【curse or blessing】
湖面が月に照らされている。
普段であれば、透き通った紺青に煌めいていたはずの水面。この街に魅せられた芸術家たちが、こぞって絵画に収めたがる美しい景色。
しかしその景色は今、大量の赤黒い絵の具に穢されていた。
「ひ、ぎ、ぁああぁああ……」
臓物がねじれる音、骨が砕ける音を伴奏に。悲鳴の音を歌にして、白銀の少女は狂った舞踏会に興じ続ける。
立ち塞がる暗殺者たちを屠るイリスには、以前のような配慮や、躊躇はかけらも存在しない。
「っ、どけ!」
自分にはもう時間がない。自己を保っていられるか分からない。
自分の手とは言い難い姿になった腕を振るい。鋭敏な嗅覚を頼りに友を探し。地面に爪を食い込ませて疾走するたびに、自分のものではない感情が溶け込み、融和する。
──お願い。まだ、私の心を殺さないで。
奔流となって押し寄せる感情を押し留めながら、イリスは湖畔を駆けた。肌寒く感じるはずの夜風は、銀の毛皮に遮られて何も感じない。
駆けて、戦い、走り抜けて……通い慣れた場所に立った彼女は、黒々とそびえ立つ門を見上げた。
「……っ」
真珠色の光を見た瞬間、臓器が震え下腹が疼く。以前はこの感覚が何なのか分からなかった。
しかし今なら分かる。迷宮に入る事を、身体が欲しているのだ。
──そういえば、あいつが住んでいた森も、星沁密度がふつうより高かったな。
星沁干渉力が跳ね上がっている分、身体に掛かる負担はかなり大きい。
少しでも負担を抑えようと、本能が星沁密度の高い場所を欲しているのかもしれない。
ため息をついて、イリスは階段を駆け上った。
冷たいような、暖かいような不思議な感覚が額に触れた、そう感じた次の瞬間には。
「…… 」
痛いほど冷え切った風が、イリスの頬をなでた。
深緑の森。切り立った崖。
空間全体を天蓋ドーム状に覆う空は奇っ怪な真珠色。天気は吹雪。
なだらかとは言えない斜面の下に向かう階段。階段の両側に並ぶ石柱。
あぁ。また、ここに戻ってきた。
極寒の中にいるのに、全身が燃えるようにうずいている。
吹雪に遮られて、視界は真っ白だ。その代わりに嗅ぎとれる世界は、色とりどりの光の粒で満たされている。
それらが全て繋がり、まとまって、崩れた遺跡や木のかたちを為しているのだ。
これが妖獣の見る景色。あいつが見ていた景色。
どんどん軽やかになっていく身体を跳ねさせながら、イリスは目を細めた。
それは、満天の夜空の中を泳いでいるような感覚だった。今まで見ていた世界がいかに暗くて、肉体に押し込められた箱庭だったかが今なら分かる。
『まさか、もう追い付いてきたのか!』
『せめて……せめて足止めしろ!例の魔物を、ここに誘導するんだ』
周囲から聞こえてきた声を振り切り、イリスは樹上に跳び上がった。
樹上を行く方が、雪上の追手よりもずっと早く移動できる。悲鳴、怒号、松明の明かり。全てを置き去りにして、彼女は目指す場所へ走り続けた。
──前にも、こんな事があった。
緑の流線となって流れていく枝葉を眺めながら、イリスは金色の瞳を細めた。
あの終わりの日の事は、きっと最期まで忘れない。
あいつが狩りに行っている間に進行してきた帝国軍によって『救助』され、神経麻痺術式を打たれ、目が覚めた時にはテントの中。
部下たちは言った。貴女が身を呈して作戦を続行させたお陰で、軍はリセルト人を打ち負かした。
このまま我々は、リセルト人の精神的支柱である『白き民』の討伐に向かう。
意識はあるのに身体は動かない。その状況下で、イリスは必死で首を振ろうとした。
──私は逃げたかっただけ。期待が重くて、つらくて、逃げようとしていただけだった。共同体を想って行動したわけじゃない。英雄なんかじゃ、ない。
幽閉されて怖くなんかなかった。助けられた。あいつに命を救われた。だから殺さないで。私の恩人を、恩人の家族たちを殺しに行かないで。
声を出せない少女に背を向けて、部下たちは行ってしまう。
星沁の流動を活性化する事によって解毒を早め、テントを抜け出そうとした時に立ち塞がった男がいた。
