【蹂躙】
紫苑は夢を見ていた。
縁側に座り、母の子守唄を聴きながら、夕暮れの光を眺める夢を。
『お前の夢が、彼の寄り辺。やさしく咲けよ、夢の花。竜奴の清水に育まれ、母の祈りに蜜を抱き……』
『ねぇ、おかあさん』
『なぁに、紫苑』
『そのお歌に出てくる、リューナってなぁに? イウロ語でなんて言うの?』
母は朔弥人で、父はイウロ人。どちらの言葉も知っていた紫苑だが、朔弥の文化についてはほとんど知らなかった。母が故郷について、多くを語りたがらなかったからだ。
でも、この子守唄だけは何度も歌ってくれた。紫苑に聞かせる以外でも、たった一人で歌っていた。
……その歌を口ずさむ事によって、大切な何かとのつながりを保とうとするかのように。
『……竜奴という朔弥語に当てはまるイウロ語は、存在しないの』
『ふーん。場所のなまえなの?』
『そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるわね』
『ええー? からかわないでよー』
幼い紫苑は、むくれて母の膝にすがりついた。母は苦笑しながら、紫苑の頭をそっと撫でる。
『からかってはいないのよ。でも、きっとお前に話そうね。そうね、お前が十五の春を迎えた時に……』
『ほんと? 約束だからね!』
『ええ、約束』
はちみつ色の黄昏の中、絡めた指と交わした約束。
無邪気に笑う過去の自分を眺めながら、紫苑は視線を落とした。
いつのまにか、地面は赤黒い水たまりに姿を変えている。波紋を揺らす水面には、涙でぐちゃぐちゃになった幼い自分が映っていた。
『お母さんはうそつきだったんだよ』
水面の中の自分がつぶやく。胸に抱いたぬいぐるみを、絞め殺さんばかりに抱きしめながら。
『いくら約束したって……死んじゃったら、約束の意味なんてなくなるのに』
もうひとりの自分の言葉に、揺らぐ水面。
波紋に揺れた世界で再び目を開けた紫苑は、息を飲んだ。
血まみれになり、膝をついた自分も、いつのまにか人形を抱えていたのだ。
自分よりもちょっと大きな、それでも小柄な金髪の『お人形』。人の形をしているだけで、中身が出て行ってしまった、青白い肌のお人形さんだ。
「い……イリス、ちゃん……?」
震える声で名前を呼んだ。応える声はない。叫びながら少女の体を揺らしていると、少女の体は赤黒い液体に沈み始めた。
「ま、待って!行かないで、そっちに行かないで!」
必死に少女の身体を持ち上げようとした紫苑は、気づくいてしまった。
友達の身体を沈めていく液体は、自分の身体から生まれている。
赤黒くて、生暖かい液体は、紫苑の身体からとめどなく溢れて、視界の全てを染め上げてしまった。
『その子もおなじ。約束したって、いくら願ったって、死んじゃったらいみがないの。ぜんぶ、ぜーんぶ、忘れちゃうんだから』
沈んだ先の世界で、気泡を吐き出しながら自分が笑う。なめらかに泳ぎ、首に手を伸ばしてきた『それ』に、紫苑は身を竦めた。
『……でも、わたしはだいじょうぶ』
しかし、首に伸びた手が取ったのは、いつも身に付けている鈴だった。
リボンが解け、赤い世界にたゆたうと同時に、鈴の音が響く。
「え……」
『ふつうの人は忘れちゃうけど、貴女は、私たちはちゃんと覚えているわ。今この時だけ、忘れてるだけよ』
自分はにこりと微笑んだ。水底に当たるであろう真下の部分を、小さな指で指し示す。
そこには光が見えていた。この赤一色の世界で唯一、真珠色に輝いている明るい光が。
『行って紫苑。あの子との約束を果たしに。そして……自分の耳で、足で、『わたし』を確かめに』
光に見とれていると、そっと背中を押された。生暖かい世界が遠のき、冷たい雪が頬に当たる。
『貴女なら大丈夫』
背中越しに掛けられた言葉の意味が知りたくて、もうひとりの自分がいた方を振り返ろうとした、その瞬間──
「お目覚めですか、『恵みの御子』候補よ」
──紫苑は、自分が見知らぬ男の肩に担がれ、お米さま抱っこで運ばれているという屈辱的な事実に気付いた。
「離して! はーなーしーてーっ!」
夢は急速に遠のき、紫苑は現実に飛び出した。
自分を抱えている見知らぬ人物に噛みつき、蹴飛ばし、頭突きする。
春が近いのに降り積もっている真っ白な雪、降り注ぐ真珠色の光。拘束を全力で振り解こうともがきながら、紫苑はすぐに居場所を悟った。
(私、どうして迷宮の中にいるの……⁈ )
自分はさっきまで、街外れの森でイリスと話していたはずだ。イリスと再会の約束をして、その後ジェシカに……
(約束……?)
