【慰霊塔にて、勃発】
そこは慰霊塔の森。心霊話が多く、誰も近付かない暗がりの森に、人とも獣ともつかないうめき声が響いていた。
「あぁあ、あぐ、ぐぅ……っ!」
冷たい石部屋の、素っ気ないベットの上。樹冠に遮られ、月明りすらほとんど届かない部屋の中で、イリスは夢に意識を喰われていた。
夢の中の彼女はヒトではなく、四つ脚の獣になっていた。混然とした、名前のない感情。鼻を突き抜けては身の内をかき乱す、炎と死の臭い。迫りくる全てを振り切って、『彼女』は森を駆け抜ける。
痛い。苦しい。
足に埋め込まれた鉛の塊が、走る度に足の肉に食い込み、裂いている。
明るく弾ける炎が、あちこちで上がる悲鳴を乱反射する。爆ぜるにおい。焼けるにおい。濃厚すぎる、死のにおい。あぁ、鼻が曲がってしまいそうだ。
森を抜けて、駆けていった先に広がっているのは……硝煙が舞う、無情な血の惨劇。
怒りで視界が弾けた。
真っ白な感情に身を任せ、同胞ではない者たちを次々と屠っていく。
腹にまた鉛の塊が投げ込まれた。腹の内側から肉が焼ける。
しかし関係ない。邪魔するものは全て排除する。骨を砕き、喰らい尽くす。赤い液体をすすり、命を奪い取る。
頭のどこかでささやく声は言っていた。
守れ。この地を守れ。手段を選ぶな。侵入者どもを排除しろ。全て、全てのヒトはお前の敵なのだと。
前腕を振り上げ、投げ飛ばす。背骨を噛み砕く。
愚者の屍を築き上げて、雄叫びをあげる……
仲間はどこだ? 家族はどこだ。
誰もいない。焦げた肉の中には、誰も残っていない。
『わしら』はここだ、ここにいる。
あぁ、どうか『わたし』を絶やさないで。
寂しいよ、つらいよ。
『わし』を『ぼく』を『わたし』を一人にしないで。
頭の中で、たくさんの声が同じ事を叫び、嘆いて反響する。
憎い。毛皮を持たぬ者たちが憎い。神聖な土地を侵すニンゲンが憎い。
憎い。憎い。にくい。ニクイ。
ニクイニクイニクイニクイニクイ殺せころせコロセコロセコロセコロセ──
「うぁあぁ、あ、あアァアァアアア……⁈」
──みしみしと、イリスの爪が盛り上がった。
掴んだ敷布は簡単に裂けて、中のカビ臭い藁が辺りに飛び散る。
「ガ、ぁ、あぐ……っ!」
イリスは歯が軋むほどに食いしばりながら、血走った目をテーブルに向けた。
質素だが丈夫なテーブルの上にあるのは、無造作に積んだままの食器。イリスはその中から一番近くにあったフォークに手を伸ばし、
「──痛ぅっ⁈ 」
自分の太ももへと、突き刺した。
「ァ、あー……痛いな。痛い……」
痛みが強くなるとともに、頭を煮立たせていた熱が急速に冷めて行った。
フォークを引き抜き床に捨てると、乾いた音が石部屋に響く。
貫くものがなくなり、足に刻まれた傷は……あっという間に再生して、なかった事になった。
「ちくしょう。ちくしょう……」
悪態をつきながら、イリスはうずくまった。
自分が自分に戻っても、頭の中には別の声が反響している。
殺せ。毛皮を持たぬ者たちを排除しろ。
殺して、血をすすって、ひとつでも多くの命をその身に取り込め。
為すべき責務を。『我ら』の命を絶やした者たちに、復讐を。
──その声が大きくなればなるほど、イリスの意識は『別の誰か』の夢をなぞるようになっていく。
『あいつ』の声だけじゃない。幾人もの声が、叫びが、イリスに対して目にする人間の死を望んでくるのだ。
問題は、意識の中だけじゃない。
姿見はとっくに壊したけれど、容姿が変わり果てている自覚もあった。
意識が飲まれかけるほどに腕は肥大化して、手のひらは細かいうろこ状に硬化する。
この街に来てから少しだけ伸びた髪は、完全に色を失った。
イリスはこの石部屋の中で少しずつ、着実に、呪いに飲まれていた。
「……嫌、よ」
イリスは首を振った。己の血で汚れた手、ほとんど人の面影を残していないみにくい腕で、自分の頭を抱え込む。
「私は、殺さない。もう人を殺したくないし、殺されたくもない。そう、願ったんだから……」
舞い散る紅葉。あたたかい水に揺蕩う藻の緑。きらめく水しぶき。黄金の陽射し。美しい色彩の記憶が、脳裏をよぎる。
それと同時に、チリンと響く鈴の記憶。
蒼紫の髪が揺れ、翡翠色の瞳が笑顔を浮かべた──その直後に湧き上がる、鮮血の衝動。
「やだ、違う、違う、ちがう!」
自分の手を濡らす血が他人の物である錯覚を覚えて、イリスは小さく悲鳴をあげた。
(殺さない。私は絶対殺さないんだから。私が私じゃなくなったとしても、きっとあの人たちが、私を……!)