妖獣の殲滅を指揮する大隊長であり、腹違いの兄でもあるアヒム・フォン・バルヒェット。
あの時イリスは、兄を退けてでもあいつの元に向かおうとしていた。そのイリスに、兄は言った。
『お前の動向は、ずっと分かっていた』……と。
動きを止める少女に、兄はさらに言い募った。
お前が生きている事は分かっていたが、救助の必要を感じなかった。
あの妖獣を排除するために必要だったから接触したが、今も無駄骨だったと思っている。
それが、あの男が一ヶ月近くも森の中で過ごした妹にかけた言葉。
家族の情なんてかけらも存在しない言葉を吐き捨て、兄……いや、大隊長は妹を拘束するよう周囲に言いつけた。
拘束を解いて抜け出し、松明の明かりを頼りに走り出したイリスは、とにかく逃げ出したかった。
周囲の期待から、英雄の役割から逃げたい。血の繋がりしかない家族から、冷たい視線しか投げかけてこない家族から……己を取り巻く、全ての現実から逃げ出したかった。
そして帰ろうとした。祖父母の家とはまるで違う、けれど故郷を思い出すような、あの洞穴に。
死の淵から己を拾い上げ、自由に生きる道を示してくれたあいつに会って、抱き付いて、声の限りに泣き叫びたかった。
(あの時も……)
あの時もこうやって、裸足で森を走っていた。遠ざかる事を望んでいた戦火に向かって、寒々しい森の中を進んで行った。
(あぁ、似てるな)
この状況。紫苑の残り香を頼りに森を駆けている今の状況は、あの時と似過ぎている。
過去という題目の絵の上に、必死で新しい絵の具を塗り足したのに……結局、構図はほとんど変わっていない。
登場人物が変わっただけの、陳腐な作品が完成しつつある。そんな感覚だった。
(もし、私っていう人間が描いてきた構図の結末を、塗り替える事ができなかったとしたら)
この先で、自分を待っている風景は──。そんな想像が足を鈍らせた時だった。
「──っ⁈」
本能に蹴飛ばされた身体が跳躍し、その直後、元いた場所に炸裂した液体が足に付着する。
「いっ……⁈」
悲鳴さえ焼き潰すほどの痛みと、どす黒い煙を上げて溶ける皮膚。『いったい何をされた』と状況を判断するより前に、イリスの足元の枝が溶け落ちた。
足を潰され、掴める枝もなかった彼女に残された選択肢は、落下のみ。
そして眼下から現れたのは、地面から生え近付いてくる無数の点──術師が発動した氷の槍、その穂先だ。
足の回復に星沁を割かれ、とっさの防壁は使えない。イリスは氷の槍を掴み、砕き、身をひねりながら術式を回避した。
だが、全ては避けきれない。
一層のきらめきを以って突き出された氷槍は、イリスの頬と服、そして包帯を切り裂く。
「ッ、ガァ……!」
修復した足の先から、ぼろぼろに裂けた靴が落ちた。
雪原に裸足で落下したにも関わらず、寒さと衝撃はほとんど伝わらない。
暗殺者の首を容易に蹴り飛ばした足──もはや人間としての原形を留めていない脚で、イリスは再び駆け出した。
雪原が想起させる。引き裂かれた少女。咆哮する獣。しんしんと降り積もる雪が止み、空が泣くように流した極光の揺らぎを。
──あんな未来を、紫苑に押し付けるなんてするもんか。
過去は既に終わった事だ。未来に影響を及ぼすなんて事はあり得ない。そんな事は絶対に、絶対に認めない。
ちぎれた衣服が風に舞い、崖の上に巻き上げられる。その儚げな舞を追って、イリスは顔を上げた。
♢♢♢
「ジョージ……どうして教会は、ここまでイングリッド様にこだわるの?」
イリスが目指す迷宮の最深部。高い崖の上に広がる雪原の上で、農家の女性は仮面をした男に問うた。
「あなたが質問するとは珍しい。与えられた任務をただ遂行する、それが〈烏〉に課せられた命令だというのに」
「すみませんなの」
「怒っているわけではありませんよ……その器は、問題なく使えますか?」
「大丈夫なの。この身体はさっきの学徒よりも、星沁干渉力が高いから」
「そうですか」
仮面ごしの会話が淡々と行われる眼下では、複数人の術師が遺跡の石柱を囲んで作業をしている。
石柱の先端には光が満ち溢れ、中央に置かれた真っ赤な宝珠に妖しい光を映している。
