賢者をめぐる背徳(三十と一夜の短篇第36回)
いまだ夢を見ているようです。鈍色の車両に乗り、機関車とは大違いの甲高い奇特な音に耐えながら、昔日から変わり果てた街を行くいまが信じられません。私たちが国を捨てるほどの退廃に満ちた、後発発展途上国の面影はとうに失せています。
音の正体を問う私に、「インバータだよ」と良人がささやきます。中にダイオードと発振回路が入っているのだそうです。強電とシリコンの時代の共演。電磁気学と量子力学のコラボレーション。私たちの国では理屈こそ分かっていても、いま電車の走るこの国のような半導体生産能力は持っていません。だからインバータなんて、見たことも体感したこともありません。いま住む国では、エンジニアでもない限り、インバータなるものを知る人はいないでしょう。
この車両が18-8合金というステンレス製だと教えてくれたのも良人でした。
出会ったころからムダに博識でしたが、知的好奇心は尽きるどころか、いまなお成長しています。デザイナーにもかかわらず、明らかに他分野であろう事柄も知っています。自由七科を信奉し、Bachelor of Arts(教養学士)を取得すれば叶うものでしょうか。
いえ、きっと違うでしょう。自由七科は必要条件になり得ますが、十分条件ではありません。教養学士はどちらでもないでしょう。幼少期からの積み重ねがなすものです。雑学的な面では、良人はきわめて論理的な思考の持ち主です。
しかし人間ですから、100%論理では生きられません。ことデザインの分野については直情的な人です。Bachelor of Fine Arts(芸術学士)を目指さなかったのは、「その延長線上に、僕の芸術はない」からでした。大学へ入ったときにはすでに仕事を得ていましたから、アカデミックな理論など不要でした。
もちろん良人の頭の中では確固としたロジックがあるのでしょう。けれどもこの分野の知識は、私にすら開示しません。フリーランスの知識は企業秘密と同じです。良人はその流出をひどく恐れていました。公開された作品は唯一の解き放たれた窓です。しかしその窓だけでは、人生という帰納の累積で生み出された良人のすべてを知ることなど、できません。
当然、逆も同じです。彼だって、私のすべてを完璧には理解していないでしょう。心を暴く魔法や、森羅万象をささやく邪神が存在するなら、別ですが。
恐怖を覚える速度で鈍色の車両は走ります。
「でんしゃ! でんしゃ!」と、土足のまま座席の上で跳ねる娘を降ろして座らせます。それでもなお、視線は車窓の外。娘の心は、モータの高鳴りと同調しているようです。
騒ぎ声は急に止みました。
電車が駅を通過します。
「どうして止まらないの? あんなに人がいるのに」
「急行だからだよ。駅をとばす代わりに、遠いところまで早く行ける」と良人が答えます。
「じゃあ、あの人たちは。このままほったらかし?」
「いいや、ちゃんと全部の駅に止まる電車があって、あの駅にいた人はその電車に乗るんだ」
「やさしいね。そのでんしゃ」
娘はそう言って、目を車窓へと戻しました。
「ママに似たな」
良人いわく、私は質問が多いそうです。たしかに幼いころから、すぐ疑問を抱くクセがあります。人に言われなくても自覚できるほどです。そのクセが良くも悪くも、いまの私につながっています。人によってはめんどくさいと感じるでしょう。彼だからこそ、関係が続けられたのかもしれません。
しかし、電車とインバータが平気な面では私に似ていません。その点はいまなおケロッとしている良人に似たのでしょう。適応の早さはピカイチでしたから。
急行電車を降りて向かった先は美術館でした。来週より開催の展覧会で、良人の絵が展示されます。その最終確認です。
ビルの陰から建物が姿を現します。その瞬間、私の中で現実は融解しました。
館の形状はよくある直方体ではありません。球でもありません。オーバルともほど遠いそれは、キノコのようでした。ビル五十階分ほどの白い中心柱の頂に、赤い傘が広がっています。丸みを帯びた傘についたイボイボは、地上からでもはっきりと見えました。
