【湖岸通りの喫茶店】
湖岸沿いの街路を進んでいた時、その声と鈴の音は聞こえてきた。
「イリスちゃーんっ!」
外壁につたが巻き付いた洒落た店の窓から、見覚えのあるワンピース姿の少女がぶんぶんと手を振っている。昨日の……確か名前は『紫苑』だっただろうか。
「また会ったわね」
「ん? 紫苑ちゃん、この子がさっき言ってたイリスちゃんなのぉ?」
紫苑の座っている席の向こう側から、やたら語尾が間延びしている新手が顔を出した。
桃色がかった淡い茶色の髪に、同色の瞳。南方人に多い特徴だ。
「どうも、初めましてぇ。私はジェシカ。ジェシカ・ペスカトーランよぉ」
「……ペスカトーラン? ラフェンタ公国の市議会長を何人か輩出している、あの?」
反射的に知っている知識をこぼしてしまってから、しまったと口を閉じる。でも言ってしまった事は変えられない。
南方ラフェンタに多い桃茶髪を揺らして、ジェシカは「あぁ、そのペスカトーランよぉ」と気まずげに応えた。
「そういうきみはぁ? 苗字を聞きそびれちゃったって、紫苑ちゃんが言ってたから」
「……デューラーよ。イリス・デューラー」
私は、感情の揺れを押し隠しながら言った。押し黙った私と、その私を見極めるように目を細めるジェシカの間に、不自然な沈黙が生まれる。
その沈黙を破って、先に口を開いたのは……ジェシカだった。
「じゃあ、イリス・デューラーちゃん。もし良かったら」
◇◇◇
「一緒にお茶飲んでいきましょうよ。ここのタルトと紅茶、とてもおいしいのよぉ」
ジェシカは、窓の外から自分を見上げる少女に向けてそう言った。
不思議な金褐色の瞳を持つ少女は、黙りこくったまま眉根にしわを寄せている。
彼女が着ているカーキ色の服はボロボロ、髪も自分で切ったように乱雑なショートヘアで、全体的にみすぼらしい印象を与えてくる。
(でも、あのヘアピンは一般人には手に入らない代物……この子にはたぶん、何かある)
ジェシカが生まれ育った南の独立海洋都市ラフェンタは、商人の街だった。
ジェシカ自身も商家の生まれだったから、父について港に行けば、帝国に輸出される高級商品の数々を目利きする事ができた。
だから紫苑の持っていたヘアピンを見た時、ジェシカには分かってしまったのだ。
(あのヘアピン……もう機能してないけど、術式印が捺してあった。おそらくは解毒用術式……貴族の護身用だったものだわぁ)
紫苑がヘアピンを見せてくれた時、ジェシカは『イリス』の容姿を身なりのいい貴族の息女だと予想した。
しかし実際は、貴族の所有物であったと思われる高級品を、こんなにみすぼらしい容姿の少女が持っている。
(この子が拾ったのか、あるいはどこかから盗んできたのか……いや、違うわねぇ)
ジェシカの目をまっすぐに見つめ返してくる強い瞳。きびきびとした、しかし優雅で無駄のない動き。
その佇まいは、一般人が出せるものではない。数多くの貴族を目にしてきたジェシカの感想だった。
(私の知る限り、デューラーなんて名前の貴族はいない。もしかしたら偽名かもしれないわねぇ。
勢力争いに負けて社交界に出てこれなくなった、亡命貴族って線もあるか。でもまぁ、それでも)
関係ない。ジェシカは全ての面倒くさい打算を捨て、邪気のない笑顔を浮かべた。
目の前にボロボロの服を着た女の子がいて、一人で孤独に歩いている。
実際に目の前にあるその光景だけ見れば、やるべきことは決まってくる。
ジェシカは、店に入る為の入り口を指差した。
「お金の事なら心配しないで良いのよぉ。私がおごるから。紫苑ちゃんと仲良くしてくれたお礼って事で。どお?」
「いや、でもそれは悪いわよ。それに……」
「それに?」
「……跳ね兎亭ってとこの引換券を貰って、その店を探すところだったから」
「なら、丁度よかったわねぇ。ここがその『跳ね兎亭』よぉ」
ジェシカが指差した看板には、ウサギを模した絵が描かれている。風に揺れるその看板を見て、イリスは押し黙った。
喫茶店から漂う甘い匂いは、成長期真っただ中の女の子には暴力的な誘惑だろう。
「イリスちゃんっ!隣、席空けたよ!」
目を輝かせた紫苑のひと言に、イリスがぴく、と肩を揺らした。
きらきらという効果音が聞こえてきそうな期待の眼差しに、こめかみが傷痕ごとヒクついている。
「……今行くわ」
やがて少女は、あきらめたようにため息をついた。
やや乱暴に扉を開け放ち、憮然とした表情で乱入してくると、周囲の上品な服を纏った客が困惑したような視線を少女に向ける。
そんな視線など意に介す必要もない、とばかりに素通りした少女は、ドカッと椅子に腰かけた。
「これ!これおいしいと思うよ! アプリコンナのチョコタルト! こっちの蜂蜜レモナケーキも私は好きで」
「わ、分かった。分かったからちょっと落ち着いてメニュー見せなさいよ!」
飼い主にじゃれる仔犬、その対処に困る飼い主。そんな構図を何となく想像しながら、ジェシカは新たな紅茶をティーポットから注ぐ。
(訳ありなのは確かなんだろうけど……うーん、やっぱり年相応。かわいいねぇ)
何か人には言えない事情は抱えているのだろう。そう察していながらも、ジェシカは何も言わなかった。
ジェシカの包み込むような無言のやさしさに、少しほだされたのか。
「あの……」
終始口をへの字にしていたイリスが、ジェシカに話しかけた。
「ん、なぁに?」
「悪いわね。こんな見てくれの悪いのと、学院の学徒とじゃ釣り合わないでしょうに」
ぷいと目を逸らし、頬を染めながらつぶやく少女。これがいわゆるツンデレか。ナニコレかわいい。愛でたい。頭なでなでしたい。
ふへ、という笑い声が自然とジェシカの喉から洩れた。
「ふへ……?」「え、何怖いんだけど」
首を傾げる紫苑、ぞぞっと身を震わせるイリス。
そんな幼女ふたりを見下ろしながら、ジェシカは怪しげな笑いをふへ、ふへへと続けた。
「やぁーねイリスちゃん。そんなこと言われたら……ジェシカさん、本気出しちゃうわよぉ」
──ジェシカ・ペスカトーラン。
彼女が並外れた庇護欲で幼子に愛を注ぐことを趣味とする、いわゆる『ロリショタ性癖』の持ち主だとイリスが知ったのは、のちに彼女秘蔵の魔導本をうっかり目撃してしまった時だった。