「術式の発動まで、まだ時間があります。少し……昔話をしましょうか。イングリッド様が妖獣と戦い、負傷された後の事から……この街で真実が露見した際の、教会本部の対応の話まで」
「……⁈」
男の言葉に、女性は目を見開いた。女性は、〈烏〉はただ、命令のまま付き従う存在。受けた命令の意味を知る事が無いのが大半で、いつも最低限の情報しか与えられていない。
女性の驚愕の視線を横顔に受けながら、男は言葉を続ける。
「そもそも彼女は、戦闘能力を評価されて、聖騎士の称号を与えられたわけではありませんでした」
「……?」
「教会に評価されたのは、彼女自身の活躍ではない。彼女は軍人としては優れていたようですが、我々が求める『神の恩恵の担い手』としては他者に劣っていた……彼女は、学院の品を使用する事によって、彼我の差を埋めていただけです」
「それじゃあ、どうしてなの?」
「教会に評価されたのは、彼女の戦闘能力ではない。イングリッド様が歩んできた軌跡、つまり『物語』の方なのです。ディアナ、あなたは『表向き』の彼女の物語を知っているでしょう」
「皇室に繋がりのある大貴族の家に生まれ、幼い身でありながら活躍し、リセルト人殲滅作戦に多大なる貢献をし、妖獣とも渡り合った……なの」
女性──再び器を換えたディアナの言葉に、男は頷いた。
「それだけの活躍をした人物が教会に所属している。その事実だけで、教会への信心は集まるでしょう」
「でも」
「ディアナ。あなたはこの任務の前に、資料を渡されましたね。
その資料には、イングリッド様が鎮圧の最終作戦でどのような行動を取ったと書いてありましたか?」
唐突な質問に、ディアナは言葉を詰まらせた。
「兵を惨殺していた妖獣に真正面から挑み……名誉の負傷を負いながらも、妖獣を仕留めたと」
「その『名誉の負傷』を、どこに負ったかについての記述は?」
「……いえ、そこまでは」
ディアナは瞳を揺らした。交戦したイリスは五体満足で、どこにも異常があるようには見えなかった。大怪我と言っても、致命傷ではなかったのだろうと予測していたのだ。
押し黙るディアナに、男は仮面の奥で目を伏せながら告げた。
「彼女が妖獣に傷を負わされた場所、それは……」
「こめかみから両目の眼窩にかけての、大規模な裂傷……そうか、そういう事だったか」
学院が所有する、冒険者用の治療院。人払いを済ませた個室の中で、クリームヒルト教授は医師が差し出した資料に納得の色を見せていた。
「アルト・クリアウォーター、よくこれを調べて来たね。この資料はどこから?」
「知り合いに、北方軍所属の友人がいて……頼んで、記録を調べてきて貰ったのです。イリスちゃん本人は、何も教えてくれなかったから」
「単に話したくなかったんだろうさ。アルト・クリアウォーター、お前さんは医者だが、あの子にとっては他人に過ぎない」
信用されていないのは私も同じだがね、と付け足して、クリームは嘆息した。
「しかし、そうか……これで軍がしゃしゃり出てこなかった事にも納得が行った。教会が我々の懐に入り込んでまで、あの子に関わろうとする理由もね」
クリームがそこまで言った時、ベッドに寝かされていた人物がうめき声をあげた。
エリック教授によって回収され、クリームに預けられたジェシカだ。
「目を覚ましたんだね、ジェシカ・ペスカトーラン。身体に不具合はないかい」
赤い髪が頬の横に流れるのを仰ぎ見ながら、ジェシカは緩慢に顔を動かした。
白く塗られた部屋の壁、薬品が置かれた移動机と棚、蒼い月光が差し込む窓。この部屋に自分とクリーム、そして医師の青年しかいない事を確かめ、ジェシカは眉を歪めた。
「イリスちゃん達は……?」
「エリックが向かっているよ。私はあんたに妙な術式が仕掛けられていないかを、このぼうやと一緒に調べていたんだ」
盗聴術式や傀儡術式が残っていたら、お前さんを懐に入れておく事ができないから、とクリームは淡々と事実を告げる。
その言葉でジェシカの表情が変わる前に、医師が慌てて顔をのぞかせた。