これはこの国で最も著名な画伯ボパール氏がデザインしたと聞きます。まるでおとぎの世界に放り出された気分です。現代芸術を極めれば、この境地にたどり着くのでしょうか。
娘は喜んでいますが、私には無理です。老いたのでしょうか。
いえ、そうではありません。理性がサイレンを鳴らしています。
「これ、地震とかあったらどうなると思う」
「普通は倒れる」と良人が即答します。
中心の一本柱以外に傘を支えるものは見当たらないのです。
近くを歩いていた女性に聞きましたが、天上からワイヤが下りているわけではありませんし、不可視の柱が建っているわけではないようです。『賢者』の賜物だと、自分の成果のごとく自慢していました。
私たちはしぶしぶこの不安定な構造物に身を投げます。
すぐさま美術館長が出迎え、柱に備え付けられたエレベータへ案内されました。
鳩の飛ぶ速度でのぼるエレベータはガラス張りで、離れていく地上がよく見えます。私たちが外国在住だと知る館長は、美術館の構造について熱心に語り始めます。
このキノコの傘は、鋼鉄を遙かに上回る縦弾性係数と、水に浮かぶナトリウム並の密度を両立させた、溶接可能な樹脂でできていること。高分子材料にありがちな紫外線による劣化はなく、長期にわたり機械的性質が保たれること。そのすべてが「賢者の助言の賜物」だと、館長は誇らしげに語ります。
「風が吹いたときはどうなるのでしょう。こんな未熟なキノコ頭だと抵抗が大きいはずです」
「心配ご無用です、奥さま。傘についた突起により、流体抵抗を抑えているそうです。あのイボのおかげで、筐体に沿う気流が乱流剥離を起こし、有害な渦の発生を抑制していると聞きます」
「しかし、振動するのでは」
「もちろん多少生じますが、材料強度に対しては微小だと……」
まるで受け売りのような説明です。彼はエンジニアではないのでしかたありません。ですが、この口調では不安は拭えません。
「では、地震が起こったときはどうなるのですか」
良人が尋ねます。
「それも心配いりません。機械的性質に優れた心柱を、最適な基礎と工法により施工しております。賢者の知恵が凝縮された当館が崩壊するなどありえません」
「疲労破壊もしないのですか」
「ええ、高疲労限の材料を使っているので。疲労限のないアルミ材のような損壊はないと聞きます」
その答えに良人はいぶかしんでいるようです。
私も同感です。専門用語の羅列で欺こうとしているのではと、勘ぐってしまいます。少なくとも、私はなんとなくしか理解できておりません。もしかしたら、彼には通じているのかもしれませんが……。語られる性能があまりに現実離れしている気がします。
「さきほどから『賢者』という単語を耳にするのですが、賢者とはいったい」
良人が館長に問います。私も気になっておりました。
「人工知能ですよ。『賢者の石』と呼ばれています」
「賢者の石?」
「我が国に知恵と技術を授け、大いなる発展へと導いた石です」
「ゼロからですか」
「当然です」
「ですが、人工知能とは数学、論理、統計学と莫大なデータをベースに、最適と思われる結果を導出するものと聞いたことがあります」
「さすがは運転士のいない車両の絵を描くお方。しかしそれは、電算機援用(computer-Aided)と混同しているのでは? 我が国の人工知能は我々がなにもしなくても、最適の答えを授けてくれるのです」
「では、どのような仕組みで……」
「それは私に聞かないでほしい。そんなもの、石を生み出した人間しか知らないでしょう。そもそも賢者は我々の財産、彼の秘密を他国の方に明かすのは禁じられております」
美術館長は誇らしく、ときおり私たちを見下すように語ります。良人が門外漢であるとはいえ、原始的な理論を口走ったからかもしれません。この国は私たちの住む国を追い越し、はるか先を進んでいます。科学力だって上のはずです。私たちが知らない理論を解き明かしているはずでしょう。
しかし、元はこの国の方が遅れていました。そんな国がどうやって高機能な人工知能を生み出せたのでしょうか。館長の話を聞く限り、この賢者の石はあまりに都合が良すぎるのです。どこかの実験室で偶然生まれた宝物なのでしょうか。