自分の思考に引っかかるものがあって、紫苑は一瞬動きを止めた。
──何だろう。忘れている気がする。今、私は、何か大切な事を思い出しかけて……
もう少しで、記憶の糸を手繰り寄せられる。思い出せる。
目の前に人影が現れたのは、ちょうどその瞬間だった。
「こらこら、乱暴してはいけませんよ。その子は、貴重な『恵みの御子』候補なのですから……おはようございます、『恵みの御子』候補者よ」
話しかけられた事により思考が途切れ、思い出しかけていた記憶の糸がぷつんと途切れる。
「そんなの知らない! 私、メグミノミコとか知りませんし、貴方たちの事なんてもっと知りませんしその仮面は最上級に趣味が悪いです!離して!」
思考を途切れさせられた事、そもそもこの状況が理解できていない混乱、イリス達と離れてしまった不安、焦燥。
全てを織り交ぜにした感情に流された紫苑は、キレた。
「ちょ、やめなさい噛むなってアイタタタタ⁈」
そして再び、全力の抵抗を再開する。耳に噛み付かれた術師は、比喩抜きの悲鳴を上げた。
「ふむ……おとなしい印象の子だと思っていましたが、そうでもありませんでしたね」
そんな紫苑を見ていた仮面の男は、苦笑しながら額に指を寄せた。
「淑やかで、剛毅で、友達想い……我々が求める御子候補として、貴女は最適ですよ」
「さっきなら何なんですか、ミコ、ミコってひとつ覚えみたいに……⁈」
言いかけていた紫苑は、男が首に伸ばしてきた手に、身を竦めた。しかしその手が、首に掛けられることはない。
「ここに身に付けていた鈴は、どうしましたか? 大切なものだったでしょうに」
男の細くも力強い指は、首元に結んだリボン……鈴があったはずの位置に触れた。
半ば凍りついた血の色のリボンに、紫苑は瞳を震わせる。
「それは」
「その髪の色と銀の鈴。一目見た時に分かりました。貴女は、竜奴の民の血を引いていますね」
「リュウナの、民……?」
その言葉に、記憶の隅が刺激される。真っ先に浮かんだのは子守歌の歌詞と、母との会話の記憶。竜奴という言葉そのものに心当たりがないと言ったら、嘘になるだろう。しかし。
「知らないです、そんな事。両親から聞いた事もないですし、鈴は昔から持っていただけですから」
『黙っているのが最善』だと判断し、顔を背ける。
胸のリボンからはたき落とされた手を、仮面の男は背後の女性を呼び寄せるのに使った。
「貴女の自覚は必要ありません。必要なのは、事実のみですから……ディアナ」
「はい」
近付いてくる女性を見て、紫苑は目を瞬かせた。黒ローブの集団には相応しくない、農家の服装をした女性だ。
彼女は紫苑の前まで淡々と歩み、表情を全く変えないまま──
「あぐ、ぅ……⁈」
──紫苑の腹を、拳で殴り付けた。
「ごめんなさいなの。あなたには、これから少し協力して欲しい事があるの。騒がれると面倒だから……大人しくしていてくれる?」
紫苑を担いでいた男は、動けなくなった彼女を、凍り付いた台座に降ろした。
周囲を囲む石柱に満ちているのは、奇妙な光。紫苑の頭上、台座の端に置かれているのは、奇妙な宝玉だ。
(なに、これ)
宝玉を見下ろした紫苑は、『ソレ』が放つ気配に凍り付いた。
血管のように細い脈模様を持つ石は、煙のようにゆらめく光で周囲を照らしている。
まるで生きているかのように脈打つ宝玉を凝視した紫苑は、頬から血の気が引いて行くのを感じた。
これはダメだ。この世界にあってはいけないものだ。本能が、そう叫んでいた。
「術式の準備、完了しました」
「では、早急に取りかかってください」
部下らしき人々に指示を出し、仮面の男は紫苑の顔を覗き込んだ。
「ご安心を。苦しいのは、最初だけですから」
仮面の奥から紫苑を映す瞳には、わずかに憐憫の色がにじんでいた。それを見れば、最悪の事態は即座に予想できる。
「っ……!」
「大人しくしてなさいって、言ったの」
痛む腹を抑えてなんとか動こうとした紫苑は、上から祭壇に叩き付けられた。
頬に刺さる雪の冷気、目の前に鎮座する宝玉に凍える背筋。
(助けて……だれか、だれか助けてっ!)