「あなたに仕込まれていた傀儡核は、イリスちゃんが完全に破壊したようですから、ご安心を。
ただ、貴女は真犯人の唯一の目撃者だ。命を狙われる可能性が残っている……安全が確保できるまで、この部屋から出てはいけませんよ」
「はい……」
うわの空で応えつつ、ジェシカは天井の梁を眺めた。白塗りの天井に焦げ茶色の木材が交差し、複雑に絡み合いながら広がっている。
しっかりとその構図が見えているのに、伸ばした手が届く事はない……そんな景色を仰いだまま、ジェシカは口を開いた。
「あの、オーウェル教授……さっき話していた、最終作戦の話って」
「あんたが世話を焼いていたイリス……いや、イングリッドの事だ。ちょうど一年前、あの子が呪いを受けた時の話をしていたんだよ」
「お、オーウェル教授⁈ 一般学徒に話して良いのですか」
「この子はとっくの昔に当事者になっている。隠す事もないよ」
クリームは達観したように医師の青年を遮りながら、ジェシカが身を起こすのを手伝った。
外からは、微かに喧騒が聞こえてくる。差し込んだ月光が、見つめ合う少女と女性の影を床に伸ばした。
「ジェシカ・ペスカトーラン。お前さんは不思議に思わなかったかい。
あの娘……イングリッド・フォン・バルヒェットは教会が称える英雄である前に、軍人だ。軍人の逃亡は、銃殺刑と相場が決まっている」
「だが、この街に彼女を連れ戻しに来たのは教会側の人間のみだ。軍の人間は、この街に全く干渉してこなかった。そうだろう?」
クリームの言葉に、ジェシカは目を見開く。イリスが『教会に祭り上げられていた少女』という前提、そして実際に干渉してきたのが教会の人間だったという事実の前に、思考が遮られていた事に気付いたのだ。
「クリーム先生、それは、どうしてなんでしょう……?」
「あの子は軍に、ひいては軍を指揮していたバルヒェット家に捨てられたのさ。あの子は、最終作戦が終わってすぐに、除隊されているんだ……もう戦えないと判断されたんだよ」
「イリスちゃんが、戦えない?」
ジェシカは眉をひそめた。学院関係者に接触するまで、イリスは迷宮冒険者をしていたのだ。彼女が戦う姿だって、実際に目にしている。
そんなジェシカにクリームは、淡々と資料を差し出した。それを見たジェシカの顔は、すぐ驚愕に染まる。
「この似顔絵……本当に、イリスちゃんのものなんですか?」
『イングリッド・フォン・バルヒェット』と書かれた資料の右上には、色付きの精緻な似顔絵が描かれている。
だが、その顔はジェシカが見慣れている少女のものとは少し違っていた。まず、顔の輪郭が今より細いし、鼻も顎もほっそりしている。痩せているとか、そういう事以前に、骨格の作りからして違う様に見えるのだ。
しかも、その絵に描かれた少女の瞳は、一般的なイウロ人と同じ若草色。ジェシカが珍しいと思いつつも見慣れてきていた、金色の瞳ではなかった。
「……似顔絵を描いた絵師の問題ではないだろう」
ジェシカが考えていた可能性を先回りで否定し、クリームは告げた。
「おそらく、かつてのあの子は本当にそのような顔をしていたんだ。今の顔は、再生した影響で少し作りが変わったんだろう」
「再生という事は、つまり、イリスちゃんは一度顔を」
「ああ」
クリームは、目を伏せながら答えた。
「……あの子は妖獣に、面の皮ごと両目をえぐり取られたんだとさ」
クリームの言葉に、ジェシカは言葉を返せなかった。
脳裏に浮かぶのは、鈍器のように太く重い獣の腕が、少女の顔面を切り裂く光景。
少女の身体は毬のように投げ出され、半ばひしゃげた若草色の眼球は、赤い色を纏って雪原にごろりと転がり落ちる。
金眼の少女の過去を幻視したジェシカは、呼吸する事を忘れていた。
「地面に叩き付けられた衝撃で、脊椎の一部も損傷したらしくてね。あの子はろくに歩けず、ものも見えないまま一生を終える……そう、診断されていたそうだよ」
「盲目で、ベッドから起き上がる事すら叶わない。そんな少女を軍から買い取るのは、そう難しい事ではありませんでした」
手のひらに乗った雪の結晶を見下ろしながら、男は静かに告げる。