頭を抱えて震えていたイリスは、はたと顔を上げた。
だれかが近付いてくる気配がする。
オーウェル教授や、ジェシカよりも軽い足取り。困惑や、恐れのにおいが嗅ぎとれる。
(まさか、この気配は……)
イリスは、地上に繋がる格子窓を振り仰いだ。
小さな窓から、ランプの灯りと、細く頼りない足が見えている。
「……イリスちゃん、そこにいるの?」
名前を呼ばれた瞬間、イリスは震え……そして叫んだ。
◇◇◇
「来ないで!」
地下から響いた声に、紫苑はビクッと足を止めた。
「今のは……」
今の声は間違いない。イリスはすぐそばにいる。
確信を持ちつつも、紫苑は驚きを隠せずにいた。
声がしたのは慰霊塔の壁、その裂け目からだ。半ば蔦で覆われた暗がりに、頭も通らないような亀裂と、掘り下げられている石造りの空間が辛うじて見えている。
「イリスちゃん、地下にいるんだね?」
「来ないでって言ってるでしょ!」
怒声に拒まれ、紫苑は足を止める。
沈黙の中で、手提げランプの明かりが悲しげに揺れた。
「……早く帰りなさい」
「ううん」
「帰りなさいってば」
「いやだよ」
「帰りなさい!」
「やだっ!」
帰れ、帰らない、と激しく言い争う声が森に響く中、紫苑は叫んだ。
「いなくなった理由を教えてもらわなきゃ、わたし帰らないよ!」
その為にやってきたのだと紫苑は告げる。理由を教えるどころか、変わり果てた顔すら見せられないイリスは、布団の中から言い返した。
「……あんた、見た目の割に鋭いんだから分かってるでしょ。その理由を教えたらあんたや、オードラン先生に迷惑がかかるのよ」
「それはイリスちゃんが、『存在しない』人間だから?」
「え……」
イリスの声が、動揺を映して震えた。
アナストリアの街で死んだ事になったイリス・デューラー。
そして生まれた『英雄』、イングリッド・フォン・バルヒェット。
仰々しい英雄の名前を捨てて、元の名前を名乗り始めた今の自分。
全てを知られてしまったのかと、イリスは瞳孔の裂けた瞳を震わせる。
「あんた、どこまで知って……」
「分かんない」
外からした声は、困ったように笑っていた。
直後に聞こえたのは衣擦れの音と、とさ、という軽い音。部屋がある建物のそばに、紫苑が腰掛けたのが分かった。
「私にわかるのは、イリスちゃんが私との約束を破っていなくなっちゃったって事。もう会えないって言われたこと。
……それから、イリスちゃんの名前が、六年前のアナストリア焼き討ち事件で亡くなった女の子の名前なんだって事」
「あんた、それをどこで」
「クリーム先生に聞いたの」
でも、それ以外のことは、なにも知らない。紫苑は静かに告げた。
「ねぇ、イリスちゃん。私さ、お父さんとお母さんの話をした事ってあったかな」
「……ないと思うわ」
「そっか。じゃあ、今話すね」
紫苑は、慰霊塔に頭をもたらさせた。今夜は月が明るい。樹々の隙間から、煌々とした輝きが見えている。紫苑は、その眩しさに目を細めた。
「イリスちゃんはさ、教会の『異端狩り』を知ってる?」
「……ええ」
教会の教義に反する発言をした、知恵のある者。
教会の祈りを上回る治癒力を人々に与える、優秀な薬師。
彼らが『異端』の『魔術師』であり、人々をたぶらかす者であるとして排斥するのが、教会の『異端狩り』だ。
知らないはずがない。イリスも最初は、その思想が正しいものであると信じていた。
内戦が終わって、軍から教会へと完全に移籍したなら……聖騎士として、異端狩りに参加していたはずだった。
「その異端狩りが、どうしたの……?」
「私の両親ね、その『異端狩り』の対象だったらしいの」
紫苑の発言に、イリスは手のひらに爪を立てて耐える。その動きが見えない紫苑は、淡々と言葉を続けた。
「エリックおじさんとお父さんは、学院の同級生でね。エリックおじさんは、私の両親に学院都市に来るようにって何度も誘いに来てた」
「……学院都市内にいれば、学院の庇護下に入る。他の都市より、ずっと安全だものね」
「うん。でも、ふたりはずっと断ってたみたい」
「どうして?」
「分かんない。ふたりは最後まで、都市の救援を拒む理由を教えてくれなかった」