必死に暴れながら、紫苑は願った。
口元に近付けられつつある布が、薬を含んでいる事などとっくに気付いている。
顎を掴まれ、顔を上に向けさせられる。布を手にしたフード男の、苛立った口元が視界に入った──その瞬間。
「ぎ……っ⁈」
男の顔の、顎から上が消失した。
「はぇ……?」
状況を理解する間も与えられず、頬に跳ねる生暖かい液体。
「い、ぃ、あぁあ……⁈ 」
心が理解を拒むも、紫苑の目は既に捉えてしまった。
方陣にごろりと転がった、潰れて、ひしゃげた、肉の塊を。
「嫌ぁあぁあああぁあぁあぁあああぁあああっ⁈」
紫苑の甲高い絶叫が、迷宮に木霊した。
物言わぬかたまりが膝を地面に落とし、倒れた後ろから小柄な影が姿を現す。
『ゥウ……ッ!』
それは白銀の獣──その、なり損ないだった。
四肢は完全に獣のような形に変形し、肥大化している。白銀の髪の毛は風にはためき、たてがみのように揺らめいている。
牙をむき出しにして唸る少女の瞳孔は縦に裂け、赤く爛々と輝いていた。返り血に染まったそれと目が合った紫苑は……恐怖とは別の感情で、その思考を停止させる。
「いり、す、ちゃ……?」
教授に叱られる度、不満げに尖らせていた口元。
紫苑をからかう時、片眉だけつり上げて、にやりと笑っていた垂れ目。
今にも消えてしまいそうに淡く、はかない笑顔を彩っていたはちみつ色の髪。
その全ての名残を残していながら、完全に別物であるそれは、『半妖獣』とでも呼ぶべき存在になり下がり、超然と紫苑を見下ろしていた。
「完全に、飲まれてしまいましたか……っ!」
そんな男のつぶやきが、紫苑は遠くから聞こえた気がした。
「パウラ、ヘンリー、マルガレッタ! 応戦しなさい!」
紫苑を押さえようとしていた手が離れ、黒ローブの人間たちは一斉に『半妖獣』に襲い掛かった。光を纏う槍が、剣が、斧が、一斉に影を落とす。
我に返った紫苑が、悲鳴と共に少女の名前を呼ぼうとした、瞬間。
『────』
半妖獣は、胡乱げに腕を振り回した。
それだけで三人分の上半身が吹き飛び、残った下半身がどしゃりと雪上に落ちる。
「くそっ、くそぉおぉおお⁈」
十歩ほど離れた位置にいた男が、絶叫をあげながら銃弾を放った。紫苑や仮面の男たちをも巻き込みかねない、錯乱した攻撃。
人間には反応しきれない速度で振り返った半妖獣の少女は、即座に左腕を突き出した。
「ヒギッ」
そして発動する、反射機能を持ち合わせた星沁防壁。
術式媒介と、精密な術式。その二つが揃わなくては術師たり得なかったはずの少女は、完全な無手で理を歪めて見せた。
己の攻撃で穴だらけになった男は、口から赤を噴き出しながら坂を転がり落ちていく。
「……っ!」
紫苑と仮面の男が凍り付く中、唯一的確な手を打てたのはディアナだけだった。
少女の注意が外野に逸れた隙を狙って、的確な一発……銀の銃弾を、心臓に直撃させる。
「っ……!」
ほんの刹那、停滞する時間。
少女は胸に開けた穴から煙をあげ、のけ反りながら……ぎょろりと、紅眼でディアナを捉えた。
「──ぁ」
悲鳴を上げる暇は与えられなかった。農家の女性の器は殴り飛ばされ、空間を囲んでいた石柱を砕く。かろうじて岩の隙間からのぞいている純白のエプロンには、すぐ鮮やかすぎる模様が染め上げられた。
「ディア、ナ」
あっさり動かなくなった部下の最期を見て、男の瞳が震える。直後、眼前に振り上げられた血まみれの獣腕を見て悟る。
(──読み違えていた)
相手はただの少女だと。たとえ部下が仕留めそこない、こちらを追ってきているとしても……呪いに蝕まれ、自我を失った獣の成り損ない以上のものにはならないはずだと。
だが、瀕死の獣ほど恐ろしいものはない。死を覚悟した獣ほど、力を発揮するものは存在しないのだ。
自らの失敗を悟った男が、無慈悲に縦に裂かれようとした、その瞬間。
「やめてっ!」
紫苑の絶叫で、ぴたりと腕が止められた。血の滴るかぎ爪が、男の頭上すれすれで停止する。
「イリスちゃん……もう、いいよ。わたし、大丈夫だから……何も、されてない……」
紫苑は混乱しつつも、イリスが自分を庇う様に立ち回っていた事に気付いていた。かばってくれた、守ってくれようとしていたのだ。しかし、血まみれの怪物を前にした声は、どうしようもなく震えてしまう。
「大丈夫、大丈夫だから……」
それでも、紫苑は立ち上がった。みっともなく震え、涙と恐怖で顔をぐちゃぐちゃにしながら、そっと友達だったものに対して手を伸ばす。
その小さな手が、あまりに華奢な手が、白銀の毛に覆われた頬に触れようとした刹那。
地面から生えた腕が、イリスを鷲掴みにした。
「ようやく、捉えた……っ!」
息を切らしながら現れたのは、漆黒の衣を揺らす修道女。最初、イリスと交戦したときの容姿をしたディアナだった。彼女は明らかに疲弊した表情で石人形を見上げながら、己の拳を強く握る。
『ガ、グ、ゥウ……⁈』
「抜け出そうったって、無駄なの……その石傀儡は、私の、教会のとっておき。銀聖石で、傀儡全体を……鍍金してあるんだから」
絶対仕留めてやる。薄い唇に己への誓いを口ずさみ、修道女は石傀儡を操作する。
怒りに燃えていた獣の顔がやがて焦りに変わり、苦しげに歪む。光を失いかけた紅眼を見て、ディアナの唇は愉悦に吊り上がった。