「彼女が過去に学院の品を使って成果を上げていたとしても、大した問題にはなりません。
現在進行形の案件でなければ、その程度の情報は、身近で彼女の戦いを見ていた部隊が『名誉の戦死』を遂げれば、簡単に無かった事にできる。あとは……」
「異教徒を制した英雄の物語と、その英雄が教会に所属しているという情報だけが、教会に残る?」
「ええ。そんな筋書きの通りに、事が進むはずでした……あの妖獣族の呪いと、内部の裏切りさえなければ」
「裏切り?」
「イングリッド様を教会本部に移送している最中に、彼女を連れ出した人物がいたのです」
確かイングリッド様の隊に所属していた兵士だった、とうろ覚えの情報を告げながら、男は言葉を続けた。
「教会はその男を捕らえ尋問を行いましたが、彼は最期まで情報提供者──つまりは教会側の内通者です──と、イングリッド様の居場所を答えなかった。
よって帝国全土の『目』を使って探した所、彼女らしき人物の目撃情報があったのが……この学院都市だった、というわけです」
「連れ出されたイングリッド様は、その間に例の呪いによって回復し、動けるようになっていた。そういう事なの?」
「ええ。彼女は見ての通り偽名を名乗っていた上に、容姿も少し変わっていた。静観の立場を取る事も決して不可能ではなかったのですが……妖獣がイングリッド様に課した力の異質さが、我々の静観を許しませんでした」
「異質さ?」
「そうです。我々は前提として、『妖獣がイングリッド様に害を為した』と考えていました。しかし実際は……」
「きっと、僕たちが勘違いしていただけだったんです。イリスちゃんに課せられたものが、非業の死を招く『呪い』であると。でも、実際は違ったんだと思います」
青年医師は、熱量を帯びた言葉を保健室に響かせる。
「イリスちゃんに呪いをかけた妖獣は射殺されましたが、その直前、負傷し気絶していたイリスちゃんに覆いかぶさっていたそうです。
それを目撃した兵は、妖獣が彼女を食べようとしているように見えたと報告しているようですが……妖獣の脳容量は、僕たちとほとんど変わらないと言われています」
孤立無援の状況で唐突に食事に興じようとするほど、妖獣が能天気な生き物だとは思えない。青年医師は、力説し続ける。
「確かに妖獣は、駆け寄ったイリスちゃんを攻撃しました。でも、故意の行動ではなかったのではないでしょうか。興奮状態で、近付くものを全て攻撃してから……」
「その正体が、イリスちゃんだと気付いた」
ジェシカの相槌に、青年医師は大きく頷いた。
「妖獣は、自分の獲物や、人里からさらってきた子供に執着する性質が、非常に強いそうです。もし、イリスちゃんに対しても、その性質が反映されていたとしたら……妖獣は、イリスちゃんの生存を願ったのではないでしょうか? そうだとすれば、彼女に与えられたのは『呪い』ではなく、そう……」
「それはきっと、あの異形の命を引き換えに発動した『祝福』でした」
輝く真珠色の空を眺めながら、男は目を細めた。
「最初に彼女を診断した医師は、妖獣がイングリッド様の身体に干渉を行った事に気付かなかったそうです。『祝福』は我々が気付かぬような静けさで進行し……彼女に目と足と新たな容姿を与え、彼女を我々と、死の淵から遠ざけた」
もちろん内通者の手で連れ出されてしまった事もありますが、と男は付け足した。
対面で話を聞いていたディアナは、天候に起因するものではない寒気を感じながら、ただ立ち尽くしている。
「もう分かったでしょう、姉妹ディアナ。イングリッド様が得たのは、『旧き神の祝福』。
我々が慎重に調査を進め、再現を試みてきた存在に、彼女は自力で辿り着いてしまった……その価値は、教会本部にとって計り知れない。学院を敵に回してでも回収したいと願うのは、当然の」
「じゃあ、殺しちゃだめだと思うの⁈」
ディアナは叫んだ。その大声に、術式の準備をしていた術師たちまでもがギョッとして振り返る。
しかしディアナは、動揺を押し隠す事ができずに男に縋った。
「イングリッド様の価値が高いなら、殺したら怒られると思うの。でもジョージ、貴方は私に命令した。あの子を、イングリッド様を……」