それとも……。
話が済むと展示室に案内されました。白熱電球とは少し違う、やや黄色を帯びた照明が柔く照らします。
「どうです、半導体の光は。『先進絵画展』にふさわしき演出でしょう」
館長はまた誇らしげに語ります。
そんな中、ある男がスタスタと寄ってきます。深々と一礼し、良人だけでなく、私にも名刺を下さいました。
世界一と評される電機メーカーの名前に、技術営業部長の肩書き。この展覧会に照明を提供したとおっしゃっていました。
「美術品に有害な、紫外線領域がゼロの逸品です。美術展では初採用となっております。今日は一般消費者と違ったご意見を頂戴したく……」
「若干、黄味がかっていますね」
良人がすかさず答えます。
「そうですか……」
メーカーの男が不思議な板を取り出し、指先でポツポツとつついています。数十回つついたのち、板をポケットに入れました。
「貴重なご意見ありがとうございました。やはり青が不足していたようですね」
「開発段階で気づかなかったのですか」
「気づいておりましたが……」
部長の声がくぐもります。
「まさか賢者とは関係ないですよね」
そう問う私に、部長は「賢者ならこのようなミスは犯さないでしょう」と答えます。
最初の『け』が、心なしか裏返っていたのは気のせいでしょうか。問い詰めることはしません。私はただただ、話を続ける部長の眼差しを注視しておりました。
「他の画家の意見を伺い、改良品の製作を検討いたします。では、失礼」
メーカーの部長はスタスタと去っていきました。
『賢者』の言葉に瞳が揺らいだのは気のせいでしょうか。去り際に安堵の気配を感じたのは気のせいでしょうか。私が異常なほど過敏なのでしょうか。感覚がおかしいのでしょうか。
いえ、少なくとも私は自分の感覚を信じております。信じたくなくとも、信じております。彼が技術営業、つまりエンジニアの経歴を持つ人にもかかわらず、賢者なるものを盲信していたのではないかと。彼が与えた解を検証することなく受容したのではないかと。
私の様子を察したのか、良人が声をかけてくれました。こっそりと耳打ちします。
すると良人は「気にしすぎだ」と言いました。
青色光源の開発は遅れており、赤や緑に比べ割高なのだそうです。そのため青をふんだんに使えばコストアップにつながります。紫外線領域と波長の近い青を多く入れれば、紫外線放射量が無視できないレベルになる可能性もあります。だからあえて青色を減らしたのだと。
そう考えれば合理的です。
「それはメーカーの部長さんが言ってたの」
「いや、メーカーの人間がコストで妥協したなんて言うわけがない」
たしかに、気にしすぎかもしれません。素人目でもわかるほど黄色に偏った光は、全知の賢者にふさわしくありません。国の誇りと呼ばれる彼なら、最初から最適な解を導くでしょう。
しかし、それならどうして『賢者』の言葉に反応したのでしょう。実績を盾に胸を張っていればいいはずです。己の感覚を信じられなかったからでしょうか。やはり考えすぎでしょうか。
館内の奥、最後から二番目の展示室に良人の絵があります。
石英の大地に浅く満ちる水。その水面から波を立て、異形の魚が飛翔しています。魚のはるか向こうの天上にはエメラルドの惑星が浮かび、水平より七十五度傾いた環が幾重にも重なっています。赤い太陽の輝きは弱く、漆黒の陰には星が散らばっていました。すべてが黄色に濁っていても、カンヴァスの上は変わりません。天上のはるか彼方、未知の場所が画面に広がっています。
故郷のアトリエで描いたとおりの品でした。
絵画の前に男が五人いました。さぞ豊かな暮らしを送っているのでしょう。体躯が示しています。
ただその表情は苦虫をかみつぶしたかのよう。彼らが私たちの姿を認めるやいなや、こちらをにらました。
五人がいっせいに良人を包囲します。
先ほどまで絵に目を輝かせていた娘が、私に飛びつき背に隠れます。
良人は五人を連れて離れていきます。
その行為は無駄でした。
「こんどの広告の件だが、白紙になった」
「我が社もキャンセルだ」
「当社も……」
「我々も……」
「貴方には失望した」