紫苑は、ため息をついた。肌寒い湖の風に、異国の血を示す髪が静かに揺れる。
「それでね。お母さんが、ある日突然いなくなって……お父さんもね、事故に遭って死んじゃった」
村の人は薬師の母親に感謝はしていたが、明らかに訳ありの娘を引き取ろうとはしなかった。
訳がわからないまま孤児院に入れられ、教会の修道院に移される……という話が出たタイミングで、エリック教授が来てくれたのだという。
「お父さん、エリックおじさんに、死ぬ前に手紙を出してたんだって。自分たちに何かあった時には、娘を養子として育てて欲しいって……」
紫苑はぎゅっと、スカートの裾を掴んで言った。
「おかしいよね。お父さんたら、まるで自分が死ぬ事を、分かってたみたい。私が、置いてけぼりになる事……最初から知ってたみたい」
でも、私は何も知らないままだった、と。紫苑の静かな言葉を受け止め、イリスは俯いた。
紫苑はイリスに対して、今の状況が過去と同じなんだと言っているのだ。
自分との別れを、過去と同じ結末にしたくない。何も聞かされないまま、お別れにはしたくないと。
(私だって……)
過去と同じ結末は、味わいたくない。生まれが違う相手と分かり合えた気になって、一緒に過ごして。挙げ句の果てには……。
(私だって、今のあんたと同じなのよ。紫苑)
本当は全て話してしまいたい。重たいものを全て吐き出してしまいたい。
でも、この子が『イングリッド』の存在を教えるのは危険だ。教会の不名誉を知る者として、抹殺される可能性だってあり得る。
それに、この子が異端審問から隠れて生活していたのだとしたら……
(知られるのが怖い……私が異教徒弾圧の内戦で、聖騎士に任命されるだけの功績を挙げたんだと知ったら、この子は)
自分を拒絶して終わりにするかもしれない。それは嫌だった。真実を伝えたくなかった。
(でも、もしこのまま何も教えずに返してしまったら)
私を探して、あちこちを探してしまうかもしれない。移される先が迷宮だと知れば、突っ込んでくる可能性だってあり得る。この子は見た目よりも強情で、豪胆だ。
(となれば……全てを教えずに、それでいて納得して貰えるだけの理由を提示してから、追い返さないといけない)
イリスは深く息を吸い込んだ。口を滑らせるわけにはいかない。慎重に。あくまで慎重に事を進めよう。
イリスは、ゆっくりと話しはじめた。
「……あんたが過去と同じ終わり方を嫌がってるように、私も昔の再現をしたくない。でも、でもね。今の私は、あんたに見せられる姿をしていないの」
イリスは目を伏せた。嘘をつく罪悪感がちくりと胸を刺すが、本当の事を知られる恐怖に比べればずっといい。
(素性はもちろん、呪いについても話すわけにはいかないわね。
妖獣族の呪い……吸血鬼や人狼のモノとして伝わっている呪いは、近付く者を殺してしまう呪いだと言われているはず)
それに、『イングリッド』の事がなくたって、呪いを受けた子供をうろつかせていたなんて話が紫苑から漏れたら、学院の立場が危うくなる。
イリスは、部屋の出口を塞ぐ鉄格子と向き合いながら、言葉を紡いだ。
「アナストリアの街……私が生まれた故郷は、リセルト人の焼き討ちによって全滅した事になってる。でも、それは半分しか合っていないわ。あの街には、妙な風土病が発生していた」
「風土病?」
「ええ。教会は、隠したがってるんだけどね。リセルト人と争った街が、得体の知れない病気で全滅しただなんて噂、流したくはないでしょう?」
報告書で読んだ事があった。リセルト人と争っていた村人が全員、不可解な死を遂げたという話を。
その村は、現在のアナストリアと同じように封鎖されたと聞いている。今の故郷と状況が似ているから、真実から逸脱しているようには聞こえないだろう。
「私と、他の数人はなんでか感染を免れて、教会の保護下に入れられてたの。それで、連中にも協力してたわ。でも、あんまり反りが合わなくてね……あとは分かるでしょ?」
「……じゃあ。イリスちゃんがどこかに行っちゃうっていうのは?」
「死にはしないわよ」
紫苑の声を、イリスは慌てて否定した。
