【その名は夢幻迷宮】
「あの、ジェシカさん。夢幻迷宮って結局、何なんですか?」
──同時刻。湖岸にいくつも並ぶ喫茶店、そのひとつに紫苑はいた。
ティーカップをソーサーに置きながら、目の前にいる人物に質問をぶつける。
「夢幻迷宮が何なのか……か。それは、その真相を追い求めている私たちにも、答えがよく分からない質問なんだよねぇ」
紫苑の向かい側の席にいるのは、紫苑を引き取った教授の研究室に属している学徒ジェシカだ。
桃茶色の髪を肩まで垂らした彼女は、椅子に深く座り込んでカップの中身をひと口。
紫苑達が今いる大人気カフェ〈跳ね兎亭〉の看板メニューである、アプリコンナという果実入り紅茶だった。
「逆に聞くけど、紫苑ちゃんが〈夢幻迷宮〉について知ってるのって、どんな事があるのぉ?」
「え、えっと……帝国の領土に全部で四つあって、帝国ができるより前から存在していた、古代人さんの不思議な遺跡で」
「ふむふむ」
「北のイスカリオン、南のラフェンタ、東のアマクス、それから……ここ、西のチチェリット。この四つの都市に、円を描くようにして並んでいます」
「うんうん。ちょうどそこに見えてるでーっかい門が、その〈夢幻迷宮〉の入り口だよねぇ。あの門を越えた先に、私たちが〈夢幻迷宮〉と呼ぶモノは存在している」
そう言いながらジェシカは窓の外をフォークで示す。
街を囲む山脈。その付け根に存在する、岩壁をくり抜いて作ったかのような巨大な門。
その内側に真珠色の光膜を揺らす門を一瞥してから、ジェシカは言葉を続けた。
「チチェリットはねぇ、元はと言えばあの迷宮の探究によって発展した街なんだよぉ。
きみを引き取ったエリック教授の〈術式文化学研究室〉も、伝統ある研究室のひとつなんだぁ」
「えっと、その。エリックおじさ……じゃなかった、エリック教授とか、ジェシカさんが研究してる〈術式文化学〉っていうのは、帝国各地の異教徒が用いる術式の形態を比較して、その起源を辿るってのが主題、なんですよね?」
「うん、そうだよぉ」
「……その研究内容と、冒険者に交じって迷宮を探索するって意味が、あんまり繋がらなくて。
確かエリック教授とかジェシカさんって、研究の一環で迷宮探索をしているんですよね。でも、迷宮の中はすごい危険なんだって、図書館の本に」
紅茶のカップを両手で持ったまま、紫苑は怯えたように肩を縮める。
その態度を見て、ジェシカは怪訝そうに眉をひそめた。
「んー……紫苑ちゃんって今までに迷宮についての話とか、あんまり聞いたことがなかったのぉ?」
夢幻迷宮の冒険について語っている迷宮冒険譚は、村から村へと巡る放浪楽団が歌う物語の中でも最人気のものだ。
ジェシカも子供の頃は、放浪楽団の歌手が歌う迷宮の物語に、胸を躍らせていたものだった。
紫苑はあまり物語に興味がなかったのだろうか──そう考えていたジェシカに、紫苑は目を伏せながら答えた。
「私、村のはずれに住んでたからお祭りにいった事はなかったし、歌物語とかもあんまり聞いたことがなくて。この街に来て初めて、存在を知ったんです」
「そうだったの。じゃあ、もうちょっときちんと説明しなきゃだねぇ」
「すみません、無知で……」
「いいのいいの。誰だって最初は無知・未経験なんだからぁ。私だって、まだまだ若輩者よぉ」
おどけて見せると、ジェシカはふっと表情を改めた。
「とりあえず、私たちの研究室と迷宮の関係性についてだねぇ。紫苑ちゃんは、迷宮の中がどうなっているのかは知ってる?」
「はい。あの門の中の空間は、森になっているんですよね。
すごい複雑で、それこそ迷路みたいな……でも、ちゃんと道がある。そんな森に」
「半分正解、かなぁ。
正確には、かつては人の居たであろう場所が、森に飲まれている空間なの。そして、そのそれぞれが結界に閉ざされた空間の中に、独自の生態系を発展させている。
迷宮内は星沁密度が私たちのいるこの世界よりもやや高かったりして、魔物が平均より強い。罠もある。その中は、君が言っていたみたいに、まぁ、ちょっと危険な場所だよ。
この街に来た初代の学院長たちは迷宮内を調査しようとしたけれど、一筋縄じゃいかなかったんだよねぇ」
言いながら、ジェシカは紅茶を啜った。
「罠を避けたり、壁画を解読する為に何より厄介だったのは、古代の文字である星刻文字を使った独特の術式。
学院が作られた当時は、イウロ人に星沁術式って概念が無かった時代。
術式を使った迷宮の仕掛けは、怪しげな魔術の域を出ていなかった……だけど、この怪しげな魔術には必ず規則性がある。
……そう確信した初代たちは、夢幻迷宮の機巧について探求し、解明する為のチームを編成した。
この解読チームは探求と試行錯誤を繰り返しているうちに、ある事実に気が付いたんだよぉ」
「ある事実……?」
「うん。迷宮に使われている特殊言語〈星刻文字〉や、石碑に刻まれている詩。
イウロ人にはないこの言葉や詩に近いものを、帝国内外に散在する異教徒たちが伝統として引き継いでいる事がある……つまり、そういった異教徒たちの使う不思議な魔術、その起源は」
「迷宮の機巧と、同じもの」
「そういう事だよぉ!」
にこっと笑って、ジェシカは続けた。
「だからうちの研究室では、迷宮探索と異教徒の人たちに対する調査を同時にやって来たんだよ。
今は学徒保護法とかいろいろ規制ができちゃってるから、昔ほど迷宮でムチャな調査をする事はなくなってるし、異教徒への聞き取りの方も……あんまりうまく行ってないんだけどね。どこも内乱が激しくなってるから。
代わりに、イウロ人の特徴にあった術式を構築して発表する事も増えてるよ。
人種ごとの星沁適性についての研究は、星沁術式の概念が帝国で公式に認められる前からずーっと推し進めてたんだから」
どこか誇らしげに告げると、ジェシカは背もたれに背を預ける。
窓の外から見える湖岸の街は、澄んだ青空に包まれていた。
「そっか……皆さんは、そんなすごい事を」
紫苑は空になったティーカップを抱えたまま、ため息をついた。
こんな凄い人たちに囲まれているっていうのに、自分はなんて情けないんだろう。
(強くなりたいなぁ)
紫苑は思った。具体的にどんな強さが欲しいかと言われても分からない。でも、今の自分のままではダメだという自覚があった。
誰かを気遣える余裕? それとも自分の道を貫き通せるだけの肝っ玉?
自分を阻む何かに、堂々と立ち向かえる勇気と腕っぷし?
(うーん。ぜんぶ無理かも)
気弱で周囲の動きに合わせてしまう紫苑にとって、強さを得るという事は難題に思えた。
でも、いつかは。そんな思いを秘めながら、窓の外に視線をやった時。
「あれっ?」
彼女はその存在に、気付いた。