彼らはそれぞれ別の会社の人間でした。自社の広告の話を他社に暴露してまで、激しい剣幕で良人に詰め寄ります。
公開処刑の場に居合わせたかのようでした。
「なぜですか」
突然の事態に良人が尋ねます。
「言わなくてもわかるはずだ。来たまえ」
良人は五人の男に連れられ、さらに奥の展示室へと向かいます。館長もいっしょでした。
私は娘とともにこっそり後をついていきます。
五人は最終展示室にある、一枚の絵を指しました。この国で最も著名なボパール画伯の絵です。ここ四、五年で、美術界の寵児となった男の絵です。
それは良人の絵とそっくりでした。まったく同じサイズ、同じ構図のまま、より繊細に描き込まれていました。それを見せた上で、五人は良人の絵は盗作だと断罪しました。
ボパールがやってきます。五人よりさらに分厚い脂を抱いています。見ているだけで重そうです。炎天下の野外で作業できるのでしょうか。良人とは明らかにベクトルの違う人間だと、一目でわかりました。
ボパールは五人の男を引き離し、私たちを別室に招きました。
部屋に入るなり彼は板を取り出します。メーカーの部長が握っていたものにそっくりですが、サイズが倍あります。板は光り輝き、一枚の絵を映し出します。それは良人が過去に発表した絵でした。
「これはあなたの作品、間違いないですな。連邦歴1972年2月8日に掲載されたものだ」
当然、良人は認めます。
「では、これはなんだね」
ボパールは己の作品集を掲げます。
非常によく似た絵でした。構図は同じで詳細な絵が彼の手にありました。
「この作品は同年2月5日に発表している。その前より私は関係者と打ち合わせを重ねておるのだ。現物の完成はさらに前だ」
「待て。そのような犯罪行為、どうやればできるのだ。私がスパイでも送っていたというのか。その証拠は。私こそ発表日のはるか前に絵を完成させている。クイーンベッドより大きなテンペラ画が、三日で描けるわけないだろう」
良人は大海の底で蠢くマグマのようでした。
ボパールは絵に身を捧げたことがないのでしょうか。いまの発言に気づいていないのでしょうか。
彼の胸元でなにかが黒く輝きます。
「ほぅ。ではどうして、あなたの絵は私のものより一段下なのかね」
「ではどうして、あなたは私のまねごとをした。三年前までの作品はベスパー氏によく似ていた。幻想の写実より現実の印象を重んじた彼と私の作風は大違いのはずだ。なぜだ。どうして変えた。ベスパー氏亡きいま、あなたは後継者になれたはずだ。借り物の作風に雑音を上塗りせずとも活躍できただろう」
「あの作風だといまほど絵が売れないのてね。方向転換したのだ」
「いま言いましたね。ご自身の絵が私の後発だと明かしたのですよ」
「作風については後発だが、絵は私が先行している。いまではあなたと違って、多数の注文と取材を受けておる。そんな私に羨望したあなたは、賢者の力を盗んだのだ。レプリカでも作りたかったのかね? 誰がどう見ても、あなたの絵は劣化コピーだ」
「なにを言っているのですか。顔を洗って一度自問された方がよろしいかと」
彼の胸元の黒曜がきらめきました。なにやら耳打ちしています。
私は耳を尖らせます。スクランブルがかかった声は、私の元に届きません。
「私はあなたを提訴した。以後は法廷で話しましょう。私にはあなたと違って時間がないので」
ボパールは足早に去ります。
すかさず良人が追います。
黒い背広姿の男が三人、良人を取り押さえます。
私も飛び込みました。
男は容赦なく私を掴みます。
他人の身体が幾度と胸に触れます。
お抱えの警備員なら上品な体術の心得はあるはずです。
執拗極まる下劣な行為にボパールの残像が目に浮かびます。
娘は見ていることしかできません。
両親が拘束される姿はどう映っているのでしょう。
ボパールが外に出たとの無線とともに、私たちは解放されました。
私たちが展示室に戻ったとき、良人の絵はもうありませんでした。
裁判には敗れました。良人が積み上げてきた財産の大半は賠償として消えました。この国に正義の女神は存在しないようです。相手の顔をうかがい、端から傾いた秤で審判を下すのです。
ボパールの類似品は二枚では済みませんでした。