「ちょっと人に見せられない姿にはなってるんだけど、見た目だけの話だから。
検査してもらったら、食物由来の可能性が高いみたいだからさ。あんたに感染はしないはずよ。見た目がなんとかできたらさ、ちゃんと帰ってくるわよ」
──これでおおよそ、筋の通る説明はできただろうか。イリスはため息をついて、明り取りの窓を見上げた。
「私が帰れない理由は、先生たちがあんたと私を引き離した理由は、これであんたにも理解できたでしょう? 理解できたなら、街に戻りなさい。先生たちが心配する」
「……」
「紫苑?」
「……あはは」
頭上から響く、困ったような笑い方。イリスは眉をひそめた。
「どこまで本当なのかは分からないけど、少なくとも、イリスちゃんのそれは『病気』じゃない」
「……っ⁈ 」
「私とイリスちゃんは朝まで一緒にいて、昼はルークくんと仕事をしてて……突然会えないって話になったのは、それから一刻後だから。
そんな一瞬で身体に変異を起こす病気は、病気なんかじゃない……星沁をねじ曲げられた影響で起こされる、『呪詛』の部類だよ」
「な、あ、」
「さっきも言ったじゃない。私のお母さん、薬師だったって……私だって、そのくらいの判断はつくんだよ。イリスちゃんの負けだね」
紫苑の声は震えていると同時に、なぜか得意げに勝ち誇っていた。本来ならもっと動揺すべき場面なのに、イリスはつられて苦笑してしまう。
「あぁ、そうね。私の負けだわ。隠し事は苦手なのよ」
「うん、知ってる。イリスちゃんって、とてもまっすぐな人だもんね」
「まっすぐかどうかは知らないけど……嘘が苦手なのは確かね」
イリスは自嘲し、そしてうつむいた。
「……ごめんなさい。軽蔑した? 嘘をついた私を」
「ううん。先生やジェシカさん、それにイリスちゃんが、嘘をつく理由は分かってるから。軽蔑なんてしない。でも……悔しいよ」
紫苑は膝を抱えた。己の身体をかき抱く手に力を入れすぎて、指先が白く染まる。
「私だけが、守られる側でさ。守られたくない、みんなの隣に並びたいって、立ち上がったところで、結局は実力不足でさ……やっぱりこうやって、嘘をつかせちゃうの」
「……」
「私が弱くて、みんなの隣に並べないのが悔しい。私も強くなりたい。イリスちゃんの隣に並べるくらいに、強くなりたい。強くなりたいよ……」
強くなりたい。守られずとも身を守れるほどに。
そして信頼を得たい。みんなの隣に立って良いのだと確信できるだけの、なにかがほしい。
冷たい石の隙間から、儚い嗚咽が聞こえてきた。
──今、二人の間を遮る壁がなければ。
そしてこの腕が、みにくいけものの腕でなければ、紫苑の肩を掴んで、奮い立たせる事ができるのに。
イリスは歯がゆさを覚えながら、石の壁を軽く叩いた。
「……あんたは、十分強いわよ。力の使い方を、自分で気付いていないだけ」
イリスは話しながら、微笑んだ。
「あんたにはさ、とびきりの才能があるのよ。術師として私を上回る、とびきりの才能がさ。
それに、人を見る力も、冷静に言葉を選べる判断力も……私を探してここまで来た実行力だってある。
この街で勉強していけば、私なんかよりもずっと、ずっと伸びていく」
だから、自分を卑下するのはもうやめろ。イリスの言葉に、紫苑は鼻をすする音で応えた。
「何よ、泣いてんの? しょうもないわね、この泣き虫。シャンとしてなさいよ」
「だって。だってぇ……イリスちゃん、もう会えないと思ってたし、叱られ方が安定だったから、安心して」
「叱られて安心って……それ、わりと変態発言よ?」
「ええ、ルークくんほどじゃないよ」
「完全否定はしないのね……」
苦笑するうちに、イリスの目尻に涙が浮かんだ。
呪いに飲まれて我を失ったら、もうこの子と会う事はできなくなる。きっと、会っていても分からなくなってしまうのだろう。
「ねぇ、聞いて紫苑」
だから、その前に。別れが来るかもしれないその前に、伝えるべき事を伝えよう。
「私は病気じゃない。あんたが察した通りのものを、持っている……でも、あんたの推察を、研究室の教授以外には絶対に話してはいけないわ。