「姉妹ディアナ」
縋りついてくる女性──下手をすれば、イリスとそう変わらない年齢の子供のような表情を見せる部下の肩を、男はやさしく押し返した。
「イングリッド様が与えられたものが『呪い』か『祝福』か。価値があるか無いかなどといった話はね……もう、関係ないんですよ」
「今更だよ、アルト・クリアウォーター」
クリーム教授は、水をかけるような冷たさで青年医師の言葉を遮った。
「もちろん、お前さんの言っている事は間違っていないと思うよ。呪いと祝福の本質は同じだ。他者を想い、何かを与える事で発動する……私も似たような事を、薄々考えてはいたんだ」
「で、では……⁈」
「だけどね、実際にあの娘は与えられた力に蝕まれている」
身体がいびつな力で繋ぎ止められ、作り替えられつつあっても、あの子の心は現に飲まれかけている。文字通り死にかけている。クリームは冷静に現実を見据え、天井を力なく仰いだ。
「もし妖獣が、あの子を生かしたいがために己の星沁を分け与えたのだとしても……」
「結果的に、与えられた力がその者を蝕む存在となったならば、経緯はどうであれ『呪い』と捉えて差し支えないでしょう」
禍々しい魔方陣が描かれていくのを悲しげに見下ろしながら、男は悟ったように言った。
「我々の報告を基に事情を把握した本部は、それでも我々に彼女を連れ帰るよう指示しました。
旧き神を克服し、大いなる力を得た彼女は、『かの計画』の礎として、最適だからでしょう。
……たとえ彼女が獣の心に飲まれ、自我を失っていたとしても。教会本部にとって、我々が各街で見出してきた子供たちよりも、彼女の価値は高いままでしょうから」
そう言って男は、倒れた石柱に寝かされている少女を一瞥する。夜空のような蒼紫の髪には、うっすらと雪が積もっている。
静かに肩を上下させる少女から目を離し、男は静かに己の意見を告げた。
「ですが……イングリッド様は十分過ぎるほどの試練を乗り越え、苦しみました。あの子に、これ以上の苦しみを与えるべきではないと……私個人は、考えています」
「ジョージ、それって」
ディアナの声には、恐怖の色が滲んでいた。
明らかな命令違反。私情での独断行動。上司が取ろうとしている行動の真意を上が知れば、どのような処罰が──自然と足が震え始めたディアナの頭を、男は静かに撫でた。
「かといって、彼女をこのまま学院の手の内に置いておくわけにもいきません。『かの計画』の完成は、間近に迫っている。不安要素の存在は、許されないのです。
あぁあ、ディアナ。私の愛しき姉妹ディアナよ。我々がいま、何をすべきなのか……賢い貴女なら分かりますね?」
「……はい、なの」
「我々が彼女に与えるのは、『呪い』でも『祝福』でも、『英雄』としての居場所でもない。彼女の心が飲み込まれるその前に、連鎖を断ち切る為の『救済』です」
男が抱いている感情は、覚悟は。哀れな少女を救う事だけを考えた『愛情の形』だった。
命令に逆らう事の重大さを理解していながら、それでも少女の為を思って行動する。イリスを追って迷宮を疾走している学院教授と想いは同質でありながら、正反対の行動を少女に捧げようとしていた。
──私の決断は、イングリッド様にとって祝福になるのだろうか。それとも……
男はそんな思考を振り払い、決然と前を向いた。
空よりの光を纏って淡く輝く石柱、その中央の宝玉。赤い液体で描かれた魔方陣。
古の魔女の集会を彷彿とさせるその光景は、準備が整ったことを示していた。
「……その子を方陣の上に。イングリッド様を万全の状態で迎え撃つためにも、必要な作業を先に終えておかなくては」
頷いた術師は、紫髪の少女を抱え上げた。雪を踏む静かな音を立てながら、方陣の中央へと向かっていく。
「終わらせて差し上げましょう。解放して差し上げましょう。
籠の中の子供たちを解き放ち、誰の手も届かない自由な空へと……我々の手で、還すのです」
その言葉が雪原に響いた直後。
「イリ、ちゃ……?」
紫苑は、緩慢にその瞼を開けた。




