【音のない風】
雪原に広がる血の惨劇。重なり合って倒れる少女と、獣のなり損ない。
その光景が、北の大地で既に引き起こされた悲劇を、エリックの瞳に寸分違わず再現したという事実を知る者は、ここにはいない。
「紫苑くん。イリスくん……返事を、返事をしたまえ」
エリックは、赤に塗れながらふたりを腕の中に抱き寄せた。
ふたりは応えない。エリックがふたりの名を呼ぶ声は白く凍り付き、子供達には届かなかった。
「返事をしてくれ。頼む、返事を……」
審問官は、エリックに近付こうとした部下を無言で制した。
純白の氷の結晶は、全てを覆い隠そうとしていた。方陣も、祭壇も、周囲に撒き散らされた血の惨劇も。
そして、ふたりの少女とエリックの上にも、慰めるように降り積もっていく。
ああ。そうか、と。
エリックは、掠れた声を落とした。
「私は……また、守れなかったのだな」
涙は二人の頬に落ちて、凍り付いた。音の吸い込まれた雪原は、ささやかな祈りの時間で満たされる。
「……。何故だ?」
しかし、やがてエリックの口から低い声がこぼれた。エリックの顔を見た審問官たちは、ビクッと肩を竦ませる。
「何故貴様らは、私の愛しい人々を奪って行く。神の愛を解きながら。この世に生きる者の祝福を願いながら。なぜ、何故だ。なぜ……」
次の瞬間。打ちひしがれた教授に話しかけようとしていた審問官は、頬を強張らせた。
目に追えない速度で構えられた拳銃が、黒々とした顎門を審問官たちに見せつけていたのだ。
「答えろ!私が貴様らの顔を、消し飛ばしてしまわぬうちに!」
先ほどとは違う沈黙が流れて、風と共に過ぎ去った。
「……我らは、その子達を苦しめたかったわけでは、決してありません」
やがて、審問官は口を開いた。
「しかし、貴方も分かっているでしょう。今のこの世界は理不尽で、不公平で……闇が蔓延り、女神の恩寵が届かない」
「ジョージ様!」
慌てる護衛を制し、審問官は首を振りながら続けた。
「真実です。我らが女神の恩寵は、世界に行き届いていない。
我らの祈りが届かなかったからこそ、イングリッド様は苦しみ、呪いに侵されて……この世界を去ってしまった」
審問官は目を伏せた。エリックの腕に抱かれた銀髪の身体。牙がのぞく口元からは、彼女の最期の感情を窺い知る事は出来ない。
「我らの生命は世界を巡ります。しかし、記憶は女神の元へ戻るたびに浄化される。
『イングリッド』という名の少女は、我らが幸せを願った少女の心は眠りにつき……苦しみから永遠に解放されました。
同様に、貴方の養い子も……現の苦行に苛まれる事はなくなった」
うつ伏せの蒼紫髪の少女を見て、ため息をひとつ。
それは、危険を冒してまで得ようとした蒼い小鳥に手が届かなかった絶望にも、己の手から小鳥が解放された事に安堵しているようにも聞こえるため息だった。
「……そしてエリック・オードラン。私は貴方にも、安らぎを与えることができる」
審問官の言葉と同時に、エリックは背後を振り返った。
そこにいたのは、短剣を振り上げる修道女。エリックが拘束しなかった為、麻痺術式が解けた瞬間自由になってしまったのだ。
「──っ!」
星沁防護壁で阻むが、突貫される。態勢を崩したエリックは、とっさに子供達を背中にかばった。
それが意味を持たない行為である事を、エリックは十分に理解していた。
だが彼は、『子供達を守る』以外の行動を取る事はできなかった。
己の身を守るという発想を、身体が、思考が、最初から拒絶してしまっていたのだ。
「……どうか、次は幸せな生命を」
──だから、エリックは抵抗しなかった。
憐憫に満たされた視線。本能に従った短剣の閃き。光の尾を引いて近付いてくる、己の死。その全てを、エリックは麻痺した時間の中で眺めていた。
◇◇◇
これは夢だ。目を開けてすぐに、紫苑は悟った。
その場所の景色は澄んだ水中にも、星空の中にも似ていた。一面の群青色に、星のような無数の光の粒。
さらには緑色の光の帯が音もなく揺れ、星々のような光を洗うように流れていた。
その光の帯は、無音の風を伴っていた。光は炎のように揺らめき、さざ波のように押し寄せながら、紫苑の身体を奥へ奥へと押し流そうとしてくる。
その、美しくも静かな恐怖を感じさせる光景に、紫苑は顔をしかめた。
(私、まだ生きてるのかな)
そんなことを考えながら手を見下ろすと、指先の輪郭がぼやけていた。燃えるような痛みを伴っていたはずの背中にも、傷はない。
光の風が流れる方を見ると、うす青い空間が広がっているのが見えた。紫苑が眺めている間にも、その方向に向かってすうっと光のかたまりが流されていく。
紫苑にはその光に、穏やかに眠る人の顔が一瞬だけ見えたような気がした。
(風に流されていったら、戻れなくなる)
うす青の中に溶けていく光を見ながら、紫苑はそんなことを思った。あの中に溶けると、ひとの形が崩れ、光の粒になって流されるのだ。ゆっくりと流されていく身体が解けかかっているのを見下ろして、紫苑は唇を引き結んだ。
(でも、この風……逆らえない程じゃない)
ただ流されていく光たちとは違って、紫苑はまだ風に逆らって進むことができた。うす青い世界の反対側……風の吹く方から、冷たい雪が吹き込んでくるのが感じられる。
追い風の先ではなく、向かい風の向こうに、自分の戻るべき世界がある。そう思った瞬間、紫苑は向かい風の向こうから鈴の音が聞こえるのに気が付いた。
あちこちから集まる様に吹く風に、逆らいながら進むだけでは頼りない。でも、この音を頼りにすれば、確実に戻れるだろう。
紫苑は確信めいたものを感じて地面のない空間に一歩を踏み出した。足を踏み出した場所には光の波紋が広がり、解けかけていた足がより合わさる。
この無音の空間の中で、紫苑には唯一風の音が聞こえていた。鈴の音が聞こえていた。流されていく光を見送りながら、紫苑はふと、風のない空間を見つけて振り向いた。
「……?」
それは、風の寄り付かないよどんだ沼だった。風に乗った光たちが寄り付く事はなく、温度のない水は、足元の闇にそのまま溶けている。
近寄ってはいけない場所。この底なし沼に沈んでしまったら、あの風の流れにはもう戻れなくなってしまうのだと、紫苑の本能は告げていた。
しかし紫苑は、そのよどみに向かって駆け出した。
よどみの中に、風に溶けていくのと同じ光の球が浮かんでいるのだ。その光を頼りに走っていくと、小さな人影が闇に腰まで浸かっているのが見えた。
その人影は、まだ幼い子供だった。綺麗な刺繍が入ったぶどう酒色のスカートを身にまとっていて、カチューシャをした髪は、背中にまで流れている。
虚ろに水面を眺める瞳は、若草色。手には、まるでぬいぐるみを持つみたいに包丁を抱いている。
知らない少女だった。だが紫苑は、目の前の子供が誰なのかを既に確信していた。
紫苑が目印にしてきた光の球は、その人影の上でゆっくりと揺れていた。
紫苑には既に形を保っていない光球が、うつむき沈んでいく人影の名前を呼んでいるような気がした。
やがて光の球は、光の尾を引きながら沼の淵に立つこちらに寄って来る。助けてくれ、とでもいう様に、紫苑の周りをゆっくりと漂う。
紫苑はそれに、応える事にした。