これは、私の事は学院全体に関わる問題で。あんたは学院の庇護下にいなければ、身に危険が及ぶかもしれない立場なんだから。
……学院の平穏は、何よりも優先しなくてはならないの。理解できるわね?」
「う……うん」
まさかそこまでの事態とは捉えていなかったのだろう。動揺が透けて見える紫苑を、そして何より自分を落ち着かせる為に、イリスはゆっくりと声を紡いだ。
「私はこれから、都市外の専門施設に移されて、治療を受ける事になっている。正直言って、完治の望みは低いって言われているわ。
……でも、私は諦めてない。たぶん、オードラン教授も」
自分がこのまま処分されるという可能性は限りなく低いと、イリスは踏んでいた。
学院は妖獣に関する知識を、教会によって遮断されていた。貴重な資料になり得る自分の事は、できる限り殺したくないはずだ。少なくとも、自己がはっきりしている間は。
(私の呪い持ちが発覚しても、しばらくは好きにする事を許可してくれたんですもの。その点に関しては、極端に悲観する必要はない)
そうだ。悲観する必要はない。大人たちはやれるだけの事をしてくれている。ここまでして、帰りを待ち望んでくれる子もいる。
だったら、私がやるべき事は……精一杯に生きて、あがく事だ。
「……イリスちゃん?」
「待っていて、紫苑。待っていてくれる人がいると思えるだけで、私は耐えられる……希望を捨てずに、いられるから」
「……うん」
「ちゃんと勉強しときなさい」
「うん」
「先生たちに迷惑かけちゃダメよ」
「わかった……」
「次会えるのを、楽しみにしてる」
「うん……」
お互いの姿が見えない中、穏やかな約束が交わされる。湖から聞こえるさざ波の音が、沈黙を優しく彩っていた。
「じゃあ、そろそろ戻んなさい。これ以上は、先生たちが心配して……」
──と。そこまで言ってから、イリスは眉をひそめた。
「ねぇ、紫苑……」
「ん、なぁに?」
「あんた、どうして私がここにいるって分かったの?」
イリスの質問に、紫苑は言いにくそうに答えた。
「えと、ジェシカさんから聞いたんだよ。もちろん、最初は全然教えてくれなくて。ちょっとカマかけて、その……強請たんだけど」
「サラッと恐ろしい事言ってるわねあんた。っていうか、強請るようなネタがあったわけ? ジェシカ秘蔵の魔道書を人質に……って程度じゃ、流石に揺れなかったでしょ?」
「あはは……」
気まずそうな紫苑の苦笑に眉をひそめた、その時だった。
「あらあら、何の話をしているのかしらぁ?」
覚えのある柑橘の香りが、鼻腔をくすぐった。
「……ジェシカさん?」
きょとんとした紫苑の声が、来訪者を決定づける。
草をかき分けながら近付いてきた人物は、紫苑のそばで動きを止めた。
「遅いから心配したのよぉ、紫苑ちゃん。ちょっと心配になって、迎えに来たの」
「え……? で、でも、私はいけないからって、さっきジェシカさん言って」
「そうだったかしら。忘れたわねぇ」
ジェシカの声に、ジェシカのにおい。それは確かに同じはずなのに、嫌な予感がぬぐえない。
手が勝手に汗をかき、心臓が嫌にうるさい。うすら寒い感覚が、背筋を駆けのぼる。
そうだ。この感覚は……!
「紫苑、そいつから離れなさいっ!」
イリスは自分の姿を見られる恐れを忘れて、あかり取りの隙間に飛びついた。
しかし何も見えない。一瞬の思考停止の後──
紺色の服を着た少女の背中が、とさりと草地に落ちるのが見えた。
「ぁ……?」
動かない。生きているのか死んでいるのかなどと考える前に、痺れていく思考。
イリスがあかり取りに取り付いたまま、硬直していると……岩壁の隙間から、桃茶色の目玉がぎょろりと蠢いた。
「あんた、紫苑に何を」
「大丈夫、この子は生きてるわぁ。でも……」
あなたには死んでもらう。
見慣れていたはずの微笑み、うっとおしさと同時に、己に安堵を覚えさせていたはずの笑顔が見えた瞬間、イリスは反転して部屋の奥に飛び込んだ。
ベッドを左腕だけでひっくり返し、その後ろに身を隠す。
間髪入れず、部屋の中に銀色の手榴弾が投げ込まれ──爆炎が空高く舞い上がった。