一枚だけなら奇跡的一致とまだ思えますが、五枚、六枚となるともう現実ではないでしょう。百個の数字から八個を選ぶ宝くじで、一等を当てる方がはるかに簡単です。確率論ではあるものの、常人の思考ならありえないとわかるはずです。
すべて、起訴の直近一年以内の作品とはいえ、これほど積み重なるまで訴えなかったことに邪な意図を感じました。
良人は十日間、裁判所が指定した会場に装身具なしの全裸で閉じこもり、絵を描いて争おうと提案しました。醜いですが、この方法でしか正当性を主張できないのです。
黒曜を失ったボパールの姿が晒されます。
私も期待しておりました。良人が提案したとき、彼の瞳はひどく揺れていたのです。いまでも鮮明に覚えています。焦る鼓動が聞こえてくるほどでした。ボパールは賢者なるものの力を借りなければ、展覧会の門すら叩けないのです。
提案はもちろん退けられました。前近代的だとか、卑猥だとかではありません。代わりに大量の紙幣が交わされました。良人には黙っていますが、私は見てしまったのです。
この国において論理は無意味だったのです。
絵にはめ込まれた小さな窓に映る、良人の心が見えないのでしょうか。絵画の裏側に思いを馳せることはないのでしょうか。彼に歴史などありません。美術に対する理解も思想も欠いています。離散的な跳躍に、時が描く軌跡は存在しないのです。
進歩は各駅停車である必要はありませんが、これは一足飛びの急行電車ですらありません。過程を経ていない結果への瞬間移動など、邪神の業です。
おそらく彼には、いえ、あの国には演繹も帰納もないのです。素晴らしき結果だけが夜空の星のごとく散らばっています。
ボパールが現れるまで、良人は時代の寵児でした。生涯で積み重ねた帰納の投影が評価されてきたのです。
しかしそれは、賢者が導く解と重なっていました。良人に照準を合わせ、破滅を狙ったとしか思えません。
賢者は邪神なのです。
私たちが住まう新たな祖国では勝訴し、首はつながりました。でも所詮は蛮族の審判と、世界は見放しました。
相手は世界に名を轟かせる大国です。表では世界の信奉を集める先進国家です。いまこの瞬間だけを切り取れば到底敵いません。歩んできた道程など誰も見ていないのです。
あの国は浮かぶ球殻です。柱もワイヤもありません。過去を捨て、現在しか見ないなら、どの向きに進み、どの向きに加速しているのかわかりません。落下するのか、水平に飛翔して他国を焼く弾丸となるのか、天上へ昇り太陽に焼かれるのか、第三宇宙速度を超えて遙か彼方へ征くのか、誰も知りません。おまけに球殻ですから中身がないのです。それなのに……。
良人を信じる者はもうこの国の人々だけ。いまの私たちは、賢者の闇を指摘する力を持ち合わせておりません。絵に身を捧ぐことすら危ういのです。
しかし良人から絵を奪えば、いったいなにが残るでしょう。
私からすれば彼は多くを持っています。けれども本人は『無い』と言うでしょう。少なくとも、いまの良人は絵とともに果てるのです。
まだ正義の女神のいる新たな祖国で、絵を描き続けるしかありません。それが許される時間は長くはないでしょう。ベスパー氏も裁判に敗れ、財産を身ぐるみ剥がされ、路頭に迷って亡くなったのです。
娘は小さくなった庭で無邪気に遊んでいます。友人たちに比べその影がひときわ濃いと思うのは、気のせいではないでしょう。
体裁だけ先鋭的な虚ろな球殻。その中身に目を向ける人はそう多くありません。美しいフォルムの内側はすべてをのみ込む真空だと訴えても、誰も信じてくれません。みな賢者が放つ偽りの威光に目が眩み、盲目的に帰依し、彼の望むまま踊り続けます。
退廃の宴に列する彼を、彼らを断罪すれば、邪教の信徒として地獄に堕ちるのです。
良人はなおカンヴァスに向かいます。彼のもたらす酔夢を覚ませると信じています。私は孤高を征く彼をひとりにしないよう、支えることしかできません。地獄送りとなれば、共に堕ちてみせましょう。
そのとき、私は彼の素顔を抱いて、眠るのでしょうか。
本作は『ルナリアは闇夜に咲き誇る』から生まれた作品ですが、つながりはありません。別の世界、別の夫婦のお話です。