
確かにその名が刻まれている。
名札には白舟亭という文字もあった。
宿の従業員が付ける名札らしい。
「お嬢さんなんて柄じゃないんで、名前で呼んでもらっていいですか。可愛いアキちゃんとか!」
「可愛いは名前じゃないと思うんだが」
「むー、リップサービスくらいしてくださいよ」
「分かったよ、可愛いアキちゃん」
肩をすくめながら承諾した。
「へへ、ありがとうございます」と女の子――アキは笑う。
人懐こい笑顔だった。
その笑顔のまま、アキが問う。
「そうだ。お客様のお名前聞いていませんでしたね。教えてもらえますか?」
「深見。深見慎二。よろしく」
簡潔に答える。
「深見さんですね。小笠原は初めて……ですよね。さっきおっしゃってましたもの」
「そうだね」
肯定しながら僅かに視線を逸らした。
船旅で疲れたこともあり、今はこれ以上話したくない。
その空気を察したのか、アキも口をつぐんだ。
二人で島の道を歩く。
アスファルトの上に白い砂が薄くひかれた道だ。
潮風が時折海から吹いてくる。
そのまま5分程歩くと、アキが立ち止まった。
「着きました。ようこそ、白舟亭へ」
少し道から外れた場所に、一軒家が立っている。
普通の民家に見える。
強いて特徴と言えば、鮮やかに白く塗られた屋根と壁だろうか。
「民宿?」と聞くと「はい。でも温泉もありますよ」と即答で返ってきた。
もとより今から別の宿を探す気も無い。
「じゃ、ご厄介になるよ」
こうして俺の小笠原滞在の場所は決まった。
白舟亭は典型的な民宿だった。
若干改築してはいるが、規模は小さい。
客は四組がマックスだそうだ。
「小笠原までよういらっしゃいました。楽しんでいってください」
そう言って、女将さんが柔らかな笑みを浮かべた。
アキとそっくりなので、恐らく母親なのだろう。
ほとんどの民宿は家族経営だ。
何泊するのか聞かれ、俺は答えに詰まった。
「逆に何泊すればいいんでしょう」と聞く始末だ。
こんな間抜けな質問にも、女将さんは真面目に答えてくれた。
「船に合わせるなら、最低でも五泊六日になりますねえ」
「じゃあそれでお願いします」
ノープランで来たのがバレバレだ。
仕方ないか、本当にそうなんだから。
それでも特に不審に思われなかったらしい。
女将はニコニコして頷くだけだ。
"俺が気にしすぎなだけか"
自分の部屋に案内され、ホッと息をつく。
窓の外を見ると、湾が一望出来た。
高いビルなど一つも無い。
漁船らしき船が沖合に見えた。
波の音がザーン……ザーン……と耳に沁みる。
のどかな風景だなと思っている内に、瞼が重たくなってきた。
船旅の疲れが出たのかもしれない。
"どうせ時間だけはある"
寝たって構いやしない。
畳の上にごろりとなると、すぐに眠気が襲ってきた。
風が気持ちいいなと思った時には、俺は眠りに落ちていた。
夢と分かって見る夢がある。
この午睡で俺が見たのも、そんな夢だ。
明るい夢じゃない。
つい最近まで浸っていた現実が、フラッシュバックしてくる。
ごく近い過去の中で、俺はもう一人の自分を見ていた。
――いつまでこんな仕事を続けているんだよ。
――仕方ないだろう。食べるためだ。
――人を騙すような真似までして?
――騙される方が悪いんだろ。
繰り返される自問自答は、ひたすら息苦しくて。
出社する際の自分はいつもため息ばかりじゃなかったか。
新卒で入社して七年。
ただひたすら懸命に働いてきた。
これが自分の仕事だと言い聞かせながら。
――ほんとは嫌だったくせに。
答えられないまま、夢の中の俺はズブズブと沈んでいく。
それを黙って見送った。
深見慎二、29歳。
泥のような日常に別れを告げて、非日常へと踏み出した夏だった